危ない精神分析

―マインドハッカーたちの詐術―

矢幡 洋 (亜紀書房、2003)

 

阪神大震災とオウム真理教事件以来、日本でもすっかり有名になった PTSD(post-traumatic stress disorder、心的外傷後ストレス障害)。今や、あらゆる大事件――災害、悲惨な事故、凶悪犯罪、戦争などが起こるたびにマスメディアには必ずといっていいほどこの言葉が登場し、PTSD に苦しむ人々への支援が訴えられます。このような時代に、本書はまさに警世の書。

PTSD 概念の隆盛を招いたのは、米国ハーバード大学医学部精神科のジュディス・L・ハーマンによる『心的外傷と回復』(Herman, Judith Lewis:Trauma and Recovery,Basic Books, HarperCollins Publishers,1992、中井久夫訳、みすず書房、1996、増補版:原書1997、邦訳1999)。邦訳は多くの書評で絶賛され、難解な「学術書」にもかかわらず、よく売れているそうです。トラウマ問題の「バイブル」だとか・・・

ところが、本書の著者によると、米国ではすでにハーマンの権威は完全に失墜し、『心的外傷と回復』は「札付きの悪書」とされているとのこと。一体何が起こったのでしょうか。

子どもを育て上げた熟年・高齢の男女が、ある日突然、娘から「30年前に父親から性的虐待を受けた」「幼児期に母親が所属する悪魔崇拝カルトにより性的虐待を受けた」などと訴えられ、巨額の損害賠償を請求される。1990年前後に米国では同様の告発事件が相次ぎ、告発を受けたのは1万〜2万世帯。ヒステリックな告発ブームは米国社会を揺るがす大事件でしたが(ヨーロッパにも飛び火)、告発被害者の組織が結成され、同時に告訴者(娘)とその担当セラピストを逆告訴する家族や告発を撤回する「虐待被害者」も現れるに及んで、初めのうちは及び腰だった学会や報道界も94年頃から厳しい批判を向け初め、告発運動は急速に下火になりました。

この告発ブームでは、告発者(娘)たちのほとんどは「忘れていた幼児期の性的虐待の記憶が、セラピーにより蘇った」と主張しました。もちろんこれは「記憶回復療法」というセラピーによって植え付けられた「偽りの記憶」。『心的外傷と回復』はこのような怪しげな「記憶」のみを扱っているわけではありませんが、しかし告発ブームを巻き起こしたセラピストたちは例外なくハーマンの他の著作から強い影響を受けており、ハーマン自身もこれらの告発運動を積極的に支援し、批判に対しては先頭に立って反論し続けました。そして、92年以降は『心的外傷と回復』が告発者たちの「バイブル」に。

なぜか日本では以上の消息はほとんど全く報道されず、それどころか97年にハーマンが来日したときは、まるで人類(女性)解放のヒロインのような扱いだったとか。これはおそらく、日本では同様の告発ブームが起こらなかったからだと思われます。しかし告発ブームは起こらなかったけれど、PTSD の概念だけはしっかりと根付きました。大地震や戦争の被害に苦しむ子どもたちについて、まず心配されるのはトラウマとその後遺症、という具合に。

さて、本書は米国の告発ブームとその背後にある「記憶回復療法」の実態を暴露し批判しているだけではありません。後半では記憶回復療法や同様の心理療法が依って立つフロイトの精神分析理論そのものを根底的に批判し、また PTSD や「アダルト・チルドレン」「機能不全家族」といった実体不明の概念に振り回されることの危険性を力説し、原因究明型の心理療法の隆盛に警鐘を鳴らしています。この点で、本書はただの「際物出版」であることを免れ、精神医学全般に対する鋭い問題提起になっているといえるでしょう。

 

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