進化倫理学

1)進化論と倫理
a)進化論
進化論の観点から見ると、人間という種は特別な存在ではない。
「進化」という日本語は、しばしば「進歩(→善くなった)」という肯定的な価値を含意しているので、
人間が「進化」の頂点に立つ優れた存在であるという誤解が生じがちである。
しかし進化とは環境への適応に過ぎず、
細菌やゴキブリが人間よりずっと前から存在し現在も生き残っているのなら、それも優れた進化の結果である。
(人間の目から見ると、地球は至る所に人間が住み全てを支配している人間の王国に見えるかもしれないが、
数においては言うまでもなく、全重量においても人間の数倍に達する
細菌の目から見るならば、地球は細菌の王国である。)
ダーウィンは、ガラパゴス諸島で、ある島と他の島で、亀の甲羅の形態が著しく異なっている、といった多くの事実を目にして、
その違いが、それぞれがそれぞれの異なる環境に適合した結果ではないかと推理した。
1)生物は変異する
2)変異(の少なくとも一部)は遺伝する
3)生物は(生き残ることができる数以上の)多くの子供を産む
(←個体数の増加は得られる食料の量によって制限される、マルサスの『人口論』)
という原則から
環境へ適合した種が生き残る(適者生存)という「自然選択(=自然淘汰)」の理論が導かれる。
(適応度≒生存率×繁殖率)
これは生き残る確率が高いものが生き残るという、トートロジーに他ならないが、
自然から目的を奪い去り、偶然と確率によって自然を理解しようとする革命的な理論である。
→性選択
→血縁選択(×群選択

b)人間の進化(→進化心理学)

人間はサバンナの生活に適合している。
「進化生物学の観点から見ると、必然的に次の結論が導かれる。人間は1つの種として見た場合、ちっとも特別ではないし、自然界ではサルの1種にすぎない。したがって、他の種にあてはまる生物学の法則はすべて人間にもあてはまる。そしてその中には自然淘汰・性淘汰による進化の法則も含まれる。それによれば、あらゆる生物の究極的な目標は繁殖の成功である。自然界の生物はどれも、進化のプロセスにより、繁殖してなるべく多くの遺伝子を残すように設計されている。」
「…進化の結果生まれた心的メカニズムも、その設計がすんだ後に生まれた環境条件には必ずしも適さない。私たちの現在の環境が、祖先の環境といかにかけ離れているかを考えてほしい。私たちの祖先はアフリカのサバンナで狩猟採集生活を送り、わずか150人ほどの近親者や仲間だけで集まって暮らしていたのだ。だから、進化によって形成された心理メカニズムが、現代の私たちの身近な、適応上の問題に役に立つとは限らない。それどころか、これから説明するように、不利にはたらくことも多いのだ。
 私たちの祖先は狩猟採集民として 100万年以上もその暮らしを続けてきた。最初はアフリカで、後に世界各地に散らばった。狩猟採集生活は1万年ほど前に
(進化の観点では)突然終わりを告げた。その頃、農耕が発明されたのだ。農耕の発明(紀元前8000年頃)は人類の歴史で最も重要な出来事だと言える。農耕をするためには定住する必要がある。祖先は初めて、移動的・放浪的生活をやめて、1カ所にとどまるようになった。その結果、いろいろなものが生まれた。集落、村、町、都市、家、道路、馬車、橋、ビル、政府、民主主義、自動車、飛行機、コンピュータ、iPod。そう、iPodだって、農耕とそれに続く発明がなかったら生まれていなかったはずだ。」
(サトシ・カナザワ『知能のパラドックス』金井啓太訳)
人間が蛇を恐れるのは、毒蛇が脅威だった何百万年間に身に着いた、本能的感情だと考えられる。
(ただし人間の場合それを適切な時期に学習することも必要である。)

農業革命―定住と富の蓄積
産業革命―分業と協業(←マニュファクチュア(工場製手工業)+機械化)
情報革命―グローバルな情報の共有

脳の進化
人間の脳は、系統発生に対応した、三つの層から出来ている。
1脳幹―呼吸・代謝などの生命維持の機能―爬虫類の脳
2大脳辺縁系―臭いを認識する嗅葉から発達し、ドーナッツ状に脳幹を取り巻き、情動(感情)を掌る
大脳新皮質―大脳辺縁系と連結し、思考を掌る
(恐怖などの強い感情は、大脳新皮質に伝わるより前に、大脳辺縁系から直接に身体に指示が下されることがある。
そうした時、脳は体が震えていることに気がついて、自分が恐怖に襲われていることを知る。)

c)倫理の進化
物質/生命/精神という三つのレベルで異なった法則が妥当すると伝統的には考えられてきた。
前の二つが自然の法則、最後の三つめが精神の法則である。
進化論的観点からは、後の二つは連続しており共通の根を持つ。
自然主義的誤謬
(ヒュームが最初に述べ、ムーアが後に強調したように、「である」という事実から「すべきである」という規範を導き出すことはできない)
しかし、カントの言い方を借りると、事実(経験)に基づかない倫理(理性)は、空虚である。

人間の道徳(=倫理)も、集団で生活するという生き残り戦略の手段として発達してきたものだと考えられる。
そうしたルール、例えば「殺すな」「盗むな」といった命令は、共同体のメンバーに対して適用される。
逆に言えば、共同体の外部の存在に対しては、ルールは適用されない。
(チンパンジーは集団内では争い事を第三者が調停し無用なトラブルを避けるという行動をとる。
一方、迷い込んできた他のグループのメンバーや他のグループ全体を襲って殺すこともある。)
イエス=キリストが説いた「善きサマリヤ人」の教えは、狭い共同体の枠を超えて、ルールが全ての人間に妥当するべきことを示している。
カントの自律と普遍化可能性、功利主義の最大幸福の理論は、どの個人にも(どの共同体にも)当てはまる、為されるべき行為を指示する。
共同体の枠を超えて通用する一般的な理論を構築することが倫理学(規範倫理)の課題である。

倫理の進化のモデル
1)血縁などに基づく集団のメンバーへの配慮
2)互恵的(=相互的)利他主義、あるいは「お返し戦略(Tit-for-tat)」
3)感情(共感)と理性(ルール)に基づく道徳的行為
進化論的に考えれは、現代人の住む環境が、過去と大きく変わっているのだから、倫理の進化も必要である。
→付録3 道徳感覚の進化
 (進化論の観点と脳科学の成果を参照した道徳意識の類型化)

2)進化生物学(動物行動学)

アリストテレスに由来する人間の定義
「人間はロゴス(=言葉・理性)を持つ動物である」
「人間は社会的(←ポリスにおける)動物である」
あるいは『聖書』における
「神に似た者(→自由な意志を持つ)」として「他の動物を支配せよ」という神の言葉
言葉・理性・社会性・自由意志(愛)といった人間だけが持つとされた特徴は、
人間以外の類人猿にも共通するものが見られる。

遺伝子解析による大型類人猿の系統樹
          1400                750      550   250(万年)
_______________________________
            \                 \       \    \ \
             オランウータン          ゴリラ     ヒト ボノボ チンパンジー

この四種類だけでも、「サル」の生活形態は多様である。
オランウータンは、群れをつくらず森の中で孤独に生きる。
ゴリラは、一頭のオス(”シルバーバック”)が数頭のメスと一夫多妻の群れをつくる。
チンパンジーは、ボス猿を中心とした緩やかな群れをつくり、乱婚である。
ボノボは、平和な母系制の群れをつくり、「全員参加の乱交パーティ社会」(『サル学の現在』)である。
では、ヒトは…?

道徳感情の進化論的根拠
(人間の公平/正義感については、→最後通牒ゲーム)

正義とは、進化の過程のなかで直感的に「正しい」と感じるようになったものである

正義感情がどのようなものかは、チンパンジーを使った実験で調べることができます。ここでなぜチンパンジーが出てくるかというと、正義が進化論的なものならば、つい最近まで同じ進化の過程にいたヒトとサルはかなりの程度、正義感情を共有しているはずだからです。
 チンパンジーの社会は、アルファオス(かつては”ボスザル”と呼ばれていましたか、最近は”第一順位の雄”の意味でこの言葉が使われます)を頂点とした厳しい階級社会で、下っ端(下位のサル)はいつも周囲に気をつかい、グルーミング(毛づくろい)などをして上位のサルの歓心を得ようと必死です。
 そんなチンパンジーの群れで、順位の低いサルを選んでエサを投げ与えてみます。そこにアルファオスが通りかかったらいったい何が起きるのでしょうか。
 アルファオスは地位が高く身体も大きいので、下っ端のエサを横取りしてしまいそうに思えます。しかし意外なことに、アルファオスは下位のサルに向かって掌
(てのひら)を上に差し出します。これは「物乞いのポーズ」で、”ボス”は自分よりはるかに格下のサルにエサの分け前をねだるのです。
 このことは、チンパンジーの世界にも先取権があることを示しています。序列にかかわらずエサは先に見つけたサルの”所有物”で、ボスであってもその”権利”を侵害することは許されないのです。
 2つ目の実験では、真ん中をガラス窓で仕切った部屋に2頭のチンパンジーを入れ、それぞれにエサを与えます。
 このとき両者にキュウリを与えると、どちらも喜んで食べます。ところがそのうちの一頭のエサをリンゴに変えると、これまでおいしそうにキュウリを食べていたもう一頭は、いきなり手にしていたキュウリを投げつけて怒り出します。
 自分のエサを取り上げられたわけではないのですから、本来ならここで怒り出すのはヘンです(犬や猫なら気にもしないでしょう)。ところがチンパンジーは、ガラスの向こうの相手が自分よりも優遇されていることが許せないのです。
 これはチンパンジーの社会に平等の原理があることを示しています。自分と相手はたまたまそこに居合わせただけですから、原理的には対等です。自分だけが一方的に不当に扱われるのは平等の原則に反するので、チンパンジーはこの”差別”に抗議してキュウリを壁に投げつけて怒るのです(このことから、なぜひとが生命を賭
(と)して人種差別に抵抗するかがわかります)。
 3つ目の実験では、異なる群れから選んだ2頭のチンパンジーを四角いテーブルの両端に座らせ、どちらも手が届く真ん中にリンゴを置きます。初対面の2頭はリンゴを奪い合い、先に手にした方が食べますが、同じことを何度も繰り返すうちにどちらか一方がリンゴに手を出せなくなります。
 このことは、体の大きさなど様々な要因でチンパンジーの間にごく自然に序列(階層)が生まれることを示しています。いちど序列が決まると、”臣下”は”主君”に従わなければなりません。チンパンジーの世界でも組織(共同体)の掟
(おきて)は絶対なのです。
 チンパンジーの世界にも社会(群れ)を維持するうえでの原理原則があります。それが「所有権」「平等」「組織の序列」です。そしてこれは、フランス革命の3つの理想「自由」「平等」「友愛」に対応します。
 自由というのは「何ものにも束縛されないこと」ですか、ジョン・ロックに始まる政治思想では私的所有権こそが自由の基盤だとされます。領主が農地を勝手に取り上げてしまうようでは、ひとびとは奴隷として生きていくほかありません。…
 チンパンジーの世界にも、「自由」「平等」「共同体」という正義がありました。そして相手がこの”原理”を蹂躙すると、彼らは怒りに我を忘れて殴りかかったり、群れの仲間に不正を訴えて正義を回復しようとするのです。」
(橘玲『バカが多いのには理由がある』)

3)利己的遺伝子

動物の利己的行動の例
「ユリカモメは大きなコロニーをつくって営巣するが、巣と巣はわずか数センチしか離れていない。かえりたての雛は小さくて無防備であり、捕食者にとってはたいへんのみこみやすい。あるカモメはとなりのカモメが巣を離れるのを、たぶん魚をとりに出かけるのを待って、そのカモメの雛に襲いかかり、丸呑みにしてしまうことがよくある。こうして、そのカモメは魚をとりにいく手間を省き、自分の巣を無防備な状態にさらさないで栄養豊かな食物を手に入れるのである。」
(ドーキンス『利己的な遺伝子』日高・岸・羽田・垂水訳)


動物の利他的行動の例
アリ(&シロアリ)とハチ(=社会的昆虫)
チスイコウモリ(血吸い蝙蝠
チンパンジー
「この実験はシカゴ大学で行われたもので、一匹のラットが囲いの中に入れられ、そこで、もう一匹のラットが入った透明な容器に出くわす。こちらのラットは閉じ込められ、逃げ出そうともがいている。最初のラットは二番目のラットを解放するために小さな扉の開け方を発見した。だが、それだけではない。その動機が驚くべきものだった。チョコレートのかけらが入った容器と仲間が閉じ込められた容器の、どちらかを選ばなければならない場合、ラットはしばしば、まず仲間を救出した。一方、空(から)の容器かチョコレートの入った容器かという選択の場合は、必ずチョコレートの入った方を先に開けた。この発見は、条件付けを絶対視するスキナー学派の考え方とはおよそかけ離れたものであり、動物の情動の力を証明している。実験者たちはラットの行動を、共感を基礎とする利他行動であると解釈し、「閉じ込められた半ばの救出は、チョコレートのかけらを手に入れることと同等の価値があった」と結論づけた。」
(フランス・ドゥ・ヴァール『道徳性の起源』柴田裕之訳)


利己的遺伝子
遺伝子とは自己を複製するものである。複製には時にミス(=変異)が生じる。
多くの遺伝子を複製する戦略(→進化論的に安定した戦略)が生き延びて多くの遺伝子を残す―というのも、ほぼトートロジーである。
遺伝子の目線で見ると、個体は、遺伝子が利用する乗り物(vehicle)である。
「一九六〇年代半ば、生物学界に革命が起こった。その先駆者となったのは、ジョージ・ウィリアムズとウィリアム・ハミルトンの二人であろう。この革命は、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」という言葉で最もよく知られている。その中心となってるのは、個体が自分自身、ましてや自分の所属する集団や家族のために行動するわけではなく、首尾一貫して自分の遺伝子のために行動するという考え方だ。なぜなら、個体が遺伝子のために行動する個体の子孫であることは動かしがたい事実だからだ。われわれが不妊の先祖をもつことはありえないのである。…」
 通常、遺伝子と生物体の利害は一致する。だが、常にというわけではない(サケは産卵の努力によって死に、ミツバチは自らの命を犠牲にして敵を針で刺す)。しばしば、遺伝子は自己の利益のために、生物体に子孫のためになるような行動を要求する――だが、必ずしもそうとはいえない場合もある(たとえば、鳥は食物に困ればひなを見捨てるし、チンパンジーの母親は乳を欲しがる子供を無情にも乳離れさせる)。親類のために行動させられることもある(アリやオオカミは姉妹の子育てを助ける)。ときには、大きな集団の利益となる行動をとらされせることもある(ジャコウウシは幼い子供たちを守るために肩を並べて一群のオオカミにたちむかう)。他の生物に不利益な行動を取らせることもある(風邪をひくとせきこむ、サルモネラ菌に感染すると下痢をするなど)。だが、常に、例外なく、生物はおのれの遺伝子あるいは遺伝子のコピーが生き残り、複製できるチャンスをひろげるような行動をとるようデザインされているのである。…
 この考え方は二つの方向から生まれてきた。まず第一に、理論的な考え方はこうである。遺伝子が自己複製しながら自然淘汰をくぐりぬけていくとしたら、遺伝子の生存能力を高める行動を起こさせる遺伝子はそうでない遺伝子を犠牲にして繁栄していく。これは必然的結果であり、計算のうえからも明白である。それは単に複製という事実がひきだす結果なのである。同じような洞察が観察と実験からも生まれた。個体や種というレンズを通して見た場合には不可思議に思われる行動のすべてが、遺伝子というレンズを通すことによって、突然明確な意味をもつようになったのだ。たとえば、ハミルトンが意気揚々と示したように、姉妹の生殖を助ける社会的昆虫は、自力で生殖しようとする個体よりも多くの遺伝子コピーを次の世代に伝えることができるのである。したがって、遺伝子の観点からみると、働きアリの驚異的な利他的行動も、まったくもって純粋に利己的な行動なのである。アリのコロニーにおける無私の協力は幻想である。働きアリたちは、自分の子ではなく、女王が産んだ自分の姉妹に遺伝子の永続性を託して努力していた。しかし、その行動は人間が集団のなかで上位にのしあがるためにライバルをおしのけるのと同じに、遺伝子の利己性によるものだったのである。…」
(マット・リドレー『徳の起源
他人を思いやる遺伝子』岸由二監修 翔泳社)

ミツバチの血縁淘汰
「…W・D・ハミルトンは論文の中で概(おおむ)ね次のようなことを述べている。
 ハチやアリなどのコロニーは、普通一匹の女王が産んだ娘たち(ワーカー)が中心となった大変に血縁の近い者たちの集団である。だから、ワーカーがせっせと働くということや、仲間のために命を投げ出すということは、それほど不思議な現象ではない。問題なのは、なぜワーカーが自分では子を産まないかということだ。
 そこで彼はワーカーとほかのメンバーとの血縁度を計算してみた。血縁度というのは、ある個体が他人ならまずもっていないような珍しい遺伝子をもっていたとすると、それが血縁個体の中にも発見される確率のことを言う。が、これは最初はなかなか理解しにくいことなので、とりあえず血の濃さとでも考えることにしよう。血縁度は人間を始めとするたいていの動物では、親子で1/2、兄弟で1/2(
但(ただ)し、一卵性双生児で1、異父母キョウダイでは1/4)、祖父母と孫とでは1/4、イトコどうしで1/8、などである。このとき、たとえば親から子を見ても、子から親を見ても1/2という値には変わりがなく、血縁度には普通対称性があると言える。
 ところがミツバチは違っている。先にも言ったように、ハチやアリでは受精卵からはメスが、未受精卵からはオスが生まれるため(
つまり、メスは通常の動物と同様、対になった染色体をもつが、オスは染色体についてその片われしかもっていない。前者を倍数体、後者を半数体と呼び、こういう性質は半倍数性と言われる)、一般的なケースが当てはまらないのである。計算は本来の血縁度の定義に従い、慎重に行なわなければならない。
 まず、女王とワーカーとの関係だが、どちらもメスだから倍数体で、ワーカーは女王がどこか他のコロニーの雄と交尾した結果生まれたわけである。だから、これは一般的なケースと同じである。女王からワーカーを見ても、またその逆でも血縁度は1/2である。
 次に、女王とオスバチとの関係。オスバチは倍数体である女王が卵に未受精のまま産んだ結果だから、女王の遺伝子以外のものはもっていない。そこで、オスバチから女王を見ると、彼の遺伝子は必ず女王の中に発見されるので、血縁度は1。ところが、女王からオスバチを見ると、オスバチの遺伝子はすべて自分由来のものだが、量が半分しかないので、血縁度は1/2となる。
 では、ワーカーとオスバチとではどうか。ここらあたりからが計算の正念場である。何しろ、倍数体のメスと半数体のオスのキョウダイだ。どう考えればよいだろう。
 ワーカーからオスバチを見ると、彼は半数体だから遺伝子の存在確率を最初から半分放棄している。だからその分についてはゼロ。残り半分の部分については、女王の対になった遺伝子の同じ側を受け継ぐかどうかの問題なので、1/2× 1/2=1/4となる。血縁度はそれらの合計で、0+1/4=1/4である。
 それでは、最も問題になりそうなワーカーどうし、言い換えればあるワーカーとその姉または妹、はどうだろう。まず、彼女たちは遺伝子の半分についてはどの個体も父親から丸々受け継いでいるわけだから、その分については共通で、1/2×1=1/2である。女王由来である残り半分については、どの遺伝子も五分五分の確率で受け継ぐので、1/2×1/2=1/4。そこで合計をする。ワーカーどうしの血縁度は、1/2+1/4=3/4。驚異的な値だ。これはオスのキョウダイに対する血縁度1/4はもとより、母である女王に対する血縁度1/2さえ凌(しの)いでいる。そして最も重要なことは、この値(3/4)が、もしワーカーが自分で娘を産んだとしても、その娘の血縁度(1/2)を上回るということだ。つまり、ワーカーにとっては、自分が産んだ娘が女王になるよりも、女王にメスを産ませ、その中から次期女王が出現した方が得なのである。その方が自分の遺伝子をより多く次代に残すことができるのである。
 ワーカーが自分では子を産まず、せっせと働くのは何を隠そう、それが自分の遺伝子を最も効率よく残していく方法だからなのだ。また、子を産まないにも拘らず子を産まないという性質が受け継がれるのは、その性質がキョウダイというバイパスを通じて強力に伝えられてきたからである。これが”血縁淘汰”である。むろん、ワーカーはそんなことはつゆ知らない。だが、かつてミツバチのコロニーの中に、自分ではあまり子を産まず、むしろせっせと弟や妹の世話をする、しかも女王に弟よりも妹を多く産ませることができる(
たとえば巣室のサイズを操作することによって)という遺伝的傾向をもったメスが現われたのだろう。このメスは、倍数体の動物ならたぶんただちに淘汰されるだろうが、なにしろミツバチには半倍数性という特殊事情があり、母娘より姉妹の方が血縁が近い。そのためその方が自分の遺伝子のコピーをよく残すことができた。こうして彼女の「自分では子を産まず、弟や妹の世話をする、しかも女王に妹を多く産ませる」という遺伝的性質は、またたく間にミツバチ界に広がったというわけである。
(竹内久美子『そんなバカな!
』)
(この例は利己的遺伝子の説を多くの人に納得させる力があった。
確かに一匹のオスとしか交尾しないアリやハチも多いが、ミツバチの女王は、普通数十匹のオスと交尾するので、実は話はこれほど単純ではない。)


補足
「女はなぜ美しいのか?」―性選択の理論(のメモ)

1)性はなぜあるのか?
有性生殖のコスト
遺伝子の多様化と修復→寄生体からの逃避=「赤の女王」説
2)オスの戦略とメスの戦略
人間の女はなぜ美しいのか?
(美しくないとしても、化粧や装飾で身を飾り、美容に気を遣うのはなぜか?)
自然界ではオスが美しい(孔雀の羽根はなぜ美しいのか)
→メスの選択・オスの競争(潜在的繁殖率)
群れの大きさは食料事情で決まる
(オランウータンは果実が主食だから群れを作らない、ゴリラは植物中心、チンパンジーは草食&肉食)
メスは食料を求め、オスはメスを求める
人間の食料は富で得られる
男の欲望―優しさ、知性、美しさ、若さ
女の欲望―優しさ、知性、富、地位(ステータス)
(美しさは遺伝子の優秀性(免疫力)の指標)
女が富と地位を求めるから男は権力闘争に励み、男が美と若さを求めるから女は美しさを競う
女の競争
3)一夫多妻から一夫一妻制へ
親の投資(トリヴァース)
精子戦争(ベイカー)


付録1
チンパンジーの政治
「例1 暑い日に、二頭の母親ジミーテペルが、オークの木の日かげに坐っている。そして彼女たちの子供が足もとの砂場で遊んでいる(遊び面、レスリング、砂投げなどをしている)。二頭の母親のあいだには、最年長のメス、ママが眠っていた。
 突然、子供たちが金切り声をあげ、ぶちあい、おたがいの毛を引っぱりはじめた。ジミーは、やわらかい、威嚇的なうなり声を発して、子供たちに警告した。テペルは心配げに位置を変えた。子供たちは、けんかをつづけ、ついにテペルは、ママの横腹をそっと数回つつき、ママを起こした。
 ママが起きあがると、テペルはけんかしている子供たちの方を指さした。ママがおどかすように一歩ふみだして、片腕をふりまわし、ほえたてると、子供たちはけんかをやめた。ママは、ふたたび横になり、昼寝をつづけた。

 解釈 私の説明をじゅうぶんに理解していただくためには、つぎの、二つのことを知っておいていただかなければならない。まず第一に、ママは最優位のメスであって、大変尊敬されていること。第二に、子供たちのけんかは、その母親たちのあいだに緊張をうみだし、母親どうしが、なぐりあいをはじめたりすることが多い、ということである。この緊張は、どちらの母親も、もう一方の母親が子供たちのけんかに干渉するのをさまたげたいと望むことから生じるのであろう。
 右の例では、子供たちの遊びがけんかに変わってしまったため、母親たちは、どちらも困った状況におちいってしまった。テペルは、優位な第三者、つまりママに働きかけて彼女に問題を指摘し、この困難を打開したのである。ママが、自分が仲裁者として働くよう期待されていると、いちべつしただけで理解したのは明らかである。

例2 イエルーンは、ニッキーとの争いで、片手をけがしてしまった。深い傷ではなかったが、彼はびっこを引いていたので、かなり傷むだろうと、私たちははじめ考えていた。あくる日、ディック・フォッケルマンという学生が、イエルーンがびっこを引くのは、ニッキーが近くにいるときだけだ、と報告した。ディックは鋭い観察眼の持ち主だということは知っていたか、それでもこのときばかりは、彼の言うことを私は信じられなかった。
 私たちは観察にいってみて、彼の報告が実際に正しいことを知った。イエルーンが、坐っているニッキーの前を通って、そのうしろへと通り過ぎるとき、つまりイエルーンニッキーの視野のなかにあるあいだはずっと、あわれな格好でびっこを引いていたのだ。ところが、いったんニッキーのそばを通り過ぎてしまうと、とたんにイエルーンの行動は変化し、ふたたび正常に歩きだしたのであった。ほとんど 一週間、ニッキーの視野のなかに自分があるときにはいつも、イエルーンの動きは、このように変わったのである。

 解釈 イエルーンは、演技していたのである。彼は、自分が戦いで重傷をおったと、ニッキーに信じこませたかった。イエルーンが、ニッキーの視野のなかにあるときだけ、大げさにあわれみをうながすような格好でふるまったことは、彼の信号は見られなければ効果がないということを彼が知っていたことを示唆している。イエルーンは、自分に注意がそそがれているかどうかをたしかめるために、ニッキーに目をやっていたのである。昔、イエルーンが重傷をおって、びっこを引いていたとき(この場合はやむをえずだが)、ライバルが彼にあまりつらくあたらなかったことから、彼は、この策略を学んだのかもしれない。

例3 (略)

例4 ダンディは、四頭のおとなのオスのうちでもいちばん若くて、順位はもっとも低い。ほかの三頭、特に第一位オスは、ダンディが大人のメスと交尾するのを許さない。それにもかかわらず”デート”をして、うまく交尾することが再三あった。メスとダンディは、おなじ方向に歩いているのは偶然であるかのようなふりをし、ことがすべてうまくはこぶと、数本しかない木のうしろでおちあうのである。こういったデートは、数回のめくばせのあとや、ときによっては、短時間の体の接触のあとに起こることもある。
 このようなひそやかな交尾には、ある種の信号を抑制したり隠蔽したりするということが多い。たいへん喜劇的だったので、私はこのことにはじめて気づいたときのことを、いまもあざやかに思いだすことができる。ダンディと一頭のメスは、こそこそとおたがいにさそいあい、一方ではほかのオスが見まもっていないかどうか、あたりを落ち着きなくうかがっていた。
 チンパンジーのオスというものは、両足を大きくひらいてペニスの突起を見せびらかしつつ坐って、性的ないいよりを開始するものである。あるとき、ダンディが、このようにして性衝動をしめしはじめたとたん、年長のオスの一頭であるラウトが、思いがけず、角をまがってやってきた。ダンディは、ただちにペニスを両手でおおって、見えないようにかくしてしまった!」(以下略)」
(フランス・ドゥ・ヴァール『政治をするサル』西田利貞訳 平凡社ライブラリー)

チンパンジーの政治2
「これについては、一九七〇年代から八〇年代にかけて、フランス・ドゥ・ヴァールがアーネム動物園の湖に浮かぶ小島に暮らすチンパンジーの群れをつぶさに観察しておこなった研究が最も詳しい。
 一九七六年、ラウトと呼ばれる腕力の強いチンパンジーが、それまでボスだったイエルーンよりも優位に立ち、群れのボスになった。ボスの座につく前は、ラウトは喧嘩に強い雄を味方につけ、一緒になって弱い者を攻撃していた。しかしボスの座を手に入れると、彼は手のひらを返したように弱者の肩を持ち、形勢の悪い方に味方して、喧嘩をやめさせるようになった。これは無私の行動ではなく、巧妙な自己利益追求の方法である、とドゥ・ヴァールは考えている。ラウトは草の根の支持を集め、ボスの座を狙っているライバルたちを抑えつけておこうとしているのである。中世の王やローマ皇帝がやっていたように、ラウトは雌たちにはとくに人気があったので、ピンチのときには彼女たちを頼りにできたのである。
 しかし、ラウトは前のポスとその後継者の企みによってすぐに王座を追われることになる。ラウトに王座を奪われた年長のイエルーンは、ラウトほどの腕力はないけれども野心家の若いチンパンジー、ニッキーと同盟を結んだ。二頭はラウトに喧嘩をしかけ、壮絶な戦いの末、王座を奪った。ニッキーはボスになったが、喧嘩のときには――とくにラウトがからむ戦いの際には――イエルーンの助けを借りなければならなかった。ニッキーが自己利益のために協力関係を利用しているかに見えた。
 だが、三頭のなかで一番狡猾なのはイエルーンだった。さっそく彼は王の後援者という自分の新しい立場を利用して、セックスの面でうまい汁を吸おうとし始めた。そして、ほどなく彼は群れのなかで一番性的に活発な――群全体の性交の約四割を彼がおこなっていた――雄になったのである。イエルーンはニッキーの助っ人になることでこの特典を得たのである。イエルーンはニッキーに頼まれれば必ず助けてやるが、そのかわりに、ラウトが発情期の雌に関心を持ちすぎると、今度はニッキーの助けを借りてラウトを雌から引き離し、自分がその雌と交尾してしまうのである。ドゥ・ヴァールは、ニッキーとイエルーンは取引していたのだと考えている。イエルーンが思う存分セックスすることができれば、ニッキーは権力を保ち続けることができるのだ。
 だから、ニッキーが協定を破るようになると、イエルーンは苦境に陥ったのである。ニッキーは今までよりも頻繁に交尾するようになり、まもなくイエルーンの交尾時間は半分くらいに減ってしまった。ラウトとの戦いは一人でやってくれとばかりに、ニッキーはイエルーンの味方につくのをやめてしまったからだ。ニッキーは他のチンパンジーを撃退するために、イエルーンかラウトのどちらかを利用するようになった。彼は徐々にポスとしての自信を持ち始め、ボスの副官としての勢力を分断して支配する策略を使うようになっていたのである。しかし、一九八〇年のある日、彼はやり過ぎてしまった。ニッキーとラウトは結託して、ここ何回か続けてイエルーンから発情中の雌を奪っていた。ところが、交尾可能な雌を追って木に登ろうとしているラウトを止めてくれとイエルーンが叫び声をあげたのにもかかわらず、ニッキーはそれを無視してしまったのだ。怒ったイエルーンはニッキーを襲った。どうやら、イエルーンはニッキーの支配にうんざりしていたらしい。夜を徹した死闘ののち、イエルーンとニッキーはどちらも負傷した。その数日後、ニッキーはもはやボスの座にはいなかった。ラウトが王座を奪い返したのである。…
 アーネムのチンパンジーの政略は、チンパンジーの生活の二つの原則を明確に示している。一つ目は協力関係は互恵的利益を生むために結ばれているらしいこと。サルの場合と違い、関係はきっちりとバランスが取れている。もしAがBのために何かしてやったら――たとえば、Bが襲われたときに助けてやるとか、Bが喧嘩を始めたときには加勢するとか――Bはあとで必ずAにお返しをしなければならない。でなければ、協力体制は崩れる。アーネムのチンパンジーたちは、明らかに「お返し戦略」をとっている。
 二つ目の原理は、弱者が協力しあって強者を倒すことによって、権力やセックスの権利を勝ちとることが可能だ、ということである。これは人間ではさらに極端になる。…」
(マット・リドレー『徳の起源 他人を思いやる遺伝子』岸由二監修 翔泳社)

付録2
集団の利己主義
「人間においても、利己的な個人と公益とのあいだには常に衝突が起こっている。実際に、この傾向があまりに幅をきかせているので、政治学の理論全体がこれに基づいてできあがったほどである。
 一九六〇年代に、ジェームズ・ブキャナンとゴードン・タロックが唱えた公衆の選択説の主旨は、政治家や官僚もやはり私利を追求するということである。彼らは自分の出世や報酬よりも公務を優先する義務を負っているが、やはりどうしても、そしてどんなときも、役所を訪れる人々や国を支える納税者の利益よりも、自分自身や自分の所属機関の利益を追求してしまうのである。彼らは国民に利他主義を吹きこんでそれを利用する。協力を要請し、そして裏切るのである。これはあまりにもシニカルな考え方といわれるかもしれないが、逆の考え方、つまり、官僚は公共の利益のために尽くす無私の忠僕(ブキャナンにいわせれば「経済的無能者」ということになる)であると考えるのは、あまりにもうぶといえよう。」
(マット・リドレー『徳の起源 他人を思いやる遺伝子』岸由二監修 翔泳社)

付録3
道徳感覚の類型と進化

シュウェーダーの倫理体系 神聖 共同体 自主性
ハイトの道徳基盤 純粋性/神聖性 内集団忠誠 権威/尊敬 危害/ 温情 公正/互恵
フィスクの人間関係モデル 共同的分かちあい 権威序列 平等対等 市場値付け/合理合法

「人類学者のリチャード・シュウェーダーが学生及び共同研究者らとともに調べたところによると、全世界の道徳規範はすべて少数のテーマのまわりに集中している。そのなかで、現代西洋社会に住む人びとが直感的に道徳の核と見なしがちなもの――公平、正義、個人の保護、危害の阻止――は、道徳的かどうかの判断に関わる認知的、情動的な装置に引っかかってくることのある、いくつかの考慮事項分野の一つにすぎない。ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教などの古代宗教をざっと見ただけでも、そのほかにもたくさんの要素、例えば忠誠、尊敬、服従、禁欲、摂食や性交や月経といった身体機能の管理統制などが、ものごとを道徳的に評価するのに関わっているのだ。
 シュウェーダーは、全世界の道徳的考慮事項を三部制にまとめている。一つ目の「自主性」は、現代西洋社会に見られる倫理体系で、社会は個人で成り立っていることを前提として、道徳の目的はその個人に自分の選択を行使させ、個人を危害から守ることであると見なす。これと対照的に、二つ目の「共同体」の倫理では、部族や氏族や家族や機関や組織など、さまざまなかたちの連合の集まりが社会であると見なされるため、ここでの道徳は、義務や尊敬や忠誠や相互依存とイコールになる。そして三つ目の「神聖」の倫理では、世界は神の精髄(エッセンス)でできていて、その一部分が身体に宿っているのだという前提のもと、道徳の目的はこの霊を劣化や汚染から守ることだと見なされる。身体が魂の容器にすぎず、その魂は究極的に神のものであるならば、人間には自分の体を使ってやりたいことをやるような権利はない。むしろ人間は、魂が汚れるのを避けるため、不潔なかたちでの性交や摂食や、その他もろもろの快楽を慎むことを義務づけられる。この神の倫理が根底にあるときに、ある種のものは道徳的に嫌悪され、純潔と禁欲が価値あることとして守られる。
 ハイトはシュウェーダーの三分法をもとに、そのうちの二つの倫理をさらに二分して全部で五種類とし、それらを「道徳基盤」と称した。…
 私が最も有益だと思う体系は、人類学者のアラン・フィスクが考察したものである。これは道徳観が四種類の人間関係モデルから発しているという考えで、それぞれのモデルによって、人びとが自分たちの関係性をどうとらえているかが異なっている。この説が明らかにしようとしていることは、任意の社会において人びとが資源をどう配分しているのか、人びとの道徳的強迫観念は人間の進化的な歴史のどこから来ているのか、道徳は社会によってどのように異なるのか、人びとはどうして都合よく道徳を使い分けできて、その道徳をタブーで守れるのかということである。上の表に示されているとおり、この関係モデルはシュウェーダーやハイトの分類と多かれ少なかれ一致している。
 第一のモデルは、「内集団忠誠」と「純粋性/神聖性」を組み合わせた「共同的分かち合い」(略して「共同」)である。この「共同」の考え方を採用している場合、人びとは集団内で進んで資源を分かち合い、誰がどれだけ得したり損したりしているかをまったく気にかけない。彼らは集団の概念を、共通の本質によって統一された「一心同体」ととらえ、それが汚染されないように守らねばならないと考える。したがって、その統一という直感を強化するために、絆と結合を深める儀式として、身体的な接触をしたり、ともに食卓を囲んだり、同時に同じ動きをしたり、歌や祈りを斉唱したり、感情的な経験を共有したり、身体に同じ装飾や切除をほどこしたり、授乳や性交や血の契りの儀式において体液を混ぜあわせたりする。また、その統一感を合理化するのに、祖先が共通であるとか、一人の祖からの系譜であるとか、ある土地に根ざしているとか、象徴的な動物に深く関係しているといった神話を利用する。この共同関係は、子への母親の世話、血縁選択、相互扶助から進化したもので、少なくとも部分的には、脳内のオキシトシン系で実行されているものと思われる。
 フィスクの第二の人間関係モデルは「権威序列」で、支配力、地位、年齢、性別、強さ、富、先行順などによって定義される直線的な階層(ヒエラルキー)になっている。この序列のもと、上位者は何でも欲しいものを得て、下位者から貢ぎ物を受け、下位者に服従と忠誠を命ずる権利があるが、その一方で、下位者を保護するために、父親的、牧師的、ノブレス・オブリージュ的な責任をはたす義務がある。おそらくこれは、霊長類の優劣順位制から進化したもので、部分的には脳内のテストステロン感知回路で実行されていると思われる。
 第三のモデルである「平等対等」は、しっぺ返しの交換をはじめ、資源を均等に分配すための仕組みを採用して、たとえば優先権を交代制にしたり、コイン投げで決めたり、各自の貢献を均等にしたり、分け前を平等にしたり、「どれにしようかな天の神様の言うとおり」といった言葉遊びの手法を使ったりする。まぎれもない互恵主義を実践している動物はほぼ皆無だが、チンパンジーには初歩的な公平意識があると見られ、少なくとも自分がごまかされたときにはその意識を発揮する。「平等対等」の神経基盤は、意図、だまし、不調和、視点取得、計算などを記録する脳の部位、すなわち島、眼窩皮質、帯状皮質、背外側前頭前皮質、頭頂葉皮質、側頭頭頂接合部などを包含する。「平等対等」は私たちの公平感と直感的な経済感覚の基盤であり、人々を親友や義兄弟としてよりも、隣人や同僚や知り合いや取引相手として結びつける。多くの伝統部族は、西洋文化におけるクリスマスのフルーツケーキのような、たいして意味のない贈り物の交換を儀式として行うが、それもひとえに「平等対等」の関係を強固にするためである。
 フィスクの最後の人間関係モデルは「市場値付け」、すなわち、通貨、価格、地代、給料、手当、利子、クレジット、デリバティブなど、現代経済を動かしているものについてのシステムである。「市場値付け」とは、数字、数式、会計、デジタル転送、正式契約言語に依存する。ほかの三つの人間関係モデルと違って、「市場値付け」は普遍的とはほど遠い。これは読み書き能力や計算能力や、近年発明された情報テクノロジーに依存するからだ。そして現代になるまで利息に対する抵抗が広く行き渡っていたことからもわかるように、「市場値付け」の論理はいまだに認知的に不自然なものである。フィスクによれば、これらのモデルは多かれ少なかれ、進化、幼児の発達、および歴史にあらわれる順番を反映した軸に沿って並べられるという。つまり、共同的分かちあい→権威序列→平等対等→市場値付けという構図である。」
(スティーブン・ピンカー『暴力の人類史』(幾島幸子・塩原通緒訳)

付録4
サバンナ原則について
「…私たちは依然として、一万年以上前の先祖と同じ心理メカニズムをもっているということだ。
 このことから、進化心理学で「サバンナ原則」と呼ばれる次のような新たな命題が導きだされる。すなわち、「私たちの脳は、先祖の環境になかったものや状況を理解できず、私たちはそうしたものや状況に必ずしもうまく対処できない」。
 たとえば、テレビやビデオ、写真や映画も先祖の環境にはなかった。私たちはこうした映像と自分をとりまく現実とを無意識に混同していないだろうか。実際、最近の調査によれば、自分の好きなテレビ番組を毎回のようにみている人は、友人関係に対する満足度が高いという結果が出ている。彼らは番組のレギュラー出演者を友達のように感じており、友達にしょっちゅう会っているような錯覚をいだいているようだ。この現象は次のように説明できる。サバンナ原則によれば、先祖の環境に適応した人間の脳は、生身の友達とテレビでよくみかける人物とをうまく区別できない。先祖の環境では、他の人間のリアルなイメージをみたら、それは実際に他の人間が目の前にいるということを意味する。何度も同じ人間と会い、その人間があなたを殺したり、危害を加えたりしなければ、あなたはその人間を友達とみなすだろう。かくして、私たちの石器時代の脳は、テレビでしょっちゅうみかける人物(私たちを殺したり、危害を加えることはまずない)を友達とみなし、彼らを頻繁にみることで、豊かな友人関係をもっているという錯覚に陥るのだ。」
アラン・S・ミラー/サトシ・カナザワ『進化心理学から考えるホモサピエンス』(2019 パンローリング社)
(上記『知能のパラドックス』52頁以下にもっと詳しい説明がある。)


参考文献
立花隆『サル学の現在』(文春文庫)
1991年における「現在」だが、今でもこの分野の研究成果をこれ以上包括的に紹介した本はない。
フランス・ドゥ・ヴァール『利己的なサル、他人を思いやるサル』西田・藤井訳 (草思社)
チンパンジーやボノボの行動から人間の道徳性の起源と意味を考える試み。考えさせられる事は多い。

竹内久美子『そんなバカな!遺伝子と神について』、『浮気人類進化論』、『賭博と国家と男と女』(文春文庫)
理論の乱用という批判があるかもしれないが、面白く読めて、
進化動物学の基本的な知識と考え方が身に着くという点で、誰にも勧められる。
その下敷きになっているのは、
ドーキンス『利己的な遺伝子』日高・岸・羽田・垂水訳 (紀伊国屋書店)
予備知識も必要としない、読んで損をすることのない、古典的な名著。

遺伝子の働きについて、もっと具体的に知りたいのであれば、
原題は『生まれは育ちを通じてNature via Nurture』だが、
マット・リドレー『やわらかな遺伝子』中村桂子・斉藤隆央訳 (ハヤカワ文庫)

アメリカをはじめ「世界中でもっとも読まれている進化の教科書」だという
ジンマー/エムレン『進化の教科書』(講談社ブルーバックス)
普通の読み物としても面白い。全3巻だが、一冊だけなら進化の理論を扱っている第2巻を(もう一冊なら3巻も)。

進化倫理学に関する適切な概説書は見あたらない、
橘玲『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』、『(日本人)』(幻冬舎)
の二冊は、進化論の立場を踏まえて、倫理についても論じている。
スティーヴン・ピンカー『人間の本性を考える』(上/中/下)山下篤子訳 (NHKブックス)
一冊だけなら下巻を。進化生物学の立場から、暴力・性・「生まれと育ち」といったテーマを具体的に論じている。

進化心理学の概説書として薦められるのは、
長谷川寿一・長谷川真理子『進化と人間行動』 (東京大学出版会)
これも読み物として面白いし、必要なことはほとんど書かれている。

―その後、一冊だけ、進化倫理学の概説書の翻訳が出ました。
大学生向けの教科書ならもっと詳しく書いてほしい気もしますが、他にありません。
スコット・ジェイムズ『進化倫理学入門』 児玉聡訳 (名古屋大学出版会)


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