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天下夢奏
  〜戯曲『無銘の御剣』より〜
  第1楽章 第2幕  ―ロー―

 『殺戮者』のロー。
 ロー=クリタニカと言えば、その姿に似合わない残虐性と強靱な強さを想起させる。
 彼はここ数ヶ月の間に首に掛かった賞金が十倍に膨れ上がっている。
 初めはただの犯罪者だったのが、最近では用心棒まがいの事をして生計を立てている。
 ただ、彼に会った人々は口を揃えてこう答えた。何故彼が、あれだけ人間離れした生活を求めているのだろう、と。
 今までに殺した人間の数は街を一つ飲み込んでもおかしくないぐらいだ。
 恐らく戦場に出れば鬼神のような活躍ができるだろうと言われている。
 仕事の内容は非常に厄介な代物だった。
 ある都市に潜んでいる重要人物を始末するものだが、その都市が問題だった。
 その都市の名前はメルカード=トキァ。『星』の名を取るティフィス=ブランドー公国の首都だ。ここから丁度一月かかる距離だ。
――…これも、『呪い』の効果なのか?
 酒を飲んではいけない。
 食事を絶やしてはいけない。
 邂逅の日には、誰もいない部屋に閉じこもらなければいけない。
 さもなければ。
 彼は暗くなりかかった道を歩き、宿へと帰ってきた。
 宿の中は既にランプが煌々と灯されて、喧噪に包まれていた。
 宿の食堂は泊まり客以外にも開放し、夜中は酒場としても営業しているからだ。
 彼はカウンターに腰掛けて適当に食事を注文した。
「…ああ、後、肉はできる限り生に近く頼む」
 一瞬怪訝そうな表情を浮かべた主人だったが、何も言わず厨房へと引き返した。
 喧噪の中で、彼はゆっくり周囲を見回した。
 楽しそうに笑いながらグラスを傾ける者、談笑しながら食事をする者、女給をからかって怒らせる者。
 どこにでもある酒場の風景だ。それが急速に色を失い、ただの背景のようにとけ込んでいく。
 まただ。
 自分の内側から、代わりに灰色の何かが滲み出してくる。
 背景の中に唯一ぽっかりと浮いた登場人物。
 それが、今彼の中にいる「それ」だった。
 「それ」は何時大暴れしてもおかしくないような勢いで彼の意識を覆う。
 それに伴って背景が白くなっていく。

  血

 だが、すぐに五感が帰ってくる。
 ざわめき、笑い、話し声。食器の音、嬌笑、そして厨房から聞こえる包丁の音。
 肉の臭い、スープ、化粧、体臭。むせ返るような煙草の臭い、香味野菜の香り。
 揺れる影が卓の上に踊っている。
――帰ってきた…
 長い時間だったようなのに、それ程時間は経っていないようだった。
 もう一度周囲を見回すと、先程とほとんど変わらない風景が目に映った。
 嫌な汗が額に浮いている。それを右手で拭うと彼はゆっくり息を吐き出した。
――…まだ大丈夫だ。まだ二週間以上ある…
「大丈夫?ずいぶん気分が悪そうだけど」
 女性の声だ。
 ローは右手をひらひらさせて追い返そうとした。が、気配はすぐ側に腰を下ろした。
「…発作?」
 ローはその言葉に顔を上げて相手を見た。
 年は…そう、まだ二十前後か。あまり年は行ってそうにない。その顔が妖艶に微笑む。
 見覚えのある微笑み。どこかで見た表情。目の形、眉の動き。
「っ!…お前、まさかテータか」
 にんまりと笑みを浮かべて頷く。
「あんまり遅いから、帰ってこないかと思ったよ」
 そう言うと髪をかき上げて身を寄せた。
「…何のつもりだ。まさか、本当に荷物を見張っていたのか」
 テータ。テータは『人間』ではない。
 ローが彼女を人間ではないと気づいたのは初めて会って、『ついてくる』と行った時だった。
 その少女に、ローは『貴様が男だったら連れて行ってやる』と言った時、『本当?』と嬉しそうに笑って、彼の目の前で姿を変えた。
 亜魔人と呼ばれる亜人だ。
 彼女らは性別はおろか、真に実体を持たない。
 命精石と呼ばれる魔力的な石の力でその姿をつなぎ止めていると言われる。
 だが彼女は、初めからその石を持っていなかった。
 そして、普通なら考えられないことに、自分の意志だけで変身し、それを維持できるのだ。
 時折人間の中に混じって生活しているが、魔力に敏感で、石を手放すことはできない為にある程度見分けはつく。
 しかし、彼女は石の力を必要としないのだ。
「はい、お待ちどう」
 ローの前に食事が差し出された。
 パンと、スープと、ステーキ。
 肉は注文通り表面だけを軽くあぶったような肉だ。調味料の香りに混じって、血の臭いがする。

  ごくん

 先刻の衝動に似たものが襲う。
 彼は側にテータがいるのを忘れて肉にかぶりついた。
 テータは彼の様子を気に止める風でもない。
 ついてきて以来、彼の行動は逐一見てきたが、この『生肉』を食べる習慣は旅の途中でも変わらなかった。
 最悪の場合、化物の血をすすっていた事もある。
 理由は教えてくれない。
 話しかけてくれたのも、これでやっと四回目。口数が少ないのではなく、完全に彼女を無視して来たのだ。
 彼女は彼の食事をじっと見つめながら、少しだけ考えてみた。
 殺人、強姦、壊せるものは全て壊す、『殺戮者』。
 凶悪な猟奇的犯罪者と言われる彼が、実はそうではないと言うことを知っているのは多分彼女だけだろう。
 人を避け、何かと常に闘っている。
 苦しそうな表情は一切見せないが、二週間側にいて決して彼女を傷つけようとしなかった。
「おいしい?」
 やはり無反応だが、テータは嬉しそうな微笑みを浮かべた。

 食事を終えると、金貨を投げるようにおいて立ち上がる。テータはそれについて部屋に向かった。
「…何故ついてくる」
 彼は振り向かず、背中の女性に声をかけた。
 テータは回り込むように横から彼の顔を覗く。
 ローは相変わらず目すら向けようとしないが、構わず横に並んで話し始める。
「何言ってるの?ボクの大切な人を殺したのはキミだよ?」
 そしてまるで猫のように彼の肩にすり寄る。
「だから、キミがその責任を取るのは当たり前じゃないか」
 ローは酷く不可思議な表情をして、彼女を見返した。
 足が止まる。
 部屋まではまだしばらくの距離がある。
「?どうしたの?」
 が、ローは返事をせずに、彼女をふりほどくようにして部屋へ向かう。
 テータは置いてきぼりにならない程度に歩くと、彼のすぐ後ろに立った。
 押して開く扉に手をかけたローは彼女の方に一度振り返る。
「お前みたいのを、普通『お人好し』ってんだ」
「何よ?ボクは正しいことを主張しているんだよ?」
 ローは一気に振り返って彼女の胸ぐらを掴む。
 テータの足が床から離れても、ローの顔にはまだ遠かった。
「うるせえ。死にたくなけりゃ、さっさと俺の前から消えろ」
 そして乱暴に彼女を廊下に放り投げ、勢い良く扉を閉めた。

  ばたん

 埃っぽい廊下の塵が舞い、テータは目を閉じてけほけほと咽せる。
 涙目で立ち上がると身体の埃を払い、小さくため息をついた。
「まだ、ガードが堅いんだよねー…」
 その表情は喩えようのないぐらい寂しそうな表情だった。
 

 血。
 むせ返るような血の臭い。耳に響く悲鳴と嗚咽。
「お前が殺したんだ!」

  びくん

 まだ部屋の中は暗い。
 大丈夫だ、手は剣に触れているじゃないか。
 俺の背中は冷たい木の壁じゃないか。
 まだ、大丈夫だ…
 

 夜の灯りが窓から斜めに差し込んでいる。
 闇に浮かぶのは白いベッドのシーツだけ。そのベッドには眠った跡すらない。
 しかし、切り裂かれた部屋の中には人の気配は確かにある。
 薄暗い闇の中、部屋の隅に男がうずくまっている、自分の膝に剣を抱えて。
 時々、身体が痙攣する。
 闇を見つめる目だけがやけにぎらつく。
 彼は完全に眠りにつけないようだった。
 時折疲れてしまったように全く動かなくなるが、それでもしばらくすれば身体を痙攣させている。
 嫌な夢が彼を襲っているのだ。
 強烈な罪の意識。
 責め立てる良心の呵責。だが、それだけなら容易いだろう。
 同時にわき上がる黒い悦び。
 確実に身体を蝕もうとする『意志』。
 そして、同時に全てに対して恨みをぶつける嫌な自分。

『貴様は殺人鬼だ』

  びくん

 被害者達の声に、怒りよりも先に欲望が動く。
 普通の人間なら気を失うほどの血の臭いにも、全身が興奮する。
 同時にそれが普通の感覚でない事も、理解している。
 これが明らかに自分に与えられた『枷』だと言うことも知っている。
 知らずに十五年も生きて来られたというのに、知らずに大人になれるはずだったのに、その直前に彼は国外追放を命ぜられた。
 彼は何も悪くなかったというのに。
 まだ何とか均衡を保っている。それも、この衝動が何とか抑えられるからだ。
――頼むから…
 それでも彼は蝕み続けるものとの闘う意志を持ち続けるのが既に困難になりつつあった。
 かなり疲れもたまっているのだ。
 死ぬよりも先に、この衝動に取り憑かれるだろう。
 そうなってしまえば。

 気がつくと既に周囲に光がしみ出していた。
 朝が来たらしい。全身が軋むように痛い。筋肉が強ばってしまっている。
 休んだ気がしない。でも、ベッドに横になるのは怖い。
 身体を横たえるのが怖い。
 眠りは浅いが、これでも間違いなく少しは眠っているはず。
 彼は重い体を引きずるようにして壁から引き剥がした。
 もうこんな長い夜が続くことが苦痛になりつつある。
 しかし、耐えなければいけない。さもなければ、さらに被害が出る。
 その前に確実に一撃で殺されなければならない。「奴」が、俺を支配する前に。
 妙に扉に手応えがあったと思うと、ごとんと彼の足下に人影が転がった。
「ひゃ、あは?…おはよ」
 テータだった。彼女の様子からして、どうやら扉の向こうで眠っていたらしい。
 彼女は十代の少年に姿を変えていた。
 テータは慌てて身体を起こすと身体をぱんぱん叩いて笑いかける。
「早いんだね、びっくりした」

  ひゅ

 その鼻先に、切っ先が現れる。
「死にたいのか?」
 恐らく、子供に何の迷いもない切っ先を向けられるのは彼だけだろう。
 その行動を笑顔で見ていられるのも、テータだけだろう。
 このままほんのわずかに力を加えるだけで、鼻先が飛ぶというのに。
「それでキミの気が済むんだったら、ボクはそれでも良いよ」
 血なまぐさい金属の冷たさが、鼻先に触れる。
 ローはこの目が嫌いだった。
 笑っている癖に、自分よりも遙かに年上の癖に。
 それなのに純粋な輝きを保っている目は、自分の全てを見透かしているようだからだ。
 お前に、殺すことができるはずがない。
 挑発的にそう言われている気がする。
 それなのに、怒りを覚える訳ではない。
 信頼されている?
 まさか、そう感じているのか?
 ローは自問自答する。嘗められているようには思えない。
 多分、実際に彼女はこのまま斬り殺されるだろう。
 しかし、彼女の言ったとおり『それで気が済む』とは思えない。
 彼は切っ先を引いて、もどかしそうに鞘にしまう。
 つと赤い筋をひいて、テータの鼻先に赤い点を残して。
 テータは表情を変えなかった。別に何も言わなかった。

 二人はそのまま何も言わずに宿を出た。
 宿の親父に金貨を数枚投げて払いを済ませて、朝の日の中忙しく立ち回る中央通り――要するに、これが街道である――に出た。
 これから仕事のために南に下らなければならない。
 しかし、どうしても仕事をやる必要性など無い。
 手元にある金で後しばらくはまだ生きていられる。
 しかし、仕事を無視するという選択肢には幾つかの欠点がある。
 よけいな敵が増えるだけで、ただ単に邪魔者が増えるだけという事になりかねないからだ。
――今のところ、敵は国だけでも十分か…
 王家直属の騎士団位が出張ってこなければ多分話にならないだろう。
 だったら、よけいな手間は省くべきだ。
「どこに行くの?」
 テータは、いつも変わらない様子でローの側にいる。ローは彼女の声に振り向いて答えた。
「…南に戻ることになった」
 今まで延々北を目指して歩いてきただけに――それも彼女には何も言っていない――
 この方針変更は非常に勇気のいる決断のはずだ。
 彼の苦々しい表情を知ってか知らずか、テータは頷いただけで何も言わなかった。
 ただ不思議に思っただけかも知れない。
「馬車、借りた方がいいね?」
 ローは曖昧に頷いた。
 これからあの街へ戻るために、馬車を借りる。
 何故か少し抵抗を覚えて彼は躊躇った。
 逃げるべき場所へどうして大急ぎで戻らねばならないんだ?
 だが一方で、大急ぎで戻らねばならない事があった。
 もう、邂逅の日までの残日数を考えると馬車でなくては間に合わない。
――途中でもし…
 彼は考えるのをやめた。どちらにしても行かざるを得ないのだ。
――…仕方ないか…
 貸し馬車は高い。だが好きな場所へ行ける利点がある。
 乗り合い馬車は――所謂定期便は安いが行き場所が限定されている上に、汚い。
 安全の保証は誰もしてくれない、すなわち誰かが用心棒役をかってでなければならない。
 それが決まりであり、不文律だった。
「乗り合いを乗り継いだ方がいいだろう」
「んー」
 しばらく思案しているような風だったが、別にローに意見する訳でなく、ただ唸っていた。

  ぽん

 そして、急に手を叩いた。
「やっと会話してくれたんだ」
 何事かと目を向けたローと目が合いにっこりと笑みを見せるが、ローはぷいと顔を背けるだけで、何も言わなかった。
 街外れの馬車乗り場まで出ると、もう今日出る最後の馬車が準備を始めていた。
 それ程広いとは言えない馬車の待機所には二台の馬車がいるが、
 既に馬ははずされて厩へと返されている所を見ると、向こうの街から来た馬車だろう。
「まだ乗れるか?」
 飼い葉を与えている馭者に声をかける。
 彼はにかっと人の良さそうな、というよりは頭の悪そうな笑みを浮かべて応えた。
「そうさね、今日は人が少ないんでさ、お客さん貸し切りみたいなもんだ」
 そう言って手を出した。
 金を払え、と言うことだろうか?
「…金はお前に払うのか?」
「んだ」
 だがローはしばらく思案した後に、口元に笑みを浮かべて言った。
「お前の命が惜しいんだったら、俺が向こうの街で降りてから請求しろ」

  はらり

 男は不審に思って反対側の手に持った飼い葉を見た。
 そして、唖然とした。飼い葉は彼の手に握られている部分から先がなくなっていたのだ。
 綺麗な刃物で切られた跡だとは思うが、それ以上は彼には理解できなかった。
 馭者が頭を捻っているうちにローはきびすを返し、ひとっとびに馬車に乗り込んだ。
 テータはもどかしそうに背を伸ばして、何とかよじ登って中に入った。
 多分微笑ましい光景に見えただろう。
 しかし彼女が背負うバックパックの重量は、これで二十sを軽く超えているのだ。
 彼女は本当の子供ではないといえ、流石に必死だったらしい。
 幌馬車、と言って理解できるだろうか。
 本来人が乗るようには作られていないため、椅子もなければ埃よけもない。
 中に乗る人間はまず埃から身を守らねばならない。
 テータは早速バックパックをごそごそやって、布きれを一枚出して顔に巻いた。
「…ローは付けないの?」
 ローは既に眠る体勢に入っていた。
 テータがローに言うと、少し頭を動かしたような気がしたがよく分からなかった。
 しばらくして馭者の声が聞こえた。どうやら馬車を出すらしい。

  がこん

 凄い音を立てて、馬車は動き始めた。時折ずれた石畳が車輪を跳ね上げて荷台を揺らす。
 ローは自分のバックパックを背にして、うずくまるように眠っていた。
 どちらにしてもこの馬車なら夕方までには街に着くはずだ。
 テータはつい昨日嬉しそうに見つけた街の面影を見ながら、小さくため息をついた。
 歌いたくなるような気分。
 それも、奴隷商人の馬車に乗っている奴隷の歌を、だ。
 少し前の自分の境遇と今を比べて、少し鬱に入ってしまったらしい。
 ローは相変わらず眠っているようだ。

  ぺか@

 何か思いついたらしい。
 揺れる荷台の上をそろそろ這うように歩き、馭者の背中が見える位置で一度止まる。
 隅で右膝を立てて荷物の中に身体を埋める彼の、左側からもたれかかるようにして身体を預けた。

 荷馬車はがらがら派手な音を立てて次の街へと向かっていた。
 この大陸でも最も広い街道を主街道と呼んでいるのだが、これに沿って移動すれば最も安全に南北を抜ける事ができる。
 最も危険がなくなる訳ではないから注意はしなければならないのだが。
 取りあえずその日は何事もなく夜を迎えた。馭者もどうやら命拾いしたらしい。
「お客さん、お客さんってば」
 ローが埋もれた身体を起こそうとして足の重みに気がついた。
 目を開けると、ちゃっかり腰を下ろしてすーすーねむっているテータの後ろ頭が目の前にあった。
 乱暴に彼女をどけると彼は身体を起こした。
 どけられた方はたまった物ではない。
 びっくりして飛び起きると床を一度転がった。
「いたたたっ、な、何すんだい」
 ローは彼女を無視して荷を拾い上げると、荷台からそのまま飛び降りた。


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