天下夢奏
〜戯曲『無銘の御剣』より〜
第1楽章 第4幕 ―街―
その後出発準備を固めた二人は、そのまま徒歩で南下することにした。
街道沿いに二日も歩けば次の街へと通じているはず。そう言う計算だった。
「…あれ」
テータは不思議そうな声を出して、陽炎の向こうに見える影に首を傾げた。
「こんなに近かったかな…」
しかし、二日どころか半日で街は姿を現した。
少なくとも今日の夜にならなければ街は見えないはずだが…
ローは嫌な予感がした。起きてはならない事が、まだ起きるような気がした。
その日の夕方、街に見えた物の正体がはっきりした。
「ひっ」
遠くてよく見えなかったそれをはっきり認識したテータは悲鳴を上げた。
まるで屠殺場のような光景。
街まであと半日は歩かねばならない所まで、巨大な化物と人間の屍体が折り重なるようにして転がっていたのだ。
ここまで腐敗臭が漂ってくると言うことは、少なくとも二週間以上は放置されているはずだ。
かなりの集団がここで化物の群に襲われたような印象を受ける。
だがそれでは化物が屍体になって倒れている理由が見つからない。
それに、何故街はこれを撤去しないのだ。
…いや。
よく見れば金属製の鎧の破片のような物も見える。
どうやら撤去しようにももう撤去できないのかも知れない。
何らかの理由で討って出た人間と化物とがここで衝突し、結局双方の被害が大きくなって、こうなったのだろう。
ここから街まではまだ半日以上かかるが、こんな所で夜は明かせない。
何より臭くて仕方がない。
「急ぐぞ」
言いながら彼は剣を抜いた。
このままでは間違いなく夜になる。夜になれば腐肉をあさる化物が出る。既に何匹かの化物と人間は綺麗に白骨化している。
――厄介な…
もしかすると昨日襲ってきた化物はここの『餌場』によってくる化物を目当てに集まっていたのかも知れない。
しかし、ここで慌ててしまい、走る事は赦されない。
走るわけにはいかない。
体力はぎりぎりまで残して置いて、初めて生き残れるのだ。
ここで焦って体力を使い果たしてしまっては、生き残るどころではない。
――…俺は一体何の心配をしているんだ
化物如き、心配などいらないはずじゃなかったのか?
それでなくとも、死にかけると必ず『奴』が助けてくれただろう。
自問自答する必要性はない。
彼はテータを見た。少なくとも、彼女は不死身ではない。
自分で自分を守るのが精一杯のはずだ。それも、逃げるという意味において。
確実に一歩一歩、街に近づくたびに空が色づいていく。
まだ街まで半分を超えていないというのに、日が暮れ始めた時にはさすがに焦りの色が浮かんだ。
夕暮れは早い。
あっという間に薄闇が全てを覆い尽くそうとする。
ざかっ
ローは素早く身体を反転させるようにして音の方向へ踏み込んだ。
右手から左手へと剣を回すように持ち替えて、身体を開きながら全体重を切っ先に乗せた。
手応え
「こ、こっち!」
ローの剣は見事に犬の首を落としていた。
腐肉を喰らう、例の犬だ。
テータの声の方向を見ると、まだ数匹すぐ近くまで来ているらしい。
光る目がゆっくり近づいてくる。
「おいでなすったか」
もう街まではさしたる距離ではない。
彼は後ずさるようにして構え直すと、すぐ側で震えるテータの肩を街の方向へ押した。
「いけ」
一瞬ローの顔を見るテータ。
だが、すぐに頷いて街へと駆け出した。と同時に目が動く。
「逃すかぁ!」
明らかにテータを狙った動きに、彼の剣が走った。
最初ローを無視して飛び出した奴を真横に両断、さらに踏み込んで後ろの一匹の首を切り落とす。
「らあああああ」
それで群はローの『排除』を初めて認識した。あっという間に2匹が片づけられたのを見てか、一瞬躊躇するように足を止めた。そして、彼らの背後からさらに気配が近づいてきた。
1、2、3、4、5、6、7。
まだまだ気配は確実に増えていく。成る程、これではらちが明かない。
ここにある屍体を誰も片づけられない訳だ。
ローは舌なめずりして剣を正面に構え直す。
このままここでやられる――そう、奴らにではない――訳には、いかないのだ。
ここは街に近すぎる。
小競り合いを続けて後ずさるしか手がない。
背を向ければいきなり襲いかかるのが奴らの習性なのだから。
そう言う意味では、まだ半包囲状態で彼の視界の中にしか奴らの姿がないのは、唯一最悪の状況ではないと言えるだろう。
奴らの牙を受け流し、返す刀で頭を斬りつけ、なおも襲ってくる奴を後ろに退いてかわす。
群で襲ってくるとは言え、そのコンビネーションは大したことはない。
まだ、この群にはリーダーはいないようだ。
ちら、と背後を見る。
まだ街までかなりあるが、このままいけば日が完全に暮れる前にたどり着けるだろう。
そうすれば、何とかなる。
一振り、ふた振り。
剣を振るう腕の力がなくなってくる。
と同時に内部から嫌な力が沸き上がってくる。
何としても彼を殺させようとしない、彼を支配する『呪』が。
彼の両目が爛々と輝き、両腕の筋肉が緊張するようにはっきりと浮き出る。
『犬』の群は一瞬それを理解したようだった。
全ての犬は一瞬立ち止まり、そこにいる人間を見つめた――恐怖の対象として――。
だがそこはやはり畜生。繰り返し同じように襲いかかってきた。
ただし、今度はほとんど同時に左右から牙を剥いて跳びかかってきた。
僅かではあるがタイミングが違う。
スピードが速いため、対処を間違えば奴の牙を受けることになる。
口元に浮かぶ、冥い笑み。
切っ先を左下に下げ、まるで円を描くようにして右下まで振り切る。
ばしゃ
まるで水をぶちまけたように彼を中心にして血飛沫が走る。
犬の首が弾け飛んで、胴体だけが勢い余って彼の横に転がる。
先刻までの剣とは勢いが違う。
先程までなら切り裂く程度だったはずなのに、今は触れても剣には血糊すら残さない。
らぁああああああああああああああああ
獣の咆吼を上げた。
ともすれば流されて前に進みそうになる足を、今度は無理矢理後ろへ退かせながら尚も切り結ぶ。
恐らく周囲で誰かが見ていたならば、驚きに声を失うだろう。剣を振る事で通常の人間は疲労を蓄積する。
それがどうだ。彼は剣を振るごとにその勢いを増していくではないか。
押されているのは彼の方だというのに、それを微塵にも感じさせない。
そして、口元に浮かぶ笑み。それは狂気に憑かれた人間のそれであった。
「ぐ――はぁ」
大きく呼吸する。
――これ以上は…
彼はひっきりなしに消えそうになる意識を何とかして保っていた。
少しでも気を抜くと間違いなく『奴』に支配されてしまう。
その時大きく視界がぶれた。
どうやら横に跳躍しながら何かを避けたらしい。
もう彼には細かな動きを考える必要はなくなっていたため、何が起こっているのか理解することもできなくなっていた。
ぶぉん
大きな空を割く音が同時に届いた。
真っ白い空間に、一筋切り裂くように色が現れる。
そこから音を立てて崩れるように、果物屋が商品にかけた布を開くように、無色の空間が一気に色に満たされる。
彼の意識は完全に「こちら」へ戻ってきた。
今自分の耳元を通り過ぎた音を理解する前に、同じ物が次々に彼の脇を飛んでくるのがわかった。
太矢だ。
弩の太矢だ。それも十分に大きな奴だ。
「…やくー!早くこっちへー!」
それに混ざる人の声。
街の方向から幾本も雨のような太矢が飛んできている。
街の警備団か何かが援護してくれているのだ。
彼は素早くきびすを返すと、もう目の前にある街の入り口へと駆け込んだ。
「大丈夫かい、旦那」
警備員であろう、鎧を着込んだ男に声をかけられて手だけで応えた。
情けないことに息が上がってしまっていて何もしゃべれない状態だった。
彼を今まで中で支えていた『呪』は既に眠りについている。
腕を上げるのも一苦労するほど、疲弊していた。
肩で息をしているうちに背後で大きく閉まる音が聞こえた。
どうやらここは跳ね橋のような扉を備えていて、この街を守る巨大な防壁になっているようだ。
何か口々に彼を褒め称えるような賞賛の声が聞こえる。
顔を上げると、テータがこちらに向かってくる所だった。
「大丈夫?丁度警備の人がいたから助けて貰えたよ」
それには複雑そうな表情を浮かべて見せた。
今の状況を見て何も感じないのか?そう言う表情だ。
だがテータは彼の表情に気がつかなかったようだ。
彼はすぐ側にいる人間を物色して目を向けた。
「…一体あれは何なんだ?」
適当な奴に声をかけた。
そいつは警備員の一人のような格好をしていて、人の良さそうな笑みを浮かべていた。
「ああ、もう一月ぐらい前の事か?難民みたいな奴らが出てきて襲われていたんだ。
それをうちの部隊が何とかくい止めようとしたんだ。今みたいにさ。けどな」
そして街の外を親指で指す。
「あの屍の山になっちまったのさ。
それ以来『犬』がうろつくようになって、どうしようもないのさ。最も、昔から化物の多い街柄だったけどな」
嫌な予感が、的中するかも知れない。
それ以上聞くのをやめると適当に礼を言って人混みを抜けた。
この街は高い城壁に囲まれた城塞都市のようだ。
警備の手慣れた行動と言い、街を囲むこの城壁といい、化物に襲われる環境は昔から変わらないのだろう。
――だからだ、俺がこの街を知らないのは
彼はこの街を素通りしたか、別の街道沿いに歩いていたのだろう。
一月ほど前に化物の群とやり合った記憶はあるが、どうやらこの辺りだったらしい。
しかし街は他の都市よりも非常に活気がある。
こうやって囲まれているにもかかわらずきちんと区画整理された都市になっている。
まるで初めからこの姿になるように計画されて作られたようだ。
そう思うと人間とは凄まじいものだ。
自分達が繁栄するためにはどんな努力も惜しまない。
どんなに酷い場所であろうと、生き延びるためには恐ろしい努力をする。
恐らくここに初めて街を建設した人間は、どうしてもここに住まざるを得なかった人間達なのだろう。
それに比べればメルカードは酷い物だ。
首都とは名ばかりの住み難い都市だ。
それこそただ大きく、人口が膨れ上がった都市なのだ。
軍事的価値はあってもそれ以上ではない。
何故ならば、あそこは汚らしい黒い『欲望』の都市。軍事国家の縮図のような都市とも言えるだろう。
「綺麗だね」
テータはいつもと変わらぬ様子で言った。
しかし、ローはこの無機質な都市には相容れない物を感じて苦い表情を浮かべた。
テータは返事のないローに少し不思議そうに頭を上げる。
「…ろー?」
裏返った声をあげて、様子がおかしい彼に声をかけた。
ローは彼女の方に顔を向けず、ただ苦い表情を浮かべたまま呟くように言った。
「先に馬車をとる」
寂しそうな笑みを浮かべてテータは唇を噛んだ。
以前なら返事すら返してくれなかった。でも、まだ彼を掴む事ができない。
多少の進歩はあったものの、まだまだ彼女にとっては不満が残っている。
「じゃ、宿を探しておくよ」
ローがテータの方を一度見た。
多分今までなら見ることはなかっただろう。
テータは嬉しそうににっこり笑ってそれに応えた。
「大丈夫、ボクは決して迷わないから」
まるで無反応を装って、彼はテータに背を向けた。
馬車などこんな時間に出そう等とは思わない。
だから通常はもう閉めているものだ。
だが別に建物を閉鎖するわけではないし、何よりまだ日が落ちて数刻も経っていない。
眠るにも早い時間だろう。
通常定期便ならばこんな時間に慌てて取る必要などないだろう。
しかしローはどうしても明日の一番の便でこの街から離れる必要があるように思えたのだ。
案の定南門の側にある馬小屋には馬車が数台停めてあった。
ふと見回して厩の側に家事の煙を立てる家を見つけて入り口に近づく。
どん
と、厩の方から出てくる影にぶつかる。
「あ、ごめんなさい」
女性?らしい。一瞬こちらを見て頭を下げると小屋に入ろうとする。
「馬車の件で少し話したいのだが」
彼女が扉を開けると中から光が零れる。
どうやら相手はまだ少女と呼ぶのが相応しい年齢のようだ。
目元にはまだあどけなさが残る。
「あ…いえ、はい」
気のせいだろうか。
一瞬少女の顔が強ばった気がした。
彼女が小屋の中に引っ込む。ローが小屋の入り口に立つと、すぐに頭の禿げた親父が出てきた。
「すみません、お客さん、先刻の娘が粗相でも?」
彼は申し訳なさそうな顔で、申し訳程度の髪しか生えていない頭を下げる。
は?という顔をしてローは眉を顰めた。
「いや、明日の馬車を取っておきたくて聞きに来たんだが」
ローの言葉で親父の表情がぱっと変わる。
「あ、そうですか。いやぁ、あの娘は最近来たばかりで仕事を覚えなくてねぇ」
「…それはいい」
少しため息混じりに彼は言った。
明日の馬車は、定期で出る分のうち一番早い便に二人分予約を入れ、時間を聞いておいた。
嫌な予感が当たる前にこの街から出たい。明日も早くなるだろう。
丁度夕飯時だ。宿へ向かえば丁度夕食といったぐらいだろう。
空に星が登り始めたのを見ながら彼は宿へ向かった。
――そう言えば…こうして星を見上げているなんざ、久しぶりだな
疲れているはずなのに、まだ荒みきっていない部分があることに気がついて彼は僅かに安心した。
多分、先刻の力の暴走が何とか停止したからだろう、安心しているのかも知れない。
一月ぶりに気を抜いたせいだろう。
激痛
急に引き裂くような感触が、脇腹に来た。
気配が腰にある。いや、いる。
肩の高さほどの人間がそこにいる。すぐ背後に。
どぷ
激痛と共に影が後ろに下がった。
血の塊が脇腹から吐き出される。
数回瞬くようないつもの衝撃が脳内に走り、瞬時に出血が止まる。
これがあるからこそ、彼は不死身なのであり、そして最も凶悪な殺人鬼なのである。
――やばい、もっていかれるっ
これ以上怪我をするのはまずい。
これ以上『奴』をで張らせれば間違いなく乗っ取られる
ここで暴走すれば間違いなく…
だがその懸念もすぐに氷解する。一気に戻った五感に酔いそうになりながら後ろにいる人物を見た。
荒い呼吸をしてナイフを構えているのは先程の少女だった。
先刻の小屋から走ってきたらしい。さもなければ彼は宿についたはずだ。
「こ、こ、こ…」
彼はゆっくり少女を見つめた。
こうやって対峙すると、恐らく彼女の方が不利になるのだろう。
たとえこちらが手傷を負っていたとしても。
運の悪いことに――いつものことだが――剣を腰に履いている。
果物ナイフ程度の刃物では勿論敵うはずもない。
「ころしてやるっ、村のみんなの仇!」
忘れるはずのない記憶。
夜中に急にたたき起こされて、焦る両親に急かされ、着の身着のままで村を飛び出した彼女。
彼女はそこで信じられない光景を目にした。
次々に崩れていく家。阿鼻叫喚と、瓦礫の中から飛び出してくる人影。
とうとうこの村も化物に襲われたんだ。
彼女は両親に手を引かれながらそう思った。
だが、彼女はそいつが自分の方を見た時、はっきり自覚した。
――あれは人間だ
飢えに狂った、殺人の余韻に酔いしれる人間の姿だ。
力無くだらんとさげた両腕は時折痙攣し、目は最も手近な獲物を探して動き続けていた。
その恐ろしい形相を忘れるはずもない。
そして、その後の自分の両親が目の前で化物に喰い殺される様も。
「…ぶ」
口の中に強烈な鉄の味が充満して、急に目の前がくらくらした。
慌てて吐き出して少女を正面に見据える。
彼女は何の躊躇いもなくローにナイフを突き立てた。
確かに油断していた――いや、疲れ切っていたが、いかに華奢とは言え大剣を履いた男を襲ったのだ。
彼女が。
涙を浮かべ、自分のしていることを理解しているのかいないのか、ローを怒りのまなざしで見つめている。
――罪…深き、業…か…
一度聞いたことがある。
彼が生まれた国、リギィは移民が作り上げた国である、と。
だから、支配者たる彼らは原住民の仕掛けた罠で、呪いで滅びるだろう、と。
同時に彼は思った。これが普通の人間なのだと。
それは一種の安心だった。自分の生きている意味を肯定するものだった。
自分の生を否定する『肯定』。自虐的な悦びに口元が歪んだ。