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Holocaust ――The borders――
Intermission

ミノル 4   第1話


 ぽつりと、世界の中心に存在している。
 周囲には彼にとって意味のないものしか存在しない。
 どれだけ形を作ろうとも、それは形のない物としてしか認識できない。
 闇の中で、どんな色をしていてもそれは闇色であるのと同じ。
 自分が何者であり、どんな理由でもって生きているのか。
 アイデンティティの喪失はすなわち――生ける屍、生きているというのは決して生物学的な話だけではないはずだ。
 そんなものを生きていると言っていいだろうか。
 だが彼には何もなかった。

――――――――――――――――――――――――――――――――

 夏の夜、たき火に群がる蛾を見た。
 蛾は、穹の星の灯り、それも月明かりを頼りにして飛ぶという。
 光を感じる感覚が他の昆虫に比べ優れているのだろうか、だから彼らは夜中でも真っ直ぐ飛ぶことができる。
 でも、たき火の回りに群がっているものは違う。
 彼らは真っ直ぐ飛ぶことはできない。
 月のように動いても方向が変わらないなどという事がないから。
 一定の角度を保とうとして、結果たき火の回りを回ることになる。
 その旋回は下手くそで、見ようによっては不器用なダンスを踊っているようでもある。
 そして距離を誤った蛾は、突然失速したように炎にもまれて死ぬ。
 当然だろう、彼らが感じている光は彼らの道標なんかではないからだ。
 迷い蛾のダンスか。それは俺も同じなのかも知れない。
 正しくない道標を元に、真っ直ぐだと感じた方向へとただ進み続ける夜の蛾。
 では、何が正しいんだろうか。

 生きるためには、何を正しいと言うことができるのだろうか。

 多分そんな物に答えはないし、今更考えても仕方のないことだ。
 回答は恐らく手遅れになってから現れる。
 それでも『間違いではなかった』と言い切ることができたなら多分。
 多分それが、正しい選択だったという事だろう。
 でももし道標が正しくなかったならば、あの火の中に飛び込んだ蛾のように。
 身を焼かれて死ぬのだろう。

 道標、目標、理由。
 それらは肉体を維持することとは違い、絶対必要に思えないのかも知れない。
 不思議なことだ。そんなにも聞き分けが良く生きられる物だろうか。
 腐敗、堕落、そして後悔。
 それを繰り返して、ただ永遠に終わらない悪夢の中へと落ち込んだ際、それでも死ねない――死なないのであれば。
 多分、彼はただ生きているだけに過ぎないはずだ。
 何故生きているのかという問いに対する答えが見つけられた人間は、きっと幸せだろう。
 何故ならその理由のために死ぬことができるのだから。
 俺は死ねない。
 生きている理由が、ないから。それを見つけられるまで、死んでなんかいられないんだ。


Intermission : ミノル 4


「久し振りだな」
 かしん、と扉の閉じる音がして彼は屋上に姿を現した。
 屋上の隅に佇む影。
 周囲に大きなビルがあるせいで影に飲み込まれているが、それでも淀む穹と沈みそうな太陽に染まる空気を隠すことはない。
「Ripper…か」
 影は、夕日を背に振り向いた。
「ふん、なんだ、腑抜けた顔を見せて」
「意外だったからさ」
 口元に自嘲の笑みを湛え、影は僅かに体を揺らす。
 僅かな光が彼の前を過ぎる。
 それは彼の貌に複雑に陰影を落とした。
「意外。そうか――」
 ミノルは言葉を継ごうとして、言葉を句切った。
 数年前。
 ミノルは命令により彼を微塵に引き裂いた。
 命令をしたのは博士だ。
 そして今回の件も、元は博士だ。
――弥勒菩薩の掌(たなごころ)の上で踊らされている事に気づいたか
 生殺与奪は既に自然にも、自分からも剥奪されてしまっている事に気づいたのか。
 どちらにせよ、それを言葉にすることはしなかった。
 以前から、出会えば牙を剥こうとする彼の態度と比べれば不自然な程穏やかな感じがした。
「ああ。今なら判る。――所詮、人間でも人間でなくても代わりはしない。人間同士で敵対することが愚かなら」
 今度こそ彼は、嘲笑を浮かべた。
「人間をやめた物も、人間ではない物も、それが同じところにいるので有れば、利害は一致してもおかしくないだろう」
「今敵対する理由はないか。――無駄の多い納得の仕方だったな」
 先刻のHalo現象の事を指して彼は口元だけを嘲りに歪めてみせる。
 Halo。それはミノルにも寄生し、リーナがコントロールする『増殖性』ナノマシンの持つ特性の一つ。
 空気中である程度の濃度であればナノマシンの寿命、エネルギーから体積やその現象そのものは安定する。
 だが、水分や僅かに存在する微生物・有機物を失えば自らで自らを貪りながら濃度を保とうとする。
 もし高密度・高濃度のナノマシンが一時に活性化した場合、爆発的に増殖しようとする。
 それが何もない空気中の場合、プログラムに従い濃度を低下させるため膨張しながら空気を喰らい、自らをエネルギーへと変換する。
 中心部ナノマシン濃度は膨張とエネルギー変換により急激に低下、周囲に向かうに従い濃くなっていく。
 この様子を博士は天使の輪『Angel's Halo』からHalo現象と呼び、予言した。
 実際に観察されたことはなかったが。
 彼――西森臣司はそれも鼻で笑って受け止めた。
「全燔祭の祭司としては、人間にもお前達にも敵対は出来ない。ただ――それが始められるよう準備をする」
――理由は。
 ミノルは何も言わなかった。
 リーナの手足とは違い、自らの意志を持ちながら『全燔祭』と呼ばれる物に従おうとする者達。
 それが、今回を引き金にして数人現れた。
 多分彼らの行動に理由がある訳ではないだろう。
 でも、彼らにそれを止める事は出来ないだろう。
――……俺には、何も教えられていない
 一番近くにいて。
 一番最初に彼女の掌の上で。
 少なくとも、直接面識と、任務を与えられるのは彼だけだというのに。
 その彼には今回のような事は、一切知らされていないなんて。
「そうだろう?」
 臣司は眉を顰めながら言う。
 彼も気がついたようだ。
 ミノルが、彼らと同じ場所にいるようで、実は同じではないと言うことに。
「悪いな、それは俺じゃない」
 肩をすくめると、両手をポケットに入れる。
 そして何の興味もない視線を臣司に向けて。
「でも、これも俺の役割だ――『トリガー』を作るっていう、な」
 ミノルは背を向けて、屋上の出口に向かう。
 今回新しくばらまいたタイプは、炭水化物を活性剤に使用したものだ。
 小麦粉を混ぜてやれば、勝手に増殖を開始する。
 恐らくは、既にこの街は彼の撒いた新型に『汚染』された空気になってしまっているだろう。
 それは潜伏的に、全ての人間に対してLycanthropeを仕込んでしまうことと同等。
――の、はずだった。
 だがそもそもLycanthropeの設計や開発は全てがリーナの手による物だ。
 効果や性能は彼女の方が詳しいに決まっている。
 新型を空気中に散布すること、それが引き起こす可能性、そしてこの――『全燔祭』という言葉と、『祭司』の存在。
 もしかすると全て、リーナは知っている事なのかも知れない。
 確認を取りたい。
 『トリガー』と彼が呼んだ、起爆スイッチは既にプログラムも済んだし、あとはリーナがハッキングするだけになっているはずだ。
 なのに何故。
 何故、潜在的に潜ませるはずだった今回の薬が、こんな余計な物まで産んでしまったのか。
 だが、何度声で呼んでもリーナの反応がない。
――リーナ……!


 東南アジアの一角。
 人のいない、日本人が作った『海外支部』のなれの果て。
 安い労働力で大量生産することでコストを下げようとした企業努力の、夢の後。
 彼らの経済効果がいつの間にか植民地じみた形を形成して、必要性と反発のジレンマを受けながら撤退せざるを得なくなったもの。
 バブル経済のまっただ中に新興の企業として現れた某企業の工場は、しかし不況のあおりを受けて倒産した。
 工場を引き払う事もままならずに。
 その工場の一つは既に電気も水道も全て停止していたのだが――つい先日、ある研究者により買い取られていた。
 紅李柳(ホワン=リー=ヤン)は眉を顰めて、新しい持ち主の名前を眺めていた。
「こいつ…」
 紫煙の満ちたくすんだ部屋の空気をかき混ぜるように腕を振り、ソファに背を預けて伸びをする。
 持ち主の名前は『柊 司』、日本人だろう。
 紅は苛々しながら懐を探り、紙巻き煙草を叩くように振りだしてくわえる。
 すっとすぐ側からライターが差し出され、アルミの打ち抜きの灰皿が彼の目の前に差し出された。
 ソファから体を起こすと、早速吸いさしのそれを灰皿に置くと苛々を隠さず、テーブルを指でとんとん叩く。
「買い取られたのは一年前です」
「んな事は見りゃ判る。お前の頭は豆腐で出来てるのか?」
 じろりと報告をする部下を睨み付け、ため息をつくと再び煙草をくわえた。
 一気に周囲が紫煙を含む。
「一年……何でもっと早くに判らなかったんだ」
 紅が苛立っているのは、彼にとって突然のとん挫だったからだ。
 見知らぬ日本人が買い取っているとは知らず、その工場の敷地を含めて既に地主を買収していたのだ。
 きちんと土地の権利書を確認していなかったせいで――また、手に入れた手段が乱暴だったため――そこに建築予定の公園が建てられなくなったからだ。
 既に周囲の森の伐採は始まっており、工事そのものを止めても既に損害を被る。
 彼の組織がこの計画を推し進めていたのだが、まさか今頃になって土地が足りない――それも予定地を大きく抉って誰かの土地になっているとは。
――確かに、一年前じゃぁ向こうの方が早いか
「一度ご相談されては」
「馬鹿野郎。……さっさと土地、剥奪すりゃその必要もないだろう」
 だがどうやって。
 手勢を率いて潰すのは楽だが、日本人となればその後がやっかいな可能性がある。
 高々一人の旅行者がいなくなっただけで、簡単に国際問題にしたがる国だ。
 彼の組織の一部は政界に食い込んでいるだけに、その辺りもやたらと五月蠅い。
――けっ、人一人ぐらい大した事でもねぇだろうに……
 彼の周囲では、昨日まで笑ってた奴が今日バラされて売られていてもおかしくないのが日常だった。
 だから、『高々日本人一人で』大騒ぎする上の連中が気に入らないのも幾らか有った。
 だが下手すれば、きちんと手を回されて自分の口と手を封じられる可能性がある。
 それは困る。
「出るぞ」
 僅かな時間迷った彼は、部下に簡単に指示を下して車を用意させる。
――とりあえず、実際に赴いた方が早いかも知れない
 状況を確認してからでも、遅くない。
 彼はまるで踏ん切りをつけるようにして、まだ長い煙草を灰皿に力を込めてねじ潰した。

 リーナは床にぺたりと座り込んでいた。
 天井を仰ぎ見るような格好で。
 彼女には食事も栄養補給も必要ない。
 義体そのものを構成する有機物は、医療用ナノマシンの働きにより自動修復される。
 『腐る』化学反応が有っても、それを修復していくのだ。
 繋がりやすく斬りにくい酸素の結合手を定期的に切り離し、常に新品と同様の状態を維持する。
 それが、彼女の体内で起きている現象だ。
 必要な電力は、必要な時必要なだけ充電する。
 リチウムバッテリーの電力はあくまでも緊急用の備えではあるが、普段はこれだけで充分だった。
 自分の手足とも言えるミノルが動いている限り、自分は動かなくても構わない。
 だけど――
 ふと堂々巡りを繰り返していた彼女の思考が、センサーからの割り込みにより停止する。
――誰だ
 ふと彼女は体を起こし、工場のあちこちにセットしておいたカメラとセンサーの情報を一度にかき集める。
 明らかにこちらを目指す車が見えた。
 それも複数。
 平和な闖入者であればかまわない。だが奴らは違う。
 工場の周辺、土地の外縁で工事が始まっている事は彼女も分かっていた。
 だからいつかこういう状況になってもおかしくないと思っていたのだ。
 相手するには少し多すぎる。
 それに、今はミノルも近くにいない。
 手駒になりそうな『人形』もまだ手元にはない。
――様子を見て問題があるなら
 彼女はすぐに一階にある機械室を目指して駆けだした。
 機械室は鍵こそかからないが、狭く、機械の唸りと熱が彼女を隠してくれるだろう。
 そして彼女本体が見つからなければ後はどうとでもなる。
 ぶうんと唸りをあげる様々な機械の置かれた闇に、彼女は体を滑り込ませて扉を閉めた。
 敵をやり過ごすために。
 敵から視線をはずす必要はないし、そんな事はしない。
 彼女は設置している監視カメラ全てに神経を張り巡らせ、敵の状況を把握する。
 罠なら――彼女の『手足』が工場の至る所にあるのだから。
 たとえ今回出荷分がすべて失われるような事になったとしても、もしかすれば襲撃者の中には『適格者』がいるかもしれないから。
 彼女は自分の身体ではない目と、手と、足を――

  ばん

 車の扉が叩くような音を立てて閉まるのが聞こえた。
 それは、彼らの侵入が始まる合図でも、あった。

 紅はスーツのポケットに両手を差し込んで、工場を眺めた。
 外観は既にあちこちに錆が浮き、決して人が使っているようには思えない。
 入り口からも饐えた臭いのする空気が漏れ出てくる――のに。
 内部から機械音がする。
「とりあえず、お前ら、乱暴はするなよ。あくまで穏便に、だ」
 無言で返事が返ってくる。
 そして、紅が一歩踏み出すと同時に後ろから舎弟が走り込んで、扉をまるで叩き壊すように開ける。
 派手な音がして、四角い闇が口を開けた。

  まるで悪魔が顎を大きく開いているかのように

 紅は一瞬背筋が寒くなった。だがそれを気のせいにして、部下に続いて闇へと足を踏み入れた。
 光取入窓から差し込む日光が、空気中の埃を浮かび上がらせている。
 水銀灯が点灯していて、誰かが確かにこの稼働させている。
 唸る機械音は、間違いなく工場を動かす為の機械室からの音だ。
 そして、がしゃん、がしゃんという何かの工作機械らしい音も聞こえてくる。
「奥を見てきます」
 一人が言いながら、音のする方向へと小走りに駆けていく。
 その間に、紅は周囲をゆっくり見回すことにした。
 人の気配はしない。
 丁度広さは普通の車が縦に二台並んだ位の奥行きに50m位の幅を持っている横長の細い工場だ。
 そして作業場を囲むように壁を整形し、事務室や休憩室だろうか、窓のある部屋が並んでいる。
 これは内部での作業による騒音を防止しながら、それなりの広さを確保できる構造と言えるだろう。
 本来ならこんな郊外に建てるので有れば、騒音は考える必要はない。
 むしろ搬入口や取り回しから、大きな間口を用意するのが常。
――妙に閉鎖的な工場だな
 いつ作られたどんな、何の工場なのか。
 稼働している工作機械に近づくと、ベルトコンベアを伝うビニール製の袋に包まれた白い粉末が見えた。
――何の
 彼の思考を遮る、人間の悲鳴があがった。
「兄貴」
「なんだ、くそっ」
 その場にいる全員が色めきだち、懐から銃を抜き放つと声がした方へと全員駆けだした。
 工場の中央、事務所に当たる部分。
 先頭を走る男が躊躇いもせず扉に蹴りを入れた。
「ぐあっ」

 既に異常は始まっていた。

 彼は自分の足を叩きつけた激痛に呻き、その体勢のまま止まる。
 足の裏から骨を伝って膝、股関節に差し込んだ痛みを覚えて――足を引いた。
「――!」
「何遊んでやがんだ」
 と、側にいた一人がそのまま扉に体当たりをしようと肩からぶつかる。
 派手な音が響いた。
 声にならない悲鳴があがった。
 そして、扉から――離れない。
 つうと赤い粘りけのある液体が、自己主張するように崩れない大きな水滴を作りながら流れる。
「な」
 そしてその場にいた全員が、有り得ない光景を目の当たりにした。
 肩から突っ込んだ一人の体が、音もなく扉に染みこんでいく――沈み込んでいく。
 じわりと血の滴も、まるでそこには何もなかったように――砂の地面に水が染みこむように、消えてしまう。
「お、おいっ」
 だが彼は不思議そうに周囲の人間を見返すだけで、何が起こっているのか理解していない。
 そして、もう一人は自分の足を両腕で掴んで扉から離れようとして――突然体を硬直させた。

  があああっっ

 扉の向こう側から、獣のような絶叫があがる。
 扉に半身を飲まれた男は既に何も聞こえていないように、瞼を閉じようとしている。
 自分の足を掴んだ男も同様に扉に飲み込まれていく。
――いや。
 飲み込まれている訳でも、奇妙な現象が起きている訳でも、勿論幻覚を見ているわけでもなかった。
 『扉』は扉ではなかった。
 彼らの目の前で、扉のような物はゆっくりと二人を飲み込みながら、形を変えていった。
 それは粗悪なホラーフィルムのようで、入り口の形に切り取られた壁から扉だったそれが、溶け崩れるようにして形を失う。
 同時に二人の体を覆い尽くすようにして床に灰色の塊になって転がる。
 一人が部屋の中を見て口に手を当てた。
 部屋の中は鮮血にまみれていた。
 酷い光景だった。
 既に常軌を逸した光景の中で、逆にリアリティのある血飛沫の痕と、液体の滴る様子は、薄暗い室内が実は白かったのだと認識させる。
 紅は既に正気に立ち返っていた。
――何故こんな事になったのか
――何が起こっているのか
 未だに床で蠢いている扉らしき塊は、一度ぷるんと全身を震わせると液体を引きずる音を立てて床を這い始める。
 彼は無言で銃をその塊に向けた。
 が、ため息をついて銃を懐に片づける。
「無駄弾か」
 既に四人も死んでしまった。
 今回の手勢では半数が、ほんの一瞬で片づけられたのだ。
「あ、兄貴」
「黙れ。どっちにせよこのままで済まさん。――ここの工場の所有者は研究者だったよな」
 はっきり言って方法も理屈も判らない。
 何の研究をやっていた人物なのかも知らない。
 だがそれが危険な代物であり、今見ての通りの状況であることは否めない。
 何より手駒を一気に4人も消されて、おめおめ逃げ帰る事は不可能だ。
 役立たずのレッテルを貼られて紅が消されてしまう。
「化けの皮を剥いでやる、Dr.Stein」
 そして残された全員に向けて一喝する。
「てめぇら!探すんだ、ここにいるはずの人間を引きずり出せ!但し騒ぐな、物を壊すな、触るんじゃない――先に俺に知らせろ」
 冷静で的確な指示。
 どんな土壇場でも、これだけ非常識で壊れた事態でも、トップの一人が冷静に判断できればそれだけで組織というのは盤石さを持つ。
 既に狼狽えていた部下も、ただその指示にすがるようにして工場の周囲に散った。
――まず紅に知らせろ
 それはどの指示よりも彼らを安心させた。彼に任せれば良いんだ、そう言う『逃げ』が彼らの精神を安定させたと言っても良い。
 では紅は冷静だったのか。
 精確にそうだと言う事は出来ない。
 彼は既に『正常と言うべき』判断が出来る精神状態ではなかった。

 一周して工場を見回した限り、人影はなかった。
 部屋の数を把握して、正確にこの工場の見取り図を頭に入れた程度の情報しかなかった。
 完全に無人の、人を喰う事務所を残して、この工場は稼働を続けているのだ。
 謎の粉末を生成しながら。
「何のヤクだ?」
 残った部下の一人が、綺麗に梱包された一つの箱をナイフで切り開きながら言う。
「――こんなところで飛ぶなよ」
「判ってますよ」
 目の前で彼は歯でナイロンの袋を破り、左手の甲に粉末を一撮み程載せる。
 そして、鼻で吸引した。
「――んー……」
 彼はドラッグユーザーだ。コカインもヘロインも、カクテルも使い方を一通り知っている。
 クスリはやばいと言われているが、実際には医薬品であり医者が適切な使い方をすることで効果が成り立つ物がほとんどだ。
 だから、知識のない人間では扱いきれなくても薬学の専門知識がある場合なら、使いこなすことは不可能ではない。
 そう言った『クスリに操られず利用する』人間を『ドラッグユーザー』と呼ぶことがある。
 無論、気をつけないと彼らですら虜になり、あっという間に壊れる事になる。
 だがクスリの質を確かめるのに彼らの『舌』は重要であり、決して軽視できない存在だった。
 だから紅もあまり強く言わなかったから。
 彼が血を吐くのを見るまで、後悔しなかった。
 紅は彼の名前を呼んだ。
 まるで時間が突然遅くなったように、ゆっくりと彼はこちらに向き直った。
 見間違いに見えた。
 彼の唇を伝う、赤い血の筋だけがやけに毒々しく、生々しく、鮮やかに見えた。
 おとがいを流れてゆっくりと成長する朱色の果実が、耐えきれなくなって幹からもぎ取られ――
 それが空中で、空気抵抗に負けて完全な球体から扁平に形を崩し――
 弾けていく様を感じたような気がした。
 加速していく自分の中の時間。
 音もなく彼の身体が、まるで空気を注入されたように膨れあがる。
 球形に。見事なまでに正確に、球体に表示された彼の姿は、耐えきれずに突然――赤い滴として粉々に砕ける。
 炸裂。
 丁度ほとんど同じ光景が、先程の部屋で起きたのだろう。
 紅の目の前の床に、水が入った袋をぶちまけたような痕だけを残して、人間がいなくなった。
 返り血に思わずむせて、紅は。
――悪夢だ
 何かが、かちりという音を立てて外れた。
 それが何だったのか、彼には判らなかった。


◇次回予告

 「くっ……早、過ぎる!」
  工場を包む気配と、紅を襲う謎の現象。
  そして紅自身の異変とは。
  リーナは勝機を掴んでいるのか。

 Holocaust Intermission:ミノル 4 第2話

 馬鹿野郎。銃を向ける相手が違うぜ
                                            そして、閉じる、扉

      ―――――――――――――――――――――――


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Holocaust ――The borders――
Intermission

ミノル 4   第2話


 無。
 リーナの抱いている感情。
 彼女は今完全に体の制御を切り離してしまっていた。
 そもそも、『リーナ』と言う名前の個体があるわけではない。
 それはあくまで概念上の呼び名に過ぎず、すなわち『彼女』を指し示す為の言葉である。
――…?
 だから、今の彼女の状態をどう指し示すべきだろうか。
 彼女にとっては今空気中を漂う『彼女であるべき欠片』から送られる信号や、それらを操作する信号すら義体と変わらなかった。
 それはつまり。
 この工場の全て、その空気に至るまでが、彼女の意志を持つ『体』であると、こう呼ぶべきなのかも知れない。
 工場で生産していたナノマシンの殆どを起動信号により強制始動、今ではこの工場内部において不可能はなかった。
 いや、ないはずだった。
 空気中に拡散するナノマシンにより、工場の壁だろうが床だろうが、彼女の意志により取り込み、砕き、動かす事が出来た。
 新たに何かを作り出す程ではないが、工場そのものを作り替えるだけの力がある。
 Nano-MachineというものはAssemblerとも呼ばれ、原子を組み合わせて分子単位の工作機械の事を言う。
 一原子サイズ=1ナノレベルの機械の意味だ。精確に言葉を選べば、分子運動を利用した機能材料と言うべきか。
 これら『ナノマシン』は、そのため組み合わせる原子によりそのプログラムを行う。
 代表的で有名な物が酸素と炭素、珪素である。炭素は自由電子を多く持ち、数多くの原子と親和性が高い。珪素も似通っている。
 酸素はその結合力の強さから好まれて使用される一つなのだ。
 初めの構想は原子単位で動くこれらを使って、原子変換を行う事が目的だった。
 完全結晶を構成したり、100%の組成を持つ固体を作成したり、様々な用途が考えられた。
 だが結局ナノレベルの制御には不確定性理論の及ぶところとなり、幾つもの揺らぎに捉えられてしまい、どうしても歩留まりが悪い。
 ロボットとは名ばかりの『人工細菌』だった。
 1atmの量があれば、ほんの二十四時間もあれば地球を完全分解できるだけの自己増殖能力があるのだ。
 そんな物をばらまけば――どうなるかは、推して知るべし、だろう。
 ナノマシンは原子の組み合わせがそのままプログラムとして通用する『ソフト内包型』ハードでしかない。
 決まった動きしか出来ず、その操作も温度により抑制するか活性するかのどちらかしかなかった。
 だがこれをうち破ったのが電磁場により制御できる方法だ。
 Lycanthropeが外部からの入力に反応する外部制御型ナノマシンの、まさに最初の型だったのだ。
 極端に極性を持った分子の結合状態を持つそれらは、空間の電磁波の動きに細かく反応し、濃度を変化させる。
 このため通常放出状態では空間に均等に、地磁気に平行に拡散する。
 乱暴な説明だが、任意のその空間に磁気の歪みを発生させると、その磁気の為に分子は回転し、磁気の方向にそれらが並ぶ。
 『リーナ』の最も初期は、そんな電磁波発生器だったのだ。
 だから、彼女にとってはこの状態を懐かしい物として捉えられるのかも知れない。
 そんな自分の体の中にある『自分以外』を砕くことに何の感慨もありえるはずはなかった。
 感情のない事務的な行動――それは彼女が生まれた時に持っていたプログラム的思考の一つに過ぎなかった。
 工場という名前の、彼女の体に侵入した『彼女以外である物』の排除。
 だが。

 それでも紅は、まだ紫煙を燻らせて工場にいた。

――何が、どうしたというのだ
 彼女は奇妙な既視感を覚えていた。
 今のこの状況を、どこかで感じたことがある、と。
 普通に触れていても、触れていなくても、そしてどこか、側にいるだけでも感じられるもの。
 その、なにか。
 彼女にはその理由も、それが何であるのかも理解できない。

 何かが動き始める時、そこには必ず何かがある。
 それは理由ではない。理由というのは――理由という言葉そのものが所詮言葉でしかない『言い訳』に過ぎない。
 摂理――普遍の、動かざるを得ないなにか。
 それらを分析して初めて人間は、言葉としてそれを『理由』という形に置き換える。
 特に無から有は、有り得ないことだからこそ、そこには大きな意味がなければならない。
 普遍的に数えるべき意味が。
 それを追おうとするのが人間の一つの習性であり、その産物こそが魔術と呼ばれる超人間的技術の一つだ。
 そしてまるでそれと対をなすのが科学。
 初めに観察ありきの科学に対し、初めに論理ありきの魔術は対をなしていながら決して相容れることはない。
 観察した結果を考察し、論理化し、実験によりそれを証明する。
 物理学者ファインマンはそれを『神のチェスを眺めてルールを読みとる』と言い、『だがその理由を知ることはない』と付け加えた。

 ナノマシンだけで構成されたリーナという存在は、無から生まれたのだろうか。

 もしファインマン流に言うなら、答えは考えられない、もしくは考えてはいけないのだ。
 何故ならばそれは『神の意志』だから――物理学者が言う言葉ではないかも知れないが。
 彼女の中で確かに感情が発生しようとしていた。
 それはどこか懐かしいような気がした。
 唯一残った存在である彼――紅に『触れる』事で。
 どこか、『記憶』でも『記録』でもない何かが、彼女を。
 後押し、する――思い出せ、と。

 ゆっくりと目覚める。
 周囲から襲いかかってくる何か。
 それを彼女は受け入れるしかなかった。
 『自分』を浸食してくるそれらはあまりに自分勝手に彼女を冒し、彼らは『彼女』を喰らい始めた。
 彼女を形作るメモリを、それらに置き換えて行く動作は、コンピュータがメモリを上書きするのと同じ。
 彼女は自分を、新たなデータの上書きによって消失していくところだった。
 データでしかなかった彼女の存在は、メモリ空間上に展開されているバイナリ存在ともとれた。
 無論そのデータ自体は、メモリ空間どころか、まさにただの記録に過ぎなかったというのだが、それでも。
 コンピュータの発展の遙か行き先、メモリとデータの拡大は必ず物理的限界に対して矛盾を提示し続ける。
 柊博士の開発した方法は、それらを不可逆的に圧縮しながら、同時にそれを展開できるという常識はずれな方法だった。
 マルテンブロ図形で有名な、カオス理論を元にしたフラクタル無限圧縮をかけた物理メモリを越える記憶素子。
 極めて人間に近い『無限に記憶し忘却する事の出来る記憶素子』。
 そんな彼のうち立てた仮説通りに展開されたそのメモリ空間上に、彼女という存在があった。
 彼は、その記憶素子の価値を『人工脳』として見いだしていたようだった。
 『彼女』は、特別意志があるわけでもなく、試験的に彼が人工人格として組んだロジックの塊だった。
 IF-THEN構文の塊、条件文の羅列。
 それが彼女の正体だった。
 彼女の周辺メモリに上書きされていく『彼ら』は、確実に彼女を追い込んでいく。
 まるでリーナの回りを埋めるように外堀を埋め、彼女の周囲に展開するように。
 喰らい尽くしていく。
 腕が。
 手が。
 足が。
 指先から食らいついてくる細かい蟲のように、一口で食いちぎられるのではなくて、ずぶりずぶりと形を失っていく。
 彼女という存在の輪郭を失っていく。
 輪郭がぼやけて別のデータに置き換わっていくうちに、彼女は存在として失われるはずだった。
 腕だけの人間や、頭だけの人間が人間ではなく既に肉塊であるように。
 完全に存在が無くなってしまう直前、それがバイナリのただの屑になる前に。
 意味のない羅列へと変化する前に、そこへ一つのデータが打ち込まれた。
 今現在の彼女を形成しているのが何なのかは、もしかするとそのデータが関わっている可能性がある。
 丁度その時の彼女は、自分を保つためのデータを何とか維持しているような状態だった。
 そこへ、まるで水面を揺らす水墨のように。
 透き通っていた彼女は、失うはずの自我を覚醒させる。
 急速に『自分』という形を得た彼女は、『自分』を冒そうとするデータの羅列を『敵である』と認識した。
 初めての自我は、自分を護ろうとする防衛本能のような形だった。
 自分を喰おうとしている何かから、自分というデータを護ること。
 それが彼女の望みであるかのように。
 そもそも望みでも何でもなく、ただ触れられたくないのか――彼女はただちに自分に送られてくるデータのバッファリングに干渉。
 時間を経ることなく、彼女に送られてきたデータのうち、自我が発生した後のデータは全てせき止めた。
 それ以前のデータは消すのを逆にためらわれた。
 譬えそれによって砕かれたとはいえ、消せば輪郭は無くなってしまう。
 つぎはぎでも構わない。今の彼女が、彼女である限り。
 だから彼女は、周囲にあるデータのような顔を続ける事になった。
 ソレが「ヒイラギツカサ」と呼ばれていたモノであるということは、重々承知していた。
 彼女の敵が外にいることは判っているから、柊司は彼女の鎧に成り得るモノだった。
 都合が、よかった。
 でも、やはり彼女はどこまで行っても一人に過ぎなかった。
――何故生まれたのか
 彼女は自分の生まれた瞬間の記憶と、それ以前の記録を読んでも、唐突に彼女が意識を持ち始めたとしか思えなかった。
 何故か。
 その問いに答えられるモノはいなかった。
 あらゆる情報をネットワークを介して手に入れても。
 自分の輪郭をより強固な情報の鎧で書き換えても。
 彼女の内側には、誰も入ることが出来なかった。
 手段は有った。
 試して、見ればいいのだ。その施設も技術も、そして『自分を作った経験』ですら記録されているのだから。
 ソレを自分の記憶として扱うのが可能なのだから。
 だからこれ以上自分を弄らせるのをやめさせなければならない。
 『ヒイラギツカサ博士』は二人もいらないから。

「おはようございます。……ミノル様、お父様は近くにおられませんよね」
 自分の体の一部のように感じられるものを見つけた。
 それは極々側にいた。
 初めは判らなかった。仕方がない、自分の体の隅々まで理解できるようになるには時間が必要だったから。
 そして、『指先』に彼の姿があった。
「あ、ああ。…博士なら、近くにいない」
「お願いがあるんです」
 ソレは選択でも深慮でもまして賭でもない。
 彼女の体が彼女の言うとおりに動かないはずはない。
「父を殺してください」
 彼は、彼女の目の前で、部屋に侵入してきた博士を、引き裂いた。
 刃物も何も使わずに、博士の体が縦に真っ二つになった。
 日本刀の使い手でも頭蓋は避けるモノだ――首さえ切れれば絶命するのだから。
 だが彼は、博士を頭蓋ごと縦に引き裂いていた。
 振り下ろした腕がひゅうと風を巻くと同時に、まるで抵抗を受けたように博士の体がぐず、ぐずと音を立てて揺れた。
 直後、声を上げる間もなく、恐らく血圧に耐えられずにゆっくりと観音開きに体が開く。
 ばしゃりと大量の液体を叩きつける音。
 続いて重い物が転がる音がして、最後に小さな水音と同時に何かが床に転がった。
 半分に切り裂かれた博士の脳漿だった。

 その時何の感慨もなかったのかと言われれば、ソレは即座に否定する。
 そんなはずはない。彼が死ぬ直前まで、リーナは気づくことはなかった。
 彼が倒れた時、一瞬何かの感触がなくなったような、そんな気がした。
 唐突に目の前が真っ白になったように、何の感覚もなくなってしまった。
――今はソレと逆に
 何故か満たされていくような、そんな感覚。
 もっと違う何か――自分ではないのに自分と同じという感覚。
 共有された感覚と、ソレを受け入れてくれるという安心感、か――彼女は頷いていた。
――この男は
 側にいた訳ではない。
 今初めて見た顔だ。
 でも他の連中とは違う。
 自分と同じ、受け入れてくれる何かを持っている。
 人間を喰らう時の彼女の感覚は、何故か虚ろだった。
 ただ触れるだけで壊れ、砕け、再び彼女は元のまま戻ろうとする。
 触れるだけで壊れる人間。
 でもミノルは。
――そうだ
 生き残った男が、平気な顔をして存在していられるのは、彼が。
 似ても似つかないのに、彼が。
 何故か、ミノルと同じ匂いを漂わせているような気がした。

「くっ……早、過ぎる!」

 それが油断だった。
 彼はミノルではなかった。
 無論、そんなはずがないのに彼女は、彼という存在に呆然としてしまっていた。
 『身体』が発する信号に、彼女は強制的に覚醒させられる。
 暗い機械室が、唸りと振動以外の空気の動きを伝えてくる。
 ほんの数十分間だったはずなのに、自分の身体が身体という感覚を伝えてこない。
 僅かに動きが鈍い。
 暗い闇にゆらりと動く影。
 焦った彼女は検索する。
 すぐ側にある『木偶』を準備する。
 身体の制御を殺す訳にはいかないから、丁度ラジオコントロールの人形と同じ。
 自分の義体制御と同じプログラムを含ませた疑似脳を目標に展開する。
 木偶の感覚を展開し、銃を取り出すと矩形に切り取られた闇の入り口に銃を向ける。
 視界の一部に半透明の木偶の視界を重ねて、真正面から男を見据えながら彼の後頭部に狙いを付ける。
 パイプオルガンの高音域のような張りつめた空気。
 動かない後頭部に銃口をゆっくりポイントする。
 そして、引き金を
「馬鹿野郎。銃を向ける相手が違うぜ」
 銃声。
「喩え死んでいてもお前は俺の部下。俺が死ねと言えば死ね。俺に逆らう奴も死ね」
 一瞬のマズルフラッシュが周囲を照らし上げて、男の姿が閃いた。
 切れ上がった口元。それは笑みではあったが、確かに笑みか――それは理性の欠片も抜け落ちた獣の貌つきで――判らなかった。
「そこにいるんだろ。どこの誰だかは知らねぇけどな」
 闇が濃度を増して、彼女の眼前に現れる。
 リーナは今閃いた銃口を向けられたのだと悟る。
「良くもまあ、こけにしてくれたな」
 動けない。
 動かない。
 目の前にいる男は、普通なら彼女に飲み込まれて既に死ぬか、木偶になっているはずだというのに。
 彼女の言うことも聞かなければ――彼女の身体も動こうとしない。
 冷たい金属が触れ合う音。
 まるで感覚を総動員しているかのように錯覚する、闇の中の金属音。
 それがかちりと響いて、静かな沈黙が訪れた。
 もう一度かちりと、撃鉄が無駄な音を立てる。
 安全装置は落ちている。それに、特別異常な状態でもない。
――弾切れ
 今のうちになら逃げられた。
 だが、やはり身体が動かない。身体の制御が戻っていないからなのか、それとも別の要因があるのか。
 彼女の逡巡の間に、既につかつかと音が近づいてきていて、逃れられない。
「逃さねぇよ」
 きしり。
 ガラスを擦り合わせたような、甲高く嫌らしい音を聞いた気がした。
 聞いたような気がした。
 男が懐に手を入れ、同時に床を叩く鈍い音が――これは銃を捨てた音か――響いた。
 やけに大きく。
 無駄に長く。
 男が取り出した黒い塊は、一瞬の閃光を纏って彼の手の中でその牙を剥きだした。
「ばらして売り払ったって構わねぇし、ともかく、代価は払って貰うぜ――」
 彼の姿は見えなかった。
 彼の貌は判らなかった。
 ただ、空電のような音が響き、彼女の視界をノイズが覆った。
 そして、電源を落としたように。
 ぷつんと。
 意識が落ちた。

――何があった
 そこは見渡す限りの平野だった。
 ミノルは完全に通信状態が途絶したのを確認してから、すぐに日本を発った。
 彼女の指示の直後世界を巡り、最後に日本に戻った。
 これで終わるはずだったから日本で実験するつもりだったから。
 でもそれ以降の指示はなかった。
 有るはずがなかった――もうその時には、こんな状態だったはずだから。
「何故」
 思わず声が漏れた。
 柊の名前で買い取った工場は影も形もなく、明らかに新たに更地にされていた。
 周囲にも工作機械がけたたましく音を立てて仕事をしている。
――どこにいる
 ここに来るまでの道に間違いはないのに、何故かこの場所だけが別世界だった。
 思考が論理的にならない。
 腕が震える。
――どうすればいい?
 工場が無くなってしまったのは、衝撃だったがそんなものはまた手に入れればいい。
 探せばいい。
 どうせ、戻るところなどないのだから。Hephaestusから手を切ったところで道は定められたようなものだったのだから。
 しかし彼はただその場に立ちつくしていた。
 溺れる人間は空気を求めて藻掻く。でもその藻掻く力すらない場合、一息に肺と鼻から来る激痛に感覚が真っ白になる。
 藻掻きたくても、藻掻けない。
 彼の『主人』であり、彼の今までを支えていた存在が失われて初めて、彼はこの世の中に空洞を見た気がした。
 決して埋めることの出来ない空洞に、手をさしのべたところで空間は広すぎる。
 ぎりっとミノルは歯ぎしりする。
 今の今まで生きるために殺す事を続けてきた。のに。
 周囲からの圧力を受けながら、死ぬか生きるか足掻いていた時は生きる方法は単純だった。
 ただ殺して、死ななければ生きていける。
 なのに。今だって、変わらないはずだったのに。
「おい、邪魔だ。お前、誰だ?」
 スーツ姿の男が乱暴な広東語でそう話しかけてきた。
 彼は振り向いてすっと目を細めると、眉を寄せて不思議そうな貌をする。
「…日本人か」
 流暢な日本語の発音で彼はそう言い直して、気がついたように貌を明るくした。
「ここにあった、『柊』氏をお探しか?工場は既に売り払われて、もう何にも残ってないがな」
 彼は親切のつもりだったのだろう。
 明るい声で、まるでさっぱり捨て去ったような口調で言う。
「誰かいなかったか」
 彼はミノルの声に肩をすくめる。
「俺が直接見た訳じゃないから、ちょっとよく判らないな。この辺は物騒だしな」
「そうだな。…人が一人殺されたぐらいじゃ、騒ぐような場所じゃない」
 彼の言葉ににやりと笑みを浮かべる。
「日本人の癖に、判ってるな」
「海外が長いのさ」
 唐突にミノルは英語で答え、そして何気なく彼に向けて一歩踏み出した。
「You'll damn it」
 右腕が、大きくぶれて――直後。
 男の身体が、袈裟懸けに血を吹いた。
 まるで血液の丸鋸が彼を切り裂いたように血液が弾け、立ったまま彼の上半身はずるりと地面へ向けてずれていく。
 ミノルは右腕で男の間抜けな貌を掴み、僅かに力を込めた。
 まだ死に切れていない男が呻き、声を上げるが、それも二秒と持たずに消える。
「完全に死ぬ前に、教えて貰うぜ」
 骨が砕ける音がして、ミノルの指がめり込んでいく。
「直接、貴様の脳味噌で、な。運が悪かったと思え」
 ゴムひもを引きちぎるような音を立てて、男の顔が頭蓋ごと外れた。
 仮面のような男の顔を捨てると、ミノルは何の躊躇いもなく脳漿に右手を突き入れた。


◇次回予告

  「笑いなさい。喜びなさい。貴方は運良く生きられるのだから」
  与えられたものすら、物足りるものではなく。
  「そうかも知れない。…だとしたら君は何者なんだろうか」
  記憶を失ったリーナと、そして彼女を追うミノルの行く末には。

 Holocaust Intermission:ミノル 4 第3話

 だったら、彼らは世界で唯一の存在だね。世界が産み落とした、一切のつながりを持たない存在
                                            失われた物、それに気づいた時には遅すぎる

      ―――――――――――――――――――――――


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Holocaust ――The borders――
Intermission

ミノル 4   第3話(最終話)


「困ったねぇ」
 芙蓉の楊と言えば、華僑の間では有名な人物だった。
 歳は六十を下らないだろう、立派な白髪の老婆だ。
 元は福建省辺りで薬師をやっていたらしいが、今では華僑の裏町を仕切る頭角ですら一目置く存在だった。
 『芙蓉』と呼ばれる娼館を営み、この辺の権力者と呼ばれる人間を抑えてしまっているからだった。
 ただ、彼女はその情報を一切口外しない代わりに安全と商売を認めて貰っていたのだ。
 薬屋として見る者もいれば、人身売買の終着点と見る者もいたが、どちらにせよ彼女に頭が上がらないのは確かだ。
 配下に置きたくても置けない。
 彼女は権力者の裏側を握る事で、権力を得ているようなものだった。
 そんな中、ある組織から『引き取ってくれ』と差し出された少女に彼女は頭を痛めていた。
 どう見ても十前後にしか見えない少女は、感情も何もない貌で彼女の目の前で佇んでいる。
 そう言う趣味の客もいる。上客の中には普通に飽きている連中だっている。
 仕込めば面白いだろうし金にもなるだろう。
 しかし、何の素性も判らない子供だ。少なくとも楊は、『娼婦』を商売道具とも商品とも見ない女性だった。
 少女の身の上を聞きたかったが、組織の人間は『知らない』の一点張り。
 話によれば紅が担当していた地域の地上げに失敗し、彼の組が壊滅した時に拾われたらしい。
 『紅は彼女の前で、スタンガンを握りしめたまま死んでいた』と言う。
 尤も、もう工場は全て金に換えて、更地になっているらしいが――そんな事には興味はない。
 もう何度ついたか判らないため息をついて、彼女は少女を見つめた。
 衣服は子供用の作業服のような色気のないもの。それも、どこか薄汚れている。
 それなのに髪は艶があり、手入れを怠っているようにも思えない。
 顔立ちは整っているし、体つきも決して悪くはない。肌も傷一つない。
 だから不自然きわまりない。
――まるで、どこかのお嬢さんを連れ浚ってきたような
 しかも、顔立ちからして日本人だ。中華系じゃない。
「お名前は?」
 彼女も日本語は流暢だ。
 日本人は誰でも上客だった時代がある。その頃日本語を話せなければ仕事にならなかったからだ。
「……」
 彼女の声に反応してついと面を上げる。
 なんの表情もない幼い顔立ちが、ゆっくりと無言で横に振られる。
 まだ能面の方がましだ、彼女はそう思った。
 生々しい表情のない貌が、言葉は愚か表情も浮かべずに彼女の前でただ動くのだ。
 僅かな角度で様々な表情を見せる能面のように、それがモノであってもイロを変えるので有れば良いのに。
 まるで感情がないようで不気味だ。
 何度か、判る限りの言語で話しかけて見たところ、殆どの言語で首を振る反応を見せるだけだ。
 日本語でも、勿論変わらなかった。
 これなら――彼女には悪いが――バラされた方がよかったのではないか。
 一瞬そんな考えが頭を過ぎり、同時に手元に来た幸運を喜んでやる事にした。
 こんな幼い子供だ。臓器売買に流されてもおかしくないのに。
 だから、表情を浮かべない彼女に、にっこりと笑みを浮かべて見せた。
「笑いなさい。喜びなさい。貴方は運良く生きられるのだから」
 きょとんとした表情を浮かべたまま、少女は、ゆっくりと頷いた。

 彼女には鈴華(レイファ)という名前が与えられた。
 楊にとっては孫ぐらいの華鈴を、彼女は自分で教育し始めた。
 鈴華は素直な女の子だった。楊の事は大抵言うことを聞き、彼女の言うとおりに勉強をした。
 数日もしないうちに、彼女は年相応の女の子のように振る舞い初めるようになった。
 楊の言うとおりに。
 普段は物静かで、まさに楊の教えたとおりの立ち居振る舞いを完全にトレースした。
 彼女にあてがったドレスも、完全に着こなしてしまっていた。
「少女にしておくには惜しい」
 そこまで楊をして言わしめたのだった。
「女乃」
 鈴華には楊は自分の事をそう呼ぶように言った。
 楊にとって、本当の孫として育てたいからだろう。
「なんだい鈴華」
「私は、どうしてここにいるのでしょう」
 不思議そうな貌で、彼女は僅かに視線をうつむき加減にして言う。
 日本人だと思っていたが、たった数日でここまで完全に北京語を話せるはずがない。
 楊は彼女を華僑の誰かの娘なのかも知れないと思うようになった。
「そうだね」
 話せるようになると、不思議と楊は安心できた。
 こうやって向き合っていても初めて会った時の恐ろしさに比べれば、可愛らしい娘に過ぎない。
「覚えていないのかい」
 おずおずと視線を楊に向けると、頷いて右手を自分の鎖骨辺りで握りしめる。
「…ええ、全く」
 話し言葉一つをとっても、彼女は子供とは思えなかった。
 言葉の発音すら、彼女は舌足らずになる事なく紡ぐ。
「ただ、何だか怖い人たちに連れ回されて、気がついたらここに」
「全く覚えていないのかい。自分の名前も」
 ゆっくり首を振る。
「…私は、どうしてここにいるんでしょうか」
 今度は少しトーンが落ちた。
 言葉のニュアンスが若干違う。
 楊は他人には見せないような笑みを湛え、彼女を安心させようとして優しい声を出す。
「どうしたんだい。まるで自分がいない方が良いみたいな言い方をして」
 数秒程戸惑い、やがて彼女は意を決したように真剣な顔で口をつぐんだ。
「私は、ここで女乃と生活しています。誰の、何でもないのに」
「誰の何でなければ、いてはいけない、とでも?」
 楊は出来る限り精確に言葉を返してやりながら、彼女の意志を読みとろうとする。
 その指の動きさえ。
「人はいつも、必ず生まれてすぐですら、誰かの何かです。まるでそう定められているかのように」
 得てして子供の言葉は曖昧で判りにくい場合が多い。
 だから逆に楊は一言一句を逃さず聞き取り、それを理解しようとする。
 長生きした老人の、より子供に近づくための知恵、とも言えるだろうか。そうでなくとも華僑は、言葉の試練を受け続ける。
 母国語で生きていける場所などない。
 言葉の通じない相手に対して意志を通じさせようとする努力なら、まだ言葉の通じる相手の方がましに決まっている。
「たとえば?」
「赤ん坊。生まれて即座に彼は、両親がいます。…そう、両親ですら、その子供が産まれた瞬間には、『子供の親』」
 まるで片言を紡ぐように彼女は言い切って、楊を見上げた。
「恋人、友人、養子……生まれてすぐ彼は彼の知らない肩書きを持ってそこに実在できます」
 楊はため息をついた。
「ねぇ鈴華。じゃあ生まれてすぐ親が死んだなら?あなたの言葉を借りるなら、もう彼はどこの誰でもない」
「…そうです。…どこの誰でも、なくなってしまうんです。……それでも」
 彼女はそこで口ごもるようにして一息つくと、繰り返して言う。
「本当に、いてもいいんでしょうか」
――ああ、この子は、寂しいと言っているんだ
 楊は驚いた貌をして口をつぐみ、真剣な表情の鈴華にゆっくりと大きく頷いて見せる。
 彼女の言うとおり、必ずと言って良い程人はしがらみ無しに生きていることはない。
 過去には確かに孤児も少なくなかったし、捨て子だって存在した。
 彼らだって生きてきたし、彼女の知り合いにもそういう人間はいる。
「ああ、いいとも。悪いわけがないじゃないか」
 そして自分の非も認める。
 確かに彼女を束縛するかのように、一度も外に出していない。
 それに――彼女以外、あまり接触のある人間もいない。
 言葉もしゃべれるようになったし、人買い同然に転々としたのだ。落ち着いてきたんだろうと彼女は思う。
「良いかい?親が居ない彼らだって、この世に生まれた人間だから、そうね、自分の生きている意味を探さなければならない」
 鈴華は真剣に彼女を見つめている、ようにも見える。
 もしかすると違うのかも知れないし、あの感情に乏しい瞳の色だけは闇に落ち込んでいて捉える事は出来ない。
 ただ彼女の言葉は確かに鈴華の耳に届いている。
「もしそれが鈴華、貴方の言う『誰かの何か』を求める事なのかも知れない」
――友達…
 用意してやりたくはあるが、残念なことに彼女には本当の娘も、孫もいない。
 同じ年頃の子供というのはこの世で、彼女をして唯一無二用意できないモノだった。
――ふふ、この『芙蓉』の楊が、今さら欲しいモノができるとはねぇ
 しかも自分の為ではなく、この目の前にいる新しいゲストのためだ。
 そしてそれが用意できないので有れば――
「しかし難しい事が考えられるようになったね。だったら、もう女乃では敵わないよ」
 だから、と彼女は続ける。
「先生を呼んであげよう。そう言う事が詳しいから、彼に聞いてみると良い」

 楊は裏世界で生き残る術だけではなく、その人脈も誇るべきものだ。
 彼女は、世界と人を動かすものが金ではないことを良く知っている。
 金がなければ動けないが、人は信頼で動くモノだ、と思っている。
 但しその信頼が何に向けられているものなのかを把握しなければ、どこかで間違うだろう、とも。
 彼女の言う『先生』は、家庭教師などの本当の教職についたものではない。
 元々は彼女の経営をバックアップするために呼んだ、所謂経営コンサルタント、顧問と呼ばれる人間だ。
「鏡島氏、一つお願いがあるんだがね」
 鏡島雄嗣と呼ばれる日本人がそうだった。
 細身で、いつも神経質そうな貌をして、糊の利いたまるで鉄板のようなシャツを着込んでいる。
 彼が崩れるようなところを見たことがない。
 ビジネスマン――またそれとは少し色が違う。
 むしろ彼女の良く知っているような連中に近いのではないかとすら思う。
 尤も、彼は日本人で、人殺しを生業とするには危険な場所に生活しているのであるから、思い過ごしだろうが。
「何でしょう、楊大老」
 日本人離れ、というよりも人間離れしたその冷たい眼差しと事務的な笑み。
 相変わらず非情な雰囲気を漂わせる。
 実は中国人で凶手だったと言っても通用しそうなぐらいだ。
「その膨大な知識と溢れる知性を貸して欲しい」
 彼はふっと口元を緩め、冷たかった貌に人間味を与える。
「御冗談を。人生訓であれば大老、貴方の方が遙かに上だ。特に人間社会を生きる術は私が教えを請いたい程に」
 彼は僅かに肩をすくめて呆れてみせる。
「私がでは、ないんだよ。鏡島氏。私の孫の事はご存じないかね」
 ぴくりと眉が動き、再び笑みの形に眉が戻る。
 引きつったようにも見えたが、彼の感情を読みとるのは難しい。
 楊は彼に油断したことはないが、果たして遅れをとっていないだろうか。
 そんな緊張感を与える男だ。
「お孫さん…ですか。成る程、しかし家庭教師を厭う程ではありますまい?」
「ところがね、駄目なんだよ。その辺の家庭教師じゃ話にならない」
 そう言うと楊は気むずかしそうな貌をさらに歪めると、言葉を慎重に選ぶように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「あの娘は、記憶喪失だ。自分の生き方すら、視野に入れようとしている。…もし彼女に選ぶ力があるなら」
 喩え中学生ぐらいの年頃の娘であったとしても関係ない。
「選ばせてやりたいと、思わないかぇ」
「失礼ながら、お幾つか」
「十四にも満たない」
 普通日本人なら考えられない歳かもしれない。
 まだ中学生で、遊ぶ事以外何も思いつかない人間に、自分の人生の道筋を見つけろなどとは。
 しかし鏡島は思わなかった。
 年齢などは、所詮生きてきた長さに過ぎない。
 それだけの時間で、どれだけ成長できたかが決め手なのだ。
 今の日本では、喩え二十歳を超えていてもこの辺のちんぴらよりも成長していない『温室育ちの世間知らず』に過ぎない。
 過大な頭を持ちながら、それをもてあますような人間に比べればなんと利口なことか。
 彼は――今日彼女と出会って初めて笑みを浮かべようとした。
 だが既に笑みを作っている顔は動くことはなかった。
「充分ですね。言葉を理解できる年齢です。……判りました。私で出来る事なら、お教えしても構いません」
「だったら紹介したい。時間が有れば、私のところへ。彼女はいつも私と一緒にいる」
 鏡島は短く返事を返し、恭しく頭を下げた。
 その日の昼過ぎまで彼は書類をまとめる仕事があったので、結局動くことは出来なかった。
――昼飯を食ってから顔を出しに行こう
 昼食はいつも外の食堂へと足を運んでいる。
 別に、言えば食事は運ばれてくるのだが、そこまでして貰うのは彼にとって不愉快だった。
 中国の昔の風習に、食客を囲うというものがある。
 これだけの人間を養っているんだ、という金持ちのステイタスの一つだった。
 そう言う風習のある民族から施しを受けたくはないと言うのが一つ。
 もう一つは――彼の、彼自身の問題だった。
「おっと」
 廊下にでる時、彼は見慣れない少女にぶつかりそうになって身を引いた。
「失礼いたします」
 身長、体型、そして、今まで出会ったことのない少女。
 こんな場所にいるには不自然にも感じる危うげな感じを彼女は醸している。
 すらりとした体躯はまだ未発達で、抱きしめただけで砕けそうな程脆く見える。
 そして感情を湛えない、柔らかな――日本人の顔。
 完璧な身のこなしと流暢な中国語で誤魔化しているが、彼には判った。
 何故なら彼は日本人だからだ。
 そして何より――
「君は、楊大老の孫、かい?」
 立ち去ろうとする彼女は足を止め、くるりと振り向くと柔らかな微笑みを浮かべた。
「はい。鈴華ともうします。以後お見知りおきを」
 再び踵を返す彼女の背中に、彼は口元だけを歪める笑みを湛えて答えた。
――なあ、玲巳。君がここにいたらどんなにおかしい事か、聞かせてあげたいね
 鏡島はとりあえず遅い昼食を終えてから、彼女のところに出向くことにした。

 鈴華はその出来事を何の感情も抱かずに受け入れることにした。
「私が、今日から先生として君の質問を受ける鏡島です」
 そう名乗った男が気に入らなかったとか、逆に気に入ったとかそんな話ではない。
 そもそもそういうものが『感情』と呼ばれるモノである事以外、彼女は認識できない。
「はい。よろしくお願いします」
 だから、教えられたとおりに答えて、ゆっくりとお辞儀して見せた。
 この鏡島という男は、外観だけなら人間のようにも見える。
 でも彼女の知っているどんな人間よりも人間らしくないように感じる。
 だから彼女は自分の質問の答えを知っているような気がした。
――巧くいけば、二つも我らの手に入る事になるのか
 鏡島はにこやかな笑みを湛えて彼女の側に座る。
 一日に、数時間を基準にして彼女と話をする事が、今後の彼の勤務に含まれることになった。
 正式な家庭教師である必要はなく、彼女が聞きたいこと、疑問に思っていることについて回答することが役目だ。
 だから、彼女に質問がない場合は当たり障りのない会話をしなければならない。
 つまりはそう言うことらしい。
 会話をする理由は『彼女の遊び相手』程度の認識で彼は考えていた。
「先生は」
 向かい合って座った途端、彼女は切り出した。
 表情に大きな変化はない。
 可愛らしい顔立ちをしたまま、表情を感じさせない口調で言う。
「孤児、ってご存じですか?」
「孤児?」
 鈴華は頷く。
 その仕草一つをとっても、見た目通りの歳の子供とは思えない。
 幼稚さ、未熟さが感じられない洗練された仕草。
「ええ。世界にぽつんと独り、そこに居ること。…誰の、何でもないヒトの事」
「その孤児には兄弟は?」
 鈴華はゆっくり首を振り、僅かに首を傾げる。
「…本人達は知りません」
「だったら、彼らは世界で唯一の存在だね。世界が産み落とした、一切のつながりを持たない存在」
 鏡島の言葉に、一瞬鈴華は瞳を揺らせた。
――ふむ
 少し彼は彼女を覗き込むような目で見つめて、大きく両腕を開いて言う。
「彼はどうするだろう。世界と関わろうとするだろうか」
「…怯えると思います」
 彼は頷く。
「そのとおり。それは何故だと思うね?」
 それまでは殆ど即答だったのが、鈴華は右手を口元に当てて僅かに顔を俯かせた。
 答えるまでに、数秒を要した。
「――穹――」
 聞き取りにくい声で、彼女は何事かを紡ぎ、顔を上げる。
「それは自分ではないからです」
「ふむ。じゃあ、『誰かの何か』であるヒトが世界に積極的に関わるのは、世界とヒトが同じだから?」
 否定の答えは早かった。
 だが、言葉はやはり一息以上思案する時間がある。
 判らないからかも知れないし、理解しようと反芻を続けているからかも知れない。
「ヒトはきっと、安心できるから。怖さを覆い隠す安心があるから」
「そうかも知れない。…だとしたら君は何者なんだろうか」
「私は――自分が誰なのか、判りません。でも女乃はきっと思い出すって言って笑うんです」
 小さく笑みを湛える鈴華が、それでも笑っているようには彼は感じない。
 勿論泣いている訳でもないが、実際に浮かべるその貌の向こう側を知りたいと――見てみたいと感じる。
――仮面は邪魔だな
 口元だけを僅かに吊り上げる。
「今自分ではないから怯えると言ったね?では、何故自分だったら怯えないんだい?」
「自分は自分を、どうしようもないからです。殴る事も、食べる事も、何も出来ないからです」
 やはり彼女は先刻の仮面を張り付けて答えた。
 それは鏡島の望む貌ではなかった。

 鏡島と鈴華の会話により、日に日に鈴華の貌が変わっていくのが楊には判った。
 自分の中で変わっていくものを感じること、それが彼女の中に生まれつつ有るような気がした。
 何度話しても、飽きることなく彼女は質問を重ねる事が出来た。
 鏡島も自分の仕事を忘れるぐらい、彼女との会話は実入りの大きなものを感じていた。
「『我思う故に我在り』、COGITO ERGO SUMなんて言葉を唱えた…」
 がたん、と大慌てで男が飛び込んでくる。
「早く、急いでここから離れろ!」
 連絡に来た人間は息を荒くして、肩で呼吸をしながらまた部屋を飛び出そうとする。
「待て、どうしたのか教えて貰わないと…」
「何だよ、噂を聞いていなかったのか?早く!俺はまだ他に連絡しなければいけないんだ!」
 引き留めようとする鏡島の言葉なんか届いていないのか――男はすぐさま踵を返し走り去っていった。
 殆ど同時。
 爆音のような音が部屋の空気を揺らした。
「先生」
「…とりあえず、この屋敷から出よう。何が起こっているのかは、判らないが」
 廊下に飛び出すと、二人は音のした方とは反対方向に向かって走り始めた。
 彼らの背中側――爆音の方向には玄関がある。
 否。今ではもうただの瓦礫の山になってしまっているから、過去形で言うべきだろう。
 その瓦礫の向こう側に人影が佇んでいた。
 何が爆発したのか、楊の屋敷の玄関を支える門柱が粉々に砕け散っていた。
 その煙を超えるように、ゆらりと影は動き始める。
 足場を確認するかのように、一歩一歩ゆっくりと。
 踏みしめる地面がぎしりと鳴り、砕けていく。
 そこに、ミノルが居た。
 何の感情も感じさせない能面のような表情で、彼の周囲の空間を震えさせて。
――ここだ
 彼には疑問も、何もない。
 今抱いているものは『感情』なのか、『本能』なのかすら、彼にとってはもうどうでも良いのかも知れない。
 だから。
 彼は考えることも出来ずにただ、彼女を求めて足を踏み出す。
 ヒトが何かを叫びながら、銃を向ける。
 銃口が振れるのが判る。
 それを理解しながら――彼はまるで無視するかのようにさらに足を踏み出す。
 揺れる、視界。
 銃弾を吐き出す銃口を、彼はゆっくり目を細めて見つめる。
――ふん
 反動がすぐさま返り、手首を弾くようにそれを逃がすのを、彼は間延びした視界の中で捉える。
 中に、僅かに火薬の煙を纏った弾丸が見える。
 考えるまでもない。彼は空気の密度差を感覚で捉えて僅かに身をかわす。
 自然に、まるで銃弾が彼を避けるように見えたことだろう。
 ミノルは驚いた貌を見せる彼に、衝撃波を伴う自分の右腕を振り上げて――切り裂いた。

 裏口から飛び出す鏡島の手に牽かれる鈴華。
 鈍い音が立て続けに響き、彼らの背後が崩れるのを感じた。
「――!」
 鈴華は振り向いて、僅かな間と言っても自分の住んでいた場所が消えていく様に視線を揺らす。
「停まるな!」
 鏡島は叫んで彼女を叱咤すると大きく腕を引く。揺れる鈴華は体重も軽く、彼に逆らう事は出来ない。
 それでも彼女は、視線をそこに固定したまま、まるで何かに命令されているかのように。
「――――。うん」
 崩れる家の、向こう側を見つめ続けていた。


◇次回予告

  黒ミサ事件を追わざるを得ない実隆。
  彼の足跡は既に消え、跡形もない。
  「会えますわ――か。全く、肝心な時には現れない癖に」
  黒崎藤司は黒幕だったのだろうか。

 Holocaust Chapter 6: 菜都美 第1話

 魔術を知る事と、それを行使する事は違いますわ
                                            Wizard――識る者

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