ソクラテス
Sokrates(469B.C.-399B.C.)


J. L. ダヴィッド「ソクラテスの死」(1788)から

ソクラテスの主張
1)魂の配慮
  「人は身体や金銭のことよりは、魂が出来るだけ優れたものになるように配慮するべきである」
2)無知の知
3)徳(=知)の追求(問答法と産婆術)


1 自然から人間(魂)へ

プラトン『パイドン』(96−98)

若い頃、私も、<自然(ピュシス)についての探求>と呼ばれる、かの智慧を、必死に追い求めた。各々のものがそれによって生成し消滅し、それから成り立っている、全てのものの原因を知ることは、素晴らしいことだと思えたのだ。
ある人たちが言うように、暖かいものと冷たいものが腐敗するとき、生物が形づくられるのだろうか。*
我々が何かを考えるのは、血液によってだろうか、それとも空気や火によってだろうか。**
それとも、そんなものではなく、頭脳が、見たり聞いたり臭いをかいだりする、あらゆる感覚を生み、そこから記憶と想像が生じ、想起と想像が定着して認識が生じるのだろうか。***
* アルケラオスの説
**エンペドクレスは血液、アナクシメネスと、アポロニアのディオゲネスは空気、ヘラクレイトスは火、と言った。
***ピュタゴラス派の、クロトンのアルクマイオンの説

ある人が私に、アナクサゴラスの本の中から、<理性(ヌース)が秩序を与え、全ての原因である>と、読んでくれるのを聞いたとき、この原因は私を歓ばせ、<理性が全ての原因である>というのは、或る意味で非常に正しいと思われた。もしそうなら、秩序を与える理性は、全てを秩序づけ、それぞれが最善の仕方であるように定めるだろうと、私は考えたのだ。
しかし、この本を読み進むにつれて、この人が、理性によって何も秩序付けず、物事を秩序付ける原因について何も述べないでおいて、空気やエーテルや水やその他の下らないものを持ち出してくるのを見て、私の期待は打ち砕かれた。実際、それはちょうど、「ソクラテスの行為は全て理性によってなされた」と言っておきながら、私の個々の行為の原因を説明しようとして、「私が今ここに座っている原因は、私の身体が骨と腱からできており、骨は堅くて関節によって互いに隔てられており、これに対して腱は伸び縮みし、肉と皮と一緒に骨の周りを囲んでいる。だから、骨がその結合部において動くとき、腱が伸び縮みすることによって、私がこの瞬間に四肢を曲げることが可能になる。これが今、私がこのように脚を曲げて座っていることの原因である」とでも言うようなものだ。


2 無知の知

プラトン『ソクラテスの弁明』(21a-e)

[私の友人の]カレイフォンは、かつてデルフォイに赴き、大胆にも次のような問いに神託を求めました。――皆さん、騒がないで聞いてください――、つまり彼は、私よりも賢い者がいるだろうか、と尋ねたのでした。巫女は、賢い者はいない、と答えました。この事については、彼はもう死んでいるから、彼の兄弟が証言するでしょう。
私がなぜこういう話をするのか、考えてみて下さい。何処から私に対する非難が来たのか、皆さんに説明しようとしているのです。――これを聞いた後で、私は独り考えました。神は何を言おうとしているのだろうか、いったい何を示唆しているのだろうか、と。というのは、自分が何事においても賢くはないということは、私自身よく解っているからです。私が最も賢いと言うことによって、神は何を意味しているのだろうか。神が嘘を言うはずはない。それは神にふさわしくはない。
そして長い間、神が何を言おうとしているのか、私には理解できなかったのですが、ついに、次のような仕方で実際に調べてみることにしたのです。私は一人の賢いと思われている人の所へ赴き、そこで、こう言って神託を反証することが出来るだろうと考えたのです、「あなたは私を最も賢いと言ったのだが、この人は私よりも賢い」と。
そこでこの人を調べてみると、――名前を挙げる必要はないでしょうが、彼は政治家でした――皆さん、私はこの様な経験をしたのです。彼と話していると、私にはこう思われました、この人は他の多くの人からも賢いと思われており、またとりわけ自分自身でもそう思っているのだが、断じてそうではないと。そこで私は、賢いと信じているようだがそうではない、と彼に説明しようとしました。その結果、私は、彼とそこにいた多くの人たちから、憎まれるようになったのです。
その場から立ち去りながら、しかし私は独りこう考えました。この人より私の方が賢い。なぜなら、二人とも、美しいものについても善いものについても何も知らないのだが、この人は知っていると思っている。しかし私は思っていない。自分が知らないということを、彼は知らないが、私は知っている、と。
この後、私は彼よりももっと賢いと思われている他の人の所へ赴きましたが、全く同じように思われました。その結果、この人からも他の多くの人からも、憎まれるようになったのです。


3 徳(欲望の肯定と快楽主義)

*「徳(アレテー)」は、直訳すれば、「1)よさ(goodness)、優秀性=卓越性(excellence)、2)高貴さ(nobility)、3)美徳(virtue)」といった意味。

プラトン『ゴルギアス』(491e−495b)藤沢令夫訳

カリクレス  すなわち、人は、正しい生き方をするためには、自分自身の欲望を抑制するようなことはしないで、これを最大限に許してやり、そして勇気と思慮をもって、その最大限に伸ばした諸々の欲望に十分奉仕し、欲望の求めているものがあれば何でも、その時その時に、これを充足させてやるだけの力を持たなければならぬ。しかしながら、けだしこのようなことは、とても世の大衆のなしうるところではない。そこで、彼ら大衆は、それに引け目を感じるがゆえに、こうした能力のある人たちに非難の矢を向けるのであるが、これも、つまりは、おのれの無能力を覆い隠そうという魂胆にほかならぬ。そして口を開けば、放埓は醜いことだと主張して、さきの話の中で私が言ったように、生まれつきすぐれた素質を持つ人たちを抑えつけ奴隷化しようとするわけだ。そしてまた、自分たちは快楽に満足を与えることができないものだから、しきりと「節制」や「正義」を誉めたたえるけれども、それは要するに、自分たち自身に意気地がないからなのだ。
なぜなら考えてもみよ。もともと初めから王子の身分に生まれたような人たち、あるいは、自らのもって生まれた素質によって独裁君主の位に就くとか、権勢ある地位を獲得するとかして、何らかの支配権をわがものとするだけの力を持っている人たち、そういう人たちにとっては、本当のところ、およそ「節制」や「正義」ほどに醜く害があるものが何かあるだろうか。そういう人たちには数々の善きものを享受することが許されていて、妨げるものは何もないのに、こちらから進んで世人大衆の法律や言論や非難などを自分たちの主人として迎え入れねばならぬというのか。そうした人たちが、正義や節制と称するあの結構な代物に従うならば、そしてそのおかげで、自分の味方の者たちのために、敵どもに与えるよりも何ひとつとして多くのものを分けてやることができないとしたら、どうして惨めにならずにいられようか? それも、支配者として自分自身の国に君臨していながら、そんな無能者でいなければならぬとしたら!
いや、ソクラテス、あなたは真実を追究していると称しているが、よろしい、それなら、そのありのままの真実とはこうなのだ。すなわち、傲(おご)りと、放埓と、自由とが、ひとたびそれを裏づける力を獲得するとき、それこそが人間の徳というものであり、幸福にほかならないのであって、それ以外の、あのお上品ぶったいろいろの飾り、自然に反した人間の間の約束事などは、馬鹿げたたわごとにすぎず、何の価値もないものだ。

ソクラテス まことに堂々と、カリクレス、君は議論を徹底させ、率直に披露してくれる。じっさい、他の人たちなら、心には思っていても口に出してはなかなか言いたがらないようなことを、君は今、あからさまにぶちまけてくれているのだから。
しからば、僕からも君にお願いしておこう。いかなることがあっても、その追求の手を緩めないようにしてくれと。人はいかに生くべきかということが本当に明らかになるためにね。
では、どうか言ってくれたまえ。君の主張によれば、人間本来のあり方にかなったような者になろうとするならば、諸々の欲望を抑制するべきではなく、できるだけ大きくなるままに許してやって、何としてでもそれに満足を与える途(みち)を考えてやらねばならぬ、そしてまさにそれが人間の徳性にほかならぬと、こう言うのだね?

カリクレス いかにも、それが私の主張するところだ。

ソクラテス そうすると、何ものも必要としないような人たちが幸福なのだと言われているのは、あれは間違っているわけだね?

カリクレス もしそうとしたら、石や死人たちが一番幸福だということになるだろうからね。

ソクラテス しかしね、君の言うとおりだとしたら、生とは恐ろしいものではないか。というのは、じっさい、僕としては、エウリピデスが次の詩句の中で言っていることが本当のことだったとしても、それほど驚きはしないだろう。
「誰が知ろう、この世の生は死にほかならず
 死こそまことの生でないかを」
そして、我々は恐らく、本当は死んでいるのだとしてもね。事実、僕はこれまでに、それを裏づけるような話を、一人の賢者から聞いたこともあるのだから。つまり、その賢者の話してくれたところによると、我々の現在の生は実は死なのであり、肉体(=ソーマ)とは我々にとって墓(=セーマ)に他ならず、また、魂のなかのいろいろの欲望が住みついている部分は誘惑されやすく、あれこれと変動しやすい性格のものだという。そして、ある気の利いた男が、人間の魂のそこの部分を、それが<口説かれやすく(=ピタノン)信じやすい>というところから、名前をもじって「甕(=ピトス)」と名づけ、また、愚かな人たち(=アノエトス)を「アミュエトス」(秘儀によって清められぬ者たち)と呼び、さらに、そうした愚かな人たちの魂の中のいろいろの欲望が宿っている部分について、その放埓さと締りのなさを見てとり、これを「穴のあいた甕(かめ)」と称して、いつもそれが満たされないでいるありさまを比喩的に表現したということである。
かくして、この命名者が示そうとするところは、カリクレス、ちょうど君の意見と正反対のことだ。…ハデスの国(冥界)にいる者たちの中でも、このような者たちが一番惨めであり、彼らは穴のあいた甕(かめ)のなかへ同じように穴のあいた別の容器、つまり篩(ふるい)で水を運びつづけるのだということを示そうとしているのだ。僕にこの話全体を聞かせてくれた例の賢者の言うところでは、この命名者が「篩」というのは、魂のことなのだ。そして愚かな人たちの魂が篩に喩えられたというのも、そうした魂は、信念がないのと、忘れっぽいのとで、何事もしっかりと自分の中に持ちこたえることができないから、穴だらけな状態にあると見なされたためにほかならないということである。
これらの話にはいくらか奇妙に聞こえる点があるということは、十分認めなければならない。しかし、この話は、僕が君に証明しようと思っている事柄を、明らかにしている。僕は、何とかできるものなら、それを証明することによって、君を説いて、考えを変えてもらい、満ち足りることを知らぬ放埓な生活のかわりに、秩序を持ち、その時々に与えられている物で満足して、それ以上を求めないような生活の方を、君に選んでもらいたいのだが。
しかし果たして、君は、僕の説得によって方針を変え、秩序ある人たちの方が放埓気ままな人たちよりも幸福だと考えるようになってくれるだろうか。それとも、いくら僕がこうした物語を他にたくさんしてみたところで、君の考えはそれによっていささかも変わることはないのだろうか?

カリクレス そう、後で言った方が本当だろうね、ソクラテス。

ソクラテス よし、それなら、今のと同じ学派から考えを借りて、もう一つの別の譬えを君に話してみよう。問題の二つの生き方、秩序ある生活と放埓な生き方のそれぞれについて、次のように言うことを君は認めるかどうか、まあ、考えてみてくれたまえ。
今にAとBの二人の人間がいて、二人ともそれぞれ、たくさんの甕を持ってるとしよう。Aの人が持っている甕はいずれも傷のない健全なもので、その一つには酒、一つには蜜、一つには乳というようにして、その他たくさんの甕がそれぞれいろいろのもので満たされている。ただ、こういったいろいろの液体の、一つ一つの補給源はめったにないうえに、近寄り難く、それを手に入るためにはさんざん困難な苦労をしなければならないものとしよう。
さて、Aの人は、一度甕を満たしてしまえば、あとはもう注ぎ入れることもしなければ、それに気を使うということもなく、こうした点に関しては平静な落ち着きを保っている。これに対してBの人の場合、補給源に関しては、一応補給可能ながら困難な仕事であるというAの人と同じ条件にあるけれども、ただ、それを入れる容器の方が穴のあいた傷ものばかりであって、そのため彼は、昼となく夜となく絶えずそれを満たす仕事を続けていなければならない。そうしないと、極度の苦痛を味わうことになのだ。
果たして君は、それぞれの生活がこのようなものであるとしたら、放埓な人の生活の方が秩序ある人の生活よりも幸福だというだろうか。どうだね、こんな風に言えば、いくらか君を説得して、秩序ある生活の方が放埓な生活よりも良いということに承認させることになるだろうか。それともまだ説得するには至らないだろうか。

ではひとつ言ってくれたまえ。そのような生き方について君が念頭に置いているのは、例えば、腹が減ることやまた空腹の時にものを食べることなどだろうね?

カリクレス いかにも。

ソクラテス それから喉が渇くことや、乾いている時に飲むことなども、そうだね

カリクレス そうだ。また、その他のおよそありとあらゆる欲望を持ち、それらを残らず満たすことができて、それによって喜びを感じながら幸福に生きるということを言っているのだ。

ソクラテス よくぞ言ってくれた、素晴らしい友よ。どうかそういうふうに最初始めたときの調子を最後まで続けてくれたまえ。恥ずかしいと思ってするのは禁物だ。しかしどうやら、そういう僕の方も、恥ずかしいのを我慢しなければならなくなったようだ。
まず手始めに聞くが、人が疥癬(かいせん)にかかって、かゆくてたまらず、思う存分いくらでも掻くことができるので、掻き続けながら一生を過ごすとしたら、これもまた幸福に生きることだと言えるのかね?

カリクレス なんとも突拍子もないことを言う人だね、ソクラテス。まったく、大道演説家そのままだ。

ソクラテス さあ、とにかく、僕の質問に答えてくれたまえ。

カリクレス ではやむを得ない。そういうふうに掻きながら生を送る者も、やはり快く生きることになるだろう、と言っておく。

ソクラテス 快い生ならば、幸福な生でもあるだろうね?

カリクレス いかにも。

ソクラテス それはただ頭だけが痒いという場合なのだろうか…。それともまだ何か質問を続けるべきだろうか?
さあ、カリクレス、君は何と答えるかね、もし誰かが君に、これにつながるあらゆる問いを片っ端から次々と尋ねていったとしたら? そして、こういったような事柄の究極には、男娼たちの生活というものが考えられるが、そんな生活こそはまさに恐るべきものであり、恥ずべきものであり、惨めな生活ではないだろうか。それとも君は、そういう人たちでさえも、欲求するものが存分にかなえられるならば幸福であると言う勇気があるのかね?

カリクレス そんなにいかがわしいことへ話を持っていって、ソクラテス、あなたは恥ずかしいと思わないのか。

ソクラテス 一体、こんなところへ話を持ってきたのは、この僕なのかね、高貴な友よ? それとも、それはただ何でもかんでも喜びを感じるものでありさえすれば、それがどんな喜び方であろうとも、幸福なのだと言ってすましていて、いろいろな快楽の中でどれが善い快楽で、どれが悪い快楽であるかを、一向に区別しようとしない男なのかね?
さあ、今からでも遅くはないから、言ってくれたまえ。君は、快と善とは全く同じもだのと主張するのかね、それとも、快楽の中には善からぬ快楽もあると主張するのかね?

カリクレス では快と善とが別のものであると言って、私の説が首尾一貫しなくなると困るから、まあ両者は同じものだと主張しておこう。

ソクラテス そんなことでは、カリクレス、初めの約束を裏切るというものだ。そして君はもう、僕と一緒に物事の真相を徹底的に調べることができないことになるだろう。仮にも君が自分で本当にこうと思った事柄に反するようなことを言うようではね。

カリクレス そういうあなたも、そうしているではないか、ソクラテス。

ソクラテス それなら僕の方も、もし本当にそうしているのなら、君と同じように、正しいやり方ではないということになる。しかしまあ、君、よく注意して考えてみてくれたまえ。何が何でも楽しみさえすればそれが無差別に善いことだとは、おそらく言えないのではあるまいか。なぜなら、それがその通りだとすると、そこからの帰結として、さっきほのめかされたような、ああいう多くのにいかがわしい事柄が、他にもまだ、いろいろとたくさん出てくるのは明らかだからね。

カリクレス と、まあ、あなたは思うわけだ、ソクラテス。

ソクラテス しかし君は本当に、カリクレス、そんなことはあくまで頑強に主張し続けるつもりかね?

カリクレス そうだとも。


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