HOME Page へ  抄録 Top へ 続・新北津 2002/01/27 日曜日 10:43 更新


   新北(にぎた)が津であった時  

平成十二年五月十二日 厚木市 平松幸一    

1.熟田津の所在地と倭国の都  

 福岡県鞍手郡鞍手町に新北(古名:新分、読み:にぎた)と言う地名があることを聞き、さっそく地形図(2万5千分の1)で標高を調べたら、丁度10メートルであった。

   後岡本宮御宇天皇代(天豊財重日足姫天皇位後即位後岡本宮)
   額田王歌  
 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は榜ぎ出でな(万1-8)

  右は、山上憶良の大夫の類衆歌林を検するに曰く、飛鳥の岡本の宮に天の下知らしめしし天皇の元年己丑、九年丁酉の一二月己巳の朔にして壬午の日、天皇、大后、伊豫の湯の宮に幸しき。後の岡本の宮に天の下知らしめしし天皇の七年辛酉の春正月丁酉朔にして壬寅の日、御船西に征き、始めて海路に就きたまひき、庚戌の日、御船伊豫の熟田津の行宮に泊てつ。天皇、昔日よりなほのこれる物を御覧して当時忽に感愛の情を起こしたまひき。このゆゑに因りて歌詠を製して哀傷したまひきといへり。すなはちこの歌は天皇の御製なり。但し、額田の王の歌は別に四首あり。 (武田祐吉校注 角川文庫)

  この歌が懐旧の哀傷歌とは誰も思わないであろう。始めて海路に就いたという天皇が昔日の物に感愛の情を起したと言う記述も不合理である。  伊豫の国に熟田津という地名はその痕跡すらない。また、松山周辺の海岸線と海底の地形は比較的単純で、ちょっと沖に出ればすぐ広くなり、深くなる。月の出を待ち、潮位を確かめて船出をしようと言うこの歌の情景にはそぐわない。 その痕跡すら残っていない熟田津の地名を、斉明紀7年正月条はわざわざ、倆枳柁豆と読みまで付けて、挿入している。

 このことは、日本書紀斉明紀の編著者が、古万葉集にあった熟田津の歌を知っており、それを摂津難波から伊豫の石湯経由筑紫へ向ったと言う,斉明西征物話に現実味を与えるために利用したのではないかと疑わせる。 一方、万葉集巻第一の編集者も日本書紀編著の目的を承知していて、元々額田王の歌として伝えられていたこの歌に、斉明西征に結びつける意図を持って、憶良が、斉明紀七年正月の条を引用して、斉明天皇の別の歌について述べたことを左注として書き加えたのではないか。歌人山上憶良が歌を取り違えることはまず考えられないから、万葉集編集者側に政治的な作為があったと思わざるをえない。

 西征(百済支援)のための水軍を整えるのが、伊豫の松山である必要性も全く考えられない。熟田津は九州北部か、山口県の海岸線に無ければならない、とは思いつつ手掛かりがつかめないでいたところであった。 

 標高10メートルの等高線を辿って、新北(にぎた)周辺の当時の海岸線を再現してみた。添付図の通りである。遠賀川中下流域の低地が、入り口の狭い、懐の大きな(幅5km、奥行き20kmほどの)湖のような湾になる。小さい入江や浅瀬、小島が複雑に入り組んでいる。 単に湾や入江を付けて呼ぶのは不適当と思われるので、取り敢えず遠賀内湾と名付けておく。 遠賀内湾はその形状から干満の差が非常に大きかったことが十分考えられるので,新北津の歌が唱われた頃,遠賀内湾の海岸線は標高10乃至15メートルの間にあった,と考えて間違いなさそうである. この遠賀内湾は洞海湾にも水路で繋がっており、倭国の水上交通や、交易の要として賑わったに違いない。 その複雑な遠賀内湾のやや奥まったところ、支流西川入江の奥に新北が位置し,上流の支流や本流の入江奥には宮浦、大浦、市津など(他に浦口、堂の浦、長浦、南良津、南良浦,古田浦,吉ヶ浦、浦ノ谷、万の浦,宝ヶ浦,木浦岐,津島,別の大浦、長浦)湾口から数えると,20以上のかつては港であったことを示す,浦や津のつく地名がこの海岸線上に並び,当時の海岸線がこの位置にあったことを裏付けてくれる。 

  仮に一つの浦或は津に平均100戸1000人が住んでいたとすると,遠賀湾岸だけで2万人;後背地人口を10倍見当と考えると,遠賀川流域人口は優に20万人を超えることになる.これは倭国王朝の所在地にふさわしい人口である,と言って良いのではなかろうか. 因みに,倭国王朝の裏玄関とも言える筑後川中流域に10ヶ所,博多湾の東側には5ヶ所の浦や津の着く地名があった.これと比べても遠賀川中流域の密度が極めて高いことが判る.

倭国王になったつもりで遠賀川上流域に視点を置いてみると,東に仲哀峠あるいは大坂山中腹を越えて20km程で豊前難波の新津,南西3〜40kmで倭国の霞ヶ関こと都府楼:太宰府,南40kmで筑後川中上流域,北の正面は川を下るだけで遠賀湾から筑紫の海に出られるという,便利で中々住み心地の良さそうな所である.内政,外交,文化交流,物流経済の中心として繁栄できる条件の全てが整っていると言えよう. 
 遠賀川本流の当時の河口を見下ろす位置には鹿毛馬神護石山城がある。首都防衛の要として北方からの侵入に備えていたと思われる. 湾奥から遠賀川本流を遡って米ノ山峠を越えれば太宰府、白坂峠を越えれば朝倉宮、支流彦山川を遡れば
安閑の勾金宮、さらに仲哀峠か大坂を越えれば神代の帝都と言われる京都郡(伊耶那岐から神武まで歴代の神々の遺跡、伝承の宝庫)と言う至便さである。 彦山川の流域には、赤池町から田川市、香春町にかけて春日、奈良、勾金の地名の他、宮床、宮山、、宮川、川宮、宮浦、宮原、大内原、御祓川など歴代帝王が宮処をおいた形跡が多数見られる。安閑(勾大兄)とその正妃春日皇女の出身地が此の辺りであったことを示すだけでなく、春日皇女の歌に出てくる隠国の泊瀬の川や、皇極、斉明の飛鳥板葺の宮、川原の宮も此処であった、即ち7世紀以前の飛鳥の地はこの彦山川の流域であったと言っても十分通る地勢である。太宰府からは陸路約40kmで、皇極紀以降屡々出てくる「太宰府から早馬により連絡」の記述も,京の所在がここであればごく当たり前のこととして自然に受け取れる。 

 海岸線が標高13メートルを超えると企救半島が島になるので,遠賀内湾から洞海湾を通って,豊前難波津説の行橋市新津まで船を並べることが可能になる.難波津が博多湾であっても同様である.孝徳紀白雉2年の巨勢大臣の発言”自難波津、至干筑紫海裏、相接浮盈艫舳”が現実的な話として理解できる。

 崇峻紀2年7月条に、 物部守屋大連資人捕鳥部万,将一百人,守難波宅、とある。守屋は大連尾輿の後継者であり、その屋敷も尾輿の采邑(旧京都郡尾倉,輿原両村、現苅田町尾倉、与原)の一角にあったと思われる(神代帝都考:挟間畏三)。 従って、此処で言う難波は現在の苅田町の当時の海岸線(現標高10〜15m)を指すと考えるべきであろう。苅田港の近くに馬場の地名が残っている。ここから川宮まで約30kmである。
 推古紀6年4月に”難波吉士磐金、新羅より至りて鵲二雙を献る。乃ち難波杜に養はしむ。因りて枝に巣ひて産めり”とある。鵲は留鳥であり、日本列島で北九州以外には生息していない。従って推古帝の時期に難波と言われたところは、北九州のどこかであり、近畿大阪ではあり得ない。推古帝が即位した豊浦宮も当然穴門の豊浦(現在の下関)にあったと考えるべきであろう。   
 孝徳朝の幻の都,難波長柄豊碕宮(646年)の候補地も筑紫の海の続き,北九州の当時の海岸線,標高10〜15メートルあたり以外には考え難い.
 長柄豊碕の地名はまだ見付からないが,648年中大兄,皇極,間人,大海人に去られた孝徳が宮を建てた、という山碕(崎)の地名は彦山川及び犬鳴川沿いにあり,遠賀本流には新山崎の地名がある.新山崎の西には長浦の地名もあり,長浦が長柄と読替えられたとすれば,長浦のある宮田町が孝徳帝の拠点であったと考えてもおかしくはない. 
 洞海水路に近く現在の中間市に岩瀬の地名があり、斉明紀7年3月条にある磐瀬行宮は此の辺りにあったと思われる。従って、この条で言う娜大津(長津)は遠賀内湾の中間市吉田町宮尾辺りを指すと考えて良いのではないか。   支流犬鳴川の上流にも、倭国帝王の宮処と思われる若宮、或いは関連を示す宮永、宮田、宮守出などの地名が見られる。犬鳴川入江の奥、当時の河口近くの潟地に倭国水軍の総司令部ではなかったかと思わせる本城の地名がある。構造物があったとすれば、厳島神社のように満潮時には水上、干潮時には地続きになる場所で、満潮時の海岸線から本城までは艀か浮き橋で連絡することになる。

 新北(にぎた)の津は遠賀本流の航路をはずれた神崎、山ヶ崎間の奥、剣岳(125.8m)の蔭にあり、密かに水軍を整えるには絶好の条件を備えている。古くから倭国の軍港であったかも知れない。新北から西川又はその支流の長谷川沿いに遡れば、緩やかな峠(標高50メートル)を越えて犬鳴川河口潟の本城まで陸路5kmほどの距離である。  百済王豊璋から救援の要請を受けた倭国王筑紫の君薩夜麻は,この本城で重臣の真人大海人達を参謀に作戦を練り、後に白村江で大敗北する中軍に当たる救援水軍を編成して、出陣に備えていたことであろう。 作戦会議には,当然近畿大和からの応援軍司令官中大兄も参加していたと思われる。斉明女帝は、紀本文によれば、朝倉宮で崩じて既に2年になる。 第3次百済救援軍には、薩夜麻自らが総司令官として乗船することになった  時は663年初秋の7月、新北の津で月の出を待ち、潮位を確かめていよいよ出陣と言う時、中大兄や大海人と共に岸で見送る巫女歌姫額田王が、百済迄1ヶ月ほどの航海の安全を祈り、水軍の戦勝を期して朗詠したのがこの歌であった、と私は想像する。 

 水軍は武運つたなく白村江で破れ、倭国王薩夜馬は唐の捕囚となって、以後8年間異国の地に留まることになるが、歌は歌われたときの状況を伝えるものとして、そのまま歌い継がれ、歌い手の名とともに記録された。 

 名歌”熟田津・・・”の生まれた時、場所、情景について御同感頂けたであろうか? 

 孝徳が宮をおいた可能性がある宮田町長浦とは目と鼻の先にある本城を筑紫の君薩夜麻の拠点と推測しているので,今度は薩夜麻と孝徳の関係が気になるところである.薩夜麻の年齢は孝徳、天武と天智の間であったと考えられるが,今のところ血縁関係を探る手がかりは見つかっていない。

 2. その頃の近畿大和周辺の実状と二つの飛鳥 ??・・・ 続・新北津へ ・・・


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