それは、「たとえ」で実に抽象的にかたられてきた、ある「概念」です。
この二千年の間、世界の三分の一で、さまざまな形で語られ、伝えられ、読まれてきたはずですが、実現しなかった。あるいは、実現させまいと、されてきたものでしょう。
わたしがこのことに気がついたのは、先月のことですが、おもわず「あっ」と驚きました。
「千年のうち」において考えていた社会秩序と矛盾しないのです。
「善なる王国」の主権者は「人間」ではありません。
あらゆる宗教がやはりそうでしょう。
個人の暴走を絶対的に肯定する宗教など存在するわけがないので、ここは問題とはなりますまい。
あらゆる法規を超越する絶対権力者・絶対皇帝も、意味がない存在と歴史上の様々な実験・・ローマ帝国・イスラム帝国・モンゴル帝国・各種ツアーだのカイザーだの、フューラーだの、指導者だのの・・・、悪臭漂う愚行の集積により、結論はでているでしょう。
人間は人間の支配者になっては、ならないようです。
愚かな実験を、もはや再現する必要はありますまい。
このキングダムについて書き残された記述は以下です。
ただし、記述者本人もよく理解できず、その分、別の「ミラクル」で文を増やしたので、相対的に記述量が少なくなっています。
キングダムの正体を、読者が理解しにくくなった理由の一つはここにあるのでしょう。
しかし、記述者がよく理解できなかったそのために、この概念を口にした「本人の肉声」がよく保存されていると思われます。
2016/07/12 T.Sakurai
福音書のかなり原型に近いと思われる部分の神の国をしめします。
Q資料の神の国 040
さらに以下は新約聖書原文ですが、Q資料とされる部分は、赤の反転表示をしています。
マタイ福音書
マルコ福音書
ルカ福音書
マタイ・マルコ・ルカのいわゆる共観福音書は、イエスの生の言葉を含んだ各編集者の宣教文学である。らしいです。
主要な内容は、二つで、奇跡物語と、神の国説教である。ように思えてきました。
その他の歴史経過記述は、各記者の個人的見解・経験による、合理化がなされたノンフィクション編集記録であり、この部分はかならず真実を含む。はずです。
そして、奇跡物語はイエスの言葉では、宣伝してはならないと繰り返し言われるが、登場頻度は高く、福音書記者にとっての正統性構築のための強力なエピソードだが、追試や検証が不可能な一度限りの出来事なので、ある意味手のつけようがありません。
だから、たまたま民間療法やプラセーボ効果で、難病が直った、あるいは数打てば当たるで、たまたま一時的に直ったように見えた事例であったとしても、口伝えに拡散するうちにコピー、創作され、それが収集され、さらにかたよった編集によって奇跡のオンパレードになったとしても、いちがいに否定できなくなるのである。つまり真実なのです。こまったことに。
奇跡というものは、遭遇した当人にとって否定できないし、再現できなくてもしかたないので、そもそも論ずるべきではないと思う。UFOのようなものです。
そして神の国です。これはイエスご自身の脳裏にあるイメージがあって、それを様々に変形させてたとえで表現されているのである。
元は一つの具体的内容だから、ここにブレはなくて当然です。
しかしたとえになることで、解釈する方にブレが生じ、元のイメージが完全に再生できないまま、それぞれの福音書が記述されてしまった場合、謎めいた、不可思議なものに誤解してしまっても、これまた仕方ない。
理解できないが故に、オリジナルの言葉が残され、それにはブレがない。つまり真実となるのである。真実がたまたま保存されてしまうのです。
もちろん私に、「真実」はわからない。しかし神の国については、なんだか妙に「千年のうち」で想定しようとしている未来の定常社会のモデルに近いような気がしてしまう。
おもしろい思考実験になってきました。
2016/07/27 T.Sakurai
神の国説話・概念はだれかが直接機械的に採集記録した内容なのかもしれない。
おそらくQには、本質的、根本的な力はない。
ご自身にさかのぼれる言葉があっても、背景も含めて活きた言葉になっていないかもしれない。
しかし、これは、人間の欲望の、人間の欲望による、人間の欲望のための「王国」ではない。ことはわかる。
まっとうな人間の、人間らしい、人間のための「国」であり、それを語ったから、救世主であり、永遠の生命を得て復活して、未来のはてまでも、わたしたちが出会い、私たちを導く王であり友である、お方なのだろう。
水の上を歩いたり、死んだ少女に起きなさいといったから救世主なわけではない。
そして、これを語ったから殺されたのだし、それは我々の愚かな弱さで恥である。
その謝罪とくいあらためが我々に行う機会をあたえられたのが新約聖書の成立と現存なのかもしれない。
2016/08/15
すべての人が生涯にわたって、衣食住にことかかず。
幸せな時・・伴侶・家族を愛し、子どもを二人以上、楽しみながら育て・・をもち。
平和のうちに、隣人を愛し、共に日々を過ごし、
だれからの理不尽な支配をうけず、
尊重されるべきものを尊重し、
どうせ廃(すた)れてしまうような富を持たず(持ちすぎず)、
予想外の変事があっても、家族・隣人共に生き延びて、生活を再建できる準備と知識をもち、
そんな自分の世界を守るために、時として、怠惰な自分や家族とも、それ以上の強大な敵とも、
正統性を手にして、戦うべきときに戦う。鳩のように素直に、蛇のように賢く。ひそかに。
この決意と理解が、あるひとりの心に到達し、納得して、その人にとどまれば、その人はこの状態のうちに、すごすことができる。
他の世界とは無関係に、新たなこの世界に住むことができる。別の世界へ移れるのだ。
もし、千年のうちの世界が、そのようなものであるなら、好ましいというべきかもしれない。
それしか生存の手段がないのかもしれないし、それならそれで、まだマシなのか?
なんだか、こんなモデルは、ずいぶん昔の本に、すでに書かれているような気がしないでもない。
バプテスマのヨハネと、ナザレの大工は、どんな世界を脳裏に描いていたのだろうか。
上記の状況と通じるものがあるだろうか、あるいはそれよりもっとすばらしい世界であったのだろうか?
これは、示唆だったのかもしれない。
2016/07/05 T.Sakurai
「しかし、あなた達は敵を愛せよ、親切をせよ、何も当てにせずに貸しなさい。
そうすれば褒美をどっさりいただき、かつ、いと高きお方の子となるであろう。
いと高きお方は恩知らずや悪人にも、憐れみ深くあられるのだから。
あなた達の(天の)父上が慈悲深くあられるように、慈悲深くあれ。」
新約聖書ルカ6ー35より(塚本虎二訳)
無償で必要なものを貸しなさい。たとえ、それが事実上返却されないというのがわかっていても「そうせよ」。
確かにそうでなければ、助け合いは不可能です。これは実現されねばなりません。
ルカに記された言葉は、真理です。
はいはい。まことにご高説ごもっとも。
でも・・わかっているけど、個人にとっては、怖すぎてできない。というのが本音ではないでしょうか。
だれかを助けることで、自分や家族が破滅する危険があるなら、それは、容易にできません。うまくいかなくてあたりまえで、だれも助けられなくなります。
そうするには、なにが必要か。
大富豪が存在してほどこすとしても、貧民が膨大なら、結局は機能せず、不可能になります。
いくらなんでも、すべてを供給するわけにはいかないのです。
でも、物質的には貸す者も借りる者も、もともと「同じ物」をもっていればどうでしょう。
人手という管理、知的能力に欠けた状況下において、他者が自主的に使っていない人手なり知恵なりを貸してあげて、救済する状況であれば、話は違ってきます。
これなら、助けた労力という貸したものが返却されなくても実害はないし、返却のしようも、取り立ての方法もなくても実害はなくなります。
あるのは、貸した・助けた名誉と、助かった実益です。
助けられる者は「だれもが持っている財物」=ベーシックインカムとしての生活基盤があるのだから、助ける側が自分の生活・生存が脅されるなどの実害はないのです。
もともと対等なものが、片方が一時的苦境にあっても、それをのりこえるための、簡単な手助けを、もう片方が提供してあげる。それですべてを解決するようになればいいのです。
そうでなければ、真の意味でだれも助けられません。
これは「義の王国」の行動パターンの一つとして奨励されても矛盾はないと思われます。
大きな希望が生まれる可能性があるのは、なんとうれしいことでしょう。
2016/08/06 T.Sakurai
自由と自由
liberty_and_freedom
英語で自由の意味をあらわすのは
liberty と freedom の二つがあるようです。
どうやら英語で使うさいには、同義語とされ、厳密に区別しなくてもかまわないようです。
日本の辞書ではニュアンスの違いがあるように扱われていますが、これは日本に英語が導入されたときに区別を使わないレベルまで掘り下げたせいらしいです。
ドイツ語の辞書では 自由は Freiheit としかありません。
フランス語の辞書では 自由は Libert? としかありません。
実用上、どちらでもいいのです。
また、言論の自由は「Freedom of Speech」 自由の女神は「the Goddess of Liberty」と表現されます。
面白いですね。
わたしは日本語の辞書の説明を「真」にうけて、それに影響されたであろう先人の文を読んで、上記の副題を書いたのですが、意味がないので消しておきます。
それでも、奥底では論じるべきことがあるように感じるので、あえて考える補助線として援用させていただくと・・
freedom はゲルマン系の言葉で、人間が生まれながらに持っている権利で
liberty はラテン・ローマ系の言葉で、束縛・奴隷状態からの解放を意味する。
としておきます。
なるほど、これなら英語に伝播したルートと背景と意味を感じとれます。
「Freedom of Speech」 「the Goddess of Liberty」は、それぞれ適切と納得です。
さて・・と
欲望により奴隷とされ、そこから解放された状態は自由です。
これは抑圧ではなく自治です。欲望ではなく節度です。
欲望を持つことも自由です。
でも欲望を制限無く拡大させることにより、大きな力を持つ状態は自分にとっては自由ですが、周辺で奴隷にされた他者にとっては自由の侵害です。
これは節度ではありません。制限ではなく無軌道です。
欲望からの自由(リバティ)と欲望の自由(フリーダム)は、制約の打破では同じですが、目指す方向(ベクトル)は逆になりそうです。
ですから解放は進歩かどうか、状況によるといわざるをえないでしょう。
また、無制限な欲望の自由は、否定される。べきでしょう。
それは、誤った自由による束縛から解放するための正しい自由を肯定するためです。
範囲を設定して、その内部の環境の絶対的制約があれば、アダムスミス的なレッセホールの自由は肯定される場合がありえます。
しかし、その制約を突破する道具(化石燃料)を与えたフリーダムの暴走は、この世界を使いつぶしてしまっても、当然ではないでしょうか。
日本的な自由は 「己(自ら)をもって、よし(由し)とする」というフリーダム的な自由の傾向が強い文字の選択です。
だから幕末当初「自由」の言葉は軽蔑のニュアンスがこめられました。
また、「自由」を気軽に口にすると、無軌道な自由な横行する結果ともなったのです。
無軌道な「自分だけが勝手でよし(由)」は、他者への抑圧・圧力になりえます。
2016/07/24 T.Sakurai