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ここまでのCover Photo:塩くれ場付近から望む王ヶ頭、美ヶ原
1 Aug 2024
夕飯にところてんを食べた。
両親が子供の頃は、夏祭りの出店でよく食べたという。
農村地帯に生活していた母は、娯楽を求めてあちこちのお祭りに遠征していた。
ところてん以外に何があっただろう。
まだまだ、よく歩いた時代だったと思う。
5 Aug 2024
イギリスのアニメ映画『風が吹くとき』を観る。
田園地帯の一軒家に住む仲のよい老夫婦。3日後にミサイル攻撃があると聞き、「こうすれば安全」という政府の説明を鵜呑みにして、外したドアを立てかけただけの”室内核シェルター”を造る。(恐ろしいことに、この「説明」は実話)
”その日”の後、ガスも水道も電気も電話も止まり、ラジオすらどの局も鳴らない。しかし呑気に郵便配達を待ち、明日は町の薬局に行こうと話す。水道が止まっているので雨水を溜めて飲み水にしてしまう。倦怠感、全身の発疹、脱毛の症状が現れても、歳のせいで済ます。「放射能なんて見えない」。
「すぐに助けが来て、いい薬を処方してくれる」。
そう信じる二人が向かう先は、緩慢な死。
38年前の映画。
世界の認識は、当時より進んでいるのだろうか。
少なくとも、自国は核保有国だとか平気で言うようなところは、進むどころか後退していそうだ。
10 Aug 2024
谷川岳へ。ロープウェイを使っての天神平からの往復。楽だろうと思っていたがそうではなかった。これは下から登ったら相当に大変だろうと思う。
索道を下りた8時前に天神平から眺めた耳二つは晴れた空に鋭角のピークを突きだしてじつに格好いい。彼方に対する朝日岳が雄大な姿を見せてここがすでに標高の高いところだと教えてくれる。
熊穴沢避難小屋までは木道が多くてアップダウンがあっても随分と歩きやすかったのだが、避難小屋から先は鎖も下がる岩場もあれば枕大の岩が出た道のりもあり、かつ登り一辺倒なので在宅勤務が続いて運動していない身にはかなり堪える。追いついてくる人たちに先に行ってもらいながら自分のペースで登る。
朝の9時前なのに稜線にはすでにガスが沸き上がり、朝日岳も山頂部は見えなくなりだしていた。上越国境稜線はともかく、平頂の吾妻耶山に大峰山、上州三峰山や子持山、小野子三山に榛名山は明瞭だった。赤城山も三峰山の上に雄大な裾野を伸ばしている。さらに左手には上州武尊の山塊も大きい。
行程2/3の地点である”天狗の留まり場”なる大岩の脇に来ると霧雨混じりの風がかなり強くなった。ウィンドブレーカを着込む人もいる。どうなることやらと登り続けると風は弱まった。せめて午前中は雨は降らないでくれと念じつつ開けた場所でガスの合間を伺うと一面の笹原。森林限界はとうに超していた。
三角点のあるトマノ耳はガスで眺望なく、人が多くて腰を下ろす場所もなく早々にオキノ耳へ向かう。最高地点も同じくガスに覆われていたが、トマノ耳よりは休めそうな場所が多い。晴れていさえすれば湯桧曽川の谷間を見下ろせる場所に岩を背にして腰を下ろし、目を閉じ長いこと休憩した。
オキノ耳到着から半時くらい経ったか、あちこちから歓声が沸き上がる。目を開ければガスが晴れ、川向こうの稜線が真正面に。立ち上がって見下ろせば、足下すぐ先から断崖が始まり、おそるおそる見下ろせば険悪な急崖をまとう支尾根の数々、その先に湯桧曽川が遠く細く流れる。予想外に高く危ない場所に自分はいるのだった。
帰り、肩の小屋に立ち寄って飲料を求めつつ、小屋番の方に本日の宿泊状況を窺うと、予約とキャンセルとで増えたり減ったりだという。台風の影響らしい。「しかしここ(谷川岳)は天気予報があてにならないですからね。」まったくそのとおりで、長らく足が向かなかったのもそれが一因でもあった。今日は空気の澄んだ快晴とはいかなかったが、眺望の点では十分満足できるものだった。
小屋の中を見回し、ひなたやあおい達が休んだ寝棚を見上げ、「ヤマノススメ」の神棚(?)を眺める。外に出てみると多数のハイカーが食事休憩していた。ガスは完全には晴れなさそうだが早々に天気が崩れることはなさそうだ。登りでくたびれた脚の筋肉に限界が来ないよう、慎重に下っていった。
登ったのが土曜日だったのでじつに山中は賑やかだった。足の速い人たちもいれば自分と同じくよく休憩する小さな子連れの家族もいる。山中ではぐずる子どもは見なかった。谷川岳に来るような親子はきっと外遊びをよくするのだろう。
16 Aug 2024
「前例がない」と言われたら、「何事にも最初がある」と返したい。
18 Aug 2024
炎暑の季節、花笠踊りも終わった山形へ。山寺と蔵王を訪ねに。
山形駅近くで車を借りて山寺へ。公共の駐車場のようなものはなく、門前町にあたるそこここに民間のものがあって空いているところに駐める。季節柄、ソフトクリームやかき氷が目を惹く土産物屋街を抜けると登山口。とはいえ山道ではなく立派な石の階段道。寺だから当たり前か。
名のある霊域だからそこここに霊神碑や石仏、祠が建ち並ぶ。山域は凝灰岩で構成されているらしく、だからかところどころ大小の窪みが発達し、そのなかが格好の石仏鎮座場所になっている。蜂の巣のように穴が空いた場所もあり、秩父の観音山でも見られるタフォニらしい。このような地形上の奇観も山寺がここに創建された理由なのではと思えた。
通称で山寺と呼ばれる宝珠山立石寺は総称のようなもので、本堂にあたるのは麓近くの根本中堂であり、参道終点に如宝堂があり、通称奥の院と呼ばれている。ここに至るまで1,000段近くある階段道を登るので山寺なわけなのだが、好天の夏に訪れたものだから拭う汗で手持ちのハンドタオルが奥の院に着く前に雑巾状態になる。ペースはそれぞれだが老若男女みな汗まみれで登っている。芭蕉もこの季節に来たようだが登ったのは3時過ぎだったらしいので、もう少し涼しかったかもしれない。
崖上に張り出すように立てられている五大堂でJR仙山線も走る谷あいを眺める。途中の塔頭でご朱印を頂きがてら、振り返って目に入る大きな山の名を訪ねたところ瀬ノ原山とのことだった。その左手の奥にある高い山が昨年登った南面白山だろうか。面白山は(仙山線の通る谷間の左奥になるようなので)見えないと聞いたが、五大堂でもそれらしいのは目に入らなかった。
山寺を谷間で挟む山腹にある山寺芭蕉記念館に立ち寄る。企画展テーマは「妖怪」でいかにも夏らしい。高台にある敷地を山寺側に歩いて行くと向かいの山腹に五大堂が窺える展望地があった。記念館のすぐ近くには山寺後藤美術館だった建物がある。コロナ流行時に休館し、そのまま閉館してしまったらしい。このあたりはいわば文教地区の趣で建物の景観もよく、もったいないものだと思う。
山寺の建つ尾根筋を北に詰めていくと雨呼山(あまよばりやま)という905mの山に至るのだが、この山の北北西方向にある登山口近く、山寺からすると尾根を回り込んだ先にある”ジャガラモガラ”という奇妙な地形を見に行く。山形県公式観光サイトの記述によると、「東西約90m、南北約250m、深さ約100m大きなのくぼ地である。その中でもくぼ地の南端にある550mの等高線で囲まれた東西30m南北62mのすり鉢状のくぼ地を通称ジャガラモガラと呼んでいる。真夏でも摂氏3度から8度の冷風が地中からふき出しており、大すり鉢状の窪地であるが、底には少しも水がたまらない。植物は底にいくほど高山性」。
林道を詰めた先で車を降り、山道を10分ほどでそのジャガラモガラの窪地縁に出る。木道の終端に備えられた温度計では外気温は25度だが、風穴の温度はなんと5度と表示がある。見渡すと確かに森林限界のように窪地内には高木がない。しかもここに至るまで目にしなかった花々が咲いている。木道下に広がるボールの底のような地形は低い茂みに覆われ、ところどころ目に入る切開きには砂利より大きい白い石が撒かれたように広がり、両手が入るほどの穴が空いている。ロープで区切られた中に下りてみて、穴のうちの一つに手をかざしてみると、驚くほど冷たい風が吹いてきた。
保護のためか、最低地点には行けないようになっていたが、きっと冷蔵庫の中のような気温だろう。冬場に凍った氷が地中内にあって、その冷気が夏でも吹き上がってくるような説明があった気がするが、見上げる高さの斜面が取り巻くなかでのこの寒冷さはなかなか不気味だった。文字通り体感すべき場所であり来た甲斐はあったが、そろそろ日が傾き出す時刻、外気温が下がれば茂みに隠された最低地点からなにかが這い出てくるかもしれない。山道を戻りながら後ろを振り返ったのは、名残惜しさばかりではなかったかも。
19 Aug 2024
蔵王温泉から中央ロープウェイで熊ノ岳往復。地蔵山の山腹に上がって、最高峰の熊野岳を訪ね、馬の背稜線に出て御釜を眺める。
20 Aug 2024
午後はところにより雷雨があるとの予報を受け、山歩きはやめて高畠町まで足を延ばし、日本三文殊の一つ亀岡文殊と犬の宮・猫の宮、阿久津八幡宮を訪ねた。
山形市内に戻り、かつて県庁舎であった”文翔館”を見学。館内の喫茶で美味しいキッシュセットを食べる。すぐ近くの湯殿山神社里宮に詣でた後、山形城址近くの山形美術館にて川瀬巴水の版画展を。やはり巴水は夜の景色がよい。城址を歩き回り、旧済生館本館を眺めて宿に戻る。
21 Aug 2024
帰宅日。刈田峠に上がって南蔵王を屏風岳往復。蔵王温泉に入り、西蔵王公園で時間を潰して帰宅。
24 Aug 2024
前橋文学館へ、『杉本真維子展』に。
まだ梅雨が明けないころ、『皆神山』という書籍が目にとまり、なにかと思えば昨年出た詩集だった。山の本ではないものの書名に加えて装丁のデザインにも心惹かれ、内容を確認してみたく現実の大型店舗に出向いてみたが一棚ほどの詩集コーナーには在庫がなく(並んでいるのは有名詩人のものばかり)、ならばいいやとばかりに注文した。
見開きに一篇の詩が全部で二十四。詩の一行一行は比較的平易に見えても、進むにつれて世界が転回し、どこだかわからない場所に連れて行かれる。もう一回読み直す。やはり同じ。決して戯言ではない。わかりたいと思わせる、なにか根源的なものが背後にあることを感じさせる。
この詩人を特集した雑誌を借りて諸氏の評を読んでみたが、結論として感じたことは解釈は読み手ごとだということ、正解を強要するものではないということ。過去のイベントで「腹が立つほどわからない!」と直接詩人に怒ったという人もいたそうだが、発言者の性格なのか、時代の風潮なのか。後者が前者を強化して、グレーな状態に耐えられない人を量産しているのかもしれない。
とはいえ「これは何か」をさらに考える材料となるかと、これもたまたま知った前橋文学館での展覧会に遠路はるばる出かける気になった。しかも炎暑の24日に詩人本人が対談イベントに出席するという。では肉声を聞いてみようとその日に青春18きっぷで。
対談イベントはとくに有意義だった。詩の連ごとに主体が変わっていっている、とか、読み手が主体として読めるよう象徴化は回避されているとか、読む上で楽になる指摘が詩人や対談者からあった。詩人からは、言葉を選ぶことはもちろん、句読点の位置、改行、行空けに至るまで、表現するべきものを表現するために脳を酷使する、言葉を削っていった先に、とうとう言葉自体がなくなってしまった状態に到達したことがある旨も発言があった。
この状態は生体としての人間として危ない状態だったらしい。左脳を自ら停止させる営みだったとすら思える。詩本体から感じられる原初的な力はそのような姿勢のもたらすものなのだろう。言葉にならないものを言葉を介して感じることはじつにもどかしい。しかしこういう営為が対話や理解に通じるものなのだろうと思う。
イベントが終わって館外に出たら雲は黒く低く、雷鳴が響いていた。前橋駅まで徒歩20分の半分ほどのところで大雨が降ってきた。雨に降られても出向いた甲斐があったと思いつつ駅に急いだ。
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