Holocaust ――The borders――
Intermissionミノル 4 第1話
ぽつりと、世界の中心に存在している。
周囲には彼にとって意味のないものしか存在しない。
どれだけ形を作ろうとも、それは形のない物としてしか認識できない。
闇の中で、どんな色をしていてもそれは闇色であるのと同じ。
自分が何者であり、どんな理由でもって生きているのか。
アイデンティティの喪失はすなわち――生ける屍、生きているというのは決して生物学的な話だけではないはずだ。
そんなものを生きていると言っていいだろうか。
だが彼には何もなかった。
夏の夜、たき火に群がる蛾を見た。
蛾は、穹の星の灯り、それも月明かりを頼りにして飛ぶという。
光を感じる感覚が他の昆虫に比べ優れているのだろうか、だから彼らは夜中でも真っ直ぐ飛ぶことができる。
でも、たき火の回りに群がっているものは違う。
彼らは真っ直ぐ飛ぶことはできない。
月のように動いても方向が変わらないなどという事がないから。
一定の角度を保とうとして、結果たき火の回りを回ることになる。
その旋回は下手くそで、見ようによっては不器用なダンスを踊っているようでもある。
そして距離を誤った蛾は、突然失速したように炎にもまれて死ぬ。
当然だろう、彼らが感じている光は彼らの道標なんかではないからだ。
迷い蛾のダンスか。それは俺も同じなのかも知れない。
正しくない道標を元に、真っ直ぐだと感じた方向へとただ進み続ける夜の蛾。
では、何が正しいんだろうか。
生きるためには、何を正しいと言うことができるのだろうか。
多分そんな物に答えはないし、今更考えても仕方のないことだ。
回答は恐らく手遅れになってから現れる。
それでも『間違いではなかった』と言い切ることができたなら多分。
多分それが、正しい選択だったという事だろう。
でももし道標が正しくなかったならば、あの火の中に飛び込んだ蛾のように。
身を焼かれて死ぬのだろう。
道標、目標、理由。
それらは肉体を維持することとは違い、絶対必要に思えないのかも知れない。
不思議なことだ。そんなにも聞き分けが良く生きられる物だろうか。
腐敗、堕落、そして後悔。
それを繰り返して、ただ永遠に終わらない悪夢の中へと落ち込んだ際、それでも死ねない――死なないのであれば。
多分、彼はただ生きているだけに過ぎないはずだ。
何故生きているのかという問いに対する答えが見つけられた人間は、きっと幸せだろう。
何故ならその理由のために死ぬことができるのだから。
俺は死ねない。
生きている理由が、ないから。それを見つけられるまで、死んでなんかいられないんだ。
Intermission : ミノル 4
「久し振りだな」
かしん、と扉の閉じる音がして彼は屋上に姿を現した。
屋上の隅に佇む影。
周囲に大きなビルがあるせいで影に飲み込まれているが、それでも淀む穹と沈みそうな太陽に染まる空気を隠すことはない。
「Ripper…か」
影は、夕日を背に振り向いた。
「ふん、なんだ、腑抜けた顔を見せて」
「意外だったからさ」
口元に自嘲の笑みを湛え、影は僅かに体を揺らす。
僅かな光が彼の前を過ぎる。
それは彼の貌に複雑に陰影を落とした。
「意外。そうか――」
ミノルは言葉を継ごうとして、言葉を句切った。
数年前。
ミノルは命令により彼を微塵に引き裂いた。
命令をしたのは博士だ。
そして今回の件も、元は博士だ。
――弥勒菩薩の掌(たなごころ)の上で踊らされている事に気づいたか
生殺与奪は既に自然にも、自分からも剥奪されてしまっている事に気づいたのか。
どちらにせよ、それを言葉にすることはしなかった。
以前から、出会えば牙を剥こうとする彼の態度と比べれば不自然な程穏やかな感じがした。
「ああ。今なら判る。――所詮、人間でも人間でなくても代わりはしない。人間同士で敵対することが愚かなら」
今度こそ彼は、嘲笑を浮かべた。
「人間をやめた物も、人間ではない物も、それが同じところにいるので有れば、利害は一致してもおかしくないだろう」
「今敵対する理由はないか。――無駄の多い納得の仕方だったな」
先刻のHalo現象の事を指して彼は口元だけを嘲りに歪めてみせる。
Halo。それはミノルにも寄生し、リーナがコントロールする『増殖性』ナノマシンの持つ特性の一つ。
空気中である程度の濃度であればナノマシンの寿命、エネルギーから体積やその現象そのものは安定する。
だが、水分や僅かに存在する微生物・有機物を失えば自らで自らを貪りながら濃度を保とうとする。
もし高密度・高濃度のナノマシンが一時に活性化した場合、爆発的に増殖しようとする。
それが何もない空気中の場合、プログラムに従い濃度を低下させるため膨張しながら空気を喰らい、自らをエネルギーへと変換する。
中心部ナノマシン濃度は膨張とエネルギー変換により急激に低下、周囲に向かうに従い濃くなっていく。
この様子を博士は天使の輪『Angel's Halo』からHalo現象と呼び、予言した。
実際に観察されたことはなかったが。
彼――西森臣司はそれも鼻で笑って受け止めた。
「全燔祭の祭司としては、人間にもお前達にも敵対は出来ない。ただ――それが始められるよう準備をする」
――理由は。
ミノルは何も言わなかった。
リーナの手足とは違い、自らの意志を持ちながら『全燔祭』と呼ばれる物に従おうとする者達。
それが、今回を引き金にして数人現れた。
多分彼らの行動に理由がある訳ではないだろう。
でも、彼らにそれを止める事は出来ないだろう。
――……俺には、何も教えられていない
一番近くにいて。
一番最初に彼女の掌の上で。
少なくとも、直接面識と、任務を与えられるのは彼だけだというのに。
その彼には今回のような事は、一切知らされていないなんて。
「そうだろう?」
臣司は眉を顰めながら言う。
彼も気がついたようだ。
ミノルが、彼らと同じ場所にいるようで、実は同じではないと言うことに。
「悪いな、それは俺じゃない」
肩をすくめると、両手をポケットに入れる。
そして何の興味もない視線を臣司に向けて。
「でも、これも俺の役割だ――『トリガー』を作るっていう、な」
ミノルは背を向けて、屋上の出口に向かう。
今回新しくばらまいたタイプは、炭水化物を活性剤に使用したものだ。
小麦粉を混ぜてやれば、勝手に増殖を開始する。
恐らくは、既にこの街は彼の撒いた新型に『汚染』された空気になってしまっているだろう。
それは潜伏的に、全ての人間に対してLycanthropeを仕込んでしまうことと同等。
――の、はずだった。
だがそもそもLycanthropeの設計や開発は全てがリーナの手による物だ。
効果や性能は彼女の方が詳しいに決まっている。
新型を空気中に散布すること、それが引き起こす可能性、そしてこの――『全燔祭』という言葉と、『祭司』の存在。
もしかすると全て、リーナは知っている事なのかも知れない。
確認を取りたい。
『トリガー』と彼が呼んだ、起爆スイッチは既にプログラムも済んだし、あとはリーナがハッキングするだけになっているはずだ。
なのに何故。
何故、潜在的に潜ませるはずだった今回の薬が、こんな余計な物まで産んでしまったのか。
だが、何度声で呼んでもリーナの反応がない。
――リーナ……!
東南アジアの一角。
人のいない、日本人が作った『海外支部』のなれの果て。
安い労働力で大量生産することでコストを下げようとした企業努力の、夢の後。
彼らの経済効果がいつの間にか植民地じみた形を形成して、必要性と反発のジレンマを受けながら撤退せざるを得なくなったもの。
バブル経済のまっただ中に新興の企業として現れた某企業の工場は、しかし不況のあおりを受けて倒産した。
工場を引き払う事もままならずに。
その工場の一つは既に電気も水道も全て停止していたのだが――つい先日、ある研究者により買い取られていた。
紅李柳(ホワン=リー=ヤン)は眉を顰めて、新しい持ち主の名前を眺めていた。
「こいつ…」
紫煙の満ちたくすんだ部屋の空気をかき混ぜるように腕を振り、ソファに背を預けて伸びをする。
持ち主の名前は『柊 司』、日本人だろう。
紅は苛々しながら懐を探り、紙巻き煙草を叩くように振りだしてくわえる。
すっとすぐ側からライターが差し出され、アルミの打ち抜きの灰皿が彼の目の前に差し出された。
ソファから体を起こすと、早速吸いさしのそれを灰皿に置くと苛々を隠さず、テーブルを指でとんとん叩く。
「買い取られたのは一年前です」
「んな事は見りゃ判る。お前の頭は豆腐で出来てるのか?」
じろりと報告をする部下を睨み付け、ため息をつくと再び煙草をくわえた。
一気に周囲が紫煙を含む。
「一年……何でもっと早くに判らなかったんだ」
紅が苛立っているのは、彼にとって突然のとん挫だったからだ。
見知らぬ日本人が買い取っているとは知らず、その工場の敷地を含めて既に地主を買収していたのだ。
きちんと土地の権利書を確認していなかったせいで――また、手に入れた手段が乱暴だったため――そこに建築予定の公園が建てられなくなったからだ。
既に周囲の森の伐採は始まっており、工事そのものを止めても既に損害を被る。
彼の組織がこの計画を推し進めていたのだが、まさか今頃になって土地が足りない――それも予定地を大きく抉って誰かの土地になっているとは。
――確かに、一年前じゃぁ向こうの方が早いか
「一度ご相談されては」
「馬鹿野郎。……さっさと土地、剥奪すりゃその必要もないだろう」
だがどうやって。
手勢を率いて潰すのは楽だが、日本人となればその後がやっかいな可能性がある。
高々一人の旅行者がいなくなっただけで、簡単に国際問題にしたがる国だ。
彼の組織の一部は政界に食い込んでいるだけに、その辺りもやたらと五月蠅い。
――けっ、人一人ぐらい大した事でもねぇだろうに……
彼の周囲では、昨日まで笑ってた奴が今日バラされて売られていてもおかしくないのが日常だった。
だから、『高々日本人一人で』大騒ぎする上の連中が気に入らないのも幾らか有った。
だが下手すれば、きちんと手を回されて自分の口と手を封じられる可能性がある。
それは困る。
「出るぞ」
僅かな時間迷った彼は、部下に簡単に指示を下して車を用意させる。
――とりあえず、実際に赴いた方が早いかも知れない
状況を確認してからでも、遅くない。
彼はまるで踏ん切りをつけるようにして、まだ長い煙草を灰皿に力を込めてねじ潰した。
リーナは床にぺたりと座り込んでいた。
天井を仰ぎ見るような格好で。
彼女には食事も栄養補給も必要ない。
義体そのものを構成する有機物は、医療用ナノマシンの働きにより自動修復される。
『腐る』化学反応が有っても、それを修復していくのだ。
繋がりやすく斬りにくい酸素の結合手を定期的に切り離し、常に新品と同様の状態を維持する。
それが、彼女の体内で起きている現象だ。
必要な電力は、必要な時必要なだけ充電する。
リチウムバッテリーの電力はあくまでも緊急用の備えではあるが、普段はこれだけで充分だった。
自分の手足とも言えるミノルが動いている限り、自分は動かなくても構わない。
だけど――
ふと堂々巡りを繰り返していた彼女の思考が、センサーからの割り込みにより停止する。
――誰だ
ふと彼女は体を起こし、工場のあちこちにセットしておいたカメラとセンサーの情報を一度にかき集める。
明らかにこちらを目指す車が見えた。
それも複数。
平和な闖入者であればかまわない。だが奴らは違う。
工場の周辺、土地の外縁で工事が始まっている事は彼女も分かっていた。
だからいつかこういう状況になってもおかしくないと思っていたのだ。
相手するには少し多すぎる。
それに、今はミノルも近くにいない。
手駒になりそうな『人形』もまだ手元にはない。
――様子を見て問題があるなら
彼女はすぐに一階にある機械室を目指して駆けだした。
機械室は鍵こそかからないが、狭く、機械の唸りと熱が彼女を隠してくれるだろう。
そして彼女本体が見つからなければ後はどうとでもなる。
ぶうんと唸りをあげる様々な機械の置かれた闇に、彼女は体を滑り込ませて扉を閉めた。
敵をやり過ごすために。
敵から視線をはずす必要はないし、そんな事はしない。
彼女は設置している監視カメラ全てに神経を張り巡らせ、敵の状況を把握する。
罠なら――彼女の『手足』が工場の至る所にあるのだから。
たとえ今回出荷分がすべて失われるような事になったとしても、もしかすれば襲撃者の中には『適格者』がいるかもしれないから。
彼女は自分の身体ではない目と、手と、足を――
ばん
車の扉が叩くような音を立てて閉まるのが聞こえた。
それは、彼らの侵入が始まる合図でも、あった。
紅はスーツのポケットに両手を差し込んで、工場を眺めた。
外観は既にあちこちに錆が浮き、決して人が使っているようには思えない。
入り口からも饐えた臭いのする空気が漏れ出てくる――のに。
内部から機械音がする。
「とりあえず、お前ら、乱暴はするなよ。あくまで穏便に、だ」
無言で返事が返ってくる。
そして、紅が一歩踏み出すと同時に後ろから舎弟が走り込んで、扉をまるで叩き壊すように開ける。
派手な音がして、四角い闇が口を開けた。
まるで悪魔が顎を大きく開いているかのように
紅は一瞬背筋が寒くなった。だがそれを気のせいにして、部下に続いて闇へと足を踏み入れた。
光取入窓から差し込む日光が、空気中の埃を浮かび上がらせている。
水銀灯が点灯していて、誰かが確かにこの稼働させている。
唸る機械音は、間違いなく工場を動かす為の機械室からの音だ。
そして、がしゃん、がしゃんという何かの工作機械らしい音も聞こえてくる。
「奥を見てきます」
一人が言いながら、音のする方向へと小走りに駆けていく。
その間に、紅は周囲をゆっくり見回すことにした。
人の気配はしない。
丁度広さは普通の車が縦に二台並んだ位の奥行きに50m位の幅を持っている横長の細い工場だ。
そして作業場を囲むように壁を整形し、事務室や休憩室だろうか、窓のある部屋が並んでいる。
これは内部での作業による騒音を防止しながら、それなりの広さを確保できる構造と言えるだろう。
本来ならこんな郊外に建てるので有れば、騒音は考える必要はない。
むしろ搬入口や取り回しから、大きな間口を用意するのが常。
――妙に閉鎖的な工場だな
いつ作られたどんな、何の工場なのか。
稼働している工作機械に近づくと、ベルトコンベアを伝うビニール製の袋に包まれた白い粉末が見えた。
――何の
彼の思考を遮る、人間の悲鳴があがった。
「兄貴」
「なんだ、くそっ」
その場にいる全員が色めきだち、懐から銃を抜き放つと声がした方へと全員駆けだした。
工場の中央、事務所に当たる部分。
先頭を走る男が躊躇いもせず扉に蹴りを入れた。
「ぐあっ」
既に異常は始まっていた。
彼は自分の足を叩きつけた激痛に呻き、その体勢のまま止まる。
足の裏から骨を伝って膝、股関節に差し込んだ痛みを覚えて――足を引いた。
「――!」
「何遊んでやがんだ」
と、側にいた一人がそのまま扉に体当たりをしようと肩からぶつかる。
派手な音が響いた。
声にならない悲鳴があがった。
そして、扉から――離れない。
つうと赤い粘りけのある液体が、自己主張するように崩れない大きな水滴を作りながら流れる。
「な」
そしてその場にいた全員が、有り得ない光景を目の当たりにした。
肩から突っ込んだ一人の体が、音もなく扉に染みこんでいく――沈み込んでいく。
じわりと血の滴も、まるでそこには何もなかったように――砂の地面に水が染みこむように、消えてしまう。
「お、おいっ」
だが彼は不思議そうに周囲の人間を見返すだけで、何が起こっているのか理解していない。
そして、もう一人は自分の足を両腕で掴んで扉から離れようとして――突然体を硬直させた。
があああっっ
扉の向こう側から、獣のような絶叫があがる。
扉に半身を飲まれた男は既に何も聞こえていないように、瞼を閉じようとしている。
自分の足を掴んだ男も同様に扉に飲み込まれていく。
――いや。
飲み込まれている訳でも、奇妙な現象が起きている訳でも、勿論幻覚を見ているわけでもなかった。
『扉』は扉ではなかった。
彼らの目の前で、扉のような物はゆっくりと二人を飲み込みながら、形を変えていった。
それは粗悪なホラーフィルムのようで、入り口の形に切り取られた壁から扉だったそれが、溶け崩れるようにして形を失う。
同時に二人の体を覆い尽くすようにして床に灰色の塊になって転がる。
一人が部屋の中を見て口に手を当てた。
部屋の中は鮮血にまみれていた。
酷い光景だった。
既に常軌を逸した光景の中で、逆にリアリティのある血飛沫の痕と、液体の滴る様子は、薄暗い室内が実は白かったのだと認識させる。
紅は既に正気に立ち返っていた。
――何故こんな事になったのか
――何が起こっているのか
未だに床で蠢いている扉らしき塊は、一度ぷるんと全身を震わせると液体を引きずる音を立てて床を這い始める。
彼は無言で銃をその塊に向けた。
が、ため息をついて銃を懐に片づける。
「無駄弾か」
既に四人も死んでしまった。
今回の手勢では半数が、ほんの一瞬で片づけられたのだ。
「あ、兄貴」
「黙れ。どっちにせよこのままで済まさん。――ここの工場の所有者は研究者だったよな」
はっきり言って方法も理屈も判らない。
何の研究をやっていた人物なのかも知らない。
だがそれが危険な代物であり、今見ての通りの状況であることは否めない。
何より手駒を一気に4人も消されて、おめおめ逃げ帰る事は不可能だ。
役立たずのレッテルを貼られて紅が消されてしまう。
「化けの皮を剥いでやる、Dr.Stein」
そして残された全員に向けて一喝する。
「てめぇら!探すんだ、ここにいるはずの人間を引きずり出せ!但し騒ぐな、物を壊すな、触るんじゃない――先に俺に知らせろ」
冷静で的確な指示。
どんな土壇場でも、これだけ非常識で壊れた事態でも、トップの一人が冷静に判断できればそれだけで組織というのは盤石さを持つ。
既に狼狽えていた部下も、ただその指示にすがるようにして工場の周囲に散った。
――まず紅に知らせろ
それはどの指示よりも彼らを安心させた。彼に任せれば良いんだ、そう言う『逃げ』が彼らの精神を安定させたと言っても良い。
では紅は冷静だったのか。
精確にそうだと言う事は出来ない。
彼は既に『正常と言うべき』判断が出来る精神状態ではなかった。
一周して工場を見回した限り、人影はなかった。
部屋の数を把握して、正確にこの工場の見取り図を頭に入れた程度の情報しかなかった。
完全に無人の、人を喰う事務所を残して、この工場は稼働を続けているのだ。
謎の粉末を生成しながら。
「何のヤクだ?」
残った部下の一人が、綺麗に梱包された一つの箱をナイフで切り開きながら言う。
「――こんなところで飛ぶなよ」
「判ってますよ」
目の前で彼は歯でナイロンの袋を破り、左手の甲に粉末を一撮み程載せる。
そして、鼻で吸引した。
「――んー……」
彼はドラッグユーザーだ。コカインもヘロインも、カクテルも使い方を一通り知っている。
クスリはやばいと言われているが、実際には医薬品であり医者が適切な使い方をすることで効果が成り立つ物がほとんどだ。
だから、知識のない人間では扱いきれなくても薬学の専門知識がある場合なら、使いこなすことは不可能ではない。
そう言った『クスリに操られず利用する』人間を『ドラッグユーザー』と呼ぶことがある。
無論、気をつけないと彼らですら虜になり、あっという間に壊れる事になる。
だがクスリの質を確かめるのに彼らの『舌』は重要であり、決して軽視できない存在だった。
だから紅もあまり強く言わなかったから。
彼が血を吐くのを見るまで、後悔しなかった。
紅は彼の名前を呼んだ。
まるで時間が突然遅くなったように、ゆっくりと彼はこちらに向き直った。
見間違いに見えた。
彼の唇を伝う、赤い血の筋だけがやけに毒々しく、生々しく、鮮やかに見えた。
おとがいを流れてゆっくりと成長する朱色の果実が、耐えきれなくなって幹からもぎ取られ――
それが空中で、空気抵抗に負けて完全な球体から扁平に形を崩し――
弾けていく様を感じたような気がした。
加速していく自分の中の時間。
音もなく彼の身体が、まるで空気を注入されたように膨れあがる。
球形に。見事なまでに正確に、球体に表示された彼の姿は、耐えきれずに突然――赤い滴として粉々に砕ける。
炸裂。
丁度ほとんど同じ光景が、先程の部屋で起きたのだろう。
紅の目の前の床に、水が入った袋をぶちまけたような痕だけを残して、人間がいなくなった。
返り血に思わずむせて、紅は。
――悪夢だ
何かが、かちりという音を立てて外れた。
それが何だったのか、彼には判らなかった。
◇次回予告
「くっ……早、過ぎる!」
工場を包む気配と、紅を襲う謎の現象。
そして紅自身の異変とは。
リーナは勝機を掴んでいるのか。
Holocaust Intermission:ミノル 4 第2話
馬鹿野郎。銃を向ける相手が違うぜ
そして、閉じる、扉
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