エピクロス派
「エピクロス―古代の午後の幸福」(ニーチェ)


エピクロス
Epikouros (342/1B.C.-271/0B.C.)

「エピキュリアン(epicurian)」と言えば、「快楽主義者」を指す。高級ワインとかフランス料理とか、酒池肉林の世界である。
しかし実際のエピクロスは「エピキュリアン」では全くなかった。

1)生涯

35歳でアテネに出て、小さな土地を買い、庭園とし(エピクロスの園)、多くの弟子をそこに集め、哲学の研究に励みながら、質素な生活を送った。

2)基本的立場

原子論→感覚論
快楽主義(快楽が善である)
個人の幸福の追求(身体の健康、心の平静) 

3)世界観

デモクリトスの原子論を踏襲
神や人間の魂を含む、すべての存在は、虚しい空間(ケノス)の中で動く原子と、その偶然的運動から出来ている。
原子は無限にあり、したがって、宇宙も無限に多く存在する。(惑星は物体であり神ではない。)
原子の運動が、感覚を生む。人間の知識は、従って、すべて感覚に由来する。
死は、魂を構成する原子を散逸させ、感覚作用を終止させる。

4)倫理学

a)死や超自然的存在(神)がもたらす恐怖からの解放

「死はわれわれにとって無関係である。なぜなら、われわれが現在するときには死は現在せず、死が現在する時にはわれわれは存在しないから。」
という有名なエピクロスの主張は論理的に正しい。
自分の死を経験することは誰もできない。
人が死を恐れるのは、他人の死(その原因はしばしば怪我や病気である)を見て、死は恐ろしいと思うからだろう。
しかし怪我や病気は苦痛であるから悪であるが、死そのものは経験できないから、善とも悪とも言えない。
存在しないものを恐れる必要はない。死への恐れは、想像力の生み出す妄想である。

「神々はたしかに存在してはいる、なぜなら、神々についての認識は、明瞭であるから。しかし、神々は、多くの人々が信じているようなものではない。…多くの人々が神々について主張するところは、偽りの想定であって、それによると、悪人には、最大の禍が、いや(犠牲を捧げたりなどすれば)最大の利益さえもが、神々から降りかかるというのだからである。」(岩崎允胤訳)
神が自分を見ていて罰を与えたり地獄に落としたりするだろう、という考えも、妄想である。
神に祈ることで願いがかなうなら、世界はすでに滅びているだろうとエピクロスは言う。
「死」と「神」という世間の人が恐れる二つのものは、存在しない。

b)快楽の追求

したがって、人は楽しく生きていくことを追求すればよい。
快楽が、唯一最高の善であり、人間の生活の目標である。
ただし、この場合の快楽とは、美食や性的快楽の追及ではない。
なぜなら、肉体的快楽は、「欠乏の充足」である。
つまり、まず「空腹」といった欠乏状態(=苦痛)があって、それが満たされる時に生じるのが肉体的快楽の特徴である。
さらにまた度を越えて食べたり飲んだりすれば、苦痛が生じる。
こうした欠乏や過剰が生じない状態、つまり空腹でもなく食べすぎでもない、腹八分の状態がベストである。
すべての快楽は善いものである。しかしある種の快楽は結果として快楽より多くの苦痛を生む。
そうした快楽は思慮によって慎重に避けるべきだ。
食べすぎ(飲みすぎ)は、本当はもう美味しくないのに、最初の一口が美味しかったから次も同じように美味しいはずだと思う想像力によって生じる。
そうした幻想を排する「素面の思考(=思慮)」が真の快楽をもたらす。
追及さるべき最高の快楽とは、したがって、肉体的には健康で苦痛がないこと、精神的にはアタラクシア(心の平静)、
すなわち静かな喜びに満ちた精神的な生活を意味する。

c)社会生活

公的生活も、死の恐怖と同様、幸福な生活を乱すから、これに関与してはならない。
政治など、馬鹿がすることだ。
「隠れて生きよ。」


資料
1)「メノイケウス宛の手紙」(岩崎允胤訳)より

「また、死はわれわれにとって何物でもない、と考えることに慣れるべきである。というのは、善いものと悪いものはすべて感覚に属するが、死は感覚の欠如だからである。それゆえ、死がわれわれにとって何物でもないことを正しく認識すれば、この認識はこの可死的な生を、かえって楽しいものとしてくれるのである。というのは、その認識は、この生に対し限りない時間を付け加えるのではなく、不死への空しい願いを取り除いてくれるからである。なぜなら、生のないところには何ら恐ろしいものがないことを本当に理解した人にとっては、生きることにも何ら恐ろしいものがないからである。それゆえに、「死は恐ろしい」と言い、「死は、それが現に存するときわれわれを悩ますであろうからではなく、むしろ、やがて来るものとして今われわれを悩ましているが故に、恐ろしいのである」と言う人は、愚かである。なぜなら、現に存するとき煩わすことのないものは、予期されることによってわれわれを悩ますとしても、何の根拠もなしに悩ましているにすぎないからである。それゆえに、死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、実はわれわれにとって何物でもないのである。なぜかといえば、われわれが存する限り、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。そこで、死は、生きている者にも、すでに死んだ者にも、かかわりがない。なぜなら、生きているもの所には、死は現に存しないのであり、他方を死んだ者はもはや存しないからである。」

2)「メノイケウス宛の手紙」(岩崎允胤訳)より

「快が現に存在しないために苦しんでいるときこそ、われわれは快を必要とするのであり、苦しんでいないときには、われわれはもはや快を必要としない。」
「贅沢を最も必要としない人こそが最も快く贅沢を楽しむ。」
「それゆえ、快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないこと魂において乱されないこと〔平静である〕ことに他ならない。」
「一切の選択と忌避の原因を探し出し、魂を捉える極度の動揺の生ずるもととなるさまざまな臆見を追い払うところの素面の思考こそが、快の生活を生み出す。」

3)「主要教説」(岩崎允胤訳)より

「正義は、それ自体で存するあるものではない。それはむしろ、いつどんな場所でにせよ、人間の相互的な交通の際に、互いに加害したり加害されたりしないことに関して結ばれる一種の契約である。」

「不正は、それ自体では悪ではない。むしろそれは、そうした行為を処罰する任にある人々によって発覚されはしないかという気掛かりから生じる恐怖の結果として、悪なのである。」


付録
平凡社『世界大百科』では、こう説明している。
エピクロス (前341ころ‐前270ころ)
Epikouros
原子論と快楽主義で有名な古代ギリシアの哲学者。サモス島の生れ。前307年ころ,父の故郷であるアテナイに庭園つきの家をもとめ,そこに学園を創設した。その庭は後に〈エピクロスの花園〉と呼ばれ,彼自身は〈花園の哲学者〉と呼ばれることになる。大著《自然について》は散逸してしまったが,3通の書簡と個条書き風の《主要教説》,その他の断片が現存している。彼はデモクリトスの説を継承して原子論の立場に立った。自然界の事物は原子から構成されている合成物であるが,合成物の表面からは絶えず〈エイドラ eidola〉が流出している。それは多くの原子からなるいわばフィルムのようなものであるが,それが感覚器官の内にあって同じく原子からなる魂を刺激することによって感覚が成立する。人間の判断には誤りがありうるが,感覚はいつも正確に外界にあるなにかに対応しているのである。彼の哲学は感覚主義である。だが,この原子論や感覚主義がただちに倫理的な教えと結びつく点に彼の哲学の特徴がある。原子論者である彼にとって真に存在するのは原子と原子が合成し,また離散する場であるト・ケノンのみであって,われわれが死ねば生命なき原子へと解体するだけであるから,死後の懲罰などを恐れて不安に苦しむ必要はない。また原子論の立場に立つかぎり,死はわれわれにかかわりなきものだからである。〈われわれの存するかぎり,死は存せず,死が現に存するときは,もはやわれわれは存しないのである〉。
 死への恐れ,死後の不安から解放されるならば,それだけでも人間は〈平静不動(アタラクシアataraxia)〉の境地に入ることができるのだが,生きているうちは安んじて快楽を追求すべきである。〈快楽こそは幸福なる生活の始めにして終りなのである〉。彼は感覚主義者らしく〈胃袋の快〉を善の,つまり快の基礎と見ているが,しかし彼はことさらに大食や美食を勧めているわけではない。大食や美食は胃袋の快どころではなく,むしろ苦痛を招きかねない。〈パンと水〉だけで満足するつつましい生活こそが快を実現する道ということになる。また公人としての活動はさまざまなわずらわしさの渦中に人を巻き込み,結局は苦を生みだすことにもなる。したがって有名な〈隠れて生きよ(ラテ・ビオサス Lathe biosas)〉のモットーがこの哲学者の生活の信条となった。もっとも隠れた生活とは言っても,それは孤独な隠筒生活を意味しない。友人たちとの友情にあふれた交際は静かな快,静かな喜びをもたらす一つの道なのである。結局,この快楽主義の帰着するところは魂のかき乱されない平静な境地であり,彼の言葉によれば〈平静不動〉とは〈静かな快楽〉にほかならないのである。(斎藤 忍随)


参考文献
『エピクロス』(出隆・岩崎允胤訳) 岩波文庫
ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』(下) 加来彰俊訳 岩波文庫 (←エピクロスの現存する殆どの著作の典拠はこれ)
岩崎允胤『ヘレニズムの思想家』 講談社(人類の知的遺産10→講談社学術文庫)


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