学校=教育
身体をしつけ、精神をしつける(フーコー)


1 古い学校と新しい学校
1)消費社会の成立
1960年代の高度経済成長は、日本社会の産業構造を変え、社会(と家族)のあり方に大きな変化をもたらした。
(「所得倍増計画」を謳った当時の池田政権は、農業基本法と全国総合開発計画という二本の柱で近代化を推し進めた。
農業の近代化は、労働時間を従来の半分近くに短縮し、都市の産業に新たな労働力を提供した。
また、公共資金を工業や建設業に注入し、経済を活性化するという、これ以降伝統的なものとなる手法が取られた。)
その結果として、1980年代に、本格的な消費社会が成立する。
消費社会は、必要以上に消費する社会であり、これを企業の側から見れば、まず消費(および欲望)を生産する社会であり、個人の側から見れば、消費が自己のアイデンティティの重要な一部をなす社会である。

2)学校の変化
学校が社会の再生産の役割を受け持つ以上、社会の変化は、学校の変化を要求する。
地域社会の解体に伴なう、家庭と学校の分離、その役割分担の変化、など。

3)「ゆとり教育」の問題点
学級崩壊や学力低下など、学校にまつわる問題は多い。
「詰め込み教育」の排除と、「子どもの自主性」を重視する新しい「ゆとり教育」は、うまくいくのだろうか。

2 学校という現象
「なぜ、学校は、こうも監獄に似ているのだろう」とフーコーは問う。
学校で学ぶことにだけに価値があると考えられ、教育が学校に集中することを、「学校化」とイリイチは呼ぶ。
フーコー『監視と処罰―監獄の誕生』、イリイチ『脱学校化の社会』などを手がかりに、学校というシステムの特異性を考える。
→ミシェル・フーコー

学校は、子どもを教育するだけではなく、エリートを選抜するという機能をも持っている。そこに、目的が手段化され、学習が、学習の成果によってのみ計られる傾向が生じる。

3 シュタイナー学校
「学校化」と反対の位置にある学校の一つが、成績をつけない、出来合いの知識を教えないという、シュタイナー学校である。
それは、<身体・生命→感情→自我>というルドルフ・シュタイナーの人間発達の理論に基づいている。
シュタイナーによると、人間の発達は、七年ごとに三つに区切られる。最初の七年間は、身体を思い通りに動かすことが最も重要である。次の七年間の課題は、感情を鍛えることで、これがなおざりにされると、子どもは自分の思うことを実行できる強い意志を持たない人間に育ってしまう。その次に七年間の課題が、知性を働かせることである。


付録1
イリイチ 『脱学校化の社会』(Ivan Illich; Deschooling Society)
(東洋・小澤周三訳から少し変えて引用した。)

多くの生徒たち、とくに貧困な生徒たちは、学校が彼らに対してどういう働きをするかを直観的に見抜いている。彼らを学校に入れるのは、彼らに目的と目的を実現する過程とを混同させるためである。目的と過程との区別が曖昧になると、新しい論理が採用される。手をかければかけるほど、よい結果が得られるとか、段階的に増やしていけばいつか成功するといった論理である。このような論理で「学校化」されると、生徒は教えられることと学習することとを混同するようになり、同じように、進級することはそれだけ教育を受けたことだと、免状をもらえばそれだけ能力があることだと、よどみなく話せれば何か新しいことを言う能力があることだと、取り違えるようになる。彼の想像力も「学校化」されて、価値の代わりに制度によるサービスを受け入れるようになる。
私は以下の拙論において、人々が価値の制度化をおし進めていけば必ず、物質的な環境汚染、社会の分極化、および人々の心理的不能化をもたらすことを示そうと思う。この三つの現象は、地球の破壊と現代的な意味での不幸をもたらす過程の、三本の柱なのである。

学校は、次のような仮定に基づいてつくられている。
第一は、人生の何事にも秘訣があるということ、
第二は、人生の質はその秘訣を知っているかどうかによって決まるということ、
第三は、その秘訣とは秩序のある過程を連続的にたどることによってのみ知りうるということ、
第四は、教師だけが適切にこれらの秘訣を明かすことができる、という仮定である。
学校化された精神をもつ人は、世界を分類されたパッケージからなるピラミッドとみなし、ふさわしい価格札を持った人のみがそれに近づけると考える。

付録2
竹内洋『立身出世主義』(第12章より)

 受験社会Uとは、受験がシステム化された社会である。受験が一回限りのものではなく、中学受験、高校受験、大学受験というように何回もある状態をいう。しかも学校が総序列化されたなかでこういう競争が行われると、目標と競争への焚きつけは主体の欲望からではなく、受験社会のほうからやってくる。ある学校に進学すると、次はこのような学校を目標にすべきだという暗黙のシナリオがそなわっているからだ。有名高校に進学した者には、将来有名大学に進学するのがありうべき未来だという暗黙のシナリオがある。こうして何になるかや、何をするかの未来の野心を背後に退かせ、人々の野心や欲望は受験システムに刻印されたシナリオの採用になりやすい。
 ある中学生はいまの受験勉強をめぐって次のような作文を書いている。
 「現在の勉強と将来の関係といっても、今の日本の情況でいうと、勉強して成績が良ければ一流といわれる高校に行き、そこでも成績がよければ一流といわれる大学に行き、一流といわれる企業に入ると決まっている。で、一流の企業へ入れば、一般にその人は幸せとされる。本当かどうかは知らない。この状態がいいのか悪いのかもわからない。しかしそれに従うしかない。従わなければ生活できないからである。」
 わたしの接するいまの大学生もそうである。外部欲望説に立てば、受験競争はより有名な学校に進学して大企業に入社したいという安定した生活への功利的欲求に根ざしているということになる。しかしそれは読みが逆立ちしている。というのは、自分はファッション関係に進みたいなどといっている学生が、就職シーズンになると、せっかく一流の○○大学生だから、やはり××銀行のような手堅く伝統のある企業に就職することにしようとするからである。
 いま述べた二つの事例は受験社会Uにおける欲望のあり方を端的に表わしている。欲望は受験システムからやってくる。受験システムの外部にある個人の野心や欲望は回収され空白化する。だから受験社会Uにおかれた受験生は、「なぜか(自分でもわからないうちに)受験競争にそれなりに頑張ってしまう」ということにもなる。受験社会Uはシステムに飼育された(空虚な)主体の製造工場である。


参考文献
原題の消費社会については、
見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書)
「ゆとり教育」の問題点については、
苅谷剛彦『教育改革の幻想』(ちくま新書)
イリイチの「非学校化」については、
山本哲士『学校の幻想 教育の幻想』(ちくま学芸文庫)
シュタイナー学校については、
子安美知子『ミュンヘンの中学生』、『シュタイナー教育を考える』(朝日文庫)など


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