Michel Onfray : Physiologie de Georges Palante (Grasset, 2002) の読書ノート

 以下は、ミシェル・オンフレーのすぐれたパラント紹介にしてパラント評論である標題の書物を、2004年夏に読み、そのかたわら、2004年8月30日から9月3日にかけて掲示板に書きこんだ内容に、軽微な修正をほどこしたものです。

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 第1部は伝記で、パラントが大学をでて、アグレガシオン(リセでの教授資格)をとって、自殺の前年1924年に早期退職するまで、ブルターニュのリセで教員をつづけた話です。
 パラントは教員としては無気力で、何度も役所からの監査がはいり、その報告書も文献としてのこっているのですが、「授業の内容は正確で、話しかたもゆっくり明瞭だが、きわめて単調で、生徒はほとんど聞いていない。パラント氏が発問しても、生徒はほとんど答えない」などと書かれていて、なかなか笑えます(というより、おなじダメ教員として共感をおぼえるといったほうが正直ですね)。

 第2部は、オンフレーがパラントを「ニーチェ左派」とよぶのはなぜか、というテーマです。
 パラントはニーチェに共感していたことはたしかで、なんども引用していますが、それはニーチェが、個人は社会とほんらい和解できない存在であることをみとめている、典型的に個人主義の哲学者だったからだといっています。
 ニーチェの「超人」の概念は、個人主義の称揚という面からとらえかえされます。しかしながら、パラントがニーチェからわかれるところは、まさにその「超人」をめぐる預言的言明においてであるとオンフレーは言っています。
 現在の社会を否定する(そこにはパラントも共鳴しているわけですが)一方で、ニーチェは、そのようなものではない「超人」の社会をこいねがっており、それがパラントからみるとあまりに楽観的にすぎた、ということです。

 第3部は、パラントの社会観がどのようなものであるかで、これについては、そのなかでもっとも主要な章をわたしが翻訳したものを、のんきちさんがご自分のサイトの一角に出してくださいました:
http://www5.plala.or.jp/mogura/Michel%20Onfray.htm

 パラントの生きた時代は、ドレフュス事件、第1次世界大戦、そしてロシア革命と、歴史上の大事件がつぎつぎと起こった時期だったわけですが、パラントは、これら同時代の事件にかんしては、ほとんど発言らしい発言をしていないそうです。
 オンフレーは、パラントの『社会学大綱』から引用しながら、あらゆる加入 adhésionの拒否、というところにその理由をもとめています。
 同時代の事件をめぐる議論でどちらかのたちばをとれば、いやおうなく、たとえば「ドレフュス擁護派」といった集団にくわわることを余儀なくされるわけで、それはパラントにとっては、個人性を放棄することにほかならなかったからだということです。

 いっぽうで、ブルターニュの地方選挙に出て、自治体ごとに、その内部で(おそらくプルードン的な)相互扶助をすることによる社会の運営、パラントのことばでいえば、自治体社会主義 socialisme municipalをとなえています。いちども当選しませんでしたが。

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 パラントのおもな著書とされるもののうち、『個人と社会との対立 Les antinomies entre l'individu et la société』、『悲観主義と個人主義 Pessimisme et individualisme』のふたつは、博士論文として書かれたものでした。
 パラントは1907年にソルボンヌに哲学の国家博士論文を登録、主論文として『個人と社会との対立』、副論文として『悲観主義と個人主義』を書きますが、1911年に、審査にあたるふたりの指導教授セアイユ Séaille とブーグレ Bouglé から、公開審査をひらくことを拒否されます。
 パラントの論文は、構成が不調和で、雑然と多数の引用をしては、手順をおわずに戯画化された批判をし、自説はきちんとことばをつくして証明していない、要するに粗雑で、論文としてはできがよくない...と、オンフレーさえいっています。
 当然ながら、これらの批判は、指導教授たちのくちからも出たことでしょう。むかしもいまも、たいへんありがちな話です。

 ところが、パラントは、そういうことにはおかまいなく、論文の審査が拒否されたあと、『メルキュール・ド・フランス Mércure de France』誌に「ソルボンヌで拒否された論文をめぐって」という論争的記事を書き、セアイユとブーグレが、議論もせずに門前ばらいをしている、というように、審査のしかたを批判しています。

 一方で、デュルケム Durkheim が、当時の社会学を席捲していたこと、そして、セアイユもブーグレもデュルケムの理論に深くコミットしていたこと、にもかかわらず、パラントの論文は、デュルケムの社会学をはげしく批判していることも、関係していないはずはないでしょう。
 パラントにとっては、ほぼ一貫して、社会と個人との対立のみが問題だったわけですが、デュルケムの社会学は、客観性の名のもとに、個人を、それを包含する法則や一般性のなかへと解消してしまうものであり、個人を抑圧するものである、と見えたようです。

 博士論文としては拒否されたものの、これらの2冊は、Alcan という出版社から出版されます。そのときには、ブルドー J. Bourdeau をはじめとする書評には、おおむね好意的に評価されています。
 このころになるとパラントもひらきなおって、アカデミズムからみとめられなかったことを、むしろ、「ソルボンヌがわたしにあたえた、知的独立性のかがやかしい証明」だと誇るにいたっています。

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 パラントはドレフュス事件そのものにたいして発言はしておらず、ドレフュス派、反ドレフュス派のどちらのがわにもくみしていないのですが、じつは、もう少しひろげて、ユダヤ人にかんしていうと、パラントは反ユダヤのたちばだったようです。
 「ソルボンヌはユダヤ人とドイツ人に支配されている!」というような過激な発言もしていたようですが、それは、デュルケムを念頭に置いた発言だったことはまずまちがいないでしょう。
 また、抽象概念を操作するだけの「科学的社会学」(パラントはこのことばを、はっきりとマイナス評価でつかっています)とはちがい、経験や、身体性に根ざしたかたちでの個人主義を提唱しようとした結果、「その身体性とは、人種の問題である」というふうに、わりと簡単に危険な方向に飛躍してしまっています。

 しかし、ユダヤ人は、身体的な意味での「人種」とおなじレヴェルでは規定できないグループの単位ですし、だいいち、もし「ユダヤ人」という単位をもって憎悪や批判の対象とするのであれば、そのことと、あくまでも個人を中心的単位とするはずの、パラントの個人主義との整合性はどうなっているのだろうか、という疑問が当然わきおこってきます。

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 パラントにおいては、個人主義と同様に、悲観主義もまた、身体性に根ざしていました。
 パラントはからだがとても大きく、とくに足が大きく、均整を欠くからだつきを苦にしていたそうです。あるくのも、重いじぶんのからだをもてあましているように見えたそうです。
 また病弱でもあり、身体的な苦しみが、そのまま思想に投影するかたちで悲観主義が形成されたようです。このあたりも、やはり、たんなる思弁ではなく、存在から発する思想という点で、パラントが一貫しているところだろうと思います。

 ケネス・ホワイト氏は、これを経験的悲観主義 pessimisme expérimental と呼んでおり、生きることから思想をひきだしてくることこそが、ほんものの哲学者だとたたえています。
 たしかに、病気にくるしんでいた哲学者は、モンテーニュ、パスカル、ニーチェ、キルケゴールなど、きわめて明敏な思想をあみだしたひとが多い、とオンフレーも言っています。

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 つぎに発見したことは、パラントがカミュに影響をあたえていたということです(初心者なので、なんでも発見になるのです。以下も、無智をひけらかすような話です )。
 カミュの先生にあたるジャン・グルニエが、上で名まえをだしたルイ・ギルーの紹介で、じつはパラントと交流があったとのことです。
 カミュは、『反抗的人間』のなかで、パラントに言及しているそうです(へぇ...)。
 たしかに、集団にしたがわない個人に光をあてるカミュの思想は、パラントと相つうじるところがあるように思います。

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 最後の第5部は、さきにお話しした「経験的悲観主義」からはじまっていたのですが、後半はパラントの晩年の話で、ふたたび伝記へと回帰してゆきます。

 1922年、ジュール・ド・ゴルティエによるボヴァリスム論をめぐって、パラントはかねてよりよく寄稿していた「メルキュール・ド・フランス」誌に、論争的書評を書きました。
 (ちなみに、ボヴァリスムとは、フローベールの『ボヴァリー夫人』からとられた名まえで、夢幻にふけって現実を踏みあやまるという、ロマン主義の小説にありがちなモティーフであり、19世紀フランス文学史のひとつの鍵となる概念です)
 パラントの激越な口吻に、ゴルティエも刺激され、何往復かの批判的評論の応酬になりました。
 それはやがて、人格攻撃に発展します。
 論争のはじめのころから、パラントがゴルティエの論文を読むときに初歩的な読みちがいをしていたことを問題にしてきたゴルティエは、パラントはおよそ議論の相手としてふさわしくない、もう彼には「吠えさせておく」ことにして、自分はこれ以上いっさい返答しない、という最後のことばを書きます。
 侮辱されたと感じたパラントは1923年8月、ピストルによる決闘をゴルティエに申し込みます。しかし、証人になるはずの弁護士(パラントのもと教え子でもあった)が、巧妙に決闘の実現を回避します。しかしこのことが、パラントの目にはかえって裏切りにうつり、パラントは教え子にさえ殺意をいだきます。
 最晩年のパラントは、いつも武器をもちあるいてはトラブルをおこし、警察ざたになる、ということをくりかえします。
 裏切られ、恥辱にまみれ、自殺を思慮します。パラントは1923年12月、かねてより同居していたルイーズと再婚します。これはすでに自殺を思いさだめたあと、ルイーズに遺産を相続させ、自分の年金の半額をあたえるための再婚でした。
 1925年1月、1年くりあげて早期退職、8月5日ピストル自殺。62歳でした。

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 オンフレーは、結論的に、パラントは「失敗を欲望していた」といっています。
 みずからの理論である悲観主義を身をもって証明するためであるかのように、わざわざ失敗をまねくような道ばかりをえらんでいたと。
 しかし、オンフレーは、さらに大局的な見かたをすれば、それこそがパラントの逆説的な美点だといっています。
危険をおかさなければ、「極北のひと Hyperboréen」にはなれないということを意識し、それにそって行動していたといっています。
 共同体の道徳からみれば「不道徳 immoralisme」であったが、パラントの不道徳は、いわば「より高次の道徳 moralisme supérieur」であった。なぜなら、そのことによって、かれは倫理の本質を語ろうとしていたのだから。
 パラントはまた、連帯することを拒絶する「反人間主義 antihumanisme」であったが、それは、「より高次の人間主義 humanisme supérieur」であった。なぜなら、そのことによって、かれは人間関係のあらたなかたちを示そうとしていたのだから。

 オンフレーのこの結論は、やや強弁のようにもみえます。
 しかし、考えてみれば、オンフレーは、パラントのかずかずの失敗(それには、むしろ純然たる悪意から出たと思えるものさえある)から出発して、パラントを一刀両断することもしようと思えばできたのに、あえてそうはせず、すくなくとも表面的にはやや苦しくみえる、称揚の論をくりひろげています。
 それにはまた、それなりの理由があるものと思います。
 ここで、「オンフレーがパラントというあわれな人間を、あたたかくふところにつつんでいる」などという安手の人間主義に回収してしまうことは、パラントにまつわる話をするときに、もっとも不適当な姿勢でしょう。
 やはり、パラントの個人主義思想が、変わらぬ光彩を放っているから、あらゆる失敗にもかかわらず、あるいは、あらゆる失敗のゆえにこそ、かれに共感し、オンフレーはこの書物をあらわそうとしたのだろうと思います。
 一貫性を欠き、矛盾し、蹉跌しているからこそ、ますます個別性の宣揚として共感できるのが、パラントらしいところなのではないでしょうか。