Holocaust ――The borders――
Intermissionミノル 4 第3話(最終話)
「困ったねぇ」
芙蓉の楊と言えば、華僑の間では有名な人物だった。
歳は六十を下らないだろう、立派な白髪の老婆だ。
元は福建省辺りで薬師をやっていたらしいが、今では華僑の裏町を仕切る頭角ですら一目置く存在だった。
『芙蓉』と呼ばれる娼館を営み、この辺の権力者と呼ばれる人間を抑えてしまっているからだった。
ただ、彼女はその情報を一切口外しない代わりに安全と商売を認めて貰っていたのだ。
薬屋として見る者もいれば、人身売買の終着点と見る者もいたが、どちらにせよ彼女に頭が上がらないのは確かだ。
配下に置きたくても置けない。
彼女は権力者の裏側を握る事で、権力を得ているようなものだった。
そんな中、ある組織から『引き取ってくれ』と差し出された少女に彼女は頭を痛めていた。
どう見ても十前後にしか見えない少女は、感情も何もない貌で彼女の目の前で佇んでいる。
そう言う趣味の客もいる。上客の中には普通に飽きている連中だっている。
仕込めば面白いだろうし金にもなるだろう。
しかし、何の素性も判らない子供だ。少なくとも楊は、『娼婦』を商売道具とも商品とも見ない女性だった。
少女の身の上を聞きたかったが、組織の人間は『知らない』の一点張り。
話によれば紅が担当していた地域の地上げに失敗し、彼の組が壊滅した時に拾われたらしい。
『紅は彼女の前で、スタンガンを握りしめたまま死んでいた』と言う。
尤も、もう工場は全て金に換えて、更地になっているらしいが――そんな事には興味はない。
もう何度ついたか判らないため息をついて、彼女は少女を見つめた。
衣服は子供用の作業服のような色気のないもの。それも、どこか薄汚れている。
それなのに髪は艶があり、手入れを怠っているようにも思えない。
顔立ちは整っているし、体つきも決して悪くはない。肌も傷一つない。
だから不自然きわまりない。
――まるで、どこかのお嬢さんを連れ浚ってきたような
しかも、顔立ちからして日本人だ。中華系じゃない。
「お名前は?」
彼女も日本語は流暢だ。
日本人は誰でも上客だった時代がある。その頃日本語を話せなければ仕事にならなかったからだ。
「……」
彼女の声に反応してついと面を上げる。
なんの表情もない幼い顔立ちが、ゆっくりと無言で横に振られる。
まだ能面の方がましだ、彼女はそう思った。
生々しい表情のない貌が、言葉は愚か表情も浮かべずに彼女の前でただ動くのだ。
僅かな角度で様々な表情を見せる能面のように、それがモノであってもイロを変えるので有れば良いのに。
まるで感情がないようで不気味だ。
何度か、判る限りの言語で話しかけて見たところ、殆どの言語で首を振る反応を見せるだけだ。
日本語でも、勿論変わらなかった。
これなら――彼女には悪いが――バラされた方がよかったのではないか。
一瞬そんな考えが頭を過ぎり、同時に手元に来た幸運を喜んでやる事にした。
こんな幼い子供だ。臓器売買に流されてもおかしくないのに。
だから、表情を浮かべない彼女に、にっこりと笑みを浮かべて見せた。
「笑いなさい。喜びなさい。貴方は運良く生きられるのだから」
きょとんとした表情を浮かべたまま、少女は、ゆっくりと頷いた。
彼女には鈴華(レイファ)という名前が与えられた。
楊にとっては孫ぐらいの華鈴を、彼女は自分で教育し始めた。
鈴華は素直な女の子だった。楊の事は大抵言うことを聞き、彼女の言うとおりに勉強をした。
数日もしないうちに、彼女は年相応の女の子のように振る舞い初めるようになった。
楊の言うとおりに。
普段は物静かで、まさに楊の教えたとおりの立ち居振る舞いを完全にトレースした。
彼女にあてがったドレスも、完全に着こなしてしまっていた。
「少女にしておくには惜しい」
そこまで楊をして言わしめたのだった。
「女乃」
鈴華には楊は自分の事をそう呼ぶように言った。
楊にとって、本当の孫として育てたいからだろう。
「なんだい鈴華」
「私は、どうしてここにいるのでしょう」
不思議そうな貌で、彼女は僅かに視線をうつむき加減にして言う。
日本人だと思っていたが、たった数日でここまで完全に北京語を話せるはずがない。
楊は彼女を華僑の誰かの娘なのかも知れないと思うようになった。
「そうだね」
話せるようになると、不思議と楊は安心できた。
こうやって向き合っていても初めて会った時の恐ろしさに比べれば、可愛らしい娘に過ぎない。
「覚えていないのかい」
おずおずと視線を楊に向けると、頷いて右手を自分の鎖骨辺りで握りしめる。
「…ええ、全く」
話し言葉一つをとっても、彼女は子供とは思えなかった。
言葉の発音すら、彼女は舌足らずになる事なく紡ぐ。
「ただ、何だか怖い人たちに連れ回されて、気がついたらここに」
「全く覚えていないのかい。自分の名前も」
ゆっくり首を振る。
「…私は、どうしてここにいるんでしょうか」
今度は少しトーンが落ちた。
言葉のニュアンスが若干違う。
楊は他人には見せないような笑みを湛え、彼女を安心させようとして優しい声を出す。
「どうしたんだい。まるで自分がいない方が良いみたいな言い方をして」
数秒程戸惑い、やがて彼女は意を決したように真剣な顔で口をつぐんだ。
「私は、ここで女乃と生活しています。誰の、何でもないのに」
「誰の何でなければ、いてはいけない、とでも?」
楊は出来る限り精確に言葉を返してやりながら、彼女の意志を読みとろうとする。
その指の動きさえ。
「人はいつも、必ず生まれてすぐですら、誰かの何かです。まるでそう定められているかのように」
得てして子供の言葉は曖昧で判りにくい場合が多い。
だから逆に楊は一言一句を逃さず聞き取り、それを理解しようとする。
長生きした老人の、より子供に近づくための知恵、とも言えるだろうか。そうでなくとも華僑は、言葉の試練を受け続ける。
母国語で生きていける場所などない。
言葉の通じない相手に対して意志を通じさせようとする努力なら、まだ言葉の通じる相手の方がましに決まっている。
「たとえば?」
「赤ん坊。生まれて即座に彼は、両親がいます。…そう、両親ですら、その子供が産まれた瞬間には、『子供の親』」
まるで片言を紡ぐように彼女は言い切って、楊を見上げた。
「恋人、友人、養子……生まれてすぐ彼は彼の知らない肩書きを持ってそこに実在できます」
楊はため息をついた。
「ねぇ鈴華。じゃあ生まれてすぐ親が死んだなら?あなたの言葉を借りるなら、もう彼はどこの誰でもない」
「…そうです。…どこの誰でも、なくなってしまうんです。……それでも」
彼女はそこで口ごもるようにして一息つくと、繰り返して言う。
「本当に、いてもいいんでしょうか」
――ああ、この子は、寂しいと言っているんだ
楊は驚いた貌をして口をつぐみ、真剣な表情の鈴華にゆっくりと大きく頷いて見せる。
彼女の言うとおり、必ずと言って良い程人はしがらみ無しに生きていることはない。
過去には確かに孤児も少なくなかったし、捨て子だって存在した。
彼らだって生きてきたし、彼女の知り合いにもそういう人間はいる。
「ああ、いいとも。悪いわけがないじゃないか」
そして自分の非も認める。
確かに彼女を束縛するかのように、一度も外に出していない。
それに――彼女以外、あまり接触のある人間もいない。
言葉もしゃべれるようになったし、人買い同然に転々としたのだ。落ち着いてきたんだろうと彼女は思う。
「良いかい?親が居ない彼らだって、この世に生まれた人間だから、そうね、自分の生きている意味を探さなければならない」
鈴華は真剣に彼女を見つめている、ようにも見える。
もしかすると違うのかも知れないし、あの感情に乏しい瞳の色だけは闇に落ち込んでいて捉える事は出来ない。
ただ彼女の言葉は確かに鈴華の耳に届いている。
「もしそれが鈴華、貴方の言う『誰かの何か』を求める事なのかも知れない」
――友達…
用意してやりたくはあるが、残念なことに彼女には本当の娘も、孫もいない。
同じ年頃の子供というのはこの世で、彼女をして唯一無二用意できないモノだった。
――ふふ、この『芙蓉』の楊が、今さら欲しいモノができるとはねぇ
しかも自分の為ではなく、この目の前にいる新しいゲストのためだ。
そしてそれが用意できないので有れば――
「しかし難しい事が考えられるようになったね。だったら、もう女乃では敵わないよ」
だから、と彼女は続ける。
「先生を呼んであげよう。そう言う事が詳しいから、彼に聞いてみると良い」
楊は裏世界で生き残る術だけではなく、その人脈も誇るべきものだ。
彼女は、世界と人を動かすものが金ではないことを良く知っている。
金がなければ動けないが、人は信頼で動くモノだ、と思っている。
但しその信頼が何に向けられているものなのかを把握しなければ、どこかで間違うだろう、とも。
彼女の言う『先生』は、家庭教師などの本当の教職についたものではない。
元々は彼女の経営をバックアップするために呼んだ、所謂経営コンサルタント、顧問と呼ばれる人間だ。
「鏡島氏、一つお願いがあるんだがね」
鏡島雄嗣と呼ばれる日本人がそうだった。
細身で、いつも神経質そうな貌をして、糊の利いたまるで鉄板のようなシャツを着込んでいる。
彼が崩れるようなところを見たことがない。
ビジネスマン――またそれとは少し色が違う。
むしろ彼女の良く知っているような連中に近いのではないかとすら思う。
尤も、彼は日本人で、人殺しを生業とするには危険な場所に生活しているのであるから、思い過ごしだろうが。
「何でしょう、楊大老」
日本人離れ、というよりも人間離れしたその冷たい眼差しと事務的な笑み。
相変わらず非情な雰囲気を漂わせる。
実は中国人で凶手だったと言っても通用しそうなぐらいだ。
「その膨大な知識と溢れる知性を貸して欲しい」
彼はふっと口元を緩め、冷たかった貌に人間味を与える。
「御冗談を。人生訓であれば大老、貴方の方が遙かに上だ。特に人間社会を生きる術は私が教えを請いたい程に」
彼は僅かに肩をすくめて呆れてみせる。
「私がでは、ないんだよ。鏡島氏。私の孫の事はご存じないかね」
ぴくりと眉が動き、再び笑みの形に眉が戻る。
引きつったようにも見えたが、彼の感情を読みとるのは難しい。
楊は彼に油断したことはないが、果たして遅れをとっていないだろうか。
そんな緊張感を与える男だ。
「お孫さん…ですか。成る程、しかし家庭教師を厭う程ではありますまい?」
「ところがね、駄目なんだよ。その辺の家庭教師じゃ話にならない」
そう言うと楊は気むずかしそうな貌をさらに歪めると、言葉を慎重に選ぶように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「あの娘は、記憶喪失だ。自分の生き方すら、視野に入れようとしている。…もし彼女に選ぶ力があるなら」
喩え中学生ぐらいの年頃の娘であったとしても関係ない。
「選ばせてやりたいと、思わないかぇ」
「失礼ながら、お幾つか」
「十四にも満たない」
普通日本人なら考えられない歳かもしれない。
まだ中学生で、遊ぶ事以外何も思いつかない人間に、自分の人生の道筋を見つけろなどとは。
しかし鏡島は思わなかった。
年齢などは、所詮生きてきた長さに過ぎない。
それだけの時間で、どれだけ成長できたかが決め手なのだ。
今の日本では、喩え二十歳を超えていてもこの辺のちんぴらよりも成長していない『温室育ちの世間知らず』に過ぎない。
過大な頭を持ちながら、それをもてあますような人間に比べればなんと利口なことか。
彼は――今日彼女と出会って初めて笑みを浮かべようとした。
だが既に笑みを作っている顔は動くことはなかった。
「充分ですね。言葉を理解できる年齢です。……判りました。私で出来る事なら、お教えしても構いません」
「だったら紹介したい。時間が有れば、私のところへ。彼女はいつも私と一緒にいる」
鏡島は短く返事を返し、恭しく頭を下げた。
その日の昼過ぎまで彼は書類をまとめる仕事があったので、結局動くことは出来なかった。
――昼飯を食ってから顔を出しに行こう
昼食はいつも外の食堂へと足を運んでいる。
別に、言えば食事は運ばれてくるのだが、そこまでして貰うのは彼にとって不愉快だった。
中国の昔の風習に、食客を囲うというものがある。
これだけの人間を養っているんだ、という金持ちのステイタスの一つだった。
そう言う風習のある民族から施しを受けたくはないと言うのが一つ。
もう一つは――彼の、彼自身の問題だった。
「おっと」
廊下にでる時、彼は見慣れない少女にぶつかりそうになって身を引いた。
「失礼いたします」
身長、体型、そして、今まで出会ったことのない少女。
こんな場所にいるには不自然にも感じる危うげな感じを彼女は醸している。
すらりとした体躯はまだ未発達で、抱きしめただけで砕けそうな程脆く見える。
そして感情を湛えない、柔らかな――日本人の顔。
完璧な身のこなしと流暢な中国語で誤魔化しているが、彼には判った。
何故なら彼は日本人だからだ。
そして何より――
「君は、楊大老の孫、かい?」
立ち去ろうとする彼女は足を止め、くるりと振り向くと柔らかな微笑みを浮かべた。
「はい。鈴華ともうします。以後お見知りおきを」
再び踵を返す彼女の背中に、彼は口元だけを歪める笑みを湛えて答えた。
――なあ、玲巳。君がここにいたらどんなにおかしい事か、聞かせてあげたいね
鏡島はとりあえず遅い昼食を終えてから、彼女のところに出向くことにした。
鈴華はその出来事を何の感情も抱かずに受け入れることにした。
「私が、今日から先生として君の質問を受ける鏡島です」
そう名乗った男が気に入らなかったとか、逆に気に入ったとかそんな話ではない。
そもそもそういうものが『感情』と呼ばれるモノである事以外、彼女は認識できない。
「はい。よろしくお願いします」
だから、教えられたとおりに答えて、ゆっくりとお辞儀して見せた。
この鏡島という男は、外観だけなら人間のようにも見える。
でも彼女の知っているどんな人間よりも人間らしくないように感じる。
だから彼女は自分の質問の答えを知っているような気がした。
――巧くいけば、二つも我らの手に入る事になるのか
鏡島はにこやかな笑みを湛えて彼女の側に座る。
一日に、数時間を基準にして彼女と話をする事が、今後の彼の勤務に含まれることになった。
正式な家庭教師である必要はなく、彼女が聞きたいこと、疑問に思っていることについて回答することが役目だ。
だから、彼女に質問がない場合は当たり障りのない会話をしなければならない。
つまりはそう言うことらしい。
会話をする理由は『彼女の遊び相手』程度の認識で彼は考えていた。
「先生は」
向かい合って座った途端、彼女は切り出した。
表情に大きな変化はない。
可愛らしい顔立ちをしたまま、表情を感じさせない口調で言う。
「孤児、ってご存じですか?」
「孤児?」
鈴華は頷く。
その仕草一つをとっても、見た目通りの歳の子供とは思えない。
幼稚さ、未熟さが感じられない洗練された仕草。
「ええ。世界にぽつんと独り、そこに居ること。…誰の、何でもないヒトの事」
「その孤児には兄弟は?」
鈴華はゆっくり首を振り、僅かに首を傾げる。
「…本人達は知りません」
「だったら、彼らは世界で唯一の存在だね。世界が産み落とした、一切のつながりを持たない存在」
鏡島の言葉に、一瞬鈴華は瞳を揺らせた。
――ふむ
少し彼は彼女を覗き込むような目で見つめて、大きく両腕を開いて言う。
「彼はどうするだろう。世界と関わろうとするだろうか」
「…怯えると思います」
彼は頷く。
「そのとおり。それは何故だと思うね?」
それまでは殆ど即答だったのが、鈴華は右手を口元に当てて僅かに顔を俯かせた。
答えるまでに、数秒を要した。
「――穹――」
聞き取りにくい声で、彼女は何事かを紡ぎ、顔を上げる。
「それは自分ではないからです」
「ふむ。じゃあ、『誰かの何か』であるヒトが世界に積極