Preface/Monologue1999年4月


前月へ 翌月へ 以前のPreface/Monologue(index)に戻る ホームページに戻る


奥多摩・御前山
ここまでのCover Photo:奥多摩の御前山
3 Apr 1999
もう四月だ。関東南部の平野では桜が見頃になっている。でも昨日は風が強かったし、今日は午後になって天気が下り坂だ。もうかなり散ってしまっているかもしれない。

桜はやはり光が当たらないと美しくない。かつて京都の平安神宮で桜の花が頭上の空を覆い尽くしている空間を見たことがある。日の光が花々を透き通って薄紅にあたりを染める様は、天上世界もかくやというぜいたくな雰囲気だった。

夜は夜で、照明に照らされた桜は不気味な美しさで昼間の優しげな色合いとは全く別ものに見える。少女が突如として大人びたといったところか、いやもっと凄みがある。一昨日から昨日の夜の明けない早朝までのあいだ多摩丘陵近くの職場で過ごし、タクシーで小一時間ほどかけて帰宅したのだったが、車窓から見る多摩川の土手の桜がいずれも満開で街灯に映えて美しく、最期の最後に得した気分になったのだった。
8 Apr 1999
昨日は代休を取って家でゆっくりした。近所で盛りの桜を撮影しようとカメラを持って外に出たら、通り雨に降られる。春雷が響きわたり、豪雨になるかと恐れたが普通降りで済んだ。傘を持ってこなかったので濡れながら歩いたが、背負って歩いたザックの中味を帰宅してよく見てみたら折り畳み傘が入っていた。損をした気分になる。

近所では葉も出ているのがあるが、桜は今がピークだ。でもマンションを背景にした桜は絵にならない。山の中で日の光を浴びて常緑樹の中で霞んでいるのがいちばん引き立つと思える。だがJR中央線から見たお濠端の桜並木は文句無しに綺麗だった。桜は不意打ちしてくる光景がもっとも美しい。「そうか、ここにも....」とか、「こんなところに....」と思えるときが。
11 Apr 1999
しかし関東はよく雨が降る。土日が連続して好天だったときは3月半ばあたりからないんじゃなかろうか。

岩波文庫から出ている寺田寅彦の随筆集の第一巻を読んでいたら、長い船旅の果てに着いた欧州はモンブランの氷河を渡っているときにウェストンという英国人と会った旨が書かれていた。もちろんあのウェストンである。なんでもこの登山家の方から「君は日本人かね」と訊ねてきたという。明治の日本では欧州には限られた人材しか行けなかったということがよくわかる。

寅彦は科学者だが山にはそう興味がなかったらしく、随筆にはウェストンが8年も日本にいてたいがいの高山に登り、富士山にも6回登ったと自己紹介したとしか記載していない。他には彼の奥さんが宿屋の前の草原で靴下を編んでいたと書かれているだけで、ひどくものたりなく思わされた。
14 Apr 1999
いつ出るかと思っていた昭文社の山と高原地図の1「利尻・羅臼」を帰宅途上の書店で見つけた。やっと出たか、という感じだ。実際に使うあてはまるでないが即座に購入し、家に帰ってからすぐ広げてみる。

「皇海・赤城・筑波」と同じ裏表カラーの新様式で、利尻・礼文・羅臼・斜里・阿寒の1/50,000地図が区分されて掲載されている。等高線が色塗りされているおかげで、利尻山はもとより斜里岳がはっきりとした円錐系のコニーデ火山だとよくわかる。雄阿寒岳がカルデラの真ん中に噴出して、おそらくもとからあった大湖を阿寒湖とパンケトー・ペンケトーに分けてしまったのも明瞭に見て取れる。ほとんど火山地形ばかりを集めた結果になっていて、隆起褶曲によるものでないため構造が分かりやすい。

斜里岳を北から登る玉石沢コースには熊注意、熊注意と繰り返されている。やせ尾根があって熊も多いから静かなコースだ、と書かれているのには苦笑いせざるを得なかった。
18 Apr 1999
あいかわらず山に行けていない。身体中筋肉痛で、運動不足とストレスはたまる一方。

山に行けない代わりに手軽に自然に親しむ、というわけではないが、いつものように部屋に置いている観葉植物などに水をやっていたら昨年4月にもらったセントポーリアに久しぶりにつぼみが付いているのを発見、嬉しくなる。ほぼ一年間ほどただの観葉植物に成り下がっていたので、すっかり花は諦めていたのだが、季節が巡ってくれば咲かせることができるということらしい。ここはひとまず経過を見守ることにしよう。

実は最近もらった胡蝶蘭の鉢植えがなかなか難敵である。水やりなどの手間はかからないとのことだが、来年も花を咲かそうと思うと難しいものらしい。いったいどうしたらよいのか、今から悩んでいる。とりあえず園芸のサイトなどを見て知識をつけるところから始めるつもり。
21 Apr 1999
7週間ぶりに山歩きをする。仕事を休んで榛名山の水沢山から相馬山への道をたどる。水沢山を下って榛名湖とは反対側から相馬山を目指していくと、オンマ谷との分岐のところで立て札が立っていて「相馬山へのルートは立ち入り禁止」と書いてあり、びっくりしてしまう。だが危険を感じたら引き返そうとばかりに進んでいったら、結局全部歩いてしまった。

こういうことをしていると人のことをどうこう言う資格がなくなっていくのだが、それでもやはり浅間山の遭難(メンバー4人のうち3人はビバークの末に凍死、1人は滑落)についてはいろいろ考えつつ歩いた。

昨日の新聞記事によると、遺族のかたや知り合いの方が「あんな低い山で死ぬだなんて」というコメントを出されていた。「過去に登っている八ヶ岳とかに比べれば低い」といった意味だろうとは思う。2,568メートルの浅間山は奥秩父並の標高であり、登山口からの標高差はなくてもこれを低山と言う人は多くないはずだ。しかも4月に吹きっさらしの2,500メートルで軽装のところを風雨に叩かれれば、完全装備の冬の八ヶ岳より困難度は高いはずである。
結果論になるが、できるだけ早い時期に引き返すか、最初から登らないかにすべきだっただろう。ただ、グループ登山で撤退を決意するのは決断力と状況判断力を備えたリーダーがいても難しいと思う。だがいないともっと難しいはずだ。

では今日の自分はどうだったか。結果として無事に山行を終えたことをもって、状況判断は正しかったと言えるのだろうか....。

 (山に行かれる方へ:僭越ながら私の行動については真似をしないようお願いいたします。真似して事故が起きても責任は取りません。念のために付け加えますと、責任云々以前に、事故に遭うのは進むのを決断した当の本人and/or同行者です。)
27 Apr 1999
五月の連休は目の前である。今年は昨年と違って晴れの日が多そうだが、それでも週間天気予報では3日あたりが雨で、ちょうどこのころ出掛けようとしているものだから残念ではある。予報がはずれてくれないものか。

最近、岩波新書の青版で深田久弥が書いている「ヒマラヤ登攀(とうはん)史」というのがあるのを知り、さっそく買って読み始めた。さすがにリズム感ある文章で読みやすいが、小学校のときに読んだヒマラヤ登山史の小学校高学年向けノンフィクションのほうが深田久弥の文章より面白かったと思いもした(その本では登山隊のメンバーの性格描写まであり、小学生にして「山男必ずしも善人ならず」を教えられた)。

新書は第一版が出たのが1969年なので記事の古さは否めないが、それでも登頂まで31名の犠牲を出した「魔の山」ナンガ・パルバットの登頂までの記録などは、30年ぶりに(深田版でだが)読んでも、「それでも山に登る」人間の姿に畏敬の念を持たされるものだった。
30 Apr 1999
今日は愛鷹連峰を縦走してきた。前日に御殿場に泊まり、北の越前岳から始めて、呼子岳、鋸岳岩峰群、位牌岳、袴腰岳、愛鷹山と歩いた。

愛鷹神社から越前岳に登る途中にある愛鷹山荘は建て直されて、予約制のきれいな小屋になっていた(定員6名)。無人小屋なのに予約制とは、と思いもするが、個人所有の小屋であることを考えればそれも当然かという気もする。水場も近く、谷筋の彼方に箱根の山も望め、一晩過ごすにはよさそうな小屋だった。

好天に恵まれた一日で、稜線からは丹沢山地、道志山塊、富士山、南アルプス、駿河湾と駿河平野、天城山、箱根連山の眺めを終日楽しめた。ピークとしては越前岳からの眺めが最もよかった。

鋸岳の岩峰群(礫岩が多いので全体にぼろぼろ)はなかなかのものだった。岩場の距離は両神山などに比べれば短いが並の難易度ではない。子供連れの場合や強風または雨天時は通過を見合わせた方が賢明と思えた。

前月へ 翌月へ 以前のPreface/Monologue(index)に戻る ホームページに戻る


Author:i.inoue All Rights Reserved