−古田武彦と古代史を研究する会− 91号 2003年7月
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代 表:藤沢 徹
編集発行:事務局 〒167-0051
東京都杉並区荻窪1-4-15 高木 博 TEL/FAX 03-3398-3008
郵便振替口座 00110−1−93080 年会費 3千円
口座名義 古田武彦と古代史を研究する会
* 閑中月記 第二十四回 −吉山旧記− 古田武彦
・「日本古代史の今〜中国とアメリカからの報告」
(前編)
要約 田遠 清和
* 熟田津論争について 東京古田会の見解 会長 藤沢 徹
* 1:25000地形図の読み方(2)
「新北」論争へのコメント 高見 大地
* 再び「志古人=東?人」ではない 横浜市 平田 博義
* 大善寺玉垂宮 千九百年御神期大祭記念講演
「鬼夜に秘められた古代史」福永 晋三 (文責 友野 晃一郎)
* 縄文中期・弥生、
五〇〇年繰り上がりの影響と仮説 文京区 藤沢 徹
* 事務局便り 高木 博
* 質問コーナー
* 寄付のお礼
* 案内とお知らせ
・ 富士/藤沢 古田武彦氏講演会
・ 古田武彦 特別講演会
* 編集後記 高柴 昭
−吉山旧記− 古田 武彦
二〇〇三、六月十五日 記
一
その年の一月七日だった。私は初めて「鬼夜」の火祭りを見た。福岡県の久留米市にある大善寺玉垂宮に伝承された、壮大な火祭りである。
前年の大晦日にはじまり、年明けて七日に至り、その日に大團円を迎える。その日も、昼過ぎ、神社の奥宮からご神体の「」を奥殿に移し奉り、そこから夕方へ向けて徐々に夜祭の時間帯へと緊張感が高まってゆく。
その大体の進行は、すでに本誌でも紹介されたから、今あらためて再説する必要もあるまい。要するに、夕方から真夜中の十一時頃に至るまで、延々と繰り広げられるその火祭りのは、私の見た火祭りの中でも類を見ない。
その上、社中の各地域ごとに、昨年の火祭以後、準備のととのえられてきた数々の炬火(たいまつ)の巨大さ、そして何よりも長時間の火祭の進行のスケジュールと、それぞれのパートの役割とプログラムが、社中の各家々ごとに伝統され、今も守りつづけられている。その見事さは言葉に尽くしがたい。
最後に、残された炬火のグループが社前の川の岸へと向かい、ようやく「祭の終り」を迎えたとき、私の胸中には、ざわざわとうごめき鳴りひびくものが宿されていた。それは宿に帰ってすごした一夜の後にも、なお消えることがなかったのである。
二
思わぬドラマは次の年に来た。研究上の不可解な問題意識によって、私の心はしっかりとつかまれてしまったのである。
午前中だった。この前、数々の御好意を得た御礼を申しのべると共に、この火祭をめぐる由来などお聞きしたいとお願いしてあったところ、それまでのお疲れにもかかわらず、鬼夜保存会会長の光山利雄さんが時間をとってくださった。近隣の小室だった。当方は私の他に福永、福田さん達を含むグループである。
お互いの挨拶のあと、私は言った。「お祭を拝見して、私の感じたところを申させていただいていいですか。」
「どうぞ。」
と光山さん。そこで私は言った。
「前に、お祭を拝見して、私は深い感銘を受けました。これは何とも、大変なお祭だ、と思いました。」
「そうですか。」
穏和な顔つきで応待される。
「私の率直な印象を申させていただければ、これはもう、縄文にさかのぼる渊源をもつものではないか。そう思いました。」
「そうですか。」
と、光山さん。私には、研究上の経験、或いは記憶があった 。―― それは北陸、能登半島の御陣乗太鼓を見た、否、「聞いた」ときの印象である。
際限もなく打ちつづくその太鼓の音は、人間が鳴らしている、と言うより、大自然の声のようだった。大海原が呼び、咆吼している。
それを感じさせた。体内にじんじんと響き入ってきた。―― 私はそれを「縄文の声」と感じた。観光の解説に云う「上杉謙信の軍勢の襲来に対し、これを打ち鳴らしたところ、上杉勢は 敵は大軍=@と錯覚して引き上げた」ことなどが渊源とは、とても思われない。私には何としても信じられなかった。それはたかだか「御陣乗」という 名前の由来=@にすぎない。私にはそう思われたのであった。
幸いにも、その後、確証が得られた。証拠が見つかったのである。―― 真脇遺跡だ。そこから「鬼の面(土製)」が現れた。縄文時代の土面である。
従来の芸能史はこもごも記していた。この御陣乗太鼓は「中国」など、大陸の仮面劇の伝播である、と。その模倣と見なされていたのであった。けれども、それは全くの「まちがい」だった。縄文以来の伝来だったのだ。
当然、御陣乗太鼓そのものも、縄文以来の伝統に立つひびきだったのである。想起したのは、このときの記憶だった。
三
その時、横合から声がかかった。
「古田さん、これはどうも違うみたいですよ。」と、福永さん。
今、光山さんから頂いた史料(コピー)の「吉山旧記」を読まれたようだった。それであわてて、私の「誤認」を訂正しようとされた。もちろん、好意からであろう。
「ここには、大臣が異国に通謀したを討った。どうも、それがこのお祭の始まりみたいに書いてありますよ。」
私は答えた。
「そうかもしれませんが、私は自分が拝見したお祭に対する、自分の印象を申し上げているだけなのですから。」
そばから、福田さん。
「でも、ここにちゃんと、そう書いてありますよ。今、福永さんの言った通りですよ。」
私はさらに答えた。
「その文書は後で拝見しますが、今は私が自分の感想を申し上げているので。」
三人の トラブル=@を前にして、穏厚な光山さんは 困って=@おられたようだった。御礼を申し上げて私達は退散した。
四
この日の トラブル=@が、私の探求の出発点となった。二回、三回と、当地のお祭に足を運び、この壮大な祭の始終を観察し、熟想し、
この祭の本質を見定めようとしたのであった。そのような数年をしたあと、ようやくこのお祭の大体がつかめてきた。やはり、私が最初に直観した通り、この祭の渊源は 只物=@ではなかった。
「異国通謀」だの、「沈輪征伐」だのといった、新しい話ではなかった。
日本の祭では、「鬼」は貴重な存在である。いずれの祭でもきまって姿を現し、きまって討たれる。役なのである。そして同時に人気のある存在だ。「鬼」がなければ格好がつかぬ。そういう祭も少なくない。
だが、ここでは違った。永遠にして、神聖な存在だ。それは祭の冒頭から存在し、祭の終わりにも、消え去り=@はしない。翌年はまた
復活し、依然、主役の座に存在しつづけているのである。
確かに祭の中で「敵の襲来」を告げるようなひとこまがある。外部からの 圧力=@を感じさせる物音が鳴り響く。また「鬼の退去」を暗示させるような所作も、幾つかおりこまれている。
しかし、その際も「しゃぐま」と呼ばれる 子供=@の群れは、「鬼の行く末」を護ってゆくように見える。
さらに、祭の大部分をつらぬく、一種、金属性的な音(半鐘&浴j=@はあたかも、あの「金鐸」(中国)のように、ここに危急が迫っていることを告げ知らせているかのようだ。
祭としては「異例」であるかもしれないけれど、ただ 内部の者が内部だけのスケールで行う=@形の進行ではなく、外部からの襲撃を
予感させる、そういう雰囲気を持っているのである。
では、これは果たして「吉山旧記」に言う「桜桃枕輪、討伐」の歴史、或いは挿話が劇化され、さらに祭礼化された姿なのであろうか。―
問題は、そのように突き詰められてきたのであった。
五
今年(二〇〇三)の五月二十三日、私は久留米市へと向かった。文化財収蔵庫で「吉山旧記」の原本(草稿本)に接したのである。
光山さんからお見せ頂いた古写本(浄書本)が第八十二代に終わり、明治五〜六年の記事を末尾近くに持っているのに対し、この原本は第七十六代に終わり、元禄元年(一六八八)の記載がある。(書き継ぎ=@か)
(A)原本(草稿本)
(B)古写本(浄書本、コピー)
右の両本を比較し、検討を加えていった。
その詳細は改めて機を得て明かにしたいが、今はその要点を述べよう。
第一、原本は慶長六年(一六〇一)八月の序文をもち、著者は七十三代、吉山清満 誉田榮次 謹誌
とされている。これに対し、古写本(B)は、「序文略」とあり、慶長九年(一六〇四)八月とされ、
七十三代、(同右)
となっている。十七世紀初頭、徳川家康の晩年時点の成立である。
第二、古写本(B)には、(第二、序文)が付せられている。
昭和二十九年一月
第八十三代 薬師寺 悟 謹誌
すなわち、古写本(B)は単なる「浄書本」というよりは、これを「薬師寺本」と呼ぶほうが、より正確であろう。
第三、(B)には冒頭部に年表が付せられ、「(二十三代)薬師寺の姓の始まり」「(二十五代)大善寺と改号」などが記せられ、当神社の由来を知る上で貴重である。
第四、(A)の序文は、(B)では「序文略」とあり、確かに(A)の一部(たとえば冒頭部)が(B)では省略せられている。
けれども、反面、かえって(B)の方が新たに増文し、詳記せられている面も、存在する。
たとえば、当本の成立について、
@本来、中興十一代吉山啓道までを「旧記神代之巻」と していた。
Aしかし、「焼失」と「蟲損」の害に会うている。
Bそこで、「御宮旧記」「同由来記」などでこれを補った。ただ「蠱損、不分」の分は猥に記すことはしなかった。
C特に注目すべきは、次の一節であろう。
「國所家滅亡せしは姓名ありといへとも全からされは記せず。唯吉山家一筋に心を尽くし小書と為しぬ。」(B)
すなわち、本来 主柱=@をなしていた「國所家」に関してはこれを削除し、「吉山家、関係」のみを残して、当書にまとめた、と
言っているのである。
当書の性格を知る上で、肝心の一文である。その理由は、当「國所家」が「滅亡」しているから、というのである。
私達はここに「筑紫の主柱」としての中心権力、すなわち「九州王朝の残像」らしきものの存在を見ることができよう。
六
(A)(B)両本とも、本文の冒頭は
人皇十三代成務天皇三十四年
に始まっている。「第一代喜多来(「きたらい」か)」の項である。
この「成務天皇、起源系譜」には、多くの先例がある。『新撰姓氏録』では、各氏にこの形式が多いのである。
一見、これは不思議だ。なぜなら、古事記、日本書紀とも、この「成務天皇」にはさしたる 治績 がない。ないにも関わらず、なぜここに「各氏の起源」がいっせいに集中しているのか。この根本の疑問だ。
この疑問を解くには、「近畿天皇家一元」の内部理解のみでは不可能である。実はこの「成務天皇の時代」はいわゆる「皇暦」で AD一三一〜一九〇の長き(六十年)に及んでいる。この時期は、後漢書倭伝によると、
(一)建武中元二年(五七)―― 後漢の光武帝の金印授与。
(二)安帝の永初元年(一〇七)―― 倭の国王、帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う。
とある事項のほぼ「直後」に近い。(安帝は「一〇六〜一二五」)
これにつづく、有名な
「桓・霊の問、倭国大いに乱れ、更に相攻伐し、歴年主なし。」
の桓帝(一四七〜六七)と霊帝(一六八〜八八)が、右の「成務の時代」に当たっている。(この「桓・霊の間」問題については、既述。)
今の視点から言えば、倭国の君主が中国の天子と交流して 直後=@ともいうべき時代に、「すでにその当時、わが祖先の初代がその歴史を始めていたのだ。」との主張、これが右のような
「成務天皇の時代に起源あり。」
という系譜のもつ意味なのである。「倭国王の権威確立の始源期」だ。
右の「倭国の君主」とは、近畿の天皇家ではない。(一)の記事がしめしているように、志賀島(の金印)をふくむ「筑紫の王者」こそ、「倭の国王、帥升」の身元なのである。―― 「九州王朝」だ。すなわち
「九州王朝中心の歴史を、後の近畿天皇家中心の歴史へと 書き換えた=@証拠」
それが、あの『新撰姓氏録』と同じく、この『(慶長六〜七年成立の吉山旧記)』、いわば『新撰吉山旧記』のもつ、基本の史料性格なのである。
七
この点、当本に(A)(B)とも現れている
「神功皇后 ―― 武内(宿禰)臣」の両者も、本来は「倭国(九州王朝)」の 「卑弥呼 ―― 難升米」
といった記述からの 書き換え=@である。そういう可能性の高いこと、特に注意しておきたい。(或いは「壱与」か。)
また問題の「討伐」譚において、討伐側の主体として登場する「大臣」もまた、近畿天皇家の人物ではなく、「倭国(九州王朝)」の人物である点も、当然ながら、わたしたちの視野に入れておかねばならぬ。
この事件自体は、「倭国(九州王朝)」が大陸側(朝鮮半島)で高句麗・新羅と激戦していた「四〜六世紀間」の歴史事実の反映なのではあるまいか。この事件は、仁徳五十五年(三六七)、第六代の葦連〈あしのつら〉の時とされている。(古事記、日本書紀の方には「桜桃枕輪」の名は出現しない。「倭国」が百済と盟友関係にあったこと、高句麗好太王碑の記す通りであるが、、これに対し、「桜桃枕輪」は、高句麗・新羅側と提携しようとしたのであろう。(もちろん、歴史事実の反映とみられる。)
この「桜桃枕輪」の史的探求もまた、今後の興味深い研究テーマの一つであろう。
八
「吉山旧記」(A、Bとも)にとっての最大問題点、それはこの祭の「最高の中心者」である「鬼面尊」自身の伝来に関して全くふれることがない、この一点である。
一月七日の昼、この祭(の最後の日)の開始に際して、奥宮(奥殿か)から鬼殿へと御神体が移置される。この御神体は「鬼の面」が箱に収められている、という。
この 移置の儀=@が終了して、いよいよ当日の祭が開始されるのである。(昨年末よりつづく。)
このように、右の儀式はこの祭の「出発点」として、もっとも注目すべき儀礼であるけれど、当「吉山旧記」は、一切この「鬼面尊の由来」についてふれることがない。
この一点をとっても、この「吉山旧記」のみを以って、この祭の「本質」にせまることの不可能であること、遺憾ながら、これを認めざるをえないのである。
なお、右の「移置の儀」を以って、宮司さんは退き、以降の 壮大な祭の展開=@にはタッチしない。「関与せず」の立場をとっている
とのことである。この点も、重大な注目点であろう。
宮司の代表する「公」の立場、その「目」の外において、この 壮大な祭=@は展開されている。「公の目」はそれを 黙認=@する。
そういう形式をとっているのである。
そしてこの「吉山旧記」は「公の目」の眼前に提出されたものであろう。慶長九年、徳川家康の時代にこれが作製されたこと、その「時代の意義」を抜きにして、この「吉山旧記」のもつ文書性格、その意義を語ることは不可能である。
もしこの「吉山旧記」の語るところによって、この大善寺玉垂宮の火祭の由来を知ることができる、と考える人がいたならば、それは「公の目」で見た、その 建前=@と、真の火祭の抱きつづけてきた貴重なる伝統の内なる真実とを漫然と「混同」するもの、そのように言う他はないであろう。
徳川家康が江戸城(或いは駿河城)の中で、認識した=@或は(封建体制の中で)認めて許した=@ところ、それを知るためには、この「吉山旧記」は完璧な史料と言わねばならぬ。
しかし、「徳川家康の目」と歴史学探究者の目とは、決して同一ではありえない。もし「明治体制の目」が「封建の目」を継承し、これに添うことを以って 足れリ=@としたとしても、それは、真実探究者の目とは全く関係がない。
なぜなら、それらの「体制の目」とは、所詮「時の流れ」の中で 溶解=@してゆくべき、はかなき「いっときの目」たるにすぎないからである。
九
平成十一年の八〜九月、久留米市におもむき、その所蔵文書を長時間、調査させていただいたことがある。「古田武彦と古代史を研究する会」「多元的古代研究会、、関東」「古田史学の会」等の合同調査であった。
そのとき、刮目した史料群があった。そこには江戸時代末、戌辰戦争直後、大善寺玉垂宮の宮司の「御祭神を取り換える」旨の決意がしたためられていた。従来の「玉垂命」に換えて、天皇家に 由縁(ゆかり)≠フある「武内宿弥」を以って、今後の「御祭神」にしたい、という、その決意が「文書」として明記されていた。
そして明治初年に至り、社中の各村の各責任者を召集し、右の決意に対する「承認」を求め、賛成の署名の記された文書である。
この「新祭神」としての武内宿弥の存在は、近年(戦後)までつづいていたようであるが、ようやくこれを廃し、もとの「玉垂命」へと
返った=@ようである。(光山利雄氏による。)
「吉山旧記」(B)の場合、「昭和二十九年一月」の「第二序文」があり、第八十二代薬師寺悟、謹誌」となっているけれども、右の経緯はしるされてはいない。「公の立場」を継承したからであろう。
この祭の本質への探究、それは当然「鬼面尊」と「玉垂命」との関係、そしてそれらの悠久なる起源へとむけられることであろう。
そしてそれのみが、このような壮大な祭を悠遠なる古さ、おそらく縄文の、否、それをも貫くさらに深い歴史の中から 祭り、伝えて=@こられた当地の方々への真の報答となるのではあるまいか。
詳しくは他の機会をえたい。(論語については、次回)
なお、今年の九月二日から九日までウラジオストク(ハバロフスク)への探究の旅に出る。
日本の古代史の新局面に今立ち向かうためだ。これに対する皆様方の一人でも多くのご参加を切望し、深く御協力をお願いしたい。これを以って今は筆をおかせていただくこととしよう。
「日本古代史の今〜中国とアメリカからの報告」(前編)
2003年3月21日(金)
杉並産業商工会館 ホール
(要約 田遠 清和)
1 はじめに
今日は、はじめて杉並で講演会を行うということで非常に楽しみにしてまいりました。東北大学の学生であった敗戦直後の頃に来たことはあるのですが、当時とはすっかり様変わりしているのに驚いています。
さて、昨日から今朝にかけてテレビや新聞はイラク戦争が始まったということで、大変騒がしいわけですが、実はわたしは、これは平和が始まったことだと考えています。
戦争が始まったときにわざわざ古代史の講演会を聴きに来られた方は非常に貴重な方々ではないかと思います。もちろん、戦争反対のデモのために国会やアメリカ大使館におもむくという選択もあるわけですが、古代史の講演にくるということは、これは別個に平和に役立つ優れた行為ではないかと信じております。
平和が始まったということについて、ここで時間をとって述べる必要はないわけですが、今回の戦争によって何が解決しうるのか、何が解決しえないのか、ということを戦争という実験を通じて、明確に人類は認識することができるのではないか。その意味でわたくしは平和が始まったと考えるわけです。
戦争以外の方法でいかにして平和を獲得するかという決意を人類の心ある人々が明確に抱き始める契機になるのが、人類の歴史における今回の戦争の意味だと予想しているので、平和が始まったと捉えているわけです。
2 里程論
さて、それでは古代史の問題に入らせていただきます。
日本の古代史ということですが、どうもあまりはっきりしないのではないか、そう思われる方もいらっしゃるのではないかと思いますが、わたしに言わせればそうではなくて、非常にはっきりしている、そう考えるわけです。では、なぜそういえるのか、ご説明させていただきます。
お手元の資料をご覧ください。ここには、楽浪郡から女王国に至るまでの里程がかかれています。(岩波文庫版「魏志倭人伝」参照)また、里程や方角が部分ごとに書かれているだけではなく、総里程が12000余里と書かれています。
ところが従来の邪馬台国論者は部分の合計が総里程にならないまま論じていたわけです。だいたい、1300里もしくは1400里足りない。それは、わたしはおかしいのではないか、どこかに足し足りない部分があるのではないか、そう考えたわけです。
青年時代、映画館に通い詰めてグリアガースンが主演する「キューリー夫人」(1943)という映画を何度も見ましたが、その映画でも放射能の数値が足りないという問題が描かれていた。ゴミのような部分があって、それを足したらなんと全体の数値にぴったり一致した。それが、その後の人類史を変えた放射能発見の瞬間であったわけです。
倭人伝を読んだ時に、この映画がどこ心の中に残っていたのか、足りない、たりないと考え続けたわけです。そして、数ヶ月後のある夏の暑い日にアパートの一室で取り組んでいるうちに見つかった。それが、対海国と一大国であったわけです。
帯方郡〜 狗邪韓国 7000里
狗邪韓国〜対海国 1000里
対海国 800里方400里(400里+400里)
対海国〜一大国 1000里
一大国 600里
方300里(300里+300里)
一大国〜末盧国 1000里
末盧国〜伊都国 500里
伊都国〜不弥国 100里
(総里程) 12000里
従来は、このうち、対海国と一大国が方400里方300里と書かれていたために足されずにきた。ではこれをどう考えるか。女王国へ向かっているわけですから、一周したら元へ戻ってしまう。進むためには半周すればいいわけです。ここに、従来足りなかった1400里が現れたわけです。わかった、わかったと言って、素っ裸のまま外回りの階段を降りて下で洗濯物を干していた妻のところに行ったのを昨日のことのように覚えていますが、それが、わたしが古代史に深入りした瞬間であったわけです。
すると同時に邪馬壹国の位置は決まってしまった。何故なら不弥国までで12000里になってしまうわけですが、不弥国が博多近辺であることは、ほとんどの学者の一致した意見であったわけです。従って、邪馬壹国は、博多湾岸であると考えざるを得ない。『「邪馬台国」はなかった』というわたしの本は、幸いにもこの三十年間出版され続けている本なのですが、不弥国は女王国の玄関であるという一行の言葉が、この本のキーワードになったわけです。
これに対してわたしに反論をした学者は三十年間誰一人としていないわけです。後に論ずる国名問題に触れる方は多少いらしたわけですが、この問題にはノータッチなわけです。論争もせず無視したまま三十年間経過してきたわけです。みんな無視しているわけですが、無視しなければ結論は同じになるしかないわけですから、それで無視するしかないわけです。大和であるにしろ筑後山門や豊後大分県であるにしろ、無視せざるをえない。無視したまま各論者が勝手なことを言い続けているわけです。これは、憎まれ口になるかもしれませんが、わたしは学問の退廃であり、探求精神の退廃であると考えるわけです。
わたしはなにも自分の意見が絶対に正しいと言っているわけではないのですよ。正しくなければ正しくないでけっこうなんですよ。ここが間違っている、こう考えたほうが正しいという反論をしていただき、それに賛成ならば直ちにわたしの主張を放棄します。そう考えて三十数年間待ち続けたのですが、誰一人反論をする人がいないわけです。
賛成してくれた方もほとんどいないわけです。少しはおりましたが、ほとんどの学者が知らん顔をしているわけですから、わたしは三十一年前に出した意見でいいんだと考えているわけです。これが、第一点目です。
3邪馬壹国論
第二点目は、国名の問題です。これも最近簡単な問題把握ができました。それは、倭人伝に「南邪馬壹国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。」とあり、その先に「七万余戸」と書いてありますね。つまり邪馬壹国というのは七万余戸の範囲なわけです。そこには女王の都があるわけです。都を含んだ領域が邪馬壱国であるわけです。
それに対して、後漢書には「その大倭王は、邪馬台国に居る。」と書いてあります。つまり、大倭王の居るところが邪馬台国であるわけです。
たとえて言えば、邪馬壹国というのは東京都であり、邪馬台国というのは皇居すなわち宮城であるわけです。
後漢書は倭人伝よりも百五十年後に書かれているわけです。倭人伝の読者は邪馬壹国という国名は知っているわけです。それに対して、大倭王の居る場所の情報を付け加えたのが、後漢書だったわけです。これをごっちゃにして、邪馬壹国では大和と読めないから後漢書の邪馬台国を持ってきて、邪馬台国にしてしまったのが、江戸時代の始め、京都のお医者さんであった松下見林の「異称日本伝」だったわけで、後は皆これに従ったわけです。
松下見林の頭の中では七万戸の領域と大倭王の居所とが無茶苦茶になっているわけです。こんなことが許されるなら、ぼくは東京都に住んでいるという手紙を受け取った相手が、ああそうか、東京都に住んでいるということは皇居にいることかと思うようなわけです。そんなトンチンカンな返事をされたら目を丸くしますよね。逆に、天皇が宮城に住んでいるということは、天皇は東京都民に過ぎないということだ。そう考えたとしたら、とんでもないことですよね。そのとんでもないことをすべての学者がし続けてきたわけです。
このことも、わたくしはすでに『失われた日本』等の本で何度も書いているわけです。書いているにもかかわらず、知らぬぞんぜぬで新聞や学術論文は「邪馬台国」でやっているわけです。これはやっぱり、わたしは現代の退廃だと思います。退廃などという言葉をやたらに使うなと言うかもしれませんが、これもわたしは、自分の考えが絶対に正しいと主張しているわけではありません。反証もせずに無視したまま、古田一人が言ったからといってどうってことないや、無視してしまえというシカト主義的な態度を問題にしているわけです。日本人はおとなしいといいますけれど、黙って従っているわけですね。その態度を腐っていると言っているわけです。
テレビや新聞・学術論文などはわたしの学問的な提案を無視して「邪馬台国」という国名を使用しているわけですから、わたしには「どうしてそんなでたらめをしているのか説明してください、古田の論証の誤りを証明してみてください」と言う権利があるわけです。日本国民であるならば、いや理性のある人類ならば、誰でもあるわけです。でありますから、わたしはこの問題は解決したと考えているわけです。
4 裸国・黒歯国
さて次のテーマにまいります。
倭人伝の中でわたしが気をひかれた箇所があります。そこには日本列島からは途方もなく離れた国のことが書かれている。「また裸国・黒歯国あり、またその東南にあり、船行一年にして至るべし。」とあります。船で一年かかるというのですから大変な距離ですよね。「邪馬台国」問題を扱った本はたくさんあったんですけれど、この部分に触れたものはほとんどありませんでした。一部例外があった場合は、東南アジアのこととして論じていましたが、東南アジアは日本の東南ではありませんよね。むしろ西南です。まして船で一年もかかりません。そこでわたしは考えたわけです。
基本的には、この二つの国は日本列島から見て東南にある。当然そう考えるわけですよね。で、船で一年かかる。ここに、二倍年暦という問題があります。二倍年暦。倭人伝はどうも二倍年暦で書かれているようだ、こういう問題にぶつかった。
これは、半年を1年とする暦です。後にわかったことですが、パラオという太平洋の国では現在でも二倍年暦が使われている。墓石に150歳まで生きたと書かれていて、そんな馬鹿なと思うわけですが、この地帯は雨季と乾季とがくっきりと別れていて、半年ごとに年をとるわけです。自然が二倍年暦を生み出したわけです。それが、日本列島に伝わった痕跡がある。
例えば、神社のお祭りは春と秋、年二回ありますよね。明治以降できた靖国神社などは別ですが、古くからある神社は年二回ある。また、盆と正月なども、背景に二倍年暦があると考えられる。倭人伝の中に倭人が九十歳くらい生きたと書いてありますが、二倍年暦で考えれば四十五歳くらいになる。これは現在の考古学的な発掘にあっているわけです。弥生時代には三十歳代から四十歳代ぐらいの骨が圧倒的に多い。すなわち倭人伝の世界は二倍年暦の世界である。ついでに申しておけば古事記・日本書紀の世界も二倍年暦で書かれている。天皇の年齢がやけに長いわけです。それは、二分の一にすれば、ぴったりあう。そういうことに気がついてきたわけです。
そうしますと船行一年というのは船行半年のことになる。そう理解したわけです。ところで三十年前になりますから今ではおじいちゃんになってしまっていますが、日本の青年たちが、太平洋ひとりぼっちと称してヨットで太平洋を渡っていったわけです。堀江兼一さんや鹿島郁夫・牛島龍介さんといった方達が、青年の頃、次々と、一人でサンフランシスコへ渡って行ったわけです。そうしますと、サンフランシスコまでは、皆三ヶ月ほどかかることがわかってきました。
黒潮はサンフランシスコでは終わりませんから南米のエクアドル・ペルー方面に下っていくわけです。何故エクアドル・ペルーかと言うと、南極からフンボルト大寒流が北上してきまして、そこでぶつかるわけです。暖寒流がぶつかるとプランクトンが大量に発生しまして、さらにそこに魚が集まって来る。岡山県出身の天野さんという方がそのことに目をつけまして、ペルーで事業を始めましたが、世界的な漁場がそこにある。すなわち、その地点で方向転換をするようになる。黒潮の到着点はエクアドル・ペルー沖にある。そこで、陸地にあがるか、もういちど沖合に行くかの選択に迫られる。
そこまでの距離を測ると、日本列島からサンフランシスコまでの距離とサンフランシスコからエクアドル・ペルーまでの距離とが等距離であるわけです。ということは、同じ海流ですから、そこまでの時間も三ヶ月かかるということが言える。そうしますと、日本列島からエクアドル・ペルーまでの時間は三ヶ月たす三ヶ月で六ヶ月になる。そこまで考えた時に、倭人伝のこの記事は嘘ではないなと思ったわけです。
何故なら、現在でこそ世界地図で手軽にそこまでの距離を測ることができますが、三国志の世界ではそんなことは不可能なわけです。なのに、一致しているのは、実際に行ったからだと考えるより他にない。いいかげんな出まかせを言って偶然一致しましたなどとはちょっと考えにくい。それで、エクアドル・ペルーの沖合が裸国・黒歯国と書いたわけです。わたしとしては、これは紙の上の冒険だったわけです。
ですから米田保さんという朝日新聞社の方がお見えになって、けっこうな原稿でしたが最後の裸国・黒歯国の部分はカットさせていただきます。読者がついていけないと思いますから、と言われた時には、そのことを予期していて、いやそれはできませんとお答えしたわけです。
わたしは読者を面白がらせるために変わったお話をしたわけではありません。わたしは、倭人伝に書かれてあるとおりに理解していくという立場、著者の陳寿が言っているとおりに理解していくという方法でいくと宣言しております。そう宣言しておいて裸国・黒歯国の問題をカットしたら、古田は逃げたなとそう思われる。逃げたなと読者に言われたら、わたしは返答のしようがない。その人にわたしは永遠に敗北していることになる。だから、わたしはカットできません、そうお答えしたわけです。どうしてもカットしたければ、朝日新聞社からは出版いたしませんとそこまで口に出しては言いませんでしたが、腹の中ではそう決心していたわけです。すると米田さんがわかりましたとお答えになりまして、一週間後にけっこうでございますとお答えいただき、その瞬間に『「邪馬台国」はなかった』という本が出版の運びとなったわけです。
今から考えると、なんと向こう見ずな応答をしたことだと思うんですが、それでよかったと思っております。と言いますのはその米田さんがまた来られまして、同じ考えを述べた学者がいるということを教えてくださったわけです。その時、世界最大の博物館、スミソンアン博物館の研究所におられるエバンズ博士・メガーズ博士(エバンズ婦人)そしてエクアドルの元大統領のお孫さんであるエストラーダ氏が出版した報告書のことを知りました。もっとも、米田さんはアメリカの「ライフ」(1970.10.17)という雑誌に、日本列島から筏で漂着した人たちが残した土器がエクアドルのバルディビアで発見されたという簡単な記事が載っていたのを持ってこられたわけです。
わたしはさっそくスミソニアンにお手紙を差し上げたところ、驚いたことに5日後にお返事をいただき、更に二十日後にはどさっと資料が送られてきました。それによって、わたしと同じ結論に到着した学者が、わたしよりも前にいたことを知ったわけです。そこから、エバンズ博士・メガーズ博士とのお付き合いが始まりました。
5 寄生虫
日本の縄文土器が、海を渡ってエクアドルにやって来たという知的冒険に満ちた報告はその後、数多くの裏付けを得ることができました。
報告にも色々あって、もうすでにわかっていることをわかりきったように報告する、まあこれも貴重な報告ではありますよね。日本などでは夥しく出ておりますが、しかし、学問として一番重要なのは、論理と冒険の精神をもって人類が全く知らない世界について報告する、この点にあるのではないでしょうか。それが学問の醍醐味であるわけです。
はたして、エバンズ・メガーズ説には反論が集中したようです。アメリカでの通説というのは、皆さんもよくご存じのように、モンゴロイドはベーリング海峡を渡ってアジアからやって来たという説であるわけです。これもしかし、一言申し添えておきますと、かつては異端説だったわけです。では最初の通説はなにかと言えば、驚くなかれ、ユダヤから十二の部族が世界に散らばったというバイブルの記事であったわけです。確固たる定説だったわけです。ベーリング海峡説は、かつては異端の説としてユダヤ十二部族説と戦い、やがて、それにとって変わったわけです。
こうした状況の中で縄文人が太平洋を渡ってきたという説が現れたわけで、それに対して、激しい批判が集中したわけです。しかし、この説は、その後画期的な裏付けを得ることになりました。
その第一はブラジルの寄生虫の問題です。ブラジルのミイラのうんち、汚い話で申し訳ないんですが、ミイラにうんちが入っているわけです。そのうんちを二十年ほど前に、ブラジルの研究チーム(アウラージョ博士等)が調べたところ、アジアその中でも特に日本に多い甲虫という寄生虫であることがわかってきました。ところが、ここで難関にぶつかるわけです。何かと申しますと、甲虫というのは非常に寒さに弱い寄生虫で摂氏二十二度になるとくたばってしまうわけですね。ところが、ベーリング海峡は寒い、そこを通ってきたのではとても生き延びられないわけです。
わたしなどはシロウト考えでお腹の中の寄生虫なわけですから、寒くても大丈夫ではないかと考えて、東京の寄生虫の研究者にこのお話をしたところ、どうもそういうわけにはいかないようなのですね。現に甲虫はベーリング海峡やシベリアには一切いない。ところが南米からは、ごそっと出てきているわけです。その説明をお聞きして、なるほどと思ったわけです。これは、通説では絶対に説明できない。そうしますと、これはエバンズ・メガーズ説のように、黒潮に乗って太平洋を渡ったと考えなければ説明がつかない。これは、考古学とは別個の医学上の報告だっただけに、全く予想外でしたが、そうであるだけに結果的に強力な助人になったわけです。
6 HTLVウイルス
更に、愛知県のガンセンターの田島和雄さんから画期的な報告がなされました。それはHTLV・1型というウイルスの研究でして、これは非常に恐いウイルスなんですね。四十・五十代までは頑強な漁師さんとして働いている人が、ある日一週間ぐらい高熱を発して、ぽっくり死んでしまうわけです。高知県でその話を聞いたことがありましたが、その研究だったわけです。
田島さんは、日本特有の風土病であるこの病気と同類のものを探されたわけですが、不思議なことに、ご近所に同類がいないわけです。中国でたくさんの例を調べたがない、ここにはあるだろうと思った朝鮮半島にもない、太平洋の島々にもない、これはいったいどうなっているんだろうと思って、まさかここにはないよなと思って南米のインディオを調べたらごそごそっと出てきたわけです。
この場合は、どこを通ってきたはわからんわけですが、祖先が共通であることははっきりしたわけです。日本といっても、太平洋岸と九州あたりに限られますが、そこと南米インディオの祖先が共通であることがはっきりしたわけです。はじめは、HTLVの研究だけだったんですが、その後、1型2型3型4型5型と細分化が進みました。しかし、どんなに細分化が進んでも1型に属するもの、それは日本列島とインディオしかいないということがわかってきたわけです。最近、田島さんは遺伝子の研究をなさいましたが、遺伝子から見ても結論は変わらなかったわけです。ここまでくれば、疑う方が野暮というもんですよね。
ということになってまいりますと、メガーズさんたちの研究を突拍子もないものとして排除することは、不可能になってきたわけです。アメリカには、特別な拒否反応がございまして、まあベーリング海峡を渡ってきたのならしょうがないけれども、コロンブス以前にモンゴロイドが太平洋を渡ったという事実を認めたがらないわけです。白人より先に黄色人種である日本人が海を渡ったなんてことにたいして非常な反発があるわけです。しかし、遺伝子の研究から、そうした反発ができなくなったわけです。
ついでに申しておけば、このウイルスは遺伝ではない。母乳からの感染である。従ってこの病気を防ぐ方法は、母乳を使わずに牛乳で育てればいいということがわかってまいりました。
7 火山の証明
更にドラマチックな証明が成立してきました。それは、何かと申しますと火山であったわけです。確か、1995年だったと思いますが、エバンズ博士はすでにお亡くなりになっていたので、メガーズ博士だけを日本にお呼びしました。そのとき、足摺岬ですとかにお連れしたり、国会の隣の記念館とかで講演をお願いしたりしたんですが、ホテル東急の喫茶室の一室で、メガーズさんから火山のことについて調べてくれないか、とお話がありました。幸いなことに火山学者である都立大学の町田洋さんを存じていたので、町田さんをお訪ねして火山のことについて話をお聞きしました。その結果驚くべきことが明らかになってきたわけです。
と申しますのは、従来日本の学者がエバンズ説を認めていない根拠があったわけです。それは皆さんご存じだとおもいますが、慶応大学の名誉教授になっておられます江坂輝彌さんという、縄文の神様と呼ばれる学者、その人の書いたエッセイに「エバンズ博士の夢」(1977)という文章があったわけです。
それによれば、エバンズ説は全く成立できない、何故ならばエバンズ博士の報告書を見ると九州の熊本県を中心とする有明海沿岸ですね、そこの曽畑式・阿高式・出水式土器としか似ていない。鹿児島県のほとんどの土器とは似ていないわけです。メガーズさんも似ている土器には入れていないわけです。
そうするともし漂流して太平洋を渡ったというならば、どうして有明海の人間だけが渡ったのか、鹿児島県の人間は何故渡らなかったのか、全く説明がつかないではないか。この点をもってしても、類似しているとか何とか言っているけれども、縄文の伝播ではありえない。エバンズ博士の報告書は所詮壮大な夢に過ぎない。そういう内容だったわけです。非常に当を得た指摘ですよね。わたしなども、なるほどと思いました。むろん、他の縄文学者もそれを読んでいましたから江坂さんの言われるとおりだ、と思っていたのでしょう。ところが、それが大逆転劇を演じることになったわけです。
と申しますのは6600年前に、硫黄島という鹿児島と奄美大島との間にある島で、鬼界ケ島とも呼ばれていますが、大爆発を起こし、西日本全体が火山灰に覆われたわけです。その時鹿児島県・宮崎県はほぼ全滅するわけです。ところが、熊本県有明海沿岸は、半死半生地帯であり、メガーズ博士が指摘するバルディビアと共通の縄文土器はまさにこの半死半生地帯だったわけです。鹿児島県の土器はひとつもなかったわけです。
メガーズ博士がもうひとつ共通の土器として指摘していた神奈川県三浦市の諸磯式土器や東京都の大森式土器についても同じことが言えます。この場合は箱根の大爆発、もともと箱根は富士山のような山だったのですが、6000年ほど前に大爆発を起こしました。その時の半死反半生地帯がまさに三浦市の諸磯地区や大森であったわけです。これは驚きでしたね。
火山というデータを入れると見事に説明がつくわけです。九州の場合、5500年ほど前に開聞岳が爆発して池田カルデラができるわけですね。エクアドルへの伝播の影響はこの時の爆発だと考えられますがいずれにしても江坂さんの疑問は、一転してエバンズ・メガーズ説を裏書きする江坂解説になったわけです。
ですからこれから反論しようとする学者は寄生虫問題やウイルス・遺伝子問題ばかりではなく、火山問題まで視野に入れないといけないわけですね。江坂さんのような素朴な段階の反論は成立しえなくなったわけです。以上が現在の状況でして、エバンズ・メガーズ説は、40年前の発表時点にくらべて断然たる強みを持ってきたということが言えます。
(注)写真・図は「日本人はるかな旅A巨大噴火に消えた黒潮の民」(日本放送出版協会)参照
8 アメリカの考古学会
さて、次はメガーズ博士からお聞きした面白い話というか、面白くない話というか、それをお話いたしましょう。3月初旬にスミソニアンに行って、土器の写真を撮ってきましたが、そのとき飯塚文枝さんという東京出身の方に通訳をしていただきました。メガーズさんを継ぐ研究者としてわたしは大きな期待を抱いているのですが、その方のために大変助かりました。メガーズさんも大変喜んでいました。
その方の通訳で面白い、いや面白くないお話を伺ったわけですが、それは最近のアメリカの考古学会の反応についてお聞きしたわけです。ある考古学者がメガーズ博士に批判の論文を書いたわけですが、それを読むとお亡くなりになったエバンズ博士はお亡くなりになる前に自説を放棄していたと書かれていたそうです。にもかかわらずメガーズ博士は、ご主人が捨てた説をわざわざ持ち出している、と。
わたしはこれを聞いて不思議に思ったわけです。奥さんのメガーズさんが亡くなっていれば、死人に口なしですから、そういう攻撃もできるわけですが、本人を前にして、どうしてそんなことを言うのか。そんなことを言って何になるんだろう。もちろん、メガーズ博士は、あきれた顔をして、そんなことはとんでもありませんとわたしにはお答えになるわけです。わたしもエバンズさんとは非常に親しくお付き合いしていた、沢山の文通を交わしているわけです。
わたしに一番わかりやすい手紙をくれたのは日米を含めて、他でもないエバンズ博士なわけです。英文で書かれていますが、単語など少々わからなくとも、エバンズさんの手紙は読んですぐわかる。ところが、日本の学者がよこした手紙は、何が書いてあるかわからんのですわ。日本語はわかるんですがね、この人がこう書いているのは何をこちらに言おうとしているのだろうか、と色々にとれるんですよね。ですから、読んでいて草臥れるんですよ。わからないように書いてあるから。ところが、エバンズさんの手紙はすぐにわかってしまう。
これは学問に対する理解の仕方がわたしと共通だからでしょうね。だから英語力であるとか教養の違いであるとかを飛び越えてですね、理解しあえるのではないかと思うんです。その意味で本当の友人であったわけです。だから、生前どうしてもお会いしておくべきだったのに、それが果たせませんでした。それを今でもわたしは悔やんでおります。
そのように非常に親しくお付き合いしておりましたが、自説を放棄したなどということは全然言っておられなかったわけです。いつも、縄文伝播の話題しかしていなかったわけです。
例えば5日目に届いたという最初の手紙では、土偶の写真を同封されてきまして、これと同じものは日本で出土しないかとご質問してこられました。わたしは、これは日本では出土しませんが、日本人好みの顔ですとお答えしました。日本人に似た土偶ですとお答えしたのを覚えております。偶然ですが、この土偶は飯塚文枝さんとよく似ていますね。
はっきり言えば、これは縄文のそっくりさんではないわけです。しかし、縄文と関係ないかと言えば無関係とは思えないわけです。ましてや、ウイルスが同じ、寄生虫が同じとなれば、古代日本人が南米へ行って独自の文化を築いたとしか考えられない。その独自な文明のひとつがこの土偶であるわけです。
日本の学者は、これとそっくり同じものがないからこれは縄文ではない、そう否定するわけですが、気持ちはわかりますが、もうそういう論法では否定できないわけです。
同志社大学の森浩一さんなどは、土器などは、最初はみんな同じものですよと言って、わたしに南米土器の研究をやめさせようとして何度もそう助言してくれましたが、そういうレベルの時代は終わったわけです。遺伝子や寄生虫や火山の問題は当時はなかったわけです。ですから、無関係などとはもはや誰も言えなくなったわけです。
それが現在の学問的な状況であるわけです。では、相手の学者は、何故メガーズ博士に対してそのようなことを言ってくるのか。わたしはアメリカからの帰りがけに考えたんです。相手はメガーズ博士の反論は織り込み済みなわけです。夫はそんなことを言った覚えはございません、そう答えることは織り込み済みなわけです。
では、織り込み済みで何故そのようなことを言ったか、その再反論の手口は何かと言いますと、本人の妻の証言は信用できない、これです。皆さんもテレビなどでよくご存じの、裁判の論法ですよね、それなんですよ。ワシントンDCという街は、弁護士の街でして石を投げると弁護士に当たると言われているぐらいなんですね。
つまり、相手の学者は学問の世界に裁判の論法を持ち込んでいるわけです。メガーズさんもそのことはわかるわけですから、相手にしないわけです。わたしはそう考えて、アメリカもここまで堕落したかと痛感いたしました。ここからは、わたしの推測ですが、メガーズさんを批判した学者には、背後にボスがいるんじゃないかと思われます。ベーリング海峡説に固執している定説派のボスがいて、弟子の学者にそういうえげつない攻撃をさせているんじゃないでしょうか。そういう状況をアメリカで垣間見たわけです。
9 日本の状況
日本の場合も、まあひどいんですが、名前を出しても、名誉毀損とかにはならんと思うので出しますが、国立民族歴史研究所の館長をされていた佐原真さん。まあ、色々な面ですぐれた学者だとは思いますが、亡くなられる直前にとんでもない文章を書かれています。
それは「エバンズ・メガーズ説は捏造である。」という書き方での批判なんですね。夢であるというのではなく、捏造である。これは学者としての最大限の非難ですよね。しかも、この方は、日本最大の国立博物館の館長でしょう。それが世界最大の博物館が誇る報告書を書いた学者に対して「捏造」という言葉を投げつけるわけですから、わたしはあっけにとられました。
しかも、その佐原論文には何にもないんですから。自分が京都大学の助手をしていた時にエバンズ夫妻が来たので協力してあげたのを利用しているだとか、両者の違いを全く無視しているとか、佐原さんがズーっと昔に書いた文章と同じことを書いていて、ただ捏造という点を強調しているに過ぎないわけです。
(注)佐原批判については「TOKYO古田会NEWS」84号85号参照
これも、わたしは不思議でしょうがないわけです。一昨年という段階では、すでに寄生虫の問題も、ウイルスや遺伝子の問題も、火山の論証も出ているわけです。それをまさか佐原さんが知らないはずはない。それに触れずによくもまあそんなことが言えるのか気が知れないわけです。しかし、今考えて見ると、そういう画期的な学説が出たからこそ捏造説を強調したわけですね。
つまり寄生虫やウイルスの問題は考古学者として反論できないわけじゃないですか。佐原さんが日本の考古学の権威だと言ってみたところで、だから寄生虫の話はウソだとか、遺伝子説はデタラメだとか言えないじゃないですか。だから、藤村さんの捏造事件にこと寄せて、エバンズ説に悪態をついて捏造よばわりをしてみたわけですね。捏造の証拠があるからそう言ったのではなくて、ないから捏造よばわりしてみせた。つまり考古学学界に警告を発したわけなんですね。
自然科学の他の領域が何を言おうとエバンズ・メガーズ説に賛成するなよ、そういう警告を発したわけです。これはお目付役の一言なんですね。なにしろ日本一の国立博物館の館長なわけですから。これは、やっぱりわたしは非常に恥ずかしいことだと思います。
佐原さんが学問的にメガーズ説に反対なら反対で、それはいいわけですよ。非常に簡単なことでメガーズ博士を日本にお呼びして討論すればいいわけですから。あるいは佐原さんがスミソニアンに行って論争すればいいわけです。それが学者として相手を尊重するルールだとおもうわけです。しかもエクアドルへは、日本の調査団は一回も入っていないわけです。エジプトとかメソポタミアとかには、しょっちゅう行ってるじゃないですか。また、縄文と似た土器が出るということであれば、日本の調査団が真っ先に行くべきじゃないですか。
わたしが行った時もフランスの調査団が来ていました。それを日本がやらんのは佐原さん達が恐いからですよ。そういうおとなしさを持っているうちは日本には未来はないと断言していいと思います。
10 重層地名論
きつい話が続きましたので、楽しいお話をいたします。ここから先は、皆さんがまさかと思われる話かと思います。
今後5年ぐらい後に飯塚文枝さんがリードしてエクアドルの調査をするかと思うのですが、その際調査していただきたいことは、エクアドルには日本語地名が残っているのではないかという点です。まさか、と思われるかもしれませんが、わたしもそんなことは夢にも思わなかった。しかし、よく考えてみると裸国・黒歯国というのは日本語ではないか。初めは中国語ではないかと思っていたわけですが、あれは日本人が行った報告を日本人から聞いたわけじゃないですか。
かつて、裁判官をされていた倉田さんという方から『「邪馬台国」はなかった』についてお手紙をいただきました。そこには「もし邪馬台国か邪馬壹国かということを裁判で訴えられたらわたしは邪馬壹国に軍配をあげる。」などと書かれていましたが、その倉田さんが「あなたの意見で反対なのは倭人伝は中国側の表記だとあなたは書いているが、それはおかしい。中国側が壱岐のようなちっぽけな国を一大国と書くはずがないではないか。」そう書かれてきたわけです。その倉田さんの指摘が正しかったわけです。
倭人伝は、倭人が書いて倭人が表記したものを中国側が採用した、そう考えないと理解できない問題が次々と現れてきました。そうしますと今の裸国・黒歯国問題ですが「ら」というのは「うら」の「ら」で海岸を意味する日本語ではないか。それにエクアドル(熱帯という意味)の風土から連想される「裸」という字を当てたわけですね。先ほど土偶の話をしましたが、中には褌をしているものもあるわけですよ。メガーズさんに聞いたら、これは高貴な人物ですということでしたが。それが、褌をしめている。
また「こくし」ですが、これも日本語ではないか。中国の文献に「黒歯国」とあるので最初は中国語だと思っていましたが、それは東北の国なんですね。だから、別国ではないか。何故なら「くし」は「くし」「ちくし」という時の「不可思議な」を意味する日本語ですよ。「こ」は「こじま」「こし」と言う時の接頭語です。その日本語に現地の風俗である「黒歯」という漢字を当てたわけです。だから日本語だと考えられます。
ここからが、まさかなんですが「裸国・黒歯国」というのは中心国名ですよね。そうしますと、その周辺には大字・小字地名があるはずですね。江戸が東京に変わった時に、中心国名である「江戸」は改められました。皆さんご存じのように、これからは天皇の時代であるぞということで「東」の「京」などという変な名前に変えられたじゃないですか。しかし、江戸川も大手門も残っています。権力者ができることは、そのぐらいのことでしかないわけです。大字・小字まで全部変える勤勉な権力者などみたことがない。であるとすれば、エクアドルにも日本語地名が残っている可能性がある。これを、わたしは重層地名論と名付けております。
ひとつの国には様々な民族が様々な歴史・言語を持った民族が住み、その民族の地名を残している。ひとつの国には多数の国の地名が残存している。それを解き明かすのが重層地名学である、そうわたしは名付けたわけです。エクアドルもこの研究対象になるだろう、そう思われます。
以上で前半の話を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。