人工授精/人工妊娠中絶


1 人工授精

ルイーズ・ブラウンの誕生(1978南ア)は、「試験管ベビー」が実用段階に入ったことを実証した。
現在において、人工授精は子どもを望んでいる不妊の夫婦にとって有力な選択肢の一つである。
不妊の原因が、精子または卵子、あるいは子宮(母体)にあるという場合に、
それらに応じた方法が考えられる。
 1)人工授精(Artificial Insemination)
   AIH (by Husband)
   AID (by Donor);第三者の精子
 2)体外受精 (IVF-ET)―顕微受精
 3)代理母(surrogation)

問題点
 1)誰が親か?「子を持つ権利」はあるか?
 2)費用の高さ、成功率の低さ
 3)男女産み分け、遺伝病のない子ども、IQの高い子ども、など属性に基づく選択はどこまで許されるか?―優生主義との線引き

2 人工妊娠中絶

中絶の権利―「妊娠23週以前における中絶は女性のプライヴァシー権に属する」(1973 アメリカ連邦裁判所)
 人工妊娠中絶は、胎児がまだ生存権を持たない間は、母親の自己決定権によって正当化される。

胎児はいつ人になるか?―胎児の人格(personhood)の問題
(胎児が「人」であるなら、妊娠中絶は殺人であり、
「人」は殺してはならないのであれば、妊娠中絶は犯罪である。)
 人間の生命の始まり
 1)受胎の瞬間―カトリック:生命の尊厳派
 2)出生の時点―フェミニズム:自由主義的立場
 3)任娠22週未満;母体外生存可能性(viability)―母体保護法(旧・優生保護法)
  「この法律で人工妊娠中絶とは、胎児が、母体外において、生命を維持することのできない時期に、人工的に、胎児及びその付属物を母体外に排出することをいう。」
 4)胎動の時期 脳波の出現(大脳基幹部の形成)の時点
  (→脳の機能の喪失を死と定義する「脳死」の逆)
 5)自己意識的(理性的)存在―「パーソン」論(シンガーなど)
   →「快苦の感覚を具え、自己意識を持ち、他者とのコミュニケーションが可能」といった特質を「ひと」の定義とすると、
   胎児だけでなく生後間もない新生児や植物状態の成人も「ひと」の定義から外れる。

問題点
 1)選択的中絶の是非
 2)胎児減数手術―人工授精等の結果として、複数の受精卵が育つことが多い(多胎妊娠)


3 胚(embryo)と胎児(fetus)の倫理的位置

 「提供者と卵・胎児・余りの胚との関係は、彼女の承諾なしには使用できないという関係にある」(ウォーノック勧告)
 余りの胚(凍結卵)の実験使用は許されるか?
 1)人の受精卵への実験は禁止――ドイツ、カトリック:受精卵=人
 2)実験目的で受精卵を作ることは禁止;
 3)制限付きで許可;受精卵=人間になる可能性を持つもの
  「受精後14日を超えて培養されてはならない」(ウオーノック勧告)
   *14日目に原始線条が現れる
 逆に、多くの命と不幸を救う知識を得ることができるのに、倫理的に妥当な理由もなく、それをしないことこそ非人間的、という見解もある。


4 遺伝子診断

将来の病気を遺伝子によって診断することは、出生前の胎児の場合に、ダウン症などの遺伝性疾患に関して、既に行なわれている。
ヒトゲノム計画の前半(塩基構造の解析)が終了した今、個人の遺伝子を解析することによって、その人の遺伝的特質を予想できるようになる日が遠からず来るだろう。
とりあえず問題になるのは、それに基づく「遺伝子差別」である。
(2000年にアメリカでは、遺伝子診断の結果によって連邦職員の採用や昇進を決定することを禁止する大統領令が出されている。)
次に、本人が自分の遺伝情報を知る(そして知らない=知らせられない)権利、の問題である。

A)優生学(eugenics)の思想
  「良い生命を増やす科学」
  「なぜ《人間の屑》が生まれるのか」「なぜ音楽の才能が伝わるのか」(フランシス・ゴールトン『人間能力の研究』)
  「劣悪な家族は、多くの劣悪な子を産み、社会の質を下げる。」→断種法
  社会進化論
 →ナチスの優性学の思想;オイゲン・フィッシャー
 アーリア民族の優秀性、断種法、T4計画

B)遺伝病スクリーニング(集団検診)
  二分脊椎症;治療から予防へ

C)出生前診断
 1)胎児診断;超音波診断、羊水診断、絨毛診断
 2)受精卵診断
   体外受精の場合には、受精卵の分裂した細胞の一つを取り出すことによって、遺伝子の情報をチエックすることができる。


付録
体外受精(IVF‐ET)(In Vitro Fertilization and Embryo Transfer)
初めは主として女性側の原因による不妊症、特に炎症や子宮内膜症で卵管が癒着、閉塞を起こしている場合の治療手段に用いられたが、最近では夫の精子が少ない場合や免疫学的原因で受精が起こりにくい場合などにも用いられる。排卵誘発剤を用いて多数の卵胞を一度に成熟させ腹腔鏡を用いて卵巣表面の卵胞に針をさして卵子を採取するか、超音波断層装置で卵巣を観察しながら腹壁または膣壁から針を刺して採卵する。卵子をガラス容器内の培養液中に移し、あらかじめ選別した精子を加えて受精させ、受精卵(初期胚)を培養発育させ約二日後に子宮の入り口である頸管から細い管で子宮内に戻して着床させる。
体外受精の過程で最も成功率の低い部分は受精卵を子宮内に戻して着床させる操作であるためにいくつかの手法が開発された。プロスト法またはジフト法(PROST pronuclei stage tubal transfer/ZIFT zygote intrafallopian transfer)は、卵巣から卵子を採取し培養液の中で精子を加え翌日、受精の途中の卵子を腹腔鏡で左右の卵管内に移植する方法である。夫の精子が少ない場合や卵子内への精子進入がうまく行われない例に用いられる。ギフト法/配偶子卵管内移植法(GIFT Gamete Intra-Fallopiantube Transfer)は採取した卵子と精液とを混ぜてただちに左右の卵管内に腹腔鏡で移植する方法で一九八四年テキサス大学のアッシュらにより開発された。二つの方法ともに両側の卵管や周囲の癒着がひどいと実施できない。日本では八五(昭和六○)年に埼玉県越谷市立病院で田中温らのグループが初めて実施した。九六年にGIFT法を実施した施設は三四、ZIFT法は八、採卵当たりの妊娠率は前者が二九・六%、後者が二五・○%、通常の体外受精は一八・一%であった。妊娠数は前者が九九、後者が一一例。
イギリスで体外受精児第一号ルイズ・ブラウンが七八年七月に産まれ、その後世界各国で実施され数千人が産まれたと推定されている。わが国では八三年一○月、東北大学で第一号が産まれた。日本産科婦人科学会の最近の調査では、九六年中には合計三三一の施設で実施され、四八二二児が誕生した。わが国で最初に実施されてから九六年末までに二万七二六一児が誕生したことになる。これまでに産まれた児を追跡調査した結果、先天異常の発症率、死産率は正常範囲内で、精神・身体の発達状況も自然妊娠の児と差がなかった。

人工妊娠中絶法(abortion law)
一九七三年アメリカ最高裁判所は、子どもを産むか産まないかの問題は女性と医師の間で決定されるべきプライバシー権に属するとして、妊娠後半の三分の一期(last trimester)を除いて各州が人工妊娠中絶を法的に規制することは憲法違反であるとの判決を下した。この判決はその後、世界各国の法律改正に大きな影響を与え、またアメリカで妊娠中絶は事実上自由に行われるようになった。一方中絶に反対する団体(プロライフ・グループ)は、これに対して強い反対運動を続け、レーガン大統領、ブッシュ大統領も反対の立場で八九年四月に最高裁は妊娠初期三分の一期(first trimester)を過ぎた例には各州が法律により規制を加えてもよいとの判決が下りた。そのため中絶手術費用の公費負担禁止、未成年者の手術前に医師に両親への通告義務を課するなど中絶手術を受け難くする法律が施行された。一方産むか産まないかの決定権は女性にあるとする選択擁護派(プロチョイス・グループ)はこれらの立法化に反対運動を続けている。クリントン大統領は後者の立場なので、反対派に有利な法律がまた廃止される可能性があり、RU486の臨床治験も最近許可になった。

母体保護法(mother's body protection law)
わが国で人工妊娠中絶を規制していた優生保護法は一九四八(昭和二三)年に制定されたが、四九年ぶりに突然改正され「母体保護法」になった。旧法は避妊に失敗した望まれない妊娠を安全に人工中絶する法律として重要な意義を有していたが、他方その目的に「不良な子孫の出生を防止する……」と述べるなど優生思想に立脚しており、ハンセン病や遺伝性身体・精神疾患を人工中絶、不妊手術の適応として認めるなど現代の社会情勢や医学の進歩と矛盾した点を多数含んでいた。新法は優生思想に関する旧法部分の条文・字句を全部削除するという姑息的な改正で、その他の問題点、例えば胎児適応、胎児減数術、性転換手術との関係などに関しては未解決のまま残された。最初の政府案は「母性保護法」であったが女性団体の反対により「母体保護法」に変更されたがその意味も不明瞭である。
(我妻 堯)『現代用語の基礎知識1999』より


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