第32回 : 歿後60年 長谷川利行展(東京ステーションギャラリー)

来る11月19日(日)まで東京ステーションギャラリーで開催されている展覧会に行ってきました。月曜日が休館で、入館料は一般800円です。行く前に、このギャラリーのHPを覗いて行くのもいいでしょう。展覧会の趣旨と数点の作品がWeb上で読んだり見たりできます。

会場は、4つのブロックから成り立っていました。
  T.1920−29 樗牛賞の前後
  U.1930−35 ドヤを住み家に
  V.1936−40 行き倒れるまで
  W.ガラス絵・水彩・デッサンなど

T.〜V.までで、油彩が約100点、W.が約30点、合計130点ほどが展示されています。

私は、長谷川利行(1891〜1940)というと岸田國士の肖像画と晩年に新宿を描いた風景画くらいしか知りませんでした。今年、練馬区立美術館で行なわれた「池袋モンパルナス展」に行ったとき、作品が展示されていて、ああここにも何点か作品があると思ったものでした。それが今回は、まとまって見られるわけですから、いい機会だと楽しみにしていたわけです。

「T.1920−29 樗牛賞の前後」で印象に残った作品は、数点ありました。「酒売場」(1927 油彩/カンヴァス)という第14回樗牛賞を受賞した作品は、吾妻橋そばの神谷バーを描いたものです。「汽罐車庫」(1928年 油彩カンヴァス)も賞をとった作品です。とても充実した作品だと感じて、じっと目を凝らして見てしまいました。 「靉光像」(1928年 油彩/カンヴァス)は、靉光本人による自画像ほど顔が長くないので「あれっ」と首を傾げましたが、目・鼻・口など、両者は似ているように思えました。そのほか、浅草の地下鉄の駅など新しいものを興味をもって描いている様子がうかがえました。

「U.1930−35 ドヤを住み家に」のコーナーに足を進めて解説を読むと、長谷川は、この時期、かなり強引に作品を知り合いに売りつけたりもしたようですし、画布を買う金にも困ったようです。そんな時に、池袋モンパルナスでお馴染みの画家たちが、さまざまな形で力を貸したらしいことが書かれていました。しかし、ドヤに住んだといっても、それは池袋周辺ではなく、東京の下町です。作品の方では、「根岸風景」(1933 油彩/板)と「日暮里駅付近」(1931 油彩/カンヴァス)の風景画に目に止まったとき、電線が描かれていないのに気づき、「T.」のコーナーに戻ったほどでした。すべての風景画でこうした描き方がなされているわけではありませんが、しかし、電線が描かれている時でも、数本スマートに描かれていることが多いようです。有名な「劇作家(岸田國士肖像)」(1930 油彩/カンヴァス)は、背景の白っぽい線が生き生きしていて、岸田の像を浮き立たせているように見えました。このほか、浅草のカフェの女性を描いた作品が多く展示されていました。生活の一端がうかがえるようです。

「V.1936−40 行き倒れるまで」で、長谷川の主な生活圏は新宿に移ります。1936年、武蔵野館の近くに天城俊彦という人物が画廊を開いたそうです。ここは1938年には閉鎖になりますので短命だったわけですが、この間に、長谷川を近くの木賃宿に住まわせ、好きな酒と三食を保証し、絵を描かせたというのです。そして長谷川の個展を約20回も開いたというのですから驚きです。しかし、胃潰瘍と胃がんを患い、見る人が見れば作品からも生気が失われていくようだといいます。たしかに若い頃の作品にみなぎっていた充実感は、即座に感じ取れることはできないのですが、私のような門外漢が誰かから「それは円熟を示すのだよ」と言われれば、それもそうかなと思ってしまうに違いありません。作品では「新宿風景」(1937年頃 油彩/カンヴァス)は、よく(だと思います)美術書などにも紹介されている作品で、晩年の代表作です。同じ会場には、1936年頃に制作された「新宿風景」も展示されていて、同一タイトルの別作品があることを知りました。

さて新宿の画廊が閉鎖された後、長谷川は、慣れ親しんだ下町に帰ります。「荒川風景」(1939年 油彩/ボード)は、荒川の向こう側に<お化け煙突>らしい4本の煙突が見えています。私は子どもの頃、江戸川区に住んだことがあり、たまに電車からお化け煙突を見たこともありますので、ある種の懐かしさを感じました。長谷川の最期は、道で倒れているのを人に見つけられて板橋の病院に運ばれたのですが、誰にも看取られることなく亡くなったといいます。
【2000年11月6日】


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