天下夢奏
〜戯曲『無銘の御剣』より〜
第1楽章 第5幕 ―呪―
テータは亜魔人である。
繰り返すほどの事ではないが、彼女たちは通常魔力というものに対して非常に敏感である。
そう言う体質だからだ。
自分の変身能力が波導の影響を受けやすいからだとも言える。
魔術の、すなわち波導のあるなし等は音を聞くようにして感じることができるのだ。
だからローの『呪』にも勿論反応する。少し意識を集中すれば彼の場所を知ること位はできる。
――遅いなぁ
小綺麗な――今まで汚らしい所ばかりだったから――宿を選ぶと、彼女はすぐに彼の居所を探し始めた。
勿論どこに行ったかが分かっているので中央の通りをとことこ歩いて彼の姿を探すことにした。
数分も経っただろうか。彼女は人だかりが騒いでいるのを見つけた。
「刺したぞ」
「いや、しかし」
一瞬何を言っているのか分からなかった。
――…どーでもいーや
喧嘩には興味のない彼女はすぐに通り過ぎようとした。
だが、何かが引っかかった。喧嘩の野次馬にしてはやけに静かすぎる。
「返せ!」
その中で少女のものらしい叫びが聞こえた。
「お前が、お前が村人を皆殺しにしたんだっ」
びく
彼女には、聞き覚えのある声だった。
少女は涙を浮かべて暴言に近い科白を吐いている物の、既に両足は震えている。
――人だかりが…
既に彼らの周囲を取り囲むようにして近所の人間が集まってきている。
このままではローの危惧している事が何時引き起こされてもおかしくはない。
――ここまで来たのに…できれば周囲にいるこいつらだけでもいなくなってくれ…
真っ先に殺される人物達の表情を見ながら、しかしその逆である可能性があることに気がついた。
周囲の野次馬の中から殺気だった目線を感じ始めたからだ。
どうやら彼女の声に、彼女の知り合いもここに集まってきているのだろう。
ローは敢えて少女の叫びを正面から受け止めることにした。
もしここで一言でも発したならば、それだけで暴動が起きても不思議はなかった。
そんな雰囲気を感じたからだ。
「…何で何も言わないのよぉ!人殺し!この、この人殺し!」
言いながら崩れそうになる少女を、誰かが後ろから支える。
血にまみれたナイフが地面に転がる。
先に少女の方がくたばったらしい。
だが、何故か周囲の殺意と輪は崩れない。ローは腰を押さえるような仕草で傷を押さえながらゆっくり首を回した。
――難民…
テータの住んでいた村の住人の生き残りか?
ローは苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべる。
ばらばらと散っているのは元々ここに住んでいる人達だろう。
無言の圧力。
形にならない殺意の淀みが濁っていく。
こうやって普通に立っていても彼には厳しいものを覚える。
別に人の輪が迫ってくる訳でも、今からリンチを受ける訳でもない。
だがそれらは殺意として彼に受け止められた。
「俺、こいつ見たことあるぜ」
何人かが口々に彼を指さし、罵り、叫んだ。
「こいつさえ来なければ」
次々に恨みの言葉が紡ぎ出される。
直接彼が手を下したのはほんの数名だったが、この街の入り口で倒れている人間のほとんどは彼らの知り合いなのだ。
嗚咽のようなものは聞こえてこない。
「何か答えたらどうだ?この人殺しが」
たまりかねた誰かが言った。
「そうだ!」
「お前なんか死んじまえ!」
びし
ローの頬に小さな石が食い込んだ。
何故か見慣れた気がした。
――そうだ。いつも夜になれば見る、あの夢の光景だ
それを皮切りにして次々に様々なものが彼に投げつけられた。
「死ね」
「出ていけ、殺し屋」
頬が切れ、瞼から血が流れても彼はよけようとも受けようともしなかった。
今何を言っても彼らには通じない。
俺の意志じゃない。
お前達がこうしている間にも、危険が近づいているのは、死の危険があるのは俺ではなくお前達だ。
ただの、下らない神の失敗作であるお前達だ。
華奢で、脆く、弱く、何の対抗策も持つことのできない…
そう、俺と同じ人間だ。
ただ違うのは。
俺は当事者でありながら被害者なんだ。
人の輪の外側から声が聞こえた。少女の悲鳴のような声だった。
ざく
彼は真横にくの字に身体を折り曲げる。
体勢を戻すと、今度は真横から彼の腹部を貫いたものがあった。
見ると、自分と年格好が変わらない程度の若い男が、突き刺したナイフをこじっている。
「…気が済んだか?」
静かに、そう一言だけ呟いた。
口元から一筋血が流れるのを右手で拭いながら。
何故だろう。
青年はその一言で急に顔面を蒼白にして後ずさった。
その時、輪が、音を立てて割れる。
そして先程の声の主が人をかき分けるようにしてローの元に走り込んだ。
「もうやめて、お願いだからこれ以上何もしないで!」
テータだった。
それは非常に不思議な光景だった。
ナイフで刺された男の前で両腕を突っ張って必死でかばう少女。
殺気だった村人にどれだけの効果があるか。
ローは彼女の意外な登場に逆に焦りを覚えた。
「やめろ、何故出てくる」
「お前も仲間か!」
ローの目が声の主に向けられる。
男は後悔した。
今までの、先刻までの興奮が嘘のように引いて、足下がおぼつかなくなる。
たった一睨みで、男は動けなくなっていた。
いや、彼だけではなかった。
今まで罵声を浴びせて石を投げていた全員は凍り付いたように静まり返っていた。
男が発した言葉の直後に、恐ろしい殺気が彼らを襲ったのだ。
蛇に睨まれた蛙が動けなるのと同じように、彼らは身体を動かすことができなくなった。
動けば、今動けばその途端に死が訪れるような気がしたからだ。
「黙れ貴様ら」
低い声でローは言った。
「折角助かった命をどうして無駄にしようとする。どうしてもっと重要な事に、大事な事に使うことができない」
べき
彼の筋肉が隆起して、まるで肉体に変化が起きているように見えた。
「聞こえねぇのか貴様ら、さっさと居ねぃ!」
ずどん
彼を囲んでいた一番内側の人間は、見えない何かに押されたように後ろへと退いた。
多分誰の目にも、ローが剣を振り下ろしたのは映らなかっただろう。
ローの剣が深々と石畳に突き立てられていた。
人間の膂力では石畳を砕いて剣を突き立てる等不可能だ。
誰かが悲鳴を上げた。
すると、あっという間に蜘蛛の子を散らして消えた。
その場にはローと、テータと、静寂だけが残されていた。
どこか遠くの方で笑い声がする。
乾いた夜の闇が満ちる街の風が、うつむくローの顔を撫でた。
「いこう」
動こうとしないローの手を握ってテータが言った。
反応がないのでもう一度引っ張る。すると彼女の手をふりほどいて、剣を掴んだ。
切っ先すら傷一つない剣を腰に戻すと、彼はテータを見下す視線を向けていた。
見たことのない、テータは生まれて初めて見る視線。
彼ら人間よりも遙かに長生きしていても、今までに見たことのなかった視線。
「何故今、逃げなかった」
疲れ切った傷だらけの彼の顔に、まるで病気のようにぎらつく目が訴えていた。
早く俺から離れろと。
「…いいよ。別にボクは」
テータは彼の腕を強引に引いて肩を貸すと、まるで引きずるようにして彼を宿に連れていく。
「助けてあげる。…これ以上、心配する事なんかないよ」
すぐ側にある彼の横顔に顔を寄せると、軽く唇を頬に押し当てた。
一番最初の記憶は今からおよそ3年前の事だ。
まだその時は間隔も数ヶ月に一度も襲ってこなかった。
年に数回程度のペースだったように感じる。
確かな記憶でないが、一月以上は襲ってこなかったはずだ。
その頃、彼は乳母と共に暮らしていた。
「ラファエル様、お食事ですよ」
乳母は自分の名前に『様』付けで呼んでいた。
しかしそれは当然の事だった。
彼女は決して王族とは相容れない血筋のもの――原住民の血を引く者だったらしい。
さらに、彼はなかなか生まれてこなかった跡継ぎなのだ。
「母さん、もういい加減に『様』付けはやめてよ」
だが、ラファエルは彼女のそんな態度が好きではなかった。
確かに乳母であるが、彼にとっては本当の母親よりも、父親よりも身内に近く思える彼女にそう呼んで欲しくはなかった。
しかし彼女はにっこり笑って首を振った。
「そうは参りません。私と貴方ではこの国においては生まれつき差があるのです」
ラファエルは渋い顔をして顎に手を当てる。
「だったら、せめて二人しかいない時は様は付けないで。
それも嫌なら僕はもう御飯はたべないよ」
「そ、そんな事をおっしゃらないで下さい。
殿下が御病気にでもなられたなら陛下は何と思われるやら」
ラファエルはこの乳母が好きだった。
生まれた時から側にいてくれたのは彼女だ。
本当の母親なぞ知らない。
「だったら母さん。僕の事をローって呼んでよ。昔みたいに」
彼らは成人した時に幼名を頭につけて、新たに名前を付けられる。
そのため、幼名はそのまま愛称になる事が非常に多い。
彼の場合はそうではなかったが、それは彼にとって喜ばしい事だった。
何故なら、この他人行儀な義母に自分の名前を呼ばせることができるからだ。
にっこり笑った彼の表情が、彼女には残酷なものに思えた。
「…分かりました。但し、ふたりっきりの時だけですよ?」
その彼女の言葉に対するラファエルの嬉しそうな顔。
きっと、乳母にとってはそれはこれからの運命を憎まねばならない程、愛おしいものだっただろう。
始めて本当の母親にあったのは十二の時。
十二の誕生日を迎えたラファエルは正装をまとって華やかな儀式を済ませた。
“成長の儀”と呼ばれるこの儀式は、一年ごとに子供から大人へと近づいて行く自覚を促すように
考えられたクリタニカ家独特のものだ。
儀式の後にある晩餐会の方が彼に取っては重要だったが、
楽しいはずなのに何故かその時に限って母親は暗い顔をしていた。
「どうしたのだい」
彼の父はすぐ彼女の様子に気がついて言った。
「いいえ、少し気分がすぐれないのです。いつもの事です、すぐに治りますわ」
力なく答えた白い顔は、そう、脅えていると表現するのが最も正しかった。
彼女は気分がすぐれない訳ではなかった。
だが、公爵は気がつかなかった。自分の息子の成長が嬉しくて仕方なかったのだ。
ラファエルは食事を終えてすぐに自室に戻った。
「…れ?母さん…ですか?」
ラファエルは自分のベッドの前でにっこり笑っている女性がいる事に気がついた。
普段あまり見かけないだけに珍しそうに眺めた。
「何ですか。自分の母親がそんなに珍しいですか」
「はい、お母様。あまり普段からお見えになられませんので」
彼は5歳の時から剣術の師範がついて毎日数時間の稽古が行われていた。
さらに、本来の母から離れ乳母に育てられていたせいで、母に会うなど不可能だった。
それだけではない。
貴族や王族は、母が自分の息子の世話をするなどまずもってない。
自分の仕事のために息子を姥に任せるのが普通だ。
「そうでしたわね。…ささ、もっと近くで顔を見せておくれ」
彼女の行動は確かに不自然さはなかった。
母が自分の息子の成長を喜んで何がおかしいのだ。
ローが不思議に思ってもその態度がぎくしゃくと不自然にならなかったのも、それが原因だった。
母は脅えていた。いや、脅えた。いつ自分の犯した過ちがばれるのか、と。
──もう大丈夫、この子はあの人の子供…
すーすー眠る我が子を見ながら自分に言い聞かせるようにそう呟く。
「ぐぅぅぅぅ」
びくっと体を震わせる。
見るラファエルがベッドに上半身だけ起こしていた。
だが、そこにいた者はローではなかった。
母は今のローが何者かよく知っていた。
国を滅ぼすための魔呪人──呪いのかかった人間に対して畏怖の念を込めて言う言葉──
欲望のみで動く破壊の化身。
自分の身も大切だが、それ以上にあんな状態のラファエルを父が見ればどんな顔をするだろうか。
ラファエルにはもう許婚もいる。
公爵位を受ける事になっている。
このクリタニカ公爵領を継ぐべき長男だ。
ここで止めるより、彼を守る手立てはない。
ぐったりと眠るように活動を停止した魔呪人は、そのまま眠りについた。
破壊活動を行う事だけは防ぐ事ができた。
殺される事もなかった。
彼女の息子戻っていた。
眠るラファエルをゆっくり抱き締めた。
──このぐらいの事で…押さえられるのなら…私はどうなっても…
だがラファエルには自覚はなかった。
妙に母が側にいてくれるだけだと思っていた。
まさか、邂逅の日に自分の身に何かが起こっているなどとは思いもしなかった。
彼の父親は妙な事に気がついていたが、最近新しい妾が入ったのであまり気にもとめていなかった。
母はこれさいわいとラファエルの側にいた。
そして、十四の時、国王より“ルベル”のミドルネームを戴いた。
それはほぼ“血族”と認めた事にほかならなかった。
その際、父は成人の祝いという形で屋敷を与える事にした。
そこで自分の血族、すなわち兄弟姉妹と共に住むように命じた。
だが彼はそれを好まなかった。乳母と住みたいとどうしても聞かなかったのだ。
「何故今更そんとこに住まなければならないんだ」
ラファエルは叫んだが、王はがんとして首を振らなかった。
「あの女は下賤のもの、お前は一緒にいるべきではない」
「何故!」
しかし、彼の言葉は誰にも聞き入れられなかった。
いつの間にか、乳母はいなくなっていた。
父の話だと解雇されたのだという。
彼はそれ以来、乳母には会っていない。
だがそれが彼の父親の選択としては間違いであった。
そしてあの事件の夜。
母はラファエルに麻酔を嗅がせて部屋に閉じ込めておいた。
鍵をかけ、つっかいをかけて何があっても外に出られないように。
だが、止める事はできなかった。
屋敷の使用人十二人をずたずたに引き裂き、そして止めに入った自分の姉を引きずり回すように犯した。
「…っ、何だこれはっ」
父親は恐れる事もなくすぐさますぐ側にあった幅広剣を手に取って、惨状を切り払うようにそれを正眼に構えた。
彼はこの国でも有名な騎士で、その剣の腕は息子を見れば分かるようにこの国随一だった。
その流派を『翼尖刃流』と言う。
耳をすませば女性の悲鳴のようなものが聞こえる。青ざめる母の顔。
「こ、こら待てっ、何があるか分からないのだぞ」
彼の制止を聞かず、走り出した。
声はラファエルの姉の部屋からだった。
二人はそこで何が行われているのかをはっきり見てしまった。
彼女は血にまみれて半狂乱で何事か叫びながら、
自分を襲っている者を引き離そうとしているようにも見えた。
公爵は御抱えの賢者を呼び付けると何が起こっているのかを理解できるように説明させた。
それは、母にとって破滅の宣告を受けるようなものだった。
「誓いの呪いだと?」
誓いの呪い。
国王の婚姻の儀のさいに行われる『形式的』な誓いの言葉の中にに存在する、忘れられた呪いだ。
その内容は、王が自分の妻すなわち王妃と以外の関係を持った場合、
確実に妊娠させ、その上生まれる子供は呪いにより『国』に危険を及ぼすというものだった。
原始的な宗教のくだりにあり、言葉を知る者でも内容を理解するのは難しい。
しかしこの国は元来この大陸の人間ではないものが――すなわち外海から渡ってきた人間が建国したと言われている。
その際に迫害した原住民の『復讐』と行ってもおかしくはない。
今までに一度も国王が不貞を働かなかったと言えば嘘になるだろう。
が、その呪いを恐れた歴代の王は、公的には一切後宮を作らなかった。
その上、事が済むとその女性をこの世から消し去っていた。
そのせいで忘れられていたのだろう。
公爵は自分を裏切った正妻を見下ろすような目で見た。
床を見つめて震える体を感じながら、何がどうなっているか訳が分からない『恐ろしさ』を痛い程感じていた。
女を抱く事すら知らない子供に、いきなり事実だけを飲み込むのは不可能だった。
ふわっと布が肩にかけられて、頭を上げる。横から抱き抱えられて立ち上がる。
「母様…」
ラファエルは歯を食いしばるようにして母親に泣きついた。
そしてそれが彼女との別れになった。
事を公にしたくなかった公爵は、彼女を『病気』による静養として召し使い二人に付き添わせて部屋に閉じ込めた。
姉は廃人のようになってしまい、言葉も聞けなくなり、縁談を破棄せざるを得なくなった。
跡継ぎはラファエルの弟にあたる正妻の子供―─彼が本来長男だろう―─に決定した。
“せめてもの情け”で、罪のない子供には事の次第を悟られないようにしたのだった。
彼は追放された。
彼は自分が呪われたと言う事実だけを知り、ただ自分の呪いを解く事だけを考えて、旅立った。
ルベルの名前はこの際剥奪された。だが、自分が国王と母の間から生まれた事は全く知らなかった。
柔らかい感触に彼は目が覚めた。
「…?」
目を開けたが何も見えない。
むに
頭を動かそうとして、先刻の柔らかさがまた襲ってくる。
咄嗟に理解して両手で顔の前にある物をどけようと手を伸ばす。
「むにゃぁ」
すると、案の定眠たそうな声があがった。
顔から引き剥がしたそれは、言うまでもなくテータだった。
彼女は寝ぼけた顔で自分を掴んでいる手を払おうとして身体をくねらせる。
良く窒息して死ななかったものだ。
「どけ」
ぽんとベッドの上に投げられて彼女はやっと状況を把握したようだ。
ぱちくりと目を瞬かせてきょとんとした表情でローを見つめる。
「何だ」
ローは身体を起こして身体の骨を鳴らせた。
「…おはよ」
しばらく彼女はローの方を見つめていた。
久しぶりにベッドで目が覚めた。
何の違和感も感じていないのが不思議なぐらいだ。
――だからか…久しぶりに変な夢を見たのは…
考えながら、昨夜の事を思い出せなくなっている事に気がついた。
言うまでもない。
脳の裏側がちくりと痛むような気がした。
テータの方を向いたが、彼女と目があったが、彼は何も言えなかった。
テータはぽけーっとした表情のまま、彼の行動を見つめていた。
特に何が言いたいわけでもなく、ただ彼の姿を見ていたかったのだ。
そして、彼の表現しにくい表情がこちらに向けられた時。
その時ほんの僅かな、本当に少しだけ勝ち誇ったように口元を歪めた。
そこはテータが取った宿の二階だ。
多分今までになく綺麗な部屋だ。
こんな綺麗な街には、普段泊まっているような安宿は少ない。
ローは部屋の調度や桟、扉など目に付いたものは注意して見ていたが、特別傷が付いている場所などはない。
「…どうかしたの」
このきょとんとした表情。
ローは返事をせずに荷を持って扉を開けた。
まぶしい朝の光が目に刺さってくる。まだ夜が明けて間もないぐらいの街は静かな活気に溢れている。
ざく
その明るい日差しの中で浮かび上がる存在。
周囲に比べると余りに闇に近く、夜の冥さをもってその姿を表現できる。
触れれば冷たく凍り付きそうな、その存在を否定すべき者。
昨夜のことがあったにもかかわらず、今朝の街では何の変化もなかった。
側にいるテータはしばらくきょろきょろしていたが、結局何も見つからなかった。
あれだけ騒いだというのに、街の誰も彼らを気に止めることはなかった。
「やぁ、早かったなぁ」
昨夜の馬車の親父は明るく二人を迎えた。彼は何も知らないのだ。
「ああ。…できる限り早く目的地に着きたいんだ」
それからいくらか他愛のない世間話をしたような気がするが、彼は何も頭に残っていなかった。
そして馬車は予定通りに出発した。
今度こそ、何事もなくティフィスの首都までつくことができるとありがたい。
ローは煙を蹴立てる馬車に揺られながら、そう思った。