遺伝子操作


1.遺伝子組み換え技術

1)遺伝子とは何か? ―細胞・染色体・DNA
  DNAの構造
  DNAは、A(アデニン)、T(チミン)、G(グアニン)、C(シトシン)という4つの塩基から成る二重らせんである。
  (この絡み合った二本の紐は、Aの対にはT、Gの対にはCという風に相補的に、4つの塩基が並んでいる。)
  ヒトゲノム計画(1990年に開始され2003年に完了した)
  全部で30億程のDNAの塩基対のうち、2万2千個程度が、遺伝情報を持っている「遺伝子」である。
  遺伝子としての情報を持つ塩基対が、具体的にどういう遺伝情報を持っているのかを解明することが、今後の課題である。
  ―「2003年に完了した」と上に書いたヒトゲノム計画だが、その後、飛躍的な発展を遂げている。
  世界中のコンピューターを動員して十数年もかかって解析されたヒト・ゲノムの塩基配列は、
  コンピューター・チップの技術を応用した「DNAチップ」が開発されたことによって、
  現在(2013年)ではわずか一日で解析できるようになっている。
  それによって、ある個人のDNAの塩基配列の一つの違い(コピーミス)がどういう病気の原因であるのか、
  急速なスピードで明らかになってきている。
  DNAの一つの文字だけが違うのを、一塩基多型(single nucleotide polymorphism)、略してスニップ(SNP)といい、
  これによる病気は7000以上ある。
  しかし複数の遺伝子が重層的に働いている場合が多いので、全ての遺伝子の働きが解明されるのは、かなり遠い未来のことである。

2)遺伝子組み換えの方法
  (1)目的の遺伝子を切り取る
  制限酵素―バクテリアから取られ遺伝子を切断する
  (細菌はウイルス(=バクテリオ・ファージ)の侵入から身を守るため、ウイルスを切断する種々の酵素を持っている。
   これを利用すれば、DNAを特定の個所で切断することができる。)
  リガーゼ酵素―切り取った遺伝子の断片を接続する
  (2)遺伝子を導入する方法には、パーティクル法など、いくつかあるが、ウィルスや細菌に感染させて運ばせるのが、
  ベクター(運び屋)法
  (3)その際、一緒に組み込まれるのが、
  プロモーター―遺伝子の働きを促す
  マーカー遺伝子―目的の遺伝子が入っている事を確認するために目印として一緒に移植される
  (抗生物質耐性の遺伝子などが使われる)

3)安全性
  アシロマ会議(1975)の実験指針―物理的封じ込め・生物学的封じ込め
  バーグ委員会→組替えDNA諮問委員会(RCA)→国立健康研究所(NIH)によるガイドライン
  →カルタヘナ議定書(日本では2004年にカルタヘナ法)
  トリプトファン事件(1989);昭和電工が遺伝子組換え技術を使って製造した健康食品トリプトファンが、
  アメリカを中心に6000人の健康被害、うち38人の死亡を引き起こした。
  (→遺伝子組換えの過程で、予期されない有害物質が生成する可能性がある。)

4)ゲノム編集
  この革命的な技術によって、遺伝子操作は、全く新しい段階に入った。
  第一世代 ZFN(ジンクフィンガー・ヌクレアーゼ)
  第二世代 TALEN
  第三世代 CRISPR-Cas9  

CRISPR(Clustered Regularly Interspaced Short Palindromic Repeats)
大腸菌などのDNAの塩基配列の中に、短い(24〜48文字の)「回文」の繰り返しがある。
(例えば、石野良純氏によって最初に発見された古細菌の大腸菌のクリスパーは、5(14)回繰り返されている
CGGTTTATCCCCGCTGCGCGGGGAACTC
という文字列である。中央のTCCCCGCTGCGCGGGGAの部分をよく見ると、AとT、CとGは必ずペアになるから、
TCCCCGC(そのペアはAGGGGCG)とGCGGGGAが、相補的な回文になっていることが分かる。
これをコピーしたRNAは、回文の間の中央部を中心に二つに折り畳まれる。だから相補的な回文になっている。)
その回文を含む文字列の間にスペーサーとして挟まっている文字列には、以前にその菌が襲われたウイルスのDNA情報がコピーされている。
人間の免疫系と同じように、細菌がこれを手掛かりにして、再び侵入してきたウイルスを破壊するためである。
Casとは、CRISPR Associated の略号で、クリスパー近くにある遺伝子群から生成されるタンパク質を意味する。
これは、クリスパーと接続してウイルスのDNAを切断する酵素(ヌクレアーゼ)である。
シャルパンティエ博士が、「人食いバクテリア」とも呼ばれる化膿連鎖球菌から抽出した Cas9(9つ目のCas) は、
クリスパーとクリスパーのスペーサー部分(ウイルス情報)から作られるガイドRNAと結合して、
目的のDNA配列を探し出して、これに密着して(目的のDNAが機能しなくなるまで繰り返し)切断する。
このとき、別のDNAの断片を一緒に入れれば、DNAの修復過程で、その断片がここに取り込まれる。
更に、このガイドRNAのターゲットとなるDNAの情報は人工的に化学合成できる。
ダウドナとシャルパンティエ博士の共同研究による2012年論文に示されたように、
このメカニズムは、ウイルスだけでなく、大腸菌(をはじめあらゆる生物の細胞)にも応用可能である。
ジャン博士は2013年論文で、マウスと人間の細胞を使って、これにもゲノム編集が可能であることを示した。

2.遺伝子治療

遺伝子に働きかけることによって病気を治療する遺伝子治療には、
体細胞(=生殖細胞以外の細胞)を対象とする「体細胞治療」と
生殖細胞(精子と卵子)を対象とする「生殖細胞(配偶子)治療」
の二つがある。
体細胞を対象とする遺伝子治療は、欠陥のある遺伝子を修復するのではなく、その欠陥のせいで製造できないタンパク質(を製造する遺伝子)を補うことによって、病気を治す試みである。
遺伝子の欠陥による病気は、 5000種以上ある。
デュシェンヌ型筋ジストロフィー、ハンチントン病、家族性アルツハイマー病、家族性乳ガン等のうち、
1990年に、ADA欠損症に対する治療が成果を上げたと報告されている。
(ゲノム編集による遺伝子治療は、2015年にTALENを用いて白血病の治療に成功したという報告がある。)
生殖細胞を対象とする遺伝子治療は、より大きな可能性を残しているものの、本人だけでなく子孫への影響もあるので、現在は行なわれていない。
しかし、体細胞治療が有効な成果を殆んど残していない現状で、生殖細胞治療が試みられることもなければ、遺伝子治療の未来は明るいとは言えないかもしれない。(ゲノム編集によって状況が変わる可能性はある。)

アメリカ国立衛生研究所(NIH)の指針
1)体細胞を対象とし、生殖細胞には触れない。
2)治療、つまり異常な状態を正常な状態に戻すこと、が目的。
3)治療効果がある。
4)安全性
5)患者の同意(IC)

遺伝子診断に関しては、→人工授精/人工妊娠中絶 の項を参照。


3.遺伝子組み換え(GM)食品

A)植物
現在アメリカ等で栽培され、(1996年に厚生省の認可がおりて1997年から)日本でも輸入しているのは、
 1)除草剤耐性の菜種や大豆(有機リン系の除草剤に強い)
 2)殺虫性(害虫抵抗性)のジャガイモやトウモロコシ(虫を殺す遺伝子を組み込んだもの)
 など、43品目がある。

多国籍企業モンサントMonsantoは、遺伝子組み換え技術を推進している代表的な企業である。
(2018年にバイエル社が買収 →ウィキペディア「モンサント」
モンサント社の商品”ラウンドアップ RoundUp”(薬品名はグリフォサートGl Fosato II)は、有機リン系の強力な除草剤であり、ほとんどの植物を”根っこから枯らす”ので、従来、使い道は少なかった。
しかし遺伝子組み換えの技術を使って、地中に住むバクテリア(アグロバクテリウム)から発見されたラウンドアップ耐性の遺伝子を組み込むことで、ラウンドアップを撒いても枯れない大豆等を作り出すことが可能になった。
ラウンドアップを撒けば他の雑草は生えてこないから、そこにラウンドアップ耐性の大豆の種子を撒けば、他の農薬を撒く手間とコストが節約できて、効率よく大豆を栽培できるようになる。
農家は、毎年、農薬ラウンドアップとラウンドアップ耐性大豆の種をモンサント社から購入する必要があるが、これによって農家の収入は10%ほどアップする。
遺伝子組み換え植物の栽培が始まったのは1996年だが、現在(2014年)では、世界中で28ヶ国、1800万人の農家が、この遺伝子組み換え大豆を栽培している。これは大豆の作付け面積の80%に当たる。
(→ウィキペディア「ラウンドアップ「スーパーウィード」)

利点
 1) 経済効率=農家の手間とコストの削減
 2) 安全性―農薬の種類と量を減らせる
 3) 食糧危機への対策
 4)「第二世代の遺伝子組換え」では、「栄養価の高い食物」「花粉症やアレルギーを治す食品」(例えば「ゴールデン・ライス」はベータ・カロテンを含みビタミンA不足による病気を防ぐ)など、直接、消費者に利益をもたらす技術の開発が試みられている。

問題点
1) 麻薬効果
 デンマークの国立リソ研究所による実験結果が示すところでは、
 除草剤耐性の菜種のそばに生えた雑草にも除草剤耐性の遺伝子が混入していた。("Nature"96/3/7 論文)
 →これは、その雑草を殺すための新しい農薬の必要性、
 引いては、スーパー雑草、スーパー害虫の発生を暗示する。
 「カナダで行われた実験では、除草剤耐性ナタネの畑で三種類の除草剤すべてに耐性をもつ「スーパー雑草」まで発見された。」
 (河田昌東「遺伝子組換え作物」『世界』2002/10)

麻薬効果の例―抗生物質
1928年9月にフレミングが青かび(ペニシリウム)から発見した最初の抗生物質ペニシリンは、1942年頃から大量生産され治療に使われ目覚ましい成果をあげたが、すぐに耐性菌が発生し、効かなくなるという結果ももたらした。
「ペニシリンの大量生産から間もない1946年、黄色ブドウ球菌の中でペニシリンが効かない耐性菌がしめる割合は、イギリスのある病院で14パーセント、40年代末には59パーセントに達しました。この耐性菌はペニシリンを分解する酵素「ペニシリナーゼ」を生み出すことで、抗生物質を無力化してしまいました。」(宮本英樹『細菌の逆襲が始まった』))
マチシリン、バイコマイシン、カルバペネムなど、新しい抗生物質が次々に開発され使われるようになったが、これにも次々と耐性菌(MRSA=メチシリン耐性黄色ブドウ球菌、VRE=バイコマイシン耐性腸球菌、CRE=カルバペネム耐性腸球菌)が発生し、効かない菌が増えてきた。
抗生物質の開発は、耐性菌との闘いの歴史である。
耐性菌が発生するメカニズムは、
1)突然変異による耐性の発生
2)他の菌がいなくなる→耐性菌が繁殖
3)他の菌にも耐性を移す(接合や形質導入など)
耐性菌が発生する一番の理由は、抗生物質の乱用である。
(風邪薬として抗生物質を処方したり、家畜の餌に混ぜたり、抗菌グッズなどに使われたり…)
現在では、肺炎や結核といった以前は抗生物質で治療できた病気にも、抗生物質が効かなくなってきている。
現代の医療では、抗生物質は不可欠なのに、多くの抗生物質が効かない多剤耐性菌が増えている。
新しい抗生物質を開発しても、すぐにその耐性菌が生まれるのは、これまでの経過を見ると明らかである。
抗生物質の使用をできるだけ控えて、使い潰さないようにするという方法以外に、何か解決策があるだろうか?

2) 人体と環境への影響
a) トリプトファン事件が示すような、人体に危険なタンパク質の生成の可能性
(マーカー遺伝子として組み込まれる抗生物質耐性の遺伝子の影響によって、細菌や他の種にも抗生物質への耐性が生じる危険性がある。)
b) 遺伝子汚染
「2001年11月29日号の科学雑誌『ネイチャー』に掲載された論文で、遺伝子汚染は新たな段階に入ったことが報じられ、専門家たちを驚かせている。トウモロコシの原産国であるメキシコの人里離れた山中の野生トウモロコシに組換え遺伝子DNAが検出されたのである。調査したのはカリフォルニア大学バークレー校のイグナシオ・チャペラ助教授とその大学院生である。…最近採取された四箇所六検体の野生トウモロコシのうち四検体(66%)に組換え遺伝子が認められた。メキシコ山中の野生トウモロコシの遺伝子汚染は明らかだった。」(同上)

注)1999年に、ヨーロッパ(EC)を中心に、遺伝子組み換え食品を排除する運動が起こった。
そのきっかけになったのは、次のような研究結果である。
(1)アメリカのコーネル大学で行われた、Btコーンに関する実験
バチルス・チューリンゲンシス(BT)の殺虫性毒素を組み込んだトウモロコシは人体に無害だと言われていたが、
その花粉が、蝶の幼虫など、害虫以外の虫も殺すことが確認された。

2013年5月にEUで使用禁止が決まった、ネオニコチノイド系農薬は、蜜蜂の大量死の原因になっていると考えられている。
ネオニコチノイド系農薬は人体への毒性も弱く、少量で植物の内部に深く浸透するので、使い勝手がよいこともあり、
農業では、トウモロコシなどの趣旨の表面にコーティングして害虫を駆除するのに使われたり、
日本でも稲の害虫であるカメムシを殺す目的で広く使われたりしている。
しかし、2012年に「サイエンス」に掲載された論文によると、蜂が方向感覚を失って巣に帰れず死ぬ大量死の原因はこれだという。
→ウィキペディア 「ネオニコチノイド」

(2)ロウェット(Rowett)研究所のパズタイ(Pusztai)博士による実験
レクチンという植物性タンパクは昆虫を殺すが哺乳類には害がないことが知られている。
しかしこの遺伝子を組み込んだジャガイモを、ラットに与えたところ、
成長の低下・免疫の低下・発ガン性などが観察され、有害であることが確認された、という。(*)
  (*)渡辺雄二「遺伝子組み換え食品 覆された安全性」 『世界』1999年10月号
しかし、この研究の信憑性には疑問が付され、その後、パズタイ博士の研究の結果は否定されている。(
→注1)

3) 目的―企業の利益中心
現在の遺伝子操作技術は、企業(製薬会社)と生産者(農家)に利益が出るシステムで、行われている。
→モンサント社の有機リン系除草剤「ラウンドアップ」とラウンドアップ耐性の大豆
食糧危機への対応など、遺伝子操作技術がもたらす可能性のある将来の恩恵は無視できない。
しかし、功利主義的に判断すると、現在の技術は、消費者という「最大多数」ではなく、
企業と生産者という「少数」の「最大利益」を目指して進められているというのが現状であれば、「善い」とは言えない。
(日本では、厚生省が「実質的同等」の概念を承認した事で、GM食品の表示はされなかったが、
農林水産省の主導で、2001年から、一部の食品についてGM食品の表示が行われている。)

B)家畜
牛など家畜の改良→動物工場
(牛の成長を促進するために、成長ホルモンを投与することがある。これに関しては、安全性が疑われている。)
筋肉の成長を抑制する遺伝子を壊す(←ゲノム編集)ことで、多量の肉がついた牛などが作られている。

家畜以外にも、滅亡に瀕している種の保存や、(『ジュラシック・パーク』のように)絶滅した種の復活といった目的にも応用されている。
(『ジュラシック・パーク』は、映画ではなく、原作の小説(マイケル・クライトン)を読んで欲しい。)
また温暖化で大きなダメージを受けている沖縄のサンゴを保存するためにも、この技術は使われている。


4.遺伝子組み換え動物(クローン)

A)クローン(cloning)の原理;ドリーとポリー
 ―体細胞核移植;未受精卵から核(遺伝子)を抜き去り、体細胞から取り出した核を移植する。
  (その際、細胞周期に配慮し、化学処理をして、細胞を飢餓状態に置いたことが、ドリーを誕生させた技術の成功の秘訣である。)
  →細胞の「初期化」による全能性の復活

クローン人間の倫理性
1997年ロスリン研究所がクローン羊を公開した時、即座にイギリス政府は助成金打ち切りを表明し、
アメリカ大統領は人間のクローンの研究を禁止する法案を議会に提出した。
人間の胚を巡る議論が歴史的背景にある。(→人工妊娠中絶)
何のために為されるか?
―同性愛者などが、自分の子どもを持ちたいという場合。
―AID(配偶子の提供による人工受精)を避ける。
―パーキンソン氏病の患者に、堕胎した胎児の脳細胞を移植する治療が試みられている。
大人の脳細胞は再生しないが、移植された胎児の脳細胞が増殖を促しドーパミンを分泌するようだ。
こうした場合の、また、一般的な臓器不足(特に幼児の)を解消する手段として、(脳のない)人間のクローンを作ろうという提案がある。

1)私と同じ遺伝子を持っている≠私;環境要因
  クローン技術は「もう一人の別の自分」を作るものではない。
  全ての人間は「人権」を持つ。人間を「単なる手段として扱ってはならない」(カント)
2)生存可能な胎児の利用は(死んだ胎児とは違い)許されない。
  生存不可能な胎児を作ることは許されるか?
3)子どものできない夫婦の場合、体外受精(AID)と代理母に次ぐ「治療」手段として認められる可能性はある。
(とはいえ、現時点では、安全性が確保されていないので、時期尚早である。)

B)トランスジェニック動物
  ドリーに続いて誕生したポリーのように、人間の難病の治療に役立つタンパク質を生産する動物や、
  人間に移植できる臓器を持った動物(例えば、豚)の研究が進められている。
  これらは、人間の遺伝子を動物に組み込むことによって、作られている。

C)ES細胞(Embryonic Stem Cells)とEG細胞(Embryonic Germ Cells)
ES細胞とは、胚盤胞の段階の初期胚から樹立された万能細胞である。ヒトのES細胞も、1998年に樹立され、日本を含む各国で研究が進められている。(EG細胞は胎児の生殖細胞から樹立され、ES細胞と同じ性質を持つ。)
その特徴
1)全ての細胞に分化しうる、全能性
2)限界なく細胞分裂を繰り返す、不死性
ES細胞は、発生の研究や薬物の副作用の調査などにも利用できるだろうが、最大の利用目的は、病気の治療である。クローン技術と併せてES細胞から、特定の個人の組織の培養が可能になれば、糖尿病や脊椎の損傷による半身不随など、これまでは治療の方法がなかった多くの病気が治る可能性がある。もちろん、移植用の臓器を作るということも可能になるだろう(一部の組織は現在でもクローン化が可能だ)。
ES細胞は、現在、熱心に研究が進められている未来の技術であり、その可能性を考えれば、研究は進めるべきだろう。だが、その過程で、生命や個人の細胞を単なる手段とみなす傾向が入ってくる危険性はある。
ES細胞は、受精卵を壊して作られる。また、クローンのES細胞を作る際には、誰かの卵子が必要になる。現在、日本の大学で研究されているES細胞も、誰かの細胞であり、その人の遺伝情報を持っている。
胚は「人」であり人権を持つと主張することは無理かもしれない。しかし、人の胚を単なる「物」とみなして扱うことも、同じように問題がある。


注1)パズタイ博士の問題
研究報告が妥当なものだったのかという事実も問題だが、アンディ・リーズが述べているように、「バイオテクノロジー企業からの要請」で、「米国と英国の両政府の高官から圧力がかかった」ので解雇されたという事が事実なら、これも大きな問題だろう。
ウィキペディア「遺伝子組み換え作物」の「パズタイ事件
「一方、健康への影響例としてよく挙げられるものに「遺伝子組換えジャガイモを実験用のラットに食べさせたところ免疫力が低下した。」と世間に大きな衝撃を与えたレポート(パズタイ(Pusztai)事件)がある。1998年8月10日、スコットランドのアバディーン(Aberdeen)のロウェット研究所(Rowett Research Institute)のパズタイ(Arpad Pusztai)が、英国のテレビ番組で、組換えジャガイモにより、ラットに免疫低下などがみられたと公表した。論文は1999年のLancetの10月16日号まで公表されず、主張の妥当性を検証できない状態であったにもかかわらず、一部の間ではさも真実であるかのように受け取られ大騒ぎになった。しかし、公表された論文からは実験そのものがずさんであり、パズタイの主張には無理があることが判明した。使用した遺伝子組換えジャガイモが安全性が確認され商品化されているジャガイモとは全く別なレクチンという哺乳動物に対し有害な作用を持つタンパク質を作る遺伝子を組み込んだ実験用ジャガイモであり、有害な遺伝子を組み込んだ遺伝子組換え作物は有害だったと当たり前の結果が出たに過ぎない。(以下略)」

「一九三〇年生まれの高名な科学者アーパッド・プシュタイ博士は、二七〇を超える研究論文を発表し、三冊の著書もある。博士が、スコットランドのアバディーン市にあるローウェット研究所で画期的な研究を行なったのは一九九八年のことだった。彼は、遺伝子組み換えジャガイモを給餌されたラットが発育不全となり、免疫力が低下していることを発見したのである。
 その年の八月にプシュタイ博士が、英国のテレビ番組「ワールド・イン・アクション」で研究結果についてのインタビューを受けた際には、彼の上司で研究所の所長であるフィリップ・ジェームズ教授からほめたたえられた。ところが、その四十八間後に、プシュタイ博士は停職処分にされ、データのすべてを受け渡すことを命じられた。そのうえ、もしもこの件を口外したら告訴すると脅迫されたのだった。
 実は、ローウェット研究所の維持費は企業からの出資に依存しており、プシュタイ博士がテレビのインタビューに登場する以前は、モンサント社からも一四万ポンドの助成を受けていた。その後、ローウェット研究所は、プシュタイ博士に対する個人攻撃を開始し、博士を”支離滅裂”で”おいぼれた”人間であると評して、彼の研究報告についても混乱した内容が報じられた。いずれも真実ではなかったが、プシュタイ博士は研究所に箝口令を敷かれていたため、一切、反論することができなかった。彼の名声は打ち砕かれ、研究所の職も失ってしまった。それでも、六カ月後の一九九九年二月になると、一三カ国の二三人の科学者が、プシュタイ博士の研究を独自に再評価し、彼の報告の正当性を主張したのだった。」
(アンディ・リーズ『遺伝子組み換え食品の真実』白井和宏訳 白水社)


付録

遺伝子組み替え食品
(genetically engineered food , genetically modified food)
遺伝子操作技術を利用して、食品となる植物に、除草剤に対する耐性や、害虫を駆除する毒素を生産する能力、日もちをよくする性質を獲得した作物。遺伝子操作食品ともよぶ。アメリカやカナダのメーカーが開発し、日本でも厚生省が一九九六(平成八)年一二月、安全性を確認したとして、大豆、ナタネ、ジャガイモ、トウモロコシの四種七品目について輸入を認めた(その後、綿が加えられ、五種一五品目となった)。これらの作物は生食用ではなく、食用油やポテトチップス、醤油などの加工食品原料として使われる場合がほとんど。一般消費者にはどこに遺伝子組み替え食品が使用されているかはまったくわからないため、食品会社に表示を義務付けるべきとの声が強い。厚生省は「安全性が確認されているので表示義務は必要ない」としているが、同じく安全とされている食品添加物でさえ、表示義務があることを考えると非関税障壁といわれないように、輸出国であるアメリカのほうを向いた姿勢にしか思えず、説得力はない。欧州議会では九七年一月、遺伝子操作を施した食材でできた加工食品にはラベル表示しなければならないとの議決をした。
(宇井純)『現代用語の基礎知識1999』より

遺伝子治療(gene therapy)
人間の遺伝病をDNAを対象として治療するのが遺伝子治療である。現在、人間の精子・卵子・受精卵についての遺伝子治療は、世界のどこでも倫理的に許されていない。わが国では、「遺伝子治療臨床研究に関するガイドライン」が、一九九三(平成五)年四月一五日に承認され、遺伝子治療の時代に突入した。北海道大学医学部でアデノシン・デアミナーゼ(ADA)酵素の遺伝子異常による先天性重症複合型免疫不全の遺伝子治療が、九五年八月一日に開始された。これと同一の遺伝子治療は、世界で最初に九○年九月、ADA欠損症の四歳の女児にアメリカで実施され成功した。わが国では、対象を、単一遺伝子異常で起こる遺伝病など他に有効な治療法のない致死的な遺伝性疾患や悪性黒色腫、白血病、脳腫瘍などの一部のがんやエイズなどに限定して、臨床応用を認めている。
(星野一正)『現代用語の基礎知識1999』より


参考文献
新書版を中心に、手に入りやすいものを上げると、
中村靖彦『食の世界にいま何がおきているか』(岩波新書)
は、狂牛病が中心だが、それ以外の問題も幅広く扱っている。似たようなタイトルだが、
平澤正夫『動物に何がおきているか』(三一新書)
は、家畜、実験動物、野生動物に関して、余り聞きたくないような問題をいろいろ扱っている。

遺伝子治療については、
フランシス・S・コリンズ『遺伝子医療革命』(矢野真千子訳) NHK出版

遺伝子組み換えや遺伝子治療を含む、遺伝子全般については、
シッダールタ・ムカジー『遺伝子』(ハヤカワ文庫)
が詳しいし、面白い。

ゲノム編集全般に関しては、
小林雅一『ゲノム編集とは何か』(講談社現代新書)
また、ゲノム編集の実用面については、
石井哲也『ゲノム編集を問う―作物からヒトまで』(岩波新書)
青野由利『ゲノム編集の光と闇』(ちくま新書)

CRISPR-Cas9の開発者、ダウドナ博士による、技術面(第一部)と、応用と倫理面(第二部)の解説
ジェニファー・ダウドナ『CRISPR(クリスパー) 究極の遺伝子編集技術の発見』(櫻井裕子訳)文芸春秋社


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