Preface/Monologue2001年6月 


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1 Jun 2001
今年の夏は....雨でもテントかついで山に行くぞ (可能なかぎり)
3 Jun 2001
ここ数日気合いを入れた上で、土日の二日かけてテントかついで八ヶ岳は西岳・編笠岳・権現岳の周遊登山へ。

土曜はかなり低温の寒気が来たようで、日曜朝に目覚めてみるとテントには霜が降り、地面には霜柱が立っていた。そのせいかどうか、二日目には終日稜線から南北中央の日本アルプス、木曽御岳、ひいては加賀の白山まできれいに見渡せた。みないまだに頂上部に雪をかけたままで、これらは夏山と言えるまでまだ間がありそうだった。(今回登った三山には残雪はほとんどない。)

ところで、青年小屋のテント場は小屋そのものより賑わっていて、夜中などは小屋の方が静かだったはずである。どこかの大学ワンゲルか何かの新歓登山か何だか知らないが、夜半、小屋の発電器が止まってあたりが深閑としているのにもかかわらず、なおも辺り一面に響きわたるような大声で騒いでいる。自分の隣のテントのひとたちも、たびたび上がる嬌声に「いいかげんにしろよな」と言っていた。不愉快に感じていたのは自分一人ではないようだ。

しかし....新入生が始めて間もないテント山行に興奮してハイになるのはわからないでもないが、そこで「ほかの人もいるテント場で夜遅くまで騒ぐな」ってことを教えるのが先輩だろうと思う。そういう今の日本にいちばん大事なこと−他者への気配り−を教えない(教えられない?)のはなぜだろう。単なる個人の資質か、そういうことを言うと新人が逃げてしまうのでは、と恐れているのか。きっと、きちんと指導してくれるOB/OGに恵まれていないのだろう。
7 Jun 2001
夕方から日が落ちる頃まで、自分が住んでいる神奈川東部は大雨洪水警報が出るほどの悪天候にみまわれてしまった。この天候の中、横浜国際球技場にてサッカーはコンフェデレーション杯準決勝の日本−オーストラリア戦が行われていた。これをテレビ観戦するがために風雨をついて家路を辿る。傘はあったもののあまりの雨に全く無意味で、全身びしょぬれになってたどり着く。

画面の中では球技場も同じく豪雨に見舞われていた。この悪条件に日本は得意の早いパス回しができず、身長体重に勝り、予想に反して動きも機敏、加えて反則すれすれのずるがしこさも備えているという相手に序盤は押しこまれっぱなし。オーストラリア侮るべからず、しかもDFの要の森岡が負傷して交代せざるをえなくなるという事態に。それでも前半も半ばを過ぎて落ち着きを取り戻した日本、ハーフタイム直前の中田英寿のFKで先制点!まったく目の離せない展開であっと言う間に前半終了。

この勢いを後半も続けたいところが、試合を再開して10分くらいのところでFWの鈴木が退場処分になり、フィジカルで見劣りのする日本が一人少ない人数で30分以上も試合をしなければならない状態に陥ってしまう。1点先行しているとはいえ再び胃の痛い状態に。前線の枚数を増やして勝負をかけてきたオーストラリアに何度もチャンスを作られながらもGK川口の好セーブやDFの踏ん張りでなんとか凌ぎつつ、守りの手応えから余裕の生まれた日本は手薄になった相手守備を突いて徐々に中田や途中交代の森島を中心に効果的なカウンターを繰り出す。焦ったオーストラリアは稲本へのファウルで自分らも退場者を出し、数的優位を帳消しにしてしまう。そしてタイムアップ。先のブラジル戦以上にタフな試合は結局1-0で日本の勝利に終わった。みな偉い、よくやった!


試合後、いったい何年ぶりか、中田英寿がインタビューに答えていた。肉声を聞くのは久しぶりな気がする。彼もなにか思うところがあったのだろう。


しかしとても山のサイトとは思えない記事だ。まーよくあることなので気にしない気にしない(笑)
10 Jun 2001
ほんとうは土日でテント泊をと考えていたのだが行けなくて、本日の日曜に日帰りで中央本線大月駅の正面に立つ岩殿山を訪れた。

昼過ぎに大月駅に到着し、登山口まで車道を歩く。中腹にある「岩殿山ふれあいの館」という名の施設で大月市の紹介ビデオを見たり、山頂の城跡遺跡を見学したりしてから稚児落としと呼ばれる大岩壁(こんなところにこんなスケールの岩壁が!)までミニ縦走する。大月駅まで戻って約4時間強だった。

この季節に短い行程の低山を選んだのは、夕方早く帰宅したかったから。うーん、残念コンフェデ杯。でもホームでとはいえ世界王者フランスに1点しか許さなかったのは評価ポイントか。その1点は、しかし、ちょっと間抜けな失点だったとは思うが....それに、後半18分頃だったかのGKと一対一での森島、ああいうときはとにかくシュートしてくれぃ....
14 Jun 2001
毎号買ってはいるが定期購読しているわけではない白山書房の『山の本』最新号が郵送されてきた。なんだろう?と改めてみると付箋がある。読めば、かつて送った読者カードに書いた記事が採用され、掲載号を謝礼替わりにもらえたということらしい。これは嬉しい。ご丁寧にありがとうございました。>白山書房の方々

ところで、博品社というところから出ている『日本の名山20』という、いわばある山をテーマとし たアンソロジーシリーズの第16巻に『甲斐駒ヶ岳』があって、これだけ持っているのだが、改めて最近読み返してみると、その中の岩壁登攀記録の一つがこの『山の本』の編集者をされている方のもので、しかも文中には『山の...』のなかだと酒ばかり飲んでいる酔っぱらい登山者(失礼 !)にしか見えない方が「老練な」ザイルパートナーとして登場しているのだった。うーん、人に歴史あり。やはりある程度は極めた人は持っているものが違うのだろう。この方達の最近の文章を読んでも上滑りしないものが感じられるのはそのせいだろう。

そういうわけで、山と文章の好きなみなさん、『山の本』を購読しましょう(笑)。
19 Jun 2001
梅雨だ。梅雨になると北海道に行きたくなる。雨が降る回数が少ないから....
23 Jun 2001
昨日の日本経済新聞朝刊によると、昨年4月に東京都町田にオープンした巨大アウトドア用品店の「REI東京フラッグシップストア」は採算がとれないとして今年中に閉店するそうだ。経営元である米資本のREIは日本では今後カタログ販売に特化するという。開店イベントでリン・ヒルも登ったというクライミングタワーはどうなってしまうんだろう。

けっきょく店の規模が大きすぎたというところだろうか。なんでも、町田は都心から遠すぎたという理由に加えて、「日本の消費スタイルが米国のと違う」のが採算が合わないと判断した理由らしい。それは単にマーケティングのミスだとして、ではいったいどう違うのかを知りたいものではある。記事は短く、そこまでは書いていなかった。

町田が遠い、という理由はよくわかる。自分もまだ行っていないのだった。
27 Jun 2001
いまだ活動が止まない伊豆七島の三宅島の火口は、直径が1.6キロメートルもあるという。かつては平坦だったのが今ではかなり陥没しているとのことだが、この陥没地形の直径が2キロメートルを超えると火山学上は「火口」ではなく「カルデラ」扱いになるのだそうだ。ともあれ、早いところ沈静化しないものかと思う。

最近、明治から昭和にかけて活躍した登山家である田部重治の『わが山旅五十年』という本を読んでいるのだが、とにかくその健脚に恐れ入る。たとえば二十代後半での話だが、北アルプスの薬師岳を有峰というところから日帰りしている。現在では有峰という場所はダム湖の下で、その上の折立というところから薬師岳山頂まで行くだけでもコースタイムで7時間半かかる。しかもこれは尾根筋ルートの話で、往時は沢筋を足袋に草鞋とかで行ったはずで、驚くほかない。

これが13日間をかけた北ア北部の山旅の一日にすぎないのだから余計に参ってしまう。有峰までだって富山の実家から歩いて行っている。薬師岳往復のあとは今はなき立山温泉に出て室堂経由で立山を往復し、ザラ峠・針ノ木峠を越えて長野の大町に出て蓮華温泉まで行き、白馬岳付近を往復してから糸魚川に出て、泊町というところで初めて徒歩以外の交通機関−汽車−に乗って実家に戻っている。一日10数時間の歩きも珍しくない。昔の人はほんとうによく歩いたものだ。交通機関がほとんどなかった時代だから、足腰の出来が現代人とは基本的に違うのだろう。
28 Jun 2001
田部重治の話の続き。昨日書いた話は別な著作『山と渓谷』(<---雑誌ではない。タイトルが同じなだけ)の中にも「薬師岳と有峰」というタイトルで書かれている。こちらの方がやや詳しい。時間も書いてあって、朝方5時前に有峰を発ち、薬師岳を往復して夕暮れに戻ったという。いったい荷物は何を背負っていったものやら。相当な軽装で行ったもの、と信じたい。

しかしこの人、木暮理太郎らと共に槍ヶ岳から剱岳へ縦走したときは、岩角で切れるから一日一足として草鞋を六足持っていった、と言っている。そういう時代なのだが、よく足裏を痛めなかったものだ。食料は一人当たり米三升。これに辛口の味噌。栄養は大部分がこの味噌でまかなっていたように思える。やはり大豆の力は偉大だということか。


ところで、自分にしか重要でないことを書いているサイトのことをダメヘボサイトとか言うようだが、「山」というわりと閉鎖的なテーマのサイトに突然それと全く関係のない、つまり「自分が体験した」とか「自分が好きだ嫌いだ」という以外に何の脈絡もないことを書き出すと、そりゃもう押しも押されぬダメヘボさなわけなのだが、自覚しつつ平気で以下にサッカーの話を(相変わらず言い訳が長い(笑))。今日は山の話はもうしないので、山以外の話や長い話が面倒な方はここで読み終わっていただいても構いません(爆)


さてさて、久しぶりにライブの試合。本日のお題は、『キリンカップサッカー2001 パラグアイ代表VSユーゴスラビア代表』at国立競技場、というわけである。日本代表が出ないからお客さん少ないだろうなー、と思っていたのは半分あたりの半分はずれ。キックオフ直前に着席した当日券のSS席は、メインスタンド前から11列目というとてもよい席。だからといってガラガラなわけではなく、観客は最終的に2万1千人入ったのだから、さすがストイコビッチとチラベルトの人気は絶大である。(改めてご紹介。ストイコビッチ;ユーゴ代表、名古屋グランパスエイト在籍の華麗な10番。不況が長引く日本に最後まで残ってくれた世界級スター選手。日本サッカー界はいくら感謝してもし足りない。チラベルト;あの川口能活が目標とする世界有数のGK。ピッチの内外でカリスマ度極大。立候補しさえすれば祖国で大統領になれるだろうと言われるほどの英雄だそうだ。)

もちろん最大の目当てはストイコビッチの最後となる代表ユニフォーム姿。メインスタンドに席を取った筆者の目の前で繰り出してくれた鮮やかなフェイントはすばらしかったものの、なぜか動きが悪く、けっきょくわずか30分で交替。競技場中から失望の悲鳴がこだまする。監督のサビチェビッチのいじめか?と思いもしたが、実際には右足ふくらはぎあたりを痛めたせいだった。23日に行われたJリーグ柏戦での負傷が癒えていなかったらしい(帰宅してからWEBのスポーツニュースで確認)。ユーゴ代表の青いユニの10番は、アイシングした右足を観客席に手で示しながらハーフタイムに裸足でベンチから去っていった。さすがに寂しそうだった。

試合の方はパラグアイが2-0で勝ったのだが、順当な結果だった。ビッグネーム2名を除けば、どちらもほぼB級代表チームなのだが、それでもこの南米のチームは伝統的な堅守速攻スタイルがそのまま受け継がれていて、見るものに賛嘆のため息をつかせてくれる。対する東欧のチームは、個人技はまぁまぁいいのだがチームの連携がなっていない、という悪しき伝統を体現していて、別な意味でため息をつかせてくれる。その個人技だって、ああパスミスが多かったり、2列目の飛び込みやら空いたスペースへの走り込みがないんじゃねぇ.....DFラインもなんかガタガタだったし....若手が多いからかなぁ。後半になるとやや持ち直していたけど。

しかしパラグアイは「チラベルト劇場」で盛り上がること盛り上がること。....きっと来年、パラグアイはワールドカップで日本に来るでしょうから、みなさんそのときはこの人をチェックしましょう。見てて楽しいと改めて思いました。前半でロッカールームに退いたピクシーのほうといえば、それでも試合後に再度ピッチに出てきて観客に静かに挨拶していた。...やっぱり行ってよかった。本物はできるだけ自分の目で見ておかないと。

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