倫理学8

第8回(6月7/8日)

 

WEIRDな倫理

前回の課題です。

次のテーマについて、この家族を道徳的に非難するべきかどうか、400字程度で述べなさい。

「飼っていた愛犬が自宅の前で車にひかれて死んだ。

「犬の肉は美味しい」と聞いていたこの家族は、

死骸を切り刻んで料理して、こっそり食べてみた。」

 

普通の人なら、この話を聞いて、とんでもないことだと、不快感を感じるでしょう。

誰かがブログに書いたりしたら、炎上するかもしれません。

でも、誰がこの家族を非難できるのでしょうか。

(1)

まず、犬を食べるということ自体は、韓国や中国では、現在でも文化として認められています。

犬の肉を食べること自体は、過去の時代にもありましたし、衛生的にも問題ないでしょう。

食べられるものを捨てるのは「もったいない」とさえ言えます。

(2)

もし食べるために殺したというのなら、動物愛護法に抵触するかもしれません。

でもこの場合は、車に轢かれて死んだのですから、問題ありません。

法的には、ペットは家族の所有物ですから、死体をどう処理しようと自由です。

(3)

また、もし人前で料理して食べたというのなら、みんなの反感をそそり、怒る人もでてくるでしょう。

世間の人が誰でも怒るようなことを公然と行うのは、他者危害原則に反します。

でも、「こっそり」誰にも知られないようにして食べたというのなら、そこも問題ありません。

また、「食べてみた」と書いてあるように、これから同じことをするとも考えられません。

(4)

「犬は家族の一員だ。食べるなどとんでもない」と言う人もいるでしょう。

しかし古代には、死んだ父親を家族みんなで食べるという民族がいたことを、

ヘロドトス『歴史』は伝えています。ヘロドトスはこう言っています。

もし彼らが、死んだ父の身体を火で燃やすという話を聞いたら、驚き、恐れ、怒るだろう、と。

(ヘロドトスが書いているからといって、事実だという訳ではありません。)

 

という訳で、この話を聞いた人は、心の中では不快感を感じていたとしても、

コメントを求められたら、こう答えるでしょう。

「彼らには彼らの考えがあるんだろうし、それは自由だ。

犬はもう死んでいるから、どうなろうと関係ない。

現実に、誰の迷惑にもなってないし、誰も傷つけていないんだから、

いいんじゃないの」

私だって、意見を求められたら、そういう意味のことを言います。

なぜなら、それが、自由な社会の公式見解だからです。

 

この話は、ジョナサン・ハイトというアメリカ人が作ったもので、

彼は、人々がどんな反応を示すか、フィールドワークを行って、実際に調べました。

普通のアメリカ人に聞くと、眉をひそめて怒る人もいます。

特に下町のスーパーに買い物に来ているような人たちなら、そういう反応も普通です。

でも、例えば大学の学生たちに聞くと、反応は違います。

たいていはすぐ上に書いた、「いいんじゃないの」みたいなコメントをするのです。

これを、ハイトは、WEIRD(ウィヤード)な倫理と名づけました。

WEIRDという英語は、「変な、奇妙な」という意味でよく使う言葉です。大文字なのは、

W Western 西欧の

E Educated  高い教育を受けた

I Industrialized  産業化された

R Rich 裕福な

D Democratic 民主主義的な

の頭文字を繋げたものだからです。

アメリカの大学生などその典型です。企業のエリートなどもそうです。

彼らはたいてい、こうした公式見解を口にします。

その倫理は、世界の多くの文化から見ると、

特殊な倫理であり、奇妙な倫理である、とハイトは言うのです。

 

もう、お分かりでしょう。

この「公式見解」というのは、ミルが定式化した自由論そのものです。

それくらい、ミルが定式化した自由論は、今では当たり前になっています。

しかし、本当にそれでいいのか。

倫理というのは、そんなに表面的で単純なものなのか。

死んだ犬の肉は、やっぱり食べてはいけないのではないか?

何でも個人の自由だから構わない、でいいのか?

これについては、後期の倫理学で触れることになると思います。

興味のある人は、

ハイト『社会はなぜ左と右に分かれるのか』

を読むといいでしょう。

 

しかし、奇妙な倫理であったとしても、

S/Mも、同性愛も、自殺も、犯罪であった過去の時代より、

少なくとも犯罪ではなくなった現在の自由な社会の方が、

より多くの人に満足を与えるという意味で、

より幸福な社会だと言っていいのではないでしょうか。

つい50数年前まで、アメリカの多くの州で、

白人と黒人が結婚することが認められませんでした。

同性結婚など、とんでもないことでした。

(こういう問題について考えるとき、功利主義は有効です。)

 

私は、「歴史とは自由の実現のプロセスである」

というヘーゲルの言葉を信じたいと思っています。

 

 

ロールズ『正義論』格差を埋める原理

義務倫理と功利主義を中心に、5/6月は倫理学説を見てきましたが、

今回でひとまとまりです。

John Rawls ( 1921-2002 )

ハーバード大学の政治哲学の教授。

『正義論 (A Theory of Justice) ( 1971)において、

功利主義と自由主義の最大の弱点であると言われる、

格差の問題を是正する理論を提示しました。

それが有名な「格差原理」です。

 

自由主義とリバタリアニズム

J.S.ミルが提唱した自由主義は、普通、リベラリズム(Liberalism)ですが、

より極端な自由主義の立場があります。それが、リバタリアニズム(Libertarianism)です。

強いて訳すと、「自由至上主義」か「自由原理主義」。

簡単に言えば、国による個人の自由の制限を、出来る限りなくそう、という立場です。

自由な活動に基づく市場経済が、その代わりを果たし、より多くの幸福を生むと彼らは考えます。

(ミルの自由主義も、リバタリアニズムの要素を含んでいます。)

例えば、医者になるためには、医学部に入り、国家試験に合格しなければなりません。

リバタリアンは言います、そんな制限はいらない。誰でも自由に医者になればよい。

いい医者の所には客が集まり、藪医者の所には客は来ない。医師免許なんてどうでもいい。

売春とか、麻薬(ドラッグ)とか、            転売屋とか、国が禁止するのは止めろ!

禁止するから、かえって、いろんな害悪が生じている。

(こうしたテーマについては、後期の倫理学で扱います。)

まあ、リバタリアンというのは、そういう主張をする人です。

政府は出来る限り、小さくて、権力を持たないほうがいいのです。

というか、国なんてなくてもいい。

 

例えば、アベノマスク。

当初は466億円と言われ、結局は260億円かかったと言われました。

各世帯に2枚セットで一組ずつ配る。

仮に一世帯が3人とすると、4000万世帯に2枚づつ配ったことになります。つまり8000万枚。

計算すると、一枚、325円です。高くないですか?

当時はマスク不足だったとはいえ、百均に行ったら、何の変哲もない布マスク、もっと安く買えます。

国民に325円配って、自分でマスクでもアイスでも、好きなものを買えばいい。

あるいは、持続化給付金。

よく分からない「サービスデザイン推進協議会」という組織に 769億円払い、

その「サービスデザイン推進協議会」は、電通に645億円で仕事を委託し、

電通は、その仕事を、さらに子会社に委託する。

サービスなんとかという組織には、電通もからんでいる可能性もあり、

マスコミの報道を見る限り、限りなく怪しい。

外国での報道には「電通が棚ぼたの金を手に入れたという記事もありました。

また、税金が使われることになると、役所では、その分捕り合戦が始まります。

コロナ対策という名目で、それとは何の関係もないことに、

何の役に立つか分からないようなことに、税金が使われるのです。

無駄使いされているのは税金です。

国というのは、税金を無駄使いするシステムです。

 

皆さんが大学卒業後めでたく就職し、サラリーマン生活を送ることになると、

所得税、住民税、消費税、健康保険、年金など、どれも収入の10%程度ですから、

収入の半分は税金として国に収めなければならないことに、やっと気がつくでしょう。

(このうち、年金と健康保険は厳密には税金ではありませんが、実質は税金です。

税金という名前にすると、税金が高すぎることに国民が気がつくから、名前を変えているだけです。)

国というのは、その税金を無駄使いするシステムです。

これに反対するのが、やや穏便な新自由主義と、よりラディカルな、リバタリアニズムです。

税金の無駄使いなど出来ないように、まず税金自体を減らします。

そのため政治家とか公務員とか、バンバン減らします。

出来る限り多くの活動を自由な市場経済に任せるのです。民営化と言ってもよい。

この辺りの話を詳しくすると、倫理学より、政治学や経済学に近づいていきますから、

これくらいにしておきますが、

われわれの住んでいる自由主義の社会にも、問題が山ほどあります。

皆さんは、どちらの社会に住みたいと思いますか?

国が国民の福祉という名目で税金をどんどん無駄使いする社会ですか、

それとも国は何もせず、誰もが自由に活動できる社会ですか?

 

国というと、話が大きすぎるので、身近な話をします。

みなさんがアルバイトをしようと考えたとき、どんな仕事を選びますか?

「俺は、短時間で、たくさんお金をもらえる仕事がいいなぁ。」

「じゃぁ、家庭教師とか、塾か予備校の講師しかねえよ。」

「でも、塾とか予備校は、仕事、けっこうキツイだろ。俺は、楽して稼ぎたいんだよ。」

「じゃぁ、ホストとか、どう?」

「ホスト?いっかい、松坂桃李とかに生まれ変わってから、言って」

「大学の先生なんて、いいよなぁ。いつも遊んでて、授業じゃテキトーにバカ話して、給料もらえるんだから。」

小学生の会話ですか?(今時の小学生だって、もっと賢いはず。)

冷静に考えてください。短時間で高収入なんて、そんな都合のよい仕事があれば、

多くの人が殺到し、君が選ばれる可能性は、かなり低くなると思いませんか?

でなければ、そんな仕事、「お金を受け取ってくるだけの、簡単なお仕事です」

「飛行機に乗って、韓国と往復するだけの楽しいお仕事です」みたいな、

犯罪です。(オレオレ詐欺の受け子とか、麻薬か金塊の密輸とか)

現実というものが分かっていれば、虫のいい考えは通用しないことが分かります。

「給料はよくても、嫌な仕事はしたくない」というのは妥当な判断です。

「自分の得意なことを生かせて、それなりの収入を得られる仕事」というのもいい判断です。

自分が幸せにな生活が出来そうな仕事を選んで、契約を結ぶべきでしょう。

 

「私は人生のアルバイト」(故・山本夏彦)

アルバイトの場合と同じように、人生で、どんな社会やどんな国に住みたいか、考えてみてください。

どんな社会やどんな国ならば、自分が一番幸せな生活を送れると思いますか?

「天安門」とネットに書いただけで、捕まって投獄されてしまうような国ですか?

逆に、なんでも自由だというリバタリアン的な国ですか?

それとも、最大多数の最大幸福を実現することを目指している国ですか?

どんな社会や国と、どんな契約を結びますか?

 

ロールズ『正義論』

1) 社会契約説

個人が国と契約を結ぶ、という考えを「社会契約説」といいます。

もともと人は自分たちだけでも生きていけるのだけれど、

道路を整備したり、ゴミを収集したり、健康保険を作ったり、

大きな集団の力でないと出来ないこともあるから、

国というものと契約を結んで、都合のいいことをやってもらおう。

そのためには税金も払うし、義務も果たそう。

でももし国が変なことを始めて国民に不都合なことが多くなったら、

契約をキャンセルして、国王には止めてもらうことにしよう。

こうした社会契約説は、ヨーロッパで17/18世紀頃に流行した思想です。

ホッブズ、ロック、ルソー、カントなどの名前と結びついています。

でも20世紀には、死んだ犬、誰も省みることのない古い理論になっていました。

これを現代に復活させたのが、ロールズです。

 

古い社会契約説では、国と契約を結ぶ以前の人間は「自然状態」で暮らしていますが、

ロールズは出発点になる個人の状態を「原初状態(the original position)」と呼びます。

それは仮定された架空の状態ですが、かなりリアルな仮定です。

その条件は、次の4つです。

(1) 各人は自己の利益に関心がある。

(2) 各人は理性的である、

つまり、自己の利益が増加するように合理的(理性的)に判断できる、ということ。

(3) 誰もが、人間性、社会、政治、経済などに関する一般的事実をよく知っている。

(4) 各人は自分の置かれている状況については、「無知のヴェール」 に蔽われている。

 つまり、「誰も社会の中での自分の境遇や階級上の地位、社会的身分を知らないだけでなく、

 親から受け取る資産や生まれつきの諸能力、知性、体力

 その他の配分が自分の場合どれほど恵まれているかも、知らない」と仮定する。

 

このうちの最初の三つは、問題ないでしょう。

アルバイトの仕事を選ぶときでも、どれが一番得か、一般常識に従って冷静に計算します。

(2)は、目の前にぶら下がったニンジンにつられて、結局は自分が損する選択肢を選ばないというだけのこと。

(3)も、一般常識がなかったら、正しい判断はできないから、当然の前提です。

問題は、(4)の「無知のヴェール(the veil of ignorance)」。

自分が、今どんな状態にあるのか、まったく知らないと仮定します。

男なのか女なのか、白人なのか黒人なのか、金持ちなのか貧乏なのか、

健康なのか病気なのか、知能が高いのか低いのか、家族に恵まれているのかどうか

松坂桃李みたいなイケメンなのか、石を投げられそうな不細工なのか、

個人的な事情は一切無視するのです。

松坂桃李さんというのは、「今そこにある危機と僕の好感度について」」で主役を演じている役者さんです。)

社会や国という一般的なシステムについて決めるのですから、

自分を中心とした一部のグループの人たちだけが優遇されるというのでは困ります。

誰でも、自分の現状を出発点にして、物事を考えます。

「無知のヴェール」とは、第三者の立場で、客観的に判断が下せるための非常に重要な条件です。

(これは、カントの「普遍化可能性」の、具体的な形だと言ってもよいし、

「他人の立場に立つ」という相互性の、一般的な形だと言ってもよいでしょう。

昨年アメリカを中心に、「BlackLivesMatter」の合言葉を掲げた

人種差別反対の運動が盛り上がっていました。日本でもデモがありました。

その切っ掛けは、白人の警官に八分間、首を押さえつけられて

「息が出来ないよ、ママ」と言って死んでいった黒人の映像です。

その映像を見た人なら、誰でも、こんなことがあっていいはずがないと思います。

でももしかしたら、見た人が当の警察官だったら、違う思いを持つかもしれません。

自分の置かれている立場によって判断にバイアスがかかります。誰でもそうです。

だから自分の状況は一切知らない、という要件が必要なのです。

あの映像を見た人は、自分がどんな状況にあるか、忘れていたはずです。)

 

以上の前提のもとで、自分がその一員になりたい社会について契約を結ぶという場合には、

誰もが、「自由の原理」と「格差の原理」が実現された社会がいいと考え、

この二つの原理に同意するはずだ、とロールズは言うのです。

 

2) 各人の採用する戦略

(1)利己主義と自由主義

「自分がよければいい」という利己主義(egoism)の立場を取ったらどうか、と君はまず考えるでしょう。

「他の人の利益に関係なく、自分の利益を最大限に重視するのが利己主義だ。

事実、誰でも自分が一番大事なんだし、まず自分のことを考える。

それに資本主義社会は、みんなが自分の利益を追求することで、社会全体が繁栄するシステムだから、

結果的にみんなが利益を得ることになる。

利己主義と、経済的な自由を最大限に認めるリバタリアニズムでいいんじゃないのか。」

でも君は、もう少し考えて、やっぱダメだわ、と思い直します。

それがなぜかは、今回の課題にします。

 

課題

次のテーマについて、400字以上で述べなさい。

「利己主義の戦略が上手くいかない理由」

 

と書きましたが、無理だろうな〜、というか、

何かのコピペばっかり読まされることになるんだろうなぁ

と思い直して、解説します。

一番の正解は、『正義論』に書いてあるはずですが、

エゴイズムの戦略については、『正義論』では、

本当に簡単にしか触れられていません。

要するに、わざわざ取り上げるに値しない、という扱いです。

 

常識があれば、自分だけよければいい、という生き方をしている人が、

現実にどんな生活を送っているか、だいたい分かるでしょう。

お金だけでなく、みんなに好かれ尊敬されているか、という要素も考えてください。

(個人ではなく、会社という集団でも、自分の会社の利益しか考えない会社が、

利益を上げる優れた経営なのか、

後期のビジネス倫理で取り扱います。)

今回は、利己主義者が損をするという典型的なモデルである、「囚人のジレンマ」について説明します。

私のホームページから一部引用)

 

囚人のジレンマ
いま、犯罪を犯して警察で取り調べられている二人の犯人がいるとする。証拠が掴めない警察は、犯人の双方に、司法取引を持ちかける。司法取引とは、警察に有利な証言をした者の罪を軽くする(この場合には無罪にするという約束である。そこで、
1)もし二人が証言を拒否し、最後まで黙秘すれば、犯罪の決定的な証拠は得られないので、二人とも、一年の禁固刑になる。
2)もし一方だけが自白すれば、自白した者は司法取引で無罪、もう一方の者だけ、五年の禁固刑になる。
3)もし二人とも自白した場合には、司法取引の対象にはならないが、自白により罪を減刑されて、二人とも四年の禁固刑になる。

AB

黙秘

自白

黙秘

(1, 1)

(5, 0)

自白

(0, 5)

(4, 4)

 

すると、犯人Aはこう考える。「もし、Bが黙秘したと仮定しよう。すると、俺は、黙っていれば一年の禁固刑、自白すれば無罪だ。また、Bが自白したと仮定しよう。すると、俺が黙っていれば五年、自白すれば四年ですむ。どちらにしても、自白した方が得だ。」
全く同じ事をBも考える。
こうして、二人は、二人とも自白して、仲良く(!)四年の禁固刑という、二人にとって最悪の選択をしてしまうことになる。

犯罪者にとって最善の選択は、二人とも相手を信頼して黙秘するという右上の選択肢でしょう。

なぜなら、二人合わせて2年という、最小不幸の結果をもたらすからです。

しかし二人が、利己主義者で合理的な選択ができるなら、最大不幸である右下を選ばざるを得ないのです。

その原因は、二人とも利己主義者で自分の利益しか考えていないからです。

 

このジレンマをゲームにして、何十回も繰り返し行うことで、どういう戦略が一番早く刑務所から出られるか、

ゲーム理論の観点から、考察することができます。

アメリカ中から、戦略を募集して、コンピューターでシミレーションする実験が、かつて行われました。

そこでも、常に裏切るという利己主義者の戦略は、たいしてよい成績を収めることは出来ませんでした。

二回にわたって行われたこのシミレーションで、二度とも優勝したのは、

Tit-for-tat(しっぺ返し)という戦略です。

その戦略とは、

1)初対面で相手の情報がないときには、協力する。

2)以前に出会った相手には、相手が前に取ったのと同じ選択肢を取る。

という単純なものです。

2)は、協力してくれた相手には協力し、裏切った相手には裏切り返す、ということです。

要は、基本的に他人と協力しするが、ただ乗りしようとする悪人は懲らしめるという戦略です。

(今回は、これ以上、深入りしませんが、

その進化論ヴァージョンが、ドーキンス『利己的遺伝子』で詳しく検討されており、

それもなかな興味深い内容ですから、興味があれば、一読を勧めます。

数学の知識は何もいりません。)

 

 

(2)功利主義

上の「囚人のジレンマ」でも、一番よい選択は、「最大幸福」を目指す功利主義でした。

「みんなが幸せになるような社会なら、自分も幸せになるだろうから、功利主義でよくねぇ?」

と君は考えるかもしれません。

「儲かってる会社なら、バイト代も高いはず」ということです。

でも、本当にそうでしょうか?

儲かってる会社でも、高い給料を得ているのは社長や経営陣だけで、

平社員やバイトは安い給料でこき使われている、かもしれません。

全体の幸福が大きくても、その幸福がどう分配されているか、分かりません。

これが、功利主義だけでは、上手くいかない一番大きな理由です。

そこで、功利主義に、平均効用原理を足したらどうだ、と考える人が出てきます。

いま、君は10個のアイスを持っています。

一個目のアイスは、とても美味しく食べられるでしょう。

「われ、アイスを愛す」とか、君は上機嫌です。

でも、二個目のアイスは、それほど美味しくないかもしれません。

そして、三個目のアイスは、もうほとんど美味しくはないかも。

アイスの美味しさ、つまりアイスクリームの効用は、だんだん減っていきます。

効用逓減(ていげん)の法則です。それは、なだらかな曲線を描きます。

ウィキペディア「限界効用逓減の法則」)

だから、君は、友達に残りのアイスを配るべきです。

すると、君が一個目のアイスを食べたときと同じ大きさの美味しさが各人に生じます。

これが、「平均効用原理( the principle of average utility)」です。

これを加えると、「最大幸福」をどう配分するか、方針が得られます。

年収1億円の人が一人、年収100万円の人(貧乏生活)が10人いるより、

年収1000万円の人が11人いる方が、幸福の量は大きいのです。

(全体の量は、1億1000万円で変わりません。)

でも、平均化すれば、本当に幸福は増えるのでしょうか?

社会主義の失敗という二十世紀の教訓は、それに疑問を突きつけています。

 

(3)正義のニ原理

という訳で、正義の二原理です。

ロールズは、きっと誰でも、これを選ぶはずだ、と言います。

その理由を、ゲーム理論で説明します。

 

マキシミン(maximin)ルール

人生はゲームです。

ゲームに勝つ、一番いい戦略は、何でしょうか?

一番勝ちやすい作戦とは、一番負けにくい作戦でしょう。

ゲームで一番勝ちやすい(=負けにくい)戦略は、マキシミン・ルールに従うという戦略です。

マキシミン(maximin)とは、マックス(最大)・ミニ(最小)という意味で、最大最小の法則、

「最悪の選択肢のうちの最善の選択肢を選ぶ」というルールです。

もっと詳しく言い換えると、

「ある選択肢の最悪の結果が、それ以外の選択肢の最悪の結果と比較して、

まだましな場合には、その選択肢を採用する」ということです。

 

去年は、こんなことを書きました―。

大学に行かなくてよいので、よくAbemaの将棋チャンネルで、

藤井聡太七段の対局を見ています。まだ高校3年生ですが、すでに国宝です。

7月から、王位戦の対局も始まります。相手は、木村王位。

対局が始まると、藤井七段は、きっと、こう考えます。

木村王位は、この局面で、私が一番不利になる手を指してくるだろう。

それに対して、いくつかの候補手がある。その中で、私が一番有利になる手を選ぼう。

木村王位も、こう考えます。

きっと藤井七段は、俺が一番嫌がっている最悪の手を指してくるだろう。

それに対しては、俺が一番有利になる最善の手を指し返そう。

ここに均衡点が生まれます。ゲーム理論で、ナッシュ均衡といいます。

二日間、そうした手の連続が指され続けます。

AbemaAIなら、50%対50%という評価値をつけるでしょう。

そして、たぶん47歳の木村王位がミスをして、形勢が傾き、

17歳の藤井七段が勝つことになるでしょう。

今回は、私は「中年の星」木村一基さんも応援しているので、残念です。

ついでに、パチンコで、どうしたら一番勝てるか?

パチンコに行かないことです。これに尽きます。

(どうしてもパチンコに行きたい人は、補足2をよく読んでください。

いいですか、誤解しないように、よく読んでください。)

 

という訳で、マキシミン・ルール(ミニマックス定理)に従って、

「最悪の状況で最善の選択肢を選ぶ」戦略がいちばん勝てる作戦なのです。

 

3) 正義のニ原理 (two principles of justice)

第一原理(平等な自由の原理)

各人は、基本的自由に対する平等の権利を持つべきである。

その基本的自由は、他の人々の同様な自由と両立しうる限りにおいて、

最大限広範囲にわたる自由でなければならない。」

 

これは、自由が一番、でも他者危害は避けて、という、J.S.ミルの『自由論』の定式と同じです。

そして、第一と第二は、優先順位がついています。第一は自由。第二に格差の是正。

 

第二原理

格差(不平等)を埋める原理です、その大原則は、

「不平等は、それが全ての人の利益になるのでない限り、あってはならない。」

ということです。もっと詳しく言うと、

「社会的・経済的不平等は、次のニ条件を満たすものでなくてはならない。

(1)それらの不平等が全員の利益になると無理なく予期しうること。

(2)それらの不平等が全員に開かれている地位や職務に付随するものでしかないこと。」

 

つまり、まず、不平等は、あっていいのです。というか、あるべきなのです。

もし医者の給料が安く、誰にも尊敬されない、というのなら、

長い間勉強して、やっと医者になり、その結果、責任も重く、夜中に緊急に呼び出されたりもするし、

コロナの治療をしていると、周りから、こっちに来るんじゃねえよ、と石を投げつけられたりする、

そんな医者になりたがる人は少ないでしょう。

すると、みんなもいい医療をうけられなくなります。みんなが損をする。

だから、医者の給料が高くて、みんなから敬意を持たれるのは、当然なのです。

 

次に、誰でも、成りたければ医者になれる可能性が開かれている、のでなければなりません。

家が貧乏でも、奨学金を得て、大学で医学を学べる、とか、

糖尿病の治療で有名な、バーンスタイン医師のように、40過ぎてから医学部に入って医者になるとか、

女性でも、差別されずに、医学部に入れる、とか、です。

 

第二原理は、さらに次のように書き換えられるます。

「社会的・経済的不平等は、次のニ条件を満たすものでなくてはならない。

(1)それらの不平等が最も不遇な立場にある人の期待便益を最大化すること。(格差原理)

(2)公正な機会の均等という条件のもとで、すべての人に開かれている地位や職務に付随するものでしかないこと。」(公正な機会均等原理)

(二原理の訳は、川本貴史『ロールズ』より引用)

 

「最も不遇な状況」というのはマキシミン・ルールの「最悪の選択肢」ということ、

「期待便益を最大化」というのは、「最善の選択肢を選ぶ」ということです。

「便益」は、「benefit」の訳。「最大の好都合なことを期待できる」という意味です。

生まれつき、足が速い人も足が遅い人もいます。

小学生と高校生では身体能力が違います。

みんな一斉にスタートして、勝った人に賞金100万円、というレースがフェアですか?

出発点で、結果はもう見えています。

柔道やレスリングでも、体重別、男女別、とフェアな競争ができるように分けています。

マラソンなら、出発点を繰り上げるとか、ハンデをつけることで、フェアな競争になります。

出発点を公正にしておいて、フェアに戦おう、ということです。

そして、それによって、誰でも自分の才能を伸ばす可能性を手に入れることができます。

 

車椅子で大学に通える、なんていうのは、当たり前です。

目や耳が不自由でも、大学で講義を受けられるようにしよう。

子供連れのシングル・マザーでも医学部で学べるようにしよう。

無知のヴェールにおおわれて、自分の状況を知らないという前提で考えれば、

そういう社会なら、自分が勝てる可能性が一番高い、と誰でも判断するだろう、と

ロールズは、主張しているのです。

 

逆の面から見ると、君はたまたま才能に恵まれた善い境遇に生まれた人かもしれません。

プロとしていろんな記録を作り続け、年収も二千万円という高校3年生のように。

(もちろん、本人の努力もあります。でも努力を努力と思わず楽しめるのも才能です。)

「才能に恵まれた人たちは、誰でも、

恵まれない人たちの境遇を改善するという条件のもとで、

自分の幸運から利益を得てもよい。」

 

下の補足1を後で読んでみてください。

 

 

不平等の積極的是正措置

差別をなくすために、アファーマティブ・アクション(Affirmative Action)、

(差別や不平等の))積極的(是正)措置がとられることがあります。

例えば、日本は女性差別の非常に激しい国だと世界では思われています。

それをなくすために、能力が同じでも(例えば、試験の成績が同じ、または劣っているという場合でも)、

男性より女性を採用する(あるいは、試験の成績に女性だけ点数を加点する)という操作をする、ということです。

(その逆のことが、東京医科大学を初めとするいくつかの大学で、これまで行われていました。)

今回は、もう時間切れです。興味ある人は、

ウィキペディア「アファーマティブ・アクション」(特に「アラン・バッキの事件)

を読んでみてください。

 

次回は、功利主義のヴァリエーションとして、環境倫理。

 

 

課題

君の友人のお父さんの悩みに、答えなさい。

「今、アフリカや中近東で、バッタが大量発生して、農業が壊滅状態です。

コロナ危機とあわせて、放っておけば、どれくらいの人が死ぬか分かりません。

人命救助のために、私は、収入の八割を義捐金として送りたいと思うのですが、

私の妻と子は、「私達の生活はどうなるの?」、と言って反対してます。

「200万(私の収入は1000万円です)あれば、最低限でも生活はできるだろう。

金と人の命とどっちが大事だ?」と言っても納得しません。

私は、妻と子に何と言えばいいでしょうか?」

 

 

付録1

ロールズの正義の原理は次の二つである。一つ目は、あらゆる者にとって平等な基本的自由。二つ目は、社会的・経済的不平等は社会の最も不利な成員を利するものにかぎられるということ(格差原理)。

 これらの原理を主張しながら、ロールズはなじみ深い別の二つの選択肢――功利主義とリバタリアニズム――に異議を唱える。功利主義に対しては、人間一人ひとりの区別を重んじていないとして反対する。全体の幸福の最大化を求めることによって、功利主義は社会全体を一人の人間であるかのように扱う。人間のあまたある多様な欲求を一つの欲求の体系にまとめ、最大化しようとする。人びとに満足を分配することには無頓着だが、それが全体の総計に影響しそうな場合は別だ。だが、そのせいで、われわれの多様性と個性は尊重されない。一部の人を全体の幸福の手段として利用するため、各人そのものを目的として尊重することができない。功利主義者も個人の権利を擁護することはあるものの、その擁護は、個人の権利の尊重が長い目で見れば効用となるという計算に基づかなくてはならない。だが、その計算は偶然的で不確実だ。ミルの述べたとおり効用が『あらゆる倫理問題の最終的な拠り所』であるかぎり、個人の権利は決して保障されない。したがって、原初状態にある人びとは、みずからの生存可能性がいつか他者のより大きな善の犠牲になるかもしれないという危険を避けるため、全員にある程度の基本的自由を与え、その自由を優先することに固執する。

 功利主義者が一人ひとりの個性を重んじないのに対し、リバタリアンは運の恣意性を認めないという点で間違っている。リバタリアンは、効率的市場経済による分配の結果なら何でも正しいと定義し、あらゆる再分配に反対する。その根拠は、ごまかしや盗みなどで他人の権利を侵害しないかぎり、人は何であれみずから手に入れたものを持つ資格があるというものだ。ロールズはこの原理に反対する。才能、財産、そして努力でさえ、ある人は多く持ち、ある人は少ししか持たないという分配のあり方は、道徳的観点からは恣意的であり運次第だというのがその根拠だ。そうした違いに基づいて人生の善なるものを分配するのは、正義を行うことにはならず、ただ人間の取り決めに社会的・自然的偶然の恣意性を持ち込むことにすぎない。個人としてのわれわれは、幸運によって恵まれたのかもしれない才能にも、それから生じる利益にもふさわしくない。したがって、われわれはそうした才能を共有の資産と考え、それらがもたらす報償の共同受益者としておたがいを見るべきだ。『天分に恵まれた人たちは、誰であろうと、みずからの幸運から利益を得てもよい。ただし、恵まれない人たちの境遇を改善するという条件がつく……公正としての正義においては、人間はたがいの運命を分かち合うことに同意するのである』

 これが格差原理を導く論法だ。」

(マイケル・サンデル『公共哲学』 鬼澤忍訳)

 

付録2

ミニマックス定理についての実際的補足

橘  投資で大きく成功できる人は、リスクをとれる人です。物事を合理的に考え過ぎると、「この成功はただの運。次の投資が成功する確率も五分五分なんだから、ここでやめておこう」となってしまう。でも、莫大な利益を生み出すためには、「これで成功できたんだから、次は倍にして勝負するんだ」と信じてガンガン行かないといけない。
岡田  ここまでの話を聞いていて、僕は成功できるのは確率論でものを考えられる人なのかと思ったんですけど、実は逆なんですね。
橘  そこそこの利益を得ることが目的なら、合理的思考のできる人の方が断然有利です。金融市場における因果論というのは勘違いなので、それを信じて勝負しても大半は失敗するだけですから。それでもごく一部の人は、運や偶然で成功するんです。
岡田  なるほどなあ。僕、ITバブルで成功した人に興味があって、たくさん会いに行ったことがあるんですが、彼らは確かに後者に当てはまっている。要するに、ノウハウがあったから成功したんじゃなくて、先のことを考えずに投資する度胸があったから成功しているんですね。成功が確率論だということをわかっていたら、怖くて動けなかったはず。
橘  まさに典型ですね。お祭りのときに踊れる人が成功するんです。
岡田  とはいえ、成功者になれるのが一握りだということを考えれば、普通の人間は合理的な思考を身につけて、そこそこの成功を収めること、失敗しないことを目指す方がはるかにいいわけですよね。
橘  夢がないことを言ってしまいますが、その通りです。
岡田斗司夫 FREEex『僕らの新しい道徳』(朝日新聞出版 2013


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