HOME Page へ  抄録 Top へ 新北津 2000/09/19 火曜日 16:30 更新


   倭王武の足跡を求めて  

平成十二年四月十日 厚木市 平松幸一    

1.安閑天皇の宮処は豊前香春町の鏡山辺り 

 まず安閑記、紀の記述を読み下し文で示す。記は全文、紀は関連部分のみである。 
 安閑記(新訂古事記、武田祐吉訳注、角川文庫)   御子広国押武金日の王、勾の金箸の宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、御子ましまさざりき。乙卯の年(535)三月十三日崩りたまひき。御陵は河内の古市の高屋の村にあり。  脚注に、宮の所在は奈良県橿原市曲川町、陵の所在地は大阪府羽曳野市古市とある。    安閑紀抄(日本書紀〔三〕、坂本太郎他〔土田直鎮〕校注、岩波文庫) 
 勾大兄広国押武金日天皇は男大迹天皇の長子なり。母をば目子媛と曰す。二十五年の春二月の辛丑の朔丁未に、男大迹天皇,大兄を立てて天皇としたまふ。即日に男大迹天皇崩りましぬ。 ・中略・  元年の春正月に、都を大倭国の勾金橋に遷す。因りて宮号とす。 ・中略・ 是年,太歳甲寅(534)。
 二年 ・中略・ 九月 ・中略・ 丙辰(13日)に、別に大連に勅して云はく、「牛を難破の大隅嶋と媛嶋の松原とに放て,冀くは名を後に垂れむ」とのたまふ。  冬十二月の癸酉の朔乙丑に、天皇勾金橋宮に崩りましぬ。時に年七十。  是の月に天皇を河内の旧市高屋丘陵に葬りまつる。皇后春日山田皇女及び天皇の妹神前皇女を以て、是の陵に合せ葬れり。
 注1 記に勾之金箸宮。今の奈良県橿原市曲川町(もと金橋村曲川)
 注13 安閑記にも河内の古市高屋村にあるとする。 ・中略・ 所在地は陵墓要覧に大阪府南河内郡古市町(今、羽曳野市)大字古市字城とし、 ・後略・

 以上、安閑天皇の都、陵の所在地の記述は記紀ともに同じであり、その比定地についても一見疑問は無さそうである。   ところが、先日「万葉の旅(下)」犬養孝著(教養文庫)を読み直していて、福岡県鏡山のところで、以下の記述にぶつかった。  ・・・河内王を豊前国鏡山に葬るとき手持女王の作る歌  
  「王の親魂逢へや豊国の鏡の山を宮と定むる」(3-395)
   香春の駅から北方2キロ、山間の平地の田のあいだに、見るからにこんもりと茂った小山がある。神功皇后が天神地祇をまつって鏡を鎮めたという伝説(豊前国風土記)の鏡山で、山頂にひっそりと鏡山神社がある。その西裾の、これも松や雑木のよく茂った小丘(小字岩原)に石槨の一部の露出した古墳がある。 ・・・明治中期には「勾金(旧村名)陵墓参考地」として整備され、河内王墓と伝えられたが、いままた荒廃に帰している。ここから東北1キロほどに鏡山の村落があって、そこの小字箒原の森にも三基の古墳があり、古老達はこちらを河内王の墓と伝え、手持女王の墓かとも称している。・・・   地図を見ると鏡山の南に勾金という駅名があり、鏡山を含んで香春町と東隣りの勝山町にまたがって宮原の地名がある。ちょっと奥まったところに大内原という地名もある。   勾金陵墓!!! これは安閑天皇陵そのものではないか?   記紀の伝える大倭国勾金橋の都もこの(旧名)勾金村にあったのではないか?  さらに、継体紀7年12月の詔「・・・盛りなるかな、勾大兄、・・・春宮に処て、朕を助けて仁を施し、吾を翼けて闕を補へ」に云う春宮もこの周辺にあったのではないか?

 実は、安閑紀2年の勅に云う難破の大隅嶋は北九州市の企救半島(注1),媛嶋は国東半島沖の姫島にそれぞれ比定でき、勾金宮が豊前にあったという考え方を補強してくれる。  
 (注1)北九州市の企救半島に大積の地名がある。半島の付け根の部分は高いところでも標高13m程度しかなく、この半島全体が当時は干潟で繋がるような島であ ったと考えられる(別稿「新北が津であった時」参照)。

 もしもそうなら、  ”皇子名勾大兄と呼ばれた広国押武金日天皇は、豊前勾金宮にあって、弟王武小広国押盾(宣化、後に奈良?檜の隈に遷都)と共に、継体7年以降、つまり、継体磐井戦争の十数年前から、継体天皇の春宮(皇太子)として、九州倭国と近畿ヤマトの両方を含む、全倭国を実質的に統治していた、” ということになるのではないか?  

 そう思って継体、安閑紀を見直すと、  ・勾金宮に住む皇太子安閑は、筑紫の老倭王(継体実は磐井?)の名代として内政外交の全てを取り仕切った、  ・大伴氏に担ぎ出された名目的な天皇継体(男大迹)は、軍事基地を樟葉、山背、乙訓と移しながら覇権を窺っていたが、望み半ばで、記の伝えるとおり丁未の年(527)に43歳で崩じた、  ・所謂磐井の乱は男大迹の死後大伴金村等が起こした(結果的には失敗した)軍事クーデターである、 と考えて十分話が通りそうである。 そこで、次の仮説をもうける。

 2.継体=男大迹+磐井(試考1)  

 (A) 継体は、越の大王男大迹(記・丁未527崩43歳)と倭国王磐井(紀或本・天皇甲寅534崩82歳)とを、一人の天皇として合成した書記の創作人物である。

 こう考えれば記紀の記述から次の事柄が無理なく導き出されよう。
 (1) 安閑は磐井の養子(磐井、安閑の年齢差は13)であり,皇太子として勾金宮にあって磐井を補佐した(継体7年には磐井61、安閑48、男大迹28歳)。皇 太子妃は春日山田皇女(倭王の縁者?)
 (2) 宣化は安閑の実弟(1年下)であり、磐井のお目付役として近畿ヤマトに派遣され、男大迹の行動を牽制した。磐余遷都は紀一本の云うとおり、継体7年の事で、倭国が近畿支配の拠点として設けた分都に宣化を派遣したことを意味するのではないか。
 (3) 男大迹の死(527年、43歳)後、宣化(61歳〜)は欽明(18歳〜)の後見役でもあった。欽明は宣化の長子であるという説もある。
 (4) 欽明(天国押波流岐広庭天皇)は男大迹の嫡男(男大迹25歳の頃出生)とされているが,母方の祖母が雄略皇女の春日大郎女であり,むしろ母方の血筋の良さ を誇る.(倭王武の直系?)
 (5) 欽明即位前紀に安閑皇后、春日山田皇女(福岡県山田市辺りの出身?)、を皇太后として尊んだとあるので、九州倭王朝と近畿大王家の仲は総じて悪くなかった と考えられる。
  (6) 欽明紀23年8月本文注記に”鐵屋在長安寺。是寺、不知在何国。”とあるが、筑紫の朝倉町大字宮野字長安寺であったことは紀の編集者も承知の上で、」書かれたものと思われる.大伴連狭手彦が、高麗から帰還して報告した欽明朝の朝廷は、筑紫朝倉辺りにあった筈である.つまり,欽明は九州倭王朝と近畿大王家共通の大王であった可能性が高い。

 所で、百済本記の云う辛亥(531)年に死んだ天皇、太子、皇子は誰か?

 周知のように継体紀には3年のズレがあり、これを補正すると、継体紀22年の”物部麁鹿火磐井を斬る”という記事が辛亥年の事件に当たる。
 クーデター軍が一時、糟屋郡を含む、倭国政権の中枢部を押さえたのは事実であろう。そして百済には、磐井の死が即ち天皇の死として伝わり、その際安閑、宣化も共に死んだと,誤ってか、或いは誇張されて伝わったのではなかろうか。

  実際には、筑後風土記の伝えるとおり磐井は生き延びており、安閑、宣化も同時に殺害された形跡は見あたらない。また、クーデター軍に政権を維持するに足るだけの大義名分は立たず、倭国の残留勢力を掌握した磐井の実子葛子が、程なく王権の回復に成功したと思われる。葛子と欽明が同一人物であった可能性も十分考えられる.  従って、百済本記の記事は、戦乱時の誤報が伝聞として記録され、訂正されずに残ってしまったものと考えたい。

3.磐井=雄略+継体=倭王武(試考2)

 磐井の年齢については前節の仮説(A)に従い、一方、雄略の在位期間及び年齢を、古事記崩年を正、古事記年齢を2倍年歴と考えて補正し、それぞれの年代を照合してみると、下記に示すように、雄略の在位期間はすっぽり磐井の青壮年期に収まる。
 又、梁の武帝が倭王武に征東将軍の号を与えた時点では雄略が生存していないことから、宋書等に云う倭国王武は、通説の雄略ではなく、筑紫の君磐井以外に有資格者が居ないことが分かる。
 467:雄略元年長谷朝倉宮(筑紫?)で即位(雄略40,磐井15歳)
 477:倭王武(雄略50、磐井25歳)宋に貢献自ら七国(含百済)諸軍事安東大将軍と称す
 478:宋順帝倭王武(雄略51、磐井26歳)に倭,新羅,任那,加羅,秦韓,慕韓六国諸軍事を認める
 479:南斉高帝倭王武(雄略52、磐井27歳)に鎮東大将軍の号を授ける
 489:雄略崩(己巳年、雄略62,磐井37歳)
 502:梁武帝倭王武(磐井50歳、雄略没後13年)に征東将軍の号を与える

 つまり、磐井の一生は日本書紀に記された雄略の即位から継体の死までの全てを包含している。従って、雄略紀から継体紀までの日本列島宗主国としての内政、外交関係記事は、その出所が元々は、倭王武即ち筑紫の君磐井の一代記であった、と考えても不都合は無さそうである。
 では、倭王武が筑紫の君磐井であることを証明できる具体的な史実があるか?
 実は、顕宗紀1,2,3年各3月に曲水の宴を催したとの記述がある。
 曲水の宴を主催できるのは、中国の天子、又はこれに準ずる大王だけだそうである。
 時代は下るが東北平泉の毛越寺に藤原王朝が催した曲水の宴用の遣り水遺跡が復元されている。藤原氏はその資格があると自認していたのであろう。
 一方、平成6年に筑後国府跡(久留米市朝妻)で曲水の宴の痕跡地が発掘された。

 古事記は顕宗について崩年を記していないので、雄略崩年以後を書記に従って計算すると、495,6,7年(磐井43,4,5歳);顕宗紀の太歳に合わせて倭国資料を挿入したと考えれば、485(乙丑),6,7年(磐井33,4,5歳)に、曲水の宴が催されたことになる。
   いずれにしても、この時期に日本列島で曲水の宴を催す資格のある天子又は天子に準ずる大王としては、鎮東大将軍の称号を持つ倭王武しか考えられない。
 その遣り水遺構が磐井の本拠地筑後の国で見つかったと云うことは、”筑紫の君磐井=倭王武=日本列島の統治者”であることを証明するに十分な史実と言えよう。
 或いは、これが記に云う”筑紫の君磐井、天皇の命に従わずして礼無きこと多かりき”と非難された一つの理由であったのかも知れない。

 以下、479年以降の主な出来事を列記してみる。

 479:南斉高帝倭王武(雄略52、磐井27歳)に鎮東大将軍の号を授ける
 485:倭王武筑後の宮廷で初めて曲水の宴を催す。(乙丑年、磐井33歳)
 489:雄略崩(己巳年、雄略62,磐井37歳)
 492:清寧崩(壬申年、清寧45,磐井40歳)
 496:顕宗崩(丙子年、顕宗19,磐井44歳)
 502:仁賢崩(壬午年、仁賢26,磐井50歳)
 502:梁武帝倭王武(磐井50歳、雄略没後13年)に征東将軍の号を与える
 506:武烈崩(丙戌年、年齢不詳,磐井54歳)
 507:男大迹樟葉宮で即位(丁亥継体元年、男大迹22,磐井55歳)
 511:男大迹山背の筒城に遷都(申卯継体5年、男大迹26,磐井59歳)
 513:安閑勾金春宮、宣化磐余分都(癸巳継体7年、磐井61歳隠居?)
 518:男大迹乙訓に遷都(戊戌継体12年、男大迹33,磐井66歳)
 524:善記律令制定(甲辰継体18年、磐井72歳)
 527:男大迹崩(丁未継体21年、男大迹42,磐井75歳)
 531:辛亥クーデター(辛亥継体25年、磐井79歳)
 534:安閑立太子、倭王武磐井崩、安閑即位(甲寅継体28/安閑元年、磐井82、安閑69歳)
 535:安閑勾金宮に遷都、安閑崩(乙卯安閑2年、安閑70歳)
 536:宣化即位、檜隈廬入野宮に遷都(丙辰宣化元年、宣化70歳)
 539:宣化崩(己未宣化4年、宣化73、欽明30歳)

4.結論

 以上をまとめると、
”筑紫の君磐井は15歳の時に筑紫朝倉宮で王位を継承、10年ほどで勢力を日本列島西部から朝鮮半島南部まで伸ばし、25歳の時には自ら七国(含百済)諸軍事安東大将軍倭王武と名乗るまでになった。その後継続して倭国王として日本列島を統治したが、還暦を迎えるに至って、実子葛子を太宰府(都督府)、養子(?)安閑を豊前香春の春宮、同じく養子(?)宣化を近畿分都の支配人として、日本列島を統治させる三頭政治の形態を取り入れた。
 この間近畿大王家では雄略、清寧、顕宗、仁賢、武烈、継体と6代にわたる内輪の跡目相続争いに明け暮れていて、とても天下国家を考えるような状況にはなかった。”
 という結論に到達する。

 継体7年に春宮安閑を立てたのは、この年が丁度磐井の還暦に当たり、隠居宣言をしたからと考えたが、隠居後も10年ぐらい、善記律令制定時頃まで、は磐井が実質的な支配力を維持して居たであろう。
 岩戸山古墳が造られたのも此の頃であろうか。

 その後は葛子、安閑、宣化の三頭政治が、それを支えている大伴、物部、蘇我三大氏族勢力の消長と相互の力関係の変化との絡みで、次第に不安定化し、磐井の乱と名付けられたクーデターに発展してしまったと考えられる。

 以上、安閑記紀の地名比定に関する疑問から、思いがけず倭王武の、かなり確からしい、人名比定に到達した。安閑の宮処、陵墓の所在の確認、或いは久留米国府跡遣り水遺構の年代確認が出来れば本説の十分な裏付けになりえよう.

 これまでも記紀の流布本脚注が地名の大部分を、根拠の提示もなしに、頭から近畿地方にこじつけ比定していた事を疑問、且つ不審に思ってはいたのだが、改めてその比定を全て白紙に戻してみる必要性を感じている。 先ずは、一旦全ての地名を九州北部に置き直してみて、より整合的な説明が可能であることを確かめ、九州では説明の付かないものだけを近畿その他に比定し直すという手順を踏むべきではないかと考える。    


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