マンディヴィル
Bernard Mandeville (1670-1733)

利己主義の肯定と資本主義社会の逆説


『蜂の寓話―私悪すなわち公益』(1714)
The Fable of the Bees: or, Private Vices, Publick Benefits

「クロッスかけずに始められる商売、
詐欺師、たかり、妓夫、遊び人、
すり、贋金作り、藪医者、占い、など
そのほか 地道な働き忌み嫌い、
悪知恵しぼって 人の好い
うかつな隣人の労働を
己が食い物とする輩の一党。
この手合い 悪漢と呼ばれるが、名こそ違え、
堅気の人々も、その実 やはり同じこと、
欺きは 仕事や地位につきものだ。
嘘偽りない職業 あるものじゃない。」
(上田辰之助訳)
(These were called Knaves; but bar the Name,
The grave Industrious were the Same,
All Trades and Places knew some Cheat,
No Calling was without Deceit.)」

「以上によって私は次のことを証明し得たと信ずる。すなわち、
人間に生得の友好性や親愛も、また人間が理性と克己とによって身につけることが出来る、真の徳も、いずれも社会の基礎ではなく、
われわれが自然界でも道徳界でも悪(悪徳)と呼ぶものこそが、われわれを社会的動物にする大原則であり、例外なく一切の商売や職業の堅固な基礎、生命、支柱である、ということ、
また、われわれはここにこそ一切の技術と科学の真の起源を求めるべきであり、
悪がやんだその瞬間に、社会は、たとえ全体的に崩壊しないにしても、台無しにならざるをえないということ、である。」(「社会の本質の探求」)

マンディヴィルは、こうした逆説的な表現によって、17〜18世紀のイギリスで姿を現わしつつある資本主義社会の本質を洞察した。
1)アダム・スミスは「自己愛=利己心」は善であると言う。しかし、マンディヴィルの場合は、それはあくまで「悪(vices)」である。
そこには、100年ほどの時間の隔たりと、その間におけるイギリス資本主義社会の成立がある。
資本主義社会がまだ現実に成立していない時代に生きたマンディヴィルの場合は、
利己心は結果としてみんなを幸せにする「善」なのだが、個人的には、あくまで「悪徳」だ、という逆説的表現を取らざるをえないのである。
2)自由競争は、勤勉に努力するだけでは勝てない場合がある。
株価を吊り上げてから売るといったような、人を出し抜いたり人を騙すような遣り方が有効な場合が多い。
資本主義社会において、「商売は泥棒だ」というのは、正しい洞察である。
公平な自由競争は、資本主義社会を生み出す魂であるが、資本主義社会は、逆に公平な自由競争を疎外する傾向をもつ。
つまり社会のシステムが機能化されないと、資本主義はうまく機能しない。
逆に社会が固定化されると、例えば、努力していい製品を作るより、政治家や役人に取り入って、税金で高く買ってもらう努力が力を持つことになる。
学生さんは、勉強して成績を上げる競争より、先生の気に入られる競争に精を出すことになる。


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