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天下夢奏
  〜戯曲『無銘の御剣』より〜

  第1楽章 第3幕  ―邂逅の日―

 夜は馬車は走れない。
 街道が最も危険な領域へと姿を変えるからだ。
 昼間は追い剥ぎやごろつきがいるかも知れないが、彼らとて夜中は決して街道には近づかない。
 化物のほとんどは夜行性で、この時間帯に動き始めるのだ。
 まだ夕暮れ時と言っても通りには人通りが多い。こういう場所では化物の心配はそれ程でもないが。
「ちょっと、ちょっと待ってよー」
 ローは馭者にさっさと金を払って歩いてきたので、荷物と苦闘していたテータが慌てて追いかけてきた。
「も、もう、おいてかないでよ」
「連れてきた覚えはない」
 変わらぬ調子で答える。
 随分以前の関係よりは前進しているのだが、それでも普通なら十分冷たい行動である。
 しかし、彼女の運賃もきちんと彼が払っているのだ。
 この辺り言動が一致しないのだが。
 テータはぷと頬を膨らませると彼の腰にタックルしてそのまま抱きつく。
 向こう側で両手が冷たい物に触れる。
 慌てて引っこめて、自分の手と手をつないで抱きつく。
「ふんだ、絶対連れていってもらうもんね」
 彼女の手が触れたのは彼の剣だ。
 彼の剣は他の人間が使えるほど軽くはない。
 そして、刃こぼれしない鋭さを保ち、叩き切るのに非常に適している。
 刀身の幅は楯として申し分もなく、それを自由に操る膂力があるならこれほどの武器はないだろう。
 ローはこの剣について異常とも言えるほどうるさい。
 他人が触れよう物なら激昂して即座にその場に殴り倒してしまう。
 それに気がついて、彼女は手を引いたのだ。
 適当な宿を取って、ローはいつものように部屋の隅に腰を下ろした。
「…?」
 昨日よりも綺麗な部屋だ。
 いや、実は昨日の宿よりも安いのだが、色々曰くがある宿らしく、つぶれかかっているために『特別料金』でセール中だったのだ。
 ベッドは(今日は流石に)二つある。
 のに、ローは部屋の隅へ行って剣を抱いている。
「どうしてベッドで眠らないの?」
 ローは答えずにそのまま動かなくなった。
 ふと気がついた。
 そう言えばここまで旅をしてくる間、彼が毛布にくるまっているのを見たことがない。
 自分が起きた時には既に置いて行かれそうになっていたことしかなかった。
 二人でたき火を挟んで座って、気がついたらそのまま放って置かれているのだ。
 そう言えば、昼間馬車の中でも同じ格好で眠っていた。
「…ロー?」
 気になって彼女はランプをつけようかと思った。
 が、考え直してやめた。
 ほとんど下着同然の格好なので、一枚ズボンをはくと彼の側に寄る。
 うつむいた顔を下から覗くような格好で彼を見上げる。
「テータ」
「ひゃ」

  こてん

 そのまま向かい合う格好で床に転がるテータ。
 逆さまのローの顔の、目だけがやけに印象的に映る。
「…いいから、寝ろ。どうせ、明日も早い」
「なんでいつもそんな格好で眠ってるの?」
 無邪気な表情に、無邪気な言葉。
 何の悪気も感じられない声に、ローは苦々しい表情を浮かべて、そして睨み付けた。
「眠れないからだ」

 こうして一週間、同じような旅は続いた。
 何事もなく平和に。特別、何の変化もなく。
 もし何事もなく後一週間続いたのであれば、何とか間に合っただろう。
 しかし、災厄はその日にやってきた。

  ずずぅうん

 ローは奇妙な音に慌てて身体を起こした。
 もう習慣になっているらしく、テータを右足の膝を立ててけ落とすと剣を掴んだ。
「ひゃ、ひゃあ」
 馭者の声。
 テータも身体を起こして馭者の背中を見た。
 が、それは何かのものすごいスピードの物に遮られて見えなくなった。
 堅い枝を何本もまとめて折るような音が響き、水風船が破裂する時の音がすぐ側で聞こえた。
 すっと、遮っていた物が消える。
「ちっ」
 ローは馬車の後ろ側へ跳躍した。テータは慌ててそれに習って飛び出た。
 と。

  ばきばきばき

 木製の枠と荷台はあっという間に粉々になった。
「あーっ、ボクの荷物がぁ」
 命が危なかったというのにテータはのんきにそんな事を言った。
 荷馬車を突き崩したのは巨大な頭を持つ蛇だった。
 その頭だけでもダブルベッドよりも大きな蛇だ。勿論普通の獣ではない。
「…化物か」
 普段なら鞘に収めたまま剣を振るう彼も、相手が化物なら話は別だ。
 相手が人間ならば抜き身だと警戒される。
 通常は剣を収めたまま、ほんの一瞬だけ剣を抜く事で間合いを隠しながら闘う。
 だが相手が化物なら話は別だ。
 剣の幅を十分に活かして剣で防御する必要がある。
 一気に抜き放ち、両手で剣を構える。
 相手は全長数十メートルある、巨大な蛇だ。
 恐らく馭者は丸飲みされて喉で全身を砕かれたのだろう。
 鱗が脈打つ際に、筋肉の確かな躍動がはっきり見て取れる。
 それだけ奴は巨大だ。
「…常識を無視しやがって」
 彼は地面を蹴った。
 蛇は、巨大な物でもせいぜい胴回りが数十センチだろう。
 だのに、この巨大な蛇は数メートルはある。これを支える骨格は少なくとも『普通の骨ではない』。
 彼に気がついた蛇は、鎌首をもたげて一気に接近してきた。
 顎をはずして、巨大な顎を開いて。
 テータは悲鳴を上げた。
「らああああああああっ」
 次の瞬間、ローは顎の中に消えた。
 が、それもつかの間、頭がまっぷたつに割れて鮮血と共に、ローはそこに立っていた。
 呆気なかった。
 剣を縦に構えたローを無理に飲み込もうとして、振り下ろしかけた剣を顎の内側からもろに喰らったのだろう。
 上顎を抜けた剣は、そのまま頭を切り裂いていた。
 蛇の上顎はすかすかである。それを、数トン近くもありそうな身体を勢い良くぶつけたのだから、裂けても当然だろう。
 それ以上に、それを受け止めて平然としているローが、彼の剣の方が恐るべき物だと言えないだろうか?

  びっ

 血糊を払うと、びくびくのたうち回る屍体の中から何とか這い出しす。
 彼は蛇からできる限り離れて両膝をついて咽せた。
「ローっ」
 テータが騒がしく彼の側に走り寄ってきた。
「だいじょうぶ?ね、大丈夫?」
「、見りゃ分かるだろう」
 激しく咽せ込みながら何とか答える。
「近くで川を探そう、ね?」
 何を慌てているのか分からないローは目元を腕で拭って顔を上げた。
 

 テータは涙目で自分を見つめていた。
 それを彼は不思議そうに見つめると、無意識のうちに頷いていた。
 今まで、彼女と会ってから三度ほど化物とやり合った。
 一度は多少は知性のある巨人、一度は屍肉に飽きたらず、生き血の味を覚えた化け犬。
 そして今の巨大な蛇だ。
 巨人の時も犬の時も危なげのない闘いと言えばそうだった。
 化物が動かなくなると、隠れていたテータが飛び出してきて嬉しそうに喜んでいた。
 だから、別に気にしていなかった。
 服ごと川に飛び込んで身体を洗いながら思った。
 どうせその辺にいる奴らと同じ。自分の命が助かったから、喜んでいるんだと思っていた。
 血塗れになった事も、今回だけではない。
 前回も、その前も相手が巨大なだけにどうしても全身が血塗れになるのは仕方がなかった。
 川は街道から外れて森にはいるとすぐに流れていた。
 そんなに大きくないが、身体を洗うには十分な大きさだ。
 まだ昼間だ。獣すら心配いらない。
「もう大丈夫?」
 後ろから声をかけられて首だけで振り返った。
 テータがタオルを持って立っていた。
「着替え、馬車の中から探してきたから」
 そう言ってローのバックパックを差し出してみせる。
 それを川縁において、その上にタオルを畳んで置く。
「あ、それと、こないだの血塗れの着替え、洗濯しといたから。
向こうで焚き火焚いているから、そこでまってるね」
 まだ彼女を理解できなかった。
 背中を向けてとてとて走る姿はとても子供らしい。
 が、彼女はあれでも――少なくとも――彼の倍は人生を生きているのだ。
――理解できなくても当然か…
 彼は川から上がって服を着替え始めた。
 結局何だかんだしているうちに日が暮れようとしていた。
 焚き火の側には彼の服が乾かされていて、じっと火を見つめるテータの姿があった。
「あ」
 彼の姿を認めると、小走りに駆け寄って来る。
「怪我、ない?」
「大丈夫だ」
 彼女をよけて焚き火の側に座るとテータはすぐ側に座ってきた。
「毒貰ってるかも知れないよ?」
 ローは首を振った。
 それよりも、このままでは次の街を越えるのが精一杯かもしれない。
 方向と場所を見失う前に、次の街を越えなければならないだろう。
 時間が、ない。
「…どうしたの?」
 気がつくと、彼女が覗き込んでいた。
 不思議そうに、その純真そうな目で彼を見つめていた。

  づくん

 その血を
「やめろっっ」
 思わず声をあげると立ち上がった。

  血を

「があああああああああっ」
 耳鳴り。
 脳を揺らすような強烈な衝撃。
 次に嗅覚が失せ、若干残った残滓のような触覚が、唯一『まだ意識がある』事を教えてくれる。

 既にほとんど体の自由はなくなっている。
 僅かに残った感覚だけが身体を制御している。
 今自分がどこにいて、自分が何をやっているのかすら分からない。
 もしかすると叫び声を上げているかも知れないし、うめきながら転がっているのかも知れない。

 …立ち上がったところまでは、覚えている。
 全身の感覚がフェードインするように、現実へ戻ってくる。
 額に嫌な汗が浮いている事に気がついたぐらいで、あとは何の違和感もなく頭を抱えて立ち上がっていた。
 足下には、テータがいた。
「大丈夫じゃないんじゃないの?」
 随分長い時間が経ったような気がしたが、現実にはほんの僅かな時間だったようだ。
 彼はゆっくり首を振るともう一度座った。
「どうせいつものことだ」
 そして手元に剣を寄せた。
 そう、どうせ僅かな時間の僅かな苦しみだ。
 やがて周期が短くなり、俺は完全に支配される。
 でも、まだその時は来ない。
 以前よりも、周期が短くなってきているのは確かなのだが。
 テータはローの後ろに回ると、同じように座り込んで足を両手で抱える。
 背中が触れて気がついた彼は、頭を上げた。
 が、彼女が何も言わないので何も言わないことにした。
 どうせ、何の脈絡もない言葉を交わすだけになる。
「…気がついてる?」
 既に焚き火は消え、木炭がくすぶっているだけになった。
 星灯りは森の中までは届かない。
 風の流れに揺れる葉のすれる音が時折耳障りに響く中、テータは座った格好のまま話し始めた。
 ローは何も言わず、いつものように剣を抱え込んだ格好で目を閉じている。
 テータは目を伏せて、自分の足下より少しだけ先を見つめている。
「ボクのうち、この付近なんだ」
 月明かりが葉と葉の間から差し込むが、それでも闇を裂くには至らない。
 むしろ、木炭の赤い色の方が明るい位だ。
「…せめて、すぐ側で眠らせてよ…」
 半分眠った理性でも、理解できたことがあった。
 この間、ここで彼女の家を襲ったのだ。
 もう、出会った場所まで戻ってきたのか。
 そうか、もうそんなところにまで、戻ってきたのか…
 

 邂逅の日。
 今からおよそ三週間と数日前。
 白色の月ダーナと黄色の月ルェナが同時に昇るこの日を、神話になぞらえて『邂逅の日』と呼ぶ。
 およそ月に一度起こる単なる自然現象だと言われているが、実際には違う。
 この世界を司っている力の流れが非常に強くなる日でもある。
 魔法の儀式に最も適した状態を作り出すために、魔導師を含め呪法に携わる物は非常に重要視する。
 恐らく、そして言うまでもないことだが、司る術の『呪』、亜魔人達の変身能力を制限したり、化物の能力が非常に高くなる。
 だから、この日は街の人々は自分の家に引きこもって、夜の過ぎるのを待つのだ。

  こつこつ

 だがその日は違った。
 その日は、丁度来てはならない人間がそこにいた。
 だらんと両腕を下げた格好で、右手には幅の広い剣を携えて、猫背でふらふらと千鳥足で歩いている。
 よく見ればそれが酔っぱらっているのではなく、バネのように筋肉が全身を揺らしているという事実に気がつくであろう。
 それは相当の筋力があっても不可能なことだ。
 今の奴は、人間とは言い難い膂力と、『残虐性』を持っていた。
 前のめりになった彼の顔は、月明かりの中でも暗く表情が読みとれない。
 荒い呼吸をしながら雫を垂らしている。
 時折痙攣する両腕は、それと分かるほど筋張って緊張している。
 明らかに何かを探している。
 夜中に街道を歩いていても何もあるはずがない。
 無論、根拠もない。
 だがその時は偶然人間が住む環境があった。
 街と呼ぶには小さいが、確かにそこには人間の営みがあった。

 すなわち、『獲物』が転がっていた。
 木造の住居しかない、本当に小さな集落だ。
 今の彼にとってこれ程素晴らしい獲物はない。
 跳躍するようにして一気に接近する。
 振り上げられる幅広剣。滅茶苦茶な破壊音を立てて、脆くも扉は砕け散った。
「だ、誰だ」
 答える余裕すら与えない。
 返す刀で一息に間合いを詰めながら中の人物を切り刻む。
 すぐ側にいた女性も、悲鳴を上げる暇すら与えない。
 一戸、二戸。
 次々と家屋は倒壊していき、中にいた人物は誰彼構わずミンチにされていった。
 三戸目が襲われたとき、悲鳴と共にその集落に住んでいた人々が逃げ始めた。
 ずたずたになった扉の向こうにいた人物が、最後の犠牲者になることになった。
「き、貴様」
 農作業用の道具を構えた男が、そこにはいた。
 どうやら逃げ遅れた事を悟って闘う決意をしたらしい。
 だが、精々そこまでだった。彼が鍬を振り上げるよりも早くそれは男の顔面を真横に切断した。
 鮮血が音を立てて散る中、側にいた女性は気を失う前に肩から脇腹にかけて切り裂かれた。
 一瞬、それは怪訝な表情を見せた。
 人間で言うならば、『もったいないことをした』というような表情だ。
「ひ」
 その修羅場に、彼女はいた。
 親には逃げろと言われていたにも関わらず、その扉を開いてしまった。
 昆虫のような動作で、それは彼女の方を向いた。
 口元が大きく切れ上がった。
 

 今思えば、もう少し人里から離れなければならなかったのだろう。
 できる限り発作をこらえて旅を続けていた時に、それは起きたのだ。
――奴の足なら、あっという間に獲物を捉えられる
 それを身をもって自覚した。
 だが、人里離れる事それ自体は正しい選択だった。
 何故ならば、被害はほんの僅かな物で済んだのだから。
 もしもっと近い距離であれば、恐らくこんな小さな村など一晩かからないうちに壊滅していただろう。
 一人残らず斬り殺し、肉を喰らい、犯し、それこそ後も残らないだろう。
 しかし中途半端に覚醒した彼は、被害者のうち唯一の生存者を見て非常な自己嫌悪に陥ることになった。
――早く、誰か、俺を殺してくれ…
 自殺はできない。
 死にかけた肉体を乗っ取られてしまう。以前同じようなことがあった。
 腕を落とせばいい。
 残念なことに、自分ではどうしても傷つけることができない。
 時々意識に直接襲いかかる『それ』は、彼の肉体を不死身の物へと変え、何とかして主導権を握ろうとしている。
 意志の強いうちはまだ何とか抑えられる。
 なのに酒を飲んだりして意識の力が弱くなるとしゃしゃり出てきて、欲望のまま破滅を目指す。
 残念なことに、彼の意志ではどうにもならないのだった。
「う…」
 少女の声で現実に戻った。
 もう服とは言えない程千切れた布の中で、酷い状態で横たわる彼女に彼はマントを掛けた。
 かける言葉などあるはずもない。

 『奴』を殺せるほどの強者に会うか、自分が奴よりも強くなるか。他に手段はない。
 

 目が覚めると、背中に当たる物があった。
 ああ、そう言えば昨夜はそこで寝ていたんだったな。
「おはよ」
 案の定、今ので目が覚めたらしい。
 彼女は声をかけて立ち上がった。まだ目は寝ぼけているが、すぐに目が覚めるだろう。
 


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