Preface/Monologue1998年12月


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晩秋の尾瀬にて 
ここまでのCover Photo:晩秋の尾瀬
3 Dec 1998
ときどき以前書いたものを読み直すのだが、誤字とか論旨不明確なところとかを発見することが多い。論旨の飛躍とかは現状の筆力の無さの故で、今後書いていくもののなかで少しずつ向上するよう努力するものとしても、誤字は不注意なので赤面ものである。
「八風山から荒船山」を読み直していると、「日本的漂泊」を「日本的漂白」とか書いていたのに気付く。やれやれ、芭蕉や西行は塩素系と酸素系とどちらを使っていたのだろう、などと苦笑する。とりあえず修正する。

こういった誤りについてはご指摘下されば幸いです。謝礼は出ませんが(笑)。
4 Dec 1998
写真家の前田真三氏が先月の21日に亡くなられた。ご冥福を祈りたい。風景写真の第一人者の死と言うことで、一つの時期が終わったような気がする。

風景写真はとかく「きれいな風景」を撮ったもの、というイメージがあって、前田氏のものなど特にそうなのだが、かなり前からこの分野は広がりを見せ、いわゆる「いつも目にするような風景」や、「特に美しいとも思えないような風景」まで風景写真として認知されてきているらしい。
ある写真展で、初めてこの「風景写真」らしくない風景写真を見たときは、「なんだこれは」と思ったものだったが、中には自分がシリーズとして撮ってみようかなと思ったアイディアを既に先取りしている写真家もいて、当然向こうはプロなので技術はまるで問題にならないほどの差があり、「これはだめだ」とばかりに写真で独自世界を追及するという希望を捨ててしまったのだった。アイディア一つ潰れただけでそうなのだから、もとから大したことがないと言えばそれまでだが。

前田氏の写真は写真として素晴らしいものだが、「まだ残っている日本のきれいな風景」といった感じで、かなり保守的なものであることは否めない。だからこそ大勢の賛同を得られたと思うのだが、だから氏の写真は無意味だ、などと言いたいのでもない。言うなれば、氏の写真だけを風景写真とするのではなく、氏の写真に写されなかった部分も、私たちは意識しなくてはならない、と思っているということである。

とはいえ、そういう写真を私自身このhomepageに載せていないのだから、あまり偉そうなことは言えないようだ。なお、私は氏の『一木一草』という写真集を持っており、風景写真を撮る場合の参考にさせてもらっている。

Prefaceとしてはかなり固い内容で、かつ長いものになってしまった。雑記帳にすべきだったかもしれない。
7 Dec 1998
昨日の日曜日、連れと高尾山を起点に陣馬山方面へ足を延ばしてきた。
  
最初、そのことをこのprefaceに書いていたら長くなったので、「回想」として出すことにしたが、残念ながら写真は載せられない。なんと言ってもフィルムがまだ未現像だ。こういう場合はデジカメがあると便利だな、と思う。でもあの撮影感度ではやはり使いたいとはあまり思えない。多少時間がかかるにしても、昔ながらのフィルムのカメラの方がいいと思う。

しかしもう20年くらい使っている一眼レフは、撮影したネガの色がおかしかったり、ときおりファインダーの右3分の1が意味もなく露光したりと最近トラブル続きである。現像から写真が上がってくるのを見るとそういう状態で、当てにしていたのがこのpageで使えなかったことがたびたびある。

他メーカーに乗り換えると替えレンズが無駄になるので、さすがにそろそろ後継シリーズに買い換えを考えなければならないようだが、これがまた高くて高くて、そうおいそれと買えない代物なのだった。だから今はコンパクトカメラでとりあえずしのいでいる。でもこちらが常態になりそうな気もしている。
10 Dec 1998
今年こそは冬山に、と以前から思っていて、初心者向けの冬山講習に参加する予定でいたのだが、あてにしていた講習会が「体験してみよう」的要素が必要以上に濃く、その次のステップに向かう姿勢でいる人にはもの足りないものらしいと教えられ、結局とりやめにしてしまった。ようやく知らされた実技講習日程が日帰りで、そう大したことはできないよ、と言われたのも理由の一つ。

そうは言っても、ピッケルワークとか爪の多いアイゼンワークとかは見よう見まねではなくしっかり基礎を習っておきたいと思うので、やはり何らかの講習会に参加するところから始めなくてはならないと思う。

思っているだけだと、また何もしないで冬が終わってしまうので、今季はとりあえず冬用登山靴を履いて、そういう靴を履いていても恥ずかしくない山に行くくらいのことはしておこうと思う(冬用の靴はたいへん重いので慣れておかないと)。
11 Dec 1998
本日は休暇を取って、神奈川県は三浦半島の付け根にある鷹取山に行って、終日ボルダリングとトップロープクライミングを楽しんだ。

さすがに平日なのでクライマーは誰もいない。夕方になって二人ほどソロの人が来たくらいだった。ハイカーと犬を散歩させに来た地元の人のほうが断然多い。肝心のクライミングだが、初心者なので5.8程度のものを2ヶ所、4回ほど登った。同行者によれば「二大初心者壁」だそうである。その前後にはボルダリングをウォームアップとクールダウンの意味づけで行った。

ここは昔の石切場だそうで、切り出された跡の壁がクライミング対象になっている。ここにはスラブはなく、よくて垂直。岩質が砂岩なので崩れやすく、トップロープでしか登れない。登っている最中にも細かい砂がぼろぼろと落ちてきて目に入りそうになる。指先はヤスリをかけられているようだった。

一帯は公園になっていて視界は広く、午前中は近くの幼稚園児の一クラスが遠足に来ていた。何段かのちょっとした岩のテラスに子供たちが手と足をいっぱいに伸ばして登っていて、「親が見たら気絶するんじゃないかな」と同行者がコメントしていた。子供の一人には、記念に「くっつき虫」なるものをもらった。「勝手に名前をつけたの」と言いながら差し出すものを見ると、服にくっつく草の種だった。
13 Dec 1998
本日は関東南部は天気もよく風も弱く、絶好の山歩き日和だった。先週高尾山から眺めた奥多摩に行きたくなっていたので、まだ歩いていないコースの中から、川乗橋から川苔(かわのり)山に登り赤杭(あかぐな)尾根を下るというのを選んで歩いてきた。

川苔山へは青梅線鳩ノ巣駅から二度ばかり行ったことがあるが、今回歩いた川乗橋からのコースの方が沢沿いだったり眺めがあったりと変化があって面白いと思った。川苔谷にある百尋(ひゃくひろ)ノ滝は奥多摩屈指の名瀑だそうだが、現在は滝の上にある岩盤が崩壊して通行止めのため見に行くことはできなかった。登山道から谷底を見ると、いくつもの大きな岩がうずたかく積み重なっていた。
19 Dec 1998
年の暮れも押し迫ってきているのに、仕事でも家でもやることが捌けない。家の大掃除などとても一日では終わりそうにないので、早めに今日の土曜日あたりから始めたのだが、未読の雑誌とかが多くて捨てたくても捨てられず、不要なものを整理しているんだか単に古い雑誌を読んでいるんだかわからないといういつものパターンになってしまっている。
 大掃除は捗らないが、それでも年内にあと最低一回は山を歩きに行きたいなぁと思う。連れと二人で、山を下ったあとに美味しいものを出す店に入って地酒を飲む、というのをもう一度、と。
20 Dec 1998
今日は二度目の丹沢・広沢寺の岩場でのクライミングだった。
ゲレンデには、前回と違ってアイゼンの練習をしにきていた人はほとんどいなかったが、それでもどこかの山岳会や、ひょっとしたらガイドの人が行っている講習があって、盛況ではあった。

昼前後は暖かかったが、2時を過ぎる辺りから日が山の端に隠れて寒くなり、4時頃はフリースを着ていてもビレイしていて震えが来た。

前回とはまた違うルートを今回は登った(登ろうとした)が、鷹取山で初めて経験したレイバックとかが今回は全然できず、まだまだだなぁ、と痛感した一日だった。爪は割れるし、クラックにハンドジャムを決めようとしてテーピングしていない手は擦り傷だらけになるし、...でもいつものことだなこれは。
23 Dec 1998
今日は湯河原に足を伸ばし、南郷山から幕山にかけて歩いて、ついでに幕岩のゲレンデでも眺めてこようかと思って連れと二人で出掛けたのだった。

湯河原から南郷山へは一ヶ所道を間違えたものの問題なく着き、山頂では真鶴半島を見下ろしながらカレーを食べたりしたのだが、そのあとがまるでよくなかった。
幕山へのルートをまったく確かめないまま、南郷山の稜線に連なる山を勝手に幕山と思いこみ、不十分な仮払いとスズタケのボサに行く手を阻まれながら着いた山頂は、あとから調べてみるとまるで方向違いの星ヶ山という山だった。ガイドマップにもルートの出ていない山で、まさに篤志家向きの山を初心者を連れて歩いてしまったことになる。稜線のルートはいきなりスズタケの密生で行き止まりになり、ほんとに驚いた。
下りは登りとは別な尾根を無理矢理下ったが、夕方3時になってもまだ勝手のわからない山の中にいたので、かなり焦燥感に捕らわれた。

道が違う、と思ったときに引き返さなかったのが間違いだった。最大の誤りは等高線の書いてある地図を持っていかなかったことだ。低山だからと(南郷山も幕山も600メートル台)嘗めてかかったのが失敗だった。ともあれ、無事下れてよかった。
24 Dec 1998
クリスマス・イブだからと言って特別なことをするわけでもないのだが....
でもいつものよりちょっと高いワインを買ってきた。
26 Dec 1998
白山書房の「山の本」26号掲載の記事によると、読めない山の名前が増えているそうである。山の名前を読めない人が増えているというのではなく(実際には増えているだろうけど)、たとえば木暮理太郎あたりの時代に漢字で記録された山の名前が、今では地元の歳のいった人に聞いても読みがわからなくなっているということなのだそうだ。これは口承文化が衰退していることの表れだろうとあり、記事ではその原因に戦後教育の暗記主体を挙げていた。

だが主たる理由はそういうことではなく、そもそも人々の生活が、都会はもとより地元でも山から離れたことにあると思う。生活の一部でなくなった山の名前は、急速に忘却されていったのだろう。文化は、こうして失われていく気がする。

「山の本」は創刊以来読んでいるが、今号のもっとも興味を惹かれた記事はこれだった。「鷲羽岳」はワシッパ岳と呼ばれていたというのにも驚いた。

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