脳 が 殺 す

―連続殺人犯:前頭葉の”秘密”―

ジョナサン・H・ピンカス (田口俊樹 訳、光文社、2002)

 

戦争や権力による犯罪や組織犯罪などとは無縁の殺人事件、つまり個人による通常の殺人は、大きく2つに分けられます。第一のタイプは、経済的利害や感情的対立などが動機で、したがって加害者と被害者は顔見知り(時には親族)であり、犯行の手口は特別に残忍なものではなく、毒殺など暴力を伴わないことも多い。ミステリー小説やミステリードラマが扱うのはだいたいこの種の殺人です。

第二のタイプは、人が大勢いる所で銃を乱射したり刃物を振り回したりする「無差別大量殺人」、幼児や女性を狙い同種の手口で残忍に殺す変質的猟奇的な「連続殺人」、そして暴力事件を繰り返す粗暴な性格の人間が起こす無鉄砲な強盗殺人やレイプ殺人、行きずりの突発的な殺人など。これらの凶悪な殺人事件は、事件と無関係の一般市民に、自分もいつ被害者になるかわからないという恐怖心をおこさせ、また被害者の遺族のやり場のない怒りや悲しみが広く共感を呼びます。死刑制度の是非が議論になるとき、人々の頭にはまずこの種の凶悪な殺人犯が思い浮かぶでしょう。

邦訳の副題には「連続殺人犯」とありますが、本書が扱うのは狭い意味での連続殺人だけではなく、上述の第二のタイプすべてです。このような人間の暴力の起源を解明しようとする試みは数多く、『男の凶暴性はどこからきたか』『男はなぜ暴力をふるうのか』(表を参照)など優れた分析もありますが、この二著も、なぜある特定の個人が凶悪な殺人を犯すのか、という疑問には答えていません。

本書はまさにこの疑問に正面から答えたもの。結論は冒頭に提示されているので、ここで紹介してもかまわないでしょう。「幼児期の被虐待体験」「重篤な精神疾患」「脳の神経学的損傷」の三つが重なると、この種の殺人を犯す危険性が高くなるというのです。これらのうちどれも、それ一つだけでは凶悪な殺人を引き起こすことはまずない、という点が重要です。このことを証明するために、本書で紹介された何人かの殺人犯を含めて、著者は25年間に150人の凶悪殺人犯とその家族を面接調査しています。脳神経学者として凶悪殺人犯の弁護人から相談を受けたことがきっかけですが、立場上なのか、このような被告に対する法的な対応については明確な意見表明をしていません。しかし、本書の論調からは当然、凶悪殺人犯の大部分は本人に責任能力があるとはいえない、ということになります。

それにしても、心底驚くのは、米国社会における幼児・児童虐待のすさまじさ。まれに発覚して行政が介入しても、里親がまた虐待する! そして被虐待者が長じて今度は虐待者になるという悪循環のやり切れなさ。しかし、おそらく米国だけでなくすべての社会で、程度の差こそあれ、幼児虐待(体罰とは紙一重)はむしろふつうのことなのかもしれません。

本書の価値をとくに高めているのは、人種的偏見などに基づくテロリズム、ヒトラーなどの権力者による犯罪にまで言及していること。この章は非常に説得力があります。

さて、このような暴力を根絶する方法はあるのでしょうか。そのひとつとして考えられる虐待予防のためのプログラムは、すでにいくつか実行に移されていて、結果を含めて終章で紹介されています。希望がありそうです。精神疾患や神経学的損傷に対する医学的な取り組みは、残念ながらめぼしい成果が上がっていないようですが。

ところで、米国における刑務所の実態について、前述の『男はなぜ暴力をふるうのか』では、米国の刑務所を二度と入りたいとは思わないような場所にすることが再犯防止に有効であると主張していますが、本書ではこれとは正反対に、実際に米国の刑務所の大部分はそのような場所であるといっています。本当はどちらなのでしょうか。

ついでにご紹介すると、朝日新聞2003年4月4日・5日付朝刊の「世界の鼓動」によると、日本の人口10万人当たり殺人者出現率は戦後一貫して減少し続け、現在は主要国中最低で、特にふつうは最も殺人者率が高くなる20代前半の男性の殺人者率は驚異的に低いそうです。若者の暴行、傷害、強姦などの犯罪率も、昔と比べて激減している。その理由の説明として興味深いのが、「戦争に参加した国の殺人者率は上がる」という画期的な「暴力合法化モデル」理論の提唱者、米国のD.アーチャー氏の意見。いわく、「60年近く戦争をせず、徴兵制度もなかった先進国は、ほかにない。(中略)反戦、平和主義がきわめて長い間続いてきたことに原因がある」。

しかし、本書に則して考えると、疑問もあります。まず、「暴力合法化モデル」理論は、初めに述べた2種類の殺人のうち、どのタイプを主な対象としているのか不明ですが、戦争をやめて軍隊をなくしただけでは、第二のタイプつまり凶悪な殺人は減らないのではないかと思うのです。また、米国に比べて日本では、戦前から教育水準が高く貧富の差が小さいので、もともと幼児虐待が少ないことも考えられます。いずれにしても、日本でも凶悪殺人犯に対して多くの調査研究がなされるべきでしょう。

 

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