プラトン
Platon (427B.C.-347B.C.)

プラトンの学校
ジーン・デルヴィル「プラトンの学校」(1898)


「徳は教えられるか」というテーマは、プラトンの初期対話篇の重要なテーマの一つである。
人が間違った行為をするのは、何が善いことかについて無知だからだ、とソクラテスは言う。
何が本当に善い事なのか、解っていれば、人はそれを目指して行動し、善き者、優れた者(=徳ある者)になるだろう。
そうした知識の根拠を、「イデア(形相)」という言葉で、プラトンは表現した。

イデア(idea)論

『パイドン』(100-101)(池田美恵訳)

「純粋な美そのもの、善そのもの、大そのもの、その他、すべてそのようなものがあるという前提だ」
「ぼくの考えでは、もし美そのもの以外になにか美しいものがあるとすれば、それが美しいのは、かの美にあずかるからであって、ほかのいかなる原因によるのでもない」
「すなわち、ものを美しくしているのは、ほかでもない、かの、美の臨在というか、共有というか、その他その関係はどのようなものであっても構わない。その点は、いまのところ、なんとも確言しないが、ただ、ぼくの断言するのは、すべての美しいものは美によって美しいということだ。」

『国家』第6/7巻(藤沢令夫訳)

1)<善>のイデア

「多くの美しいものがあり、多くの善いものがあり、また同様にしてそれぞれいろいろのものがあると、われわれは主張し、言葉によって区別している」
「われわれはまた、<美>そのものがあり、またこのようにして、先に多くのものとして立てたところのすべてのものについて、こんどは逆に、そのそれぞれのものの単一の相に応じてただ一つだけ実相(イデア)があると定め、これを<まさにそれぞれであるところのもの>と呼んでいる」
「さらにまた、われわれの主張では、一方のものは見られるけれども、思惟によって知られることはなく、他方、実相(イデア)は思惟によって知られるけれども、見られることはない」

「太陽のほうもまた、それがそのまま視覚であるわけではないが、しかし視覚の原因であり、視覚そのものによって見られるのでではないかね?」
「それでは、ぼくが<善>の子供と言っていたのは、この太陽のことなのだと理解してくれたまえ。<善>はこれを、自分と類比的なものとして生み出したのだ。すなわち、思惟によって知られる世界において、<善>が<知るもの>と<知られるもの>に対して持つ関係は、見られる世界において、太陽が<見るもの>と<見られるもの>に対して持つ関係とちょうど同じなのだ」

「それでは、このように、認識される対象には真理性を提供し、認識する主体には認識機能を提供するものこそが、<善>の実相(イデア)にほかならないのだと、確言してくれたまえ。それは知識と真理の原因(根拠)なのであって、たしかにそれ自身認識の対象となるものと考えなければならないが、しかし、認識と真理とはどちらもかくも美しいものではあるけれども、<善>はこの両者とは別のものであり、これらよりもさらに美しいものと考えてこそ、君の考えは正しいことになるだろう。」

「ぼくの思うには、太陽は、見られる事物に対して、ただその見られるという働きを与えるだけでなくて、さらに、それらを生成させ、成長させ、養い育むものであると、君は言うだろう―ただしそれ自身がそのまま生成ではないけれども」
「それなら同様にして、認識の対象となるもろもろのものにとっても、ただその認識されるということが、<善>によって確保されるだけでなく、さらに、あるということ・その実在性もまた、<善>によってこそ、それらのものに具わるようになるのだと言わなければならない―ただし、<善>は実在とそのまま同じではなく、位においても力においても、その実在のさらにかなたに超越してあるのだが」

2)線分の比喩

「われわれが言うように、これら二つのもの[<善>と太陽]があって、一方は思惟によって知られる種族とその領域に君臨し、他方は見られる種族とその領域に君臨している。「見られる」(ホラートン)と言ったのは、ここで「天空の」(ウゥラノス)という言葉を使って、言葉(語源)の問題で学者ぶっていると君に思われたくないからだ。―まあそれはともかくとして、君はこうした二つの種類のものをわかってくれるだろうね。―すなわち<見られるもの>(可視界)と<思惟によって知られるもの>(可感界)と」
「ではそれらを、一つの線分[AB]が等しからざる部分[AC、CB]に二分された形で思い描いてもらって、さらにもう一度、それぞれの切断部分を―すなわち、見られる種族を表わす部分[AC]と思惟によって知られる種族を表わす部分[CB]とを―同じ比例に従って切断してくれたまえ。そうすると、相互に比較した場合のそれぞれの明確さと不明確さの度合いに応じて、まず見られる領域[AC]においては、分けられた一方の部分[AD]は似像を表わすものとして君に与えられることになるだろう。ぼくが似像というのは、まず第一に影、それから水面にうつる像をはじめ、その他稠密で滑らかで明るい構成をもった事物にうつる影像など、すべてこのようなもののことだ。」
「それから、もう一つのほうの部分[DC]を、いまの似像が似ている当のものを表わすものと、想定してくれたまえ。つまり、われわれの周りにいる動物や、すべての植物や、人工物の類いの全体のことだ。」
「はたして君はまた、この可視界の分けられ方が次のようになっていることも、承認してくれるだろうか。すなわち、ちょうど真実性の有無の度合いに応じて、<思わくされるもの>の<認識されるもの>に対する関係がそのまま、似像の原物に対する関係と等しくあるように分割されているということを」
「ではこんどは、可知界の切り分けについても、それがどのように分けられなければならないかを、考えてくれたまえ」
「説明しよう。―それの一方の部分[CE]は、魂(精神)がそれを探求するにあたって、先の場合には原物であったものをこの場合には似像として用いながら、仮説(前提)から出発して、始原ヘさかのぼるのではなく結末へと進んで行くことを余儀なくされる。これに対して、もう一方のもの[EB]の探求にあたっては、魂(精神)は仮説から出発して、もはや仮説ではない始原へとおもむき、また前者[CE]で用いられた似像を用いることなしに、直接<実相>そのものを用い<実相>そのものを通じて、探求の行程を進めていくのだ」

3)洞窟の比喩
(長いから省略)


文献案内
『ソクラテスの弁明』、『饗宴』、『パイドン』、『ゴルギアス』、『国家』など(以上は、長さと読みやすさ順)、
プラトンの本は特別な予備知識がなくても誰でも読めるし、深い内容を含んでいる。
そういう意味では、学問の永遠の古典である。
上に挙げたような代表的な著作は、中央公論社の『世界の名著』シリーズに収録されている(同じものが一部だが「中公クラシックス」シリーズでも出ている)し、
個々の本なら岩波文庫でも出ている。
どうしても、イデア論とか、プラトン自身の思想が気になるという人は、
藤沢令夫『プラトンの哲学』(岩波新書)


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