第8回 : 記憶された身体―アビ・ヴァールブルクのイメージの宝庫(国立西洋美術館)

この展覧会はウィーンのアルベルティーナ版画素描館とオーストリア国立図書館の所蔵作品から、およそ100点の作品を借り出して展示しています。それらの作品は西洋美術に繰り返し登場する身体表現にスポットを当てたものでした。実は、これらを鑑賞しながらドイツの美術史家アビ・ヴァールブルク(1888−1929)の思考の一端を追体験してみようという趣旨なのです。
会期は8月29日(日)まで国立西洋美術館で。毎週月曜が休館です。

会場全体は5つのセクションに分けられています。

セクションT:西洋の図像。「聖なる心臓」「聖顔布に写し取られたキリストの顔」(いずれも15世紀)などにみられるように、単純化された作品では、美術作品として鑑賞するというよりも信仰を高める道具としての性格が強いらしいです。それが、身振り・手振りや表情全体が細かく描写されるにいたって、作品と人とのあいだの距離が広がり、作品は「見られる」性格を強めていったようです。
セクションU:身体と理想的プロポーション。ルネサンス期に研究された「プロポーション」をテーマとしています。正確さと理想を追い求めるその姿にの背後に、コンパスや定規を用いて描くある種の科学的精神の存在が伺えます(ただし、何年が前に東京都庭園美術館で見たレオナルド・ダ・ヴィンチの描いた身体の素描が、科学的に見えながら、ある時期までは実は古い学問に根ざして描いていたことを思い出していました)。人体を正確に描けるようになると、医学文献の人体図、人物画(含む裸体画)等々、応用分野は広がっていったに違いないと想像しました。
セクションV:活動する手と瞑想する手。身体表現の中でも「手」に注目したセクションでした。誰かに、あるいは何かに能動的に働きかける「活動する手」を描いたものと、受動的な「瞑想する手」という対極的な関係にある手振りを、私は、これはどちらに当たるのだろうかと考えながら見ていきました。そしてまたしても脱線して、仏像に見られる手の表情、「施無畏印(せむいいん)」(肘を曲げて掌を前方に開き指を伸ばす形で、相手の恐怖心を取り除く意味があります)と「与願印(よがんいん)」(掌を前方に開き指先を下に垂れる形で、相手に慈悲を与える意味をもちます)に想像が行ってしまいました。ともあれセクションTからVまで、身体表現がだんだん精緻に、そして細かくなってきているようです。
セクションW:ラヴァターの観相学コレクション。チューリヒの牧師、ヨハン・カスパー・ラヴァター(1741−1801)の「観相学コレクション」と呼ばれるものを展示してあります。グロテスクな頭部、笑い、悲しみ、目、口と顎、耳、鼻等々の美術データベースとでも呼べるものです。ヴァールビルクの先行例と理解すればいいんでしょうかね?
セクションX:アビ・ヴァールブルクの思考空間/図版集『ムネモシュネー』。この図版集は、ヴァールブルクが考案した美術研究のためのツールで、ここでは一部を再現しています。写真の状態がぼやっとしたものが多く、必ずしも見やすくないのが残念です。あるテーマについて古代、中世、ルネサンス期という具合に複製写真によってその変遷を追っていくのです。そうすることで身振りとその意味の変遷を認識し、美術史的にも新たな道を開くことができる、ヴァールブルクはそう考えていたようです。しかし、展示スペースの説明では理解しづらいことが多すぎる気もしました。たとえばALTが古代、MAが中世(Mittelalter)などの説明すらなかったと思いますから。それに、たいへん興味深い展示セクションではあるのですが、なにしろヴァールブルクはこの図版集の解説を書かなきゃと思いつつ急逝してしまったのです。だから、なおさら私のような一般の美術愛好家にはわかりにくい点が多く残ってしまったのです。珍しく解説書を買おうかと迷ったのですが、見ると細かい字がびーーーっしり詰まっていたので、「いいや」ということにしてしまいました。

でも、人の思考を垣間見るというのは確かに興味のつきないことですね。
【1999年8月10日記】


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