倫理学1

第一回(4月12/13日)

はじめに

今年の倫理学1の講義は、大学の方針に従って、ハイフレックス形式で行います。

私は、次回から、大学の教室に行って、対面で講義を行います。

オンラインで視聴する場合や、講義の復習をしたいという場合には、

昨年書いた倫理学1の講義内容を多少訂正して、

LETUS(ここ)の「統合コース」にアップしておきますから、

それも利用してください。

(第四波が来て、再び緊急事態宣言ということになれば、

対面授業はできなくなるでしょうから、その場合に備えて、でもあります。)

 

毎回の講義の終わりに、10〜20分くらい時間を取って、課題を書いて提出してもらいます。

オンラインの場合、提出期限は、講義日の翌日までとします。

課題に対しては、次の回に、回答らしきものとコメントを書きます。

 

講義内容の順番は、途中で少し変わりますが、基本はシラバス通りに行います。

参考文献は、私のホームページ(http://www.ne.jp/asahi/village/good/

の該当箇所を見てください。

理学部、薬学部、工学部ともに、内容は共通です。

 

第一回の今回は、倫理学の三つの学説について述べます。

 

倫理学とは何か

倫理(ethics)と道徳(moral)は、少しニュアンスは違いますが、ほぼ同じ意味で使われます。

英語なら、ethics moral science です。

「善い行為=人のとるべき善い行動」を研究するのが倫理学です。

(専門的には「人の取るべき」という倫理を「規範倫理」といいます。)

ですから、世の中のたいていのことは倫理学のテーマになりえます。

「新型コロナウィルスに対して、どういう行動をとるのが善いのか」

政治家として、医者として、商店の経営者として、一般の市民として

それぞれ、政治倫理、生命倫理、ビジネス倫理、徳の倫理

などなどで扱うことができます。

しかし、そうした具体的な問題を扱うのは、「応用倫理」です。

応用倫理は、主に、後期の倫理学2で取り上げます。

(生命倫理と環境倫理は、義務倫理と功利主義の理解のために、前期で扱います。)

 

前期の論理学1では、主として、倫理学の「学説」を扱います。

簡単に言えば、高校の倫理学の教科書に載ってるような内容です。

『ここは今から倫理です。』(4巻目まで読みました)という、NHKで実写ドラマ化されたマンガがあります。

主人公は、高校の倫理の先生なので、授業風景の描写がありますが、

私の目から見ると、倫理学というより、哲学の授業に見えます。

倫理学はイコール「実践哲学」ですから、哲学の一部なのですが、

倫理学には入らない哲学の分野もある(例えば「存在とは何か」という「存在論」とか)ので、

「善」をめぐる哲学の理論が、倫理学の中心にある理論だと考えてください。

 

 

三つの理論

その「善」をめぐる倫理学の理論には、大きく見ると、3つの柱があります。

1)義務倫理 (行為は自分の自由な意志で決めてよいし決めるべきだ)

2)功利主義 (結果としてみんなが幸せになる行為を選べ)

3)徳の倫理 (善い行為を選べる優れた人になれ)

の三つです。

(詳しくは、それぞれ、後の講義で説明します。)

最近の多くの教科書が、この三つの理論を中心に、倫理学説を紹介しています。

もっと格調高く言い換えると、

義務倫理は、行為の形式と目的、

功利主義は、行為の内容と結果、

徳の倫理は、行為する人のあり方

に関する理論です。

義務倫理と功利主義は、まったく反対の立場に立つ理論ですが、

(例えば、カントは、行為の道徳性は、目的にあり結果は関係ない、と言います。

一方、ベンサムは、行為の善悪は、結果によって判断される、と主張します。)

普通に考えれば、行為の形式と内容、目的と結果、どちらも重要です。

ですから、三つとも、不完全な所もいろいろありますが、行為の善悪を考える上で必要な理論です。

というか、足りない点を、補い合っているのであって、

諺に「馬鹿とはさみは使いよう」と言いますが、

理論とは、それをうまく使って、問題を解決するための手段だ、と考えてほしいと思います。

そういう理論が、この三つだと。

 

1)自由の倫理

義務倫理(deontology)を理論化したのは、18世紀のドイツの哲学者カントです。

「義務」というと重苦しい感じもしますが、無視してください。

その意味するものは、人間の自由です。

a自律(オートノミー)=自由な自己決定

(何をしようと自由だ。でも、「同じことを他の人がしても矛盾が生じない」という「普遍化可能性」の条件はある。)

b)人間の尊厳

(誰も他人と交換できない独自の存在。これを尊厳という。だから人を手段としてだけ扱ってはならない。人をそれ自体が目的であるとして扱え。)

この二つが、重要です。(詳しくは、カントの回に説明します。)

余談かもしれませんが、いま、コロナウィルス騒ぎで、人に向かって、「自粛しろ」とか、「家に居ろ」とか言う人(民間人)がいます。

カント的に考えれば、その発言は、世間の空気を背景にして、自分が正義だと思い込み、

それを人に強制しようとしている態度ですから、「自律」の反対=「他律」です。

他人の考えを鵜呑みにするのは、他人に支配されているわけですから、自分の自由な判断ではありませんし、

また、それによって、自分が正義だと思い込むのも、醜い行為です。

あるいは、「開いてなきゃ来ないけど、パチンコ屋が開いてるから来た」と言ってるオジサンには、

「あんたはパチンコ屋のせいにしてるが、自分で決めたんだろ!

あんたはパチンコをしたいという欲望の奴隷か!」

と突っ込むのが、正しいカント主義者の立場です。

カントの言う自由は、甘くない。

(これに対して、人に迷惑を掛けない限り何をしてもいい、という「自由」もあります。

それは、J.S.ミルが定式化した、社会的な意味での自由です。後述。)

 

2)功利主義

功利主義(utilitarianism)を理論化したのは、18/19世紀のイギリスの哲学者ベンサムとJ.S.ミルです。

結果主義(行為の善悪はそれがもたらす結果によって判断できる)

最大多数の最大幸福(世界の幸福の量を最大化する行為こそ善である)

という二点が、功利主義の核心です。

功利主義的な考え方の一例はこうです。

「安部も菅も馬鹿だね。経済的保証なしの自粛要請とか、馬鹿の二乗だよ。

「馬鹿の馬鹿、馬鹿の馬鹿、一切は馬鹿である」って『聖書』に書いてある通りだよ(注1)。

なんたって自粛なんて言ってるのが、馬鹿。

コロナの死亡率なんて、インフルより低いんだから、放っときゃいいんだよ。

かかった奴は、免疫ができて、もうかからなくなるし、

かかって死ぬのは年寄りだけだろ。

年寄りが死んでくれたら、年金とか、医療費とか、社会保障の支出が大幅に減るから、

消費税の引き下げができて、みんなが幸せになるじゃん。

自粛要請とか、経済めちゃくちゃ、中小企業なんて、次々に倒産、

結果として、自殺者が、病気で死ぬ人以上に、どーんと増えて、みんなが不幸になるよ。」

(あくまでも、これは功利主義的な考え方であって、功利主義ではありません

功利主義的だ、という理由は分かりますか?

「結果」と「全体」と「幸福」で考えているからですね。

では、功利主義ではない、というのはなぜですか?

ちょっと難問ですが、そのうち説明します。)

(注1)「空(くう)の空、 空の空 、一切は空である」が正解

 

この架空の発言にコメントしておくと、

まず、新型コロナは、インフルエンザと同じようなものではありません。

血管に深刻なダメージを与え、後遺症が残る、恐れるべき病気です。

もし、「コロナなんてインフルと同じ」なら、確かに、外出自粛など必要ないでしょう。

でも、たぶん、現状では、そうではありません。

次に、上の二つの理論に、1)義務倫理、2)功利主義と順番をつけているように、

この二つの理論には、優先順位があります。

1)個人の自由と尊厳(誰も病気で死にたくないから命を守る)が先に来ます。

2)功利主義はその次。

あいつが死んだら世界中のみんなが幸せになるという場合(2)でも、殺してはダメ(1)です。

功利主義は全体主義です。全体主義が個人の自由を否定してはいけない。

でも、他人に危害を与えるという場合には、個人の自由の制限が可能です。(これも後で解説。)

だから、命を守るために、世界中で、外出自粛と言っているのは、いちおう正しい。

(中国や韓国でコロナ対策が成功したのは、個人情報(個人の自由)を犠牲にしたからですが、

それでよいのか、という疑問はあります。)

そして、倒産自殺、といった不幸を減らすために(最大幸福の逆、最小不幸)、

できる限りのことをするべきでしょう。

国は経済的保証をするべきです。

だから上の「経済的保証なしの自粛要請は馬鹿」という発言(だけ?)は正しいと思います。

 

3)徳の倫理

今日は省略します。

(まあ、伝統的な倫理学の考えの多くは、広い意味の「徳の倫理」です。)

 

歴史的背景

三つの理論は、カントやベンサム等が理論化したとはいえ、それには歴史歴な背景があります。

 

1)キリスト教

カントの義務倫理は、キリスト教を理論化したものだ、と言われることもあります。

その通りです。

人間の自由について、最もラディカルな考えを生み出したのは、キリスト教です。

その「自由」を、「神」ではなく、「法則」として理論化すると、ほぼカントです。

次回に解説します。

 

2)ギリシャ哲学

古代ギリシャにおいて、倫理学が誕生しました。

倫理学を中心とする哲学を始めたのが、ソクラテス。

倫理学という学問を造ったのが、アリストテレス。

そこで研究されたのは、広い意味での、徳の倫理だったといってもよいでしょう。

ストア派(禁欲主義)とエピクロス派(快楽主義)についても触れます。

 

3)近代思想

簡単に言えば、

個人をすべての基礎に据える、個人主義と民主主義の考え方、そして、

世界を法則として捉える近代科学の見方です。

この延長上に、義務倫理と功利主義が成立します。

(デカルトの哲学には、近代思想を成り立たせる、根本的な考え方が表現されています。

デカルトを知らずに、カントは理解できないと思います。

でも、倫理学の学説を展開していないデカルトについて、詳しく話すと、

倫理学より哲学になってしまいそうですから、恐らく割愛することになるでしょう。)

 

とうわけで、今日は、ここまで。次回は、キリスト教。

 

課題

次のテーマについて、400字から800字程度で、述べなさい。

「期末試験で、「カンニングして、良い成績をとろう」という竹山君の行為について

a)義務倫理

b)功利主義

の立場から、その善悪を論じなさい。」


→資料集

→村の広場に帰る