HOME Page へ  抄録 Top へ 2000/07/01 土曜日 03:45 更新

 新北(にぎた)が津であった時 1.熟田津の所在地と倭国の都


   続・新北(にぎた)が津であった時  

 2.その頃の近畿大和周辺の実状と二つの飛鳥 

 5万分の一地形図を使って,この地域への交通路に当る場所で浦や津のつく地名を探してみたところ,生駒山西麓に豊浦;山崎奥の古巨椋湾岸に戸津,南浦;木津川沿いに江津,宮津,木津の計6ヶ所があるだけで,飛鳥,藤原の表玄関とも言うべき大和川流域には1ヶ所もなかった(飛鳥地方の標高80〜100メートルの所に豊浦,南浦の地名が見付かったがこれらが海港あるいは海につながる川津としての機能を持っていないことから、後付の地名であることは明らかなので除外した)。

 文化交流、経済活動の大部分を水上交通に頼っていた当時、奈良大和への水運の拠点は巨椋湾岸、木津川沿いの5ヶ所で、遠賀湾23ヶ所の4分の1弱でしかない。人口も遠賀湾流域の4分の1以下であったろう。
 しかもこれら五つの浦や津が、天智の近江朝、元明の平城朝への玄関口としか考えられない以上、この時期(663以前)奈良より奥の飛鳥に他の地方に影響力を持つほどの王権の所在地があったとは考え難い。 

 近畿大和の飛鳥の起源は、656年斉明帝の後飛鳥岡本宮造営まで遡り得ると思われるが、これはあくまでも斉明の私的な離宮として造営されたもので、内政外交の中心としての京は筑紫の「飛鳥」にあり、天智、弘文の近江朝を挟んで、天武の死後694年持統による大和飛鳥(藤原)への遷都まで続いたと考えるべきであろう。 即ち古事記や日本書紀に記述されている王権あるいは王宮所在地としてのヤマトやアスカ、つまり近畿大和王朝そのものが少なくとも白村江敗戦以前この地域には存在していなかったと言って良いのではないか。あったのは、九州倭王朝の傍系でしかなかった斉明、天智の離宮と曽我氏など有力氏族が自分達の封地に建てた私邸だけで、墓陵を含め個々別々にそれぞれの財力に見合った規模を誇っていたにすぎないと考えられる。  

 白村江敗戦で薩夜麻が唐の捕囚となって倭国王不在の事態となり、敗退した倭国の残存勢力の中で、中大兄(天智)は667年娜大津から近江の大津に拠点を移してクーデターを起し、倭国皇子伊勢王兄弟を拘束して実権を握った。 670年には近江朝は日本国と称して独自に外交を始めた。

 一方、遠賀川上流域(当時の飛鳥)に勢力を温存していた倭国の実力者大海人(天武)も、中大兄に対抗して、倭国の京に似通った地形の近畿大和(後飛鳥、吉野)の地に前進基地を確保し、672(壬申)年には、前年に生還した薩夜麻を奉じて近江包囲網を完成させ、倭国再奪権に成功する。  天武は壬申の内戦に勝った後、薩夜麻を引退させて自ら王位に昇り、倭京の機能を逐次彦山川流域から、新しい近畿飛鳥京に移しはじめた、と言うあらすじが見えてくる。 但し天武在位中には遷都は実現せず、天武の死後、藤原氏の力を借りて大津皇子を廃し、クーデターに成功した持統によって近畿への遷都が実現する。 

 崇神紀65年7月条に、 任那者去筑紫国二千余里 とあり; 天武紀10年8月条には 貢多禰国図。其国去京、五千余里;とある。 太宰府起点で距離を測ってみると任那(金官加羅)まで約230km、種子島までは豊後水道経由で500km、有明海経由で450kmである。同じ物差し(短里:80〜90メートル)でほぼ正確に記述されていると言える。 一方、近畿大和から種子島までは、大阪湾経由、紀伊水道、土佐湾、日向灘の沿岸航路で800kmあり、誤差と言うには違いが大きすぎる。 天武の京は、天武10(681)年現在、まだ近畿大和ではなく北九州にあったと考えざるを得ない。  豊前鏡山南方に大坂山(別名飯岳山)があり、山腹を通る街道には大坂の地名もある。天武紀{8年11月竜田山・大坂山に関を置き、難波に羅城(御所ヶ谷神護石?)を築くなど}に頻繁に出てくる難波も、ここ豊前の地と言える。  天武の勅を受けて帝皇日継及び先代旧辞を誦習した、稗田の阿礼の出身地と思われる稗田の地名が川宮の北と、大坂を東に越えた京都郡の両方にある。京都郡は神代の帝都と言われ、伊耶那岐から邇邇芸、神武に至る伝承、遺跡の宝庫(挟間畏三、前出)であるから、阿礼は京都郡稗田の出身であり、天武に呼ばれ川宮に居を移して史官に伝えた伝承、史料が後日古事記や日本書紀に採録されたと考えるのが妥当であろう。  

 天武7年12月(679)の筑紫大地震(水縄断層の活動)後、余震の記録が七回続いたあとに、紀11年3月(682)条、命小紫三野王及宮内官大夫等、遣于新城、令見其地形、仍将都矣 の記事が現れる。 天武に大和飛鳥への遷都を決意させたのは、天智を近江の大津に追いやった唐、新羅の脅威と言うよりは、相次ぐ地震への恐怖だったのではないか。13年10月(684)には追打ちをかけるように東海、南海、西海同時巨大地震(M8.4)が発生している。 近畿大和への遷都、あるいは移住は、倭国の為政者だけではなく、倭国王朝民たちの総意であったかもしれない。 

 686年、天武死、藤原氏の勢力をバックに天智の娘持統によるクーデターで倭王天武の最も有力な後継者と目されていた大津皇子が粛清される。
 持統の謚を高天原広野姫と言う。現在の京都郡平尾台(カルスト台地)の伝承地名そのものである。父天智とともにこの地方の出身であった可能性が考えられる。あるいは倭国王朝の正当な後継者であることを主張しているのかもしれない。
 この平尾台は北に塔ヶ峯(582m)、南に塔ヶ峰(396m)と2つの塔ヶミネに挟まれており、持統紀7年9月(693)条、辛卯、幸多武嶺、壬辰、車駕還宮 に記された多武嶺がこのいずれかの塔ヶミネを指し、持統の宮がそこから1日の行程の範囲内にあったことを示していると考えられる。 持統は、天武が近江朝の天智/大友から奪権して再興した倭国の都を、北九州の地から天武が下見をさせていた近畿飛鳥に、天武の死(686)から自らの即位(690)前後の8年をかけて移し、最終的に藤原の地に遷都(694)した、と考えるのが現実的で無理のない線であろう。  694年、倭国は伝統の地北九州(元飛鳥)から、近畿藤原(後飛鳥)に遷都;引続き半世紀ほど掛って藤原朝により倭国文化財が住民地名と共に近畿大和に総移動、総移植される;但し都督府太宰府はそのまま外交及び地方行政の拠点として残された。  天智が近江朝で対外的に使い始めた日本国の称号を定着させたのも、藤原朝以後と考えられる。 

  3.大阪の難波  

 大阪難波の京が史実として文献に現れるのは、神亀3(726)年10月聖武帝が藤原宇合を知造難波宮事に任じた(続日本紀)とあるのが最初と言える。難波京は、平城京にいた聖武帝がこの年、海路播磨の印南野に行幸したときの中継点になっている。 平城京の海の玄関口は、木津川沿いの宮津あるいはもっと下流の巨椋池あたりであったと考えられるが、神亀元(724)年10月聖武帝が紀伊国に行幸した時には、帰路の中継点が和泉国所石になっていて、上町台地の北端に位置する難波宮を経由したかどうかについて言及していない。従って2年前のこの時点で難波宮はまだ中継基地としての機能を持っていなかったと言える。 

 知造難波宮事に任じられた藤原宇合(737年没)は万葉集に、

 昔こそ難波田舎と云われけめ今は京引き都びにけり(3-312)

と、聖武帝の難波宮造営以前には近畿大阪の難波に京は無かったと証言している。大阪難波の有文字の歴史は、実際には日本書紀の完成後それに付会する形で始まり、九州倭国の生き証人が世を去るにつれ、倭国難波の歴史まで取込んでいった、と考えるのが妥当では無かろうか。 

  4.紫野は何処か?  

 ここで、有名な額田王と大海人皇子の唱和歌

 茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(1-20)
 紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故にわれ恋ひめやも(1-21)

にも触れておきたい。  

 延喜式の交易雑物に紫草を産する国として

甲斐800斤、相模3700斤、武蔵3200斤、下総2600斤、常陸3800斤、信濃2800斤、上野2300斤、出雲100斤、石見100斤、太宰府5600斤

とあり、太宰府圏が最大の産地としてあげられている。

 この延喜式の記載は同時に、当時近江の蒲生野では100斤の紫草も産出していなかったことをも示している。したがって、(1-20)の題詞に

「(天智)天皇の(近江の国)蒲生野に遊猟したまふ時(668年)、額田王の作る歌」

とあるのは事実に反していると言えよう 仮に近江の蒲生野遊猟が実際に行われ、この歌がその場で披露されたとしても、この歌の舞台となった額田、大海人の実際の出会いの場は少なくとも近江ではなく、太宰府管内の何処かであった可能性が高いと言える。 

 北九州市小倉南区を北流する紫川の左岸に蒲生の地名がある。紫川を南に遡り、金辺峠を越えると香春岳、鏡山まで18km程である。額田王は鏡王の娘とされている。 紫川の東には持統の謚名に使われた高天原広野(平尾台のカルスト台地)があり、洞海湾と遠賀内湾の接点磐瀬は中大兄の拠点であった。紫草の標野であったかも知れない蒲生も中大兄の勢力範囲内にあったと思われる。

 これらの状況証拠は近江の蒲生野が、北九州蒲生のレプリカであり、近江蒲生野遊猟記事もまた日本書紀の編著者、万葉集巻一編集者の共同創作作業であったことをうかがわせる。


1.熟田津の所在地と倭国の都

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