横浜市 平田 博義
会報八五号に飯岡由紀雄氏が「大国主考」を発表した。大国主の別名葦原醜男の「シコ」は対馬の上対馬泉の「志古島と何か関係」があるのではとし「オオクニヌシはアシハラノシコヲ(芦原に住みついた天国(アマコク・クニ)の『志古・シコ』出身の男)と呼ばれた」「各地の有力者との間に婚姻関係を築くことで、血縁関係の絆を深め領国を拡め「輝くような称号を獲得して行ったとする。
更に会報八六号で「大国主考第二回、意外な接点『志古・?・東?国』」を発展させる。電子辞書の検索から「?・シコ(ヒシコの略)があったことから「中国に朝貢した国で会稽の海上・黒潮ルートであって、東方に位置し『ヒシコ・シコ・?』を貢物と持参し来朝した国と記録された」とし、各種条件から判断し「『ヒシコ・シコ・?』と呼ぶ場合に冠詞のように付けられている『縮緬・チリメン』と関係ある所」は「若狭湾を抱く丹後・丹波地方です」と各種伝承・古墳及び出土物を加えて東?国の位置を設定した。
その上で「天の橋立」は「天(アマ・アメ)と呼ばれた領域の橋(端・ハシ)に立国あるいは建国された地」とする。
これに対し会報八七号で吉田尭躬氏は「東?国丹後半島説への疑問」を出した。
私も同号で「『志古人=東?人』ではない」を発表した。
吉田氏は飯岡説に四つの疑問を提出した上で「東?人の献見の時点はいつか」
二つ目に古田先生が「東?人=銅鐸圏説」を各種論議の中で撤回し、其の後「不定」―とされた「経緯を無視されるのは何故か」
三つ目に「後漢書の東?人の記事は漢書の献見部分を削除している。その削除は『三国志』に姿を消すことにつながる」「この削除をどう考えるか」と理由を問うている。(飯岡氏は、この疑問・質問に未だ答えていない)
私が「志古人=東?人」ではないと考える基本は「?」の字の音の意からである。文字をどう使用したかは文字解釈の基本である。
「?」字の「シコ」は和訓である。つまり日本人が漢字の伝播を受容し、その後特定の字に、日本の生活実態に合わせ独自に使い始めた音と意である。従って、日本以外の漢字圏では通用不能な訓みであり意である。
その和訓の使用開始時期を検討した上で、「後漢書成立時には未だ使われていない」「?」を「シコ」と訓むのは和訓であり、「シコ」を献上した「東?国」説は成立しないと論評した。
これに対し福永晋三氏は、
会報八七号に「『?』字考―東?国比定に関して」
会報八八号に「?倭の興亡、その一」
を発表し飯岡説を支持し論考を加て行った。
会報八七号では、大漢和辞典にある「?海」の語を捉えて論を発展させた。つまり「?海・?人の住む海外の国」とあることから、「?」は淡水魚でなく海魚だと断定する。又、「?冠?縫」から「?がなまずでなく、海魚であるなら冠を作ることのできる種類」を種々の資料・伝承を考究し「サケ」に逢着する。その上で「鮭」について種々論を重ね「?」は「シコ」であり「はるか昔の『シコ』はサケを指していたと推測される」とした。
次に会報八八号で福永氏は、沈約の従軍行に「浮天出?海、束馬渡交河」
の五言詩をあげ、この?海は「東?の海」とする。その上で、論を進め「三国時代にも『東?国』は邪馬壱国と並存していたと考えざるを得ない」とした。その上で「『?』字の解明が、わが国古代史を覆し始めたと筆者はひそかに考えている」と力説する。
更に、サケを「ロシヤ語でケタ」とすることに関連して、気多神社・気多のつく地名を挙げ「東?国=銅鐸圏」として「東?国丹波説は、その銅鐸圏説と重なりを見せ始めた」と、滋賀県守山市伊勢遺跡と銅鐸との係り、銅鐸と鮭との係り、丹波と呉の往来等を各種資料を挙げて力説する。
その上で、「東?国を銅鐸圏を含めて、丹波を中心とする領域に再度比定する次第である」と結論づけている。
福永氏の論文は、豊富な資料の上での論証になっている。それは認める。然し、それは飯岡氏のアシハラノシコヲの「志古→?→東?国」とした「?」字に和訓の「シコ」を見出した事から始まったのである。
前述した通り、和訓は後漢書成立時には無かった。福永氏が記紀の中で神功皇后が釣り上げた魚「年魚」「細鱗魚」が鮎でなく鮭と断定されようと、その部分(鮭は秋ごとに回遊する魚であり、魚体の割には鱗は小さい)は理解は得られよう。
然し、それだからといって「?」字を当時の日本(倭)人は「シコ」或は「サケ」とは訓んでいない。中国に於いても然り。それを「はるか昔の『シコ』はサケを指していた」と「?」は「サケ」と断定するのは無謀のように考えられる。和訓成立時と時代差をかんがえると。
「?冠?縫」の大字源(角川書店)の解がある一方で、アイヌの人が鮭の皮で履物を作る事から「サケ、この魚に逢着した」
又「浮天出?海」から「韻律の制約上、東?の海を詠っていないだけ」とし「東?の海」から?は海魚とし先の「サケ」を詠ったとする事により「?」を「サケ」の証にしている。
総てを「サケ」に持って行こうとしている観は免れない。果してそれでいいのか、疑問のあるところである。
先ず「?海」は?(サケ)の海なのだろうか。「?海」が「東?の海」であるなら、それは「東?人の住む国へ行く海」又は「東?人の居る沿岸」の意ではないか。とするなら「?海」をもって「サケ」の論証とはならない。
又、中国人は「?=サケ=鮭」と理解しようか。
「鮭」は「ふぐ。又は呉の人々が調理した魚菜の総称」。「?」はおおなまず(大字源)である。
例え「サケ」を献上したとしても中国人はこれは「鮭」であり「?」であると理解しようか。ありえないと考えるのが妥当ではないか。
それは、前述したように字義からみても理解されない。
又、魚に関する字を辞典からみても、サケの痕跡すらない。サケに該当する字がない。
東?人が「サケ」を献上したら、それに該当する字がある筈だ。漢字の国である。なければ「舎祁(サケ)」のように音で字をあてよう。仏教受容時に梵名Amitaを「阿弥陀」と音で表記した様に。
これからみても中国の人は「サケ」を知らない。こう断言できる。
「鮭」の和訓は「中古、カセ(うにの古称―注平田)サケ・サバ・ホシイヲ」「中世以降、サケ」(大字源)である。
「?壑(ていかく)おおなまずのすむ深い谷をいう」という語もある。これからみても海魚ではない。
福永氏は「?」字の音は四つあり「テイ・ダイ」の外にシ・ジ」があるから「『?魚』とした場合『しこ』という音とも訓ともつかない読みが現われる。はるか昔の『しこ』はサケを指していたと推測される」とも論じている。
これも「魚」は「語居切」でギョ(漢)ゴ(呉)であり「コ」ではない。魚籃(ビク)雑魚(ザコ)は和訓である。従って、これも無理ではないか。
又、中山太郎氏の「気多神考」のロシヤ語では「ケタは日本語の鮭に相当する」として気多の名を冠した地名・神社を十一挙げている。福永氏は、これから「これらの領域が古代丹波国と思われ、他ならぬ鮭の国、東?国と見ている」とする。
が、これも「ケタ=気多神社」は論拠がない。沿海州が清国領からロシヤ領になったのは一八六〇年である。
それ以前に一七二五―四三年にわたり、ピョートル一世の勅令で、カムチャツカ大探検が行われ、それ以来ロシヤ政府の手で開発が行われた。従ってカムチャツカへの進出は一八世紀であり、沿海州は一九世紀になってからである。
北海道の縄文遺跡からカスピ海近辺の琥珀が発掘され、古代からシベリアルートは存在したであろう。だからといってロシヤ語が通用していたとは考えられない。従って、ロシヤ語の「ケタ」が「気多神社」になったとする説も時代的に合致しない。それを「鮭の国、東?国と見る事はできない。
つまり出発点(飯岡氏の「大国主考」の出発点、和訓のシコ=?)の誤りにあるといったら過言であり失礼であろうか。
そう云った時、当会主催の対馬研究旅行に参加した。
「足にて学ぶ」は古田先生の良く云われる言葉だが、この旅行に参加して対馬を歩いて志古=シコは?ではない。葦原醜男は「シコイワシ」を献上した人ではないと判って来た。
この対馬の神社の祭神に「天狭手寄姫神」が多く見られる。古事記に「次生津島。亦名謂天之狭手依比売」とある事から当然であろう。その外に、目につき、且今迄目にした事のなかった神「胡勒神」が処々に祀られている。志古島のある上対馬町には胡?神社、胡?御子神社がある。何か曰くのありそうな名前の神である。「やなぐいの神」である。
二日目この論の発端となった飯岡氏願望の泉地区の志古島へ渡る。泉湾の入口を塞ぐかのように横たわっている。船頭さんの話では、鹿が海を泳いで往復していたという。島の浜には漂着物が沢山打ち上げられ、今新聞で賑わしているハングル文字の物も多数ある。
この志古島神社の祭神は、
「天狭手寄姫神」と
「胡勒神」である。
これを見た瞬間、志古について解明の糸口を見付けたと感じた。
志古=矢壷=胡勒ではないか。
「矢壷、@矢を挿し込む容器。中世以降は粗製の胡勒の総称、矢篭、尻篭とも。
Aえびら、矢を入れる筒、矢服、矢箙、矢房とも」
「矢服・矢箙、矢を入れるもの。えびら、やなぐい。周礼『中秋献矢箙』」
「胡?、やなぐいに同じ」
「志古」は「ヒシコ」ではない。「志古」は「矢壷」である。
葦原醜男は弓矢の名手であり、それを駆使して、己の領土を拡大し人民を従えた。
対馬の郷土史家が云った。「対馬から海流に乗れば、福岡より出雲は近い」と。「早く行ける」ではなく「近い」である。臨場感溢れる言葉である。
葦原醜男は、志古から海流に乗り、隠岐島の黒曜石を手に入れた。強力な鏃を手にし、弓矢を駆使して出雲の土地を己が物にと活躍した。その何代目かが更に領土を拡張し、大穴牟遅(オオ=大、ナ=土地、ムチ=貴人。広大な領土を所有する貴人)と呼ばれるようになる。
更に後代、北九州から越迄の国土を開き出雲王朝の基礎を築いた王者が大国主である。出雲王朝建国迄の歴史の中で傑出した人物、発展過程の中で名君として後代迄語り継がれた名が、大国主の亦の名である。
記紀が一括して、大国主の亦の名で同一人物のごとく描いた。それは取りも直さず、輝ける出雲王朝発展史の抹殺に他ならない。
因みに、宇都志国玉は最初に祖先を祀った時の神名。八千矛は、宇都志国玉の荒魂(丹馬国司文書)と考えているが如何なものであろうか。
この志古神=矢壷神が胡勒神へ変わって行く。それは、中世以降矢壷は粗製の胡?を指すようになった事が理由の一つである。
胡?について「和名類聚抄」には「周礼注云、箙(音、服、夜奈久比)、唐令用胡?二字」とある。
胡?は公家用、箙は武家用と云う解釈さえ生じ、矢壷が廃れ始めた。地名に志古(矢壷)は残ったが、志古神は胡勒神と変って行った。
亦、九州王朝隆盛と、出雲王朝の没落を見て、葦原醜男(出雲王朝の始祖)の出自を曖昧模糊にする作為か、それとも、九州王朝側の出雲王朝抹殺か、いずれかと考えられる。
志古を、葦原醜男とした飯岡氏の指摘は正しかった。然し時間的経過を無視し、和訓シコ=?に当てたのは誤りと云えよう。
「後漢書」は「会稽海外に東?人あり」で、嘗て「東?人ありという」ではない。
葦原醜男を後漢の時代の人としたのは誤りである。
これは「東?人の献見の時点はいつか」と吉田尭躬氏の質問と連動している。これに答える必要がある。
これが解決されない限り、福永説立論の基礎も危いと云える。 了
千九百年御神期大祭記念講演
「鬼夜に秘められた古代史」
東京都立昭和高等学校主幹
福 永 晋 三
先生
(文責 友野晃一郎)
こんにちは。
大善寺玉垂宮千九百年御神期大祭おめでとうございます。
私と、この玉垂宮との関係から申し述べさせていただきます。
今、紹介を戴きましたとき、皆様からお笑い、失笑がおこりましたけれど、真面目に此処が邪馬台国の都であったということを、日本で初めていっている男であります。
それでは、今日レジメを準備しました。冊子になって全部で八頁です。「鬼夜に秘められた古代史」と題名を打ち直してあります。
私が、この大善寺玉垂宮と初めて結ばれましたのは、その縁は万葉集であります。そのレジメの一頁、頭の方にございます。四二六○番と四二六一番、これがいままで一応有名な歌なんですが、
壬申年之乱平定後歌二首(じんしんねんのらんへいていごのうたにしゅ)
四二六○番 皇者 神尓之座者 赤駒之 腹婆布田為乎 京師跡奈之都(おおきみは かみにしませば あかごまの はらばうたいを みやことなしつ)右一首
大将軍 贈右大臣大伴卿作
(みぎいっしゅ だいしょうぐん ぞううだいじん おおともきょうのさく)
四二六一番 大王者 神尓之座者 水鳥之 須太久 水奴麻乎 皇都常成通
(おおきみは かみにしませば みずとりの すだく
みぬまを みやことなしつ)
作者未詳
(さくしゃ いまだ つまびらかならず)
右件二首天平勝宝四年二月二日聞之即載於茲也
(みぎくだんのにしゅ てんぴょうしょ
うほうよねんにがつふつか
これをきく
すなわち ここにのするなり)
こういった歌が確実に万葉集のこの番号のところに出ています。 私が別にでっちあげた訳ではありません。このとおりであります。 そこに書いてありますように問題は四二六一番。先ほど一番最初に話された古賀先生がおっしゃられたように、この士地が水沼であると。昔は水や沼が非常に多かった土地でありましたが、四十代の終わりになってようやくこれに気づきました。
そこで、なぜ今まで気づかなかったかというと、いわゆるこの万葉集の題詞がありますが、この歌のつくられた事情が書いてあるところですね。「壬申の乱の後」だと書いてありますね。これがいんちきだったんです。だから騙されてきた。
皆さんもう一回見てください。四二六一番を。大王は神でいらっしゃるから、水鳥がたくさん集まっている水奴麻を都となさいましたと、いったのです。そこの「みぬま」の原文をみてください。水に奴隷の奴に麻と書いてある。で、これをその少し左側に書いていますように、どの万葉集でも「みぬま」というところは、皆さんご承知の「水沼」と言う字に直してある。これが万葉集の訓読法(書下し文)なのです。
で、題名のところに壬申の乱以後と書いてあるから、例えばこれは飛鳥の浄御原宮である。藤原京を指すのであると。そこに天皇は都を御造りになったんだよと言う。これで済まされてきたのですよ。万葉集の読まれ始めたのが、大体江戸時代の本居宣長以降ですから、或いは賀茂真淵からですから。
それ以来二十一世紀の今日に至るまで、皆さん誰一人としてこれを疑わなかったのです。多分、天武天皇か持統天皇あたりがお建てになった都だろうと。そこを歌ったものであろうと。
しかし、歌は嘘をつかなかった。みぬまの皇都、これは水沼の皇都である。で、私も少しは日本書紀や古事記を読んでおりましたから、「水奴麻」が若し固有名詞であったとしたら、それはどこにある。それは此処しかないじゃないか。「水奴麻の皇都」、君がいらっしゃる。では、この筑後の三潴に皇都、天皇の都があった。あったと思う外はなかった。此処しか無い。最初の古賀先生がおっしゃったように。
現在の奈良県。大和の地方、あちらの方だと水とか沼とか無いんです。簡単でしょう。盆地に囲まれて、川は飛鳥川しか流れていない。吉野川も流れていますが、大きな沼、こちらほど立派な?水沼は無いのです。最初から乾いた土地なのです。
ところが歌にありますように、このみずだらけの土地、隣の佐賀県に行ってもそうですし、久留米でもそうです。日本の地理でクリークで有名ですよね。水路をつくりまして水はけを良くして土地を乾かして、そこに田んぼなどを作るのです。そんな士地なんです、昔から此処は。
それにたいして奈良県の方は最初から川なんです。乾いた土地に都を造るのは簡単なんです。ところが、この天皇さん、大君さんはこの水だらけの土地の水はけからはじめて、そこに新しい都を造りあげられたのです。 それで確信したのです。これは間違いなく筑後のこちらの土地に、いずれの大君かわかりませんが、大君と呼ばれた方が、ここに都を建てたのだと。一体誰だろう。次の疑問はこれでした。一体、水奴麻に皇都を築かれた方は、何者だろうと。
そういったことで、万葉集というものは、どうも最初の詞書き(題詞)が怪しい、私はそうおもいました。嘘ではないか。万葉集は大体、奈良
時代の頃に作られたと考えておられるかもしれませんが、これもこちらで研究を進めてみますと、これは真面目な話ですよ。新潟大学にいらした山口博さん、今、聖徳大学にいらっしゃいますけれど、この先生が『万葉集形成の謎』という本の中で「今我々が見ている万葉集は、平安時代に、あの天神と言われる菅原道真公が編集されたのではないか。」と。
こういう説が真面目に文学の世界で研究されています。つまり万葉集に詠われた歌の元は、各時代、各時代、皆さん多分信じがたいと思いますが、下手をすれば縄文時代もあって弥生時代もあるし、古墳時代の歌はざらざらと入っている。それをどうんとまとめて現在の形にしたのが、平安時代の菅原道真公であるという説が真面目にあるのです。
問題は、万葉集の次に古今和歌集が平安時代の九○五年に出ましたが、その序文において万葉集は明らかに平城の天子と呼ばれた天子様が、家来に命じて作った和歌集と書いてあります。紀貫之の養子の紀淑望という人が書いております。だから本来は勅撰和歌集の筈であります。ところが文学の世界では今でも勅撰和歌集になっていないのです。古今和歌集では明らかに天子の勅撰和歌集と書いてあるから勅撰和歌集のはずなのです。と言うことは近畿天皇家の
天皇の命令でなかったら、いかなる天子、いかなる天皇が命じて御造りになった歌集なのかということを考えざるを得ないのです。
それで先ほど、光山先生から紹介がありましたように、私の知人の古田武彦という人物が、近畿天皇家の前に八世紀、七世紀の終わりまでは、こちらの九州に都を置いた天子の家柄、例えば、一番有名な「日出づる処の天子」、これはこちら九州の太宰府に都を置いた天子のはずだという。そういう九州王朝論があります。私もこれを支持します。
支持した上で、その古今和歌集に書かれた万葉集の勅を下された天子は何者だろうと。やはり九州に都を置いた天子様であろうと。どうも私の考えるところでは、七世紀、日出づる処の天子、通常は聖徳太子ということになっておりますが、本当は日出づる処の天子の太子時代の名前らしいと言うことですが、奈良時代ではありません。こちら太宰府版の天子です。その天子さんが編集したものが沢山あると言うことです。
ところが、その古今和歌集の序文に、もう一つ前の天子、平城の天子の前の天子が、ある時曲水の宴を開いて家来たちに和歌を詠ませたとあります。その曲水の宴をどこでやったのか、遺跡は出ているのです。お隣の朝妻の所からあきらかに曲水の宴の跡と思われる、少なくとも六世紀以前の遺跡が出ているのです。どう間違ってもあそこは天子か君主か大君かわかりませんが、曲水の宴を開いているのです。あそこで、家来たちが和歌を詠んでいるのです。そのときにもその天子の勅撰和歌集の元の形が、ある時点で出来上がっていたのではないかと言う、大それた考えを今もっているのであります。
だから同時に此処に呼ばれた「水奴麻の大王」が天子と呼ばれたこと を、真面目に追求していったのであります。それは一ページに書いてございます。そこにいろいろなことを書いていますが、水奴麻の皇都は此処であると言うことであります。
二ページをご覧ください。上に表をまとめています。これは中国の正史と呼ばれる歴史書をごくごく簡単にまとめ直したわが国の「国の歴史」です。表の一番最初のところ、国号と私は書いていますが、最初に出ていますのが、委奴国、イヌ国又はイノ国。これは志賀島から出ました博多の博物館に飾ってある金印があります。あの金印は西暦五七年に後漢の光武帝からこの国の使者が貰って 来たという金印で本物だと証明されました。
あの金印は奈良県からは出ませんでした。福岡県からでました。(笑い)皆さん疑っていないではありませんか。(笑い)では、あの王様はどこにいらしたのですか。福岡県でしょう。誰か否定できますか。できませんね。さ、その通常は「漢倭奴国王印」といわれますが、ワではなく委奴国、或いは倭奴(イヌ)国。福岡県の糟屋郡久山町に伊野皇太神宮というのがございますね。あのあたりが本当の委奴国ではないかなあと私は思っております。あそこまでは歩いていきました。あの金印は本当に福岡県からでました。
その次に有名な卑弥呼の話があります。この委奴国に乱が起きまして、三世紀になるころからこの国に邪馬壹国が出来上がったそうです。あまりにも乱が続いたので、平和を求めた人々が、一人の女子を共立してその人を女王としました。それが卑弥呼であります。このことが中国の『三国志』に書かれています。その『三国志』に書かれた元の表記が、その表のBに書いてありますように、原文は「邪馬壹国」で「邪馬台国」ではありません。原文に書いてあるように読むのです。ここから違ってくるのです。
では「邪馬壹国」はどこにあったのか。女王の都する所ということで、もう大体想像はついていますね。最初、「漢委奴国王印」が福岡県からでているのですから、多分、女王卑弥呼の都も福岡にあったのだろうと思っていらっしゃると思います。
次にCにまいります。邪馬臺国とあります。この邪馬臺国と書かれておりますのは、中国で『後漢書』という正史がだされました。先ほどの金印を下賜した「光武帝」が書かれているのが、この『後漢書』です。
変なことに、前漢・新・後漢・魏、それから西晋と続くのですが『三国志』は、晋の時代にできましたが『後漢書』というと、変なことに五世紀にできました。五世紀は、中国では魏晋南北朝といって南と北に分かれました。その南のほうで五世紀に作られたのが『後漢書』なのです。『後漢書』と『三国志』の出来上がりが逆なのです。時代的には後漢が先で三国があとです。ところが出来上がりは『三国志』が先で『後漢書』が後なのです。
その『後漢書』に出てくるのが「邪馬臺国」。ところが皆様方が教わったのは、邪馬壹国などの総てが消されました。単純に邪馬臺国の誤りだとして三世紀も邪馬臺国なのです。五世紀も邪馬臺国になっています。私たちはこれを書いてある通りに正直に三世紀は邪馬壹国、五世紀は邪馬臺国と、このように考えました。
その後、その表に書いておりますように邪馬臺国という表記は『晋書』『宋書』『南斉書』と続きます。そして『隋書』はタイ国、例に書いていますように「?国」となります。それからEのところにきまして『旧唐書』(クトウジョ)と呼ばれる書物のところで、今度は「倭国」という言葉に変わります。
皆さん方が今まで教わってこられたものと違って中国の正史を見る限り、わが国、つまり日本列島にあった国の名前と言うものが、時々変わっているのです。もう一回いきますよ。委奴国・邪馬壹国・邪馬臺国・?国・倭国(イヌ国・ヤマイチ国・ヤマタイ国・タイ国・ワ国)このように書いてあります。
そうしますと何故、国の名がかわるのかと。中国では王朝が変わる と名前が変わります。今言ったように秦・漢・魏・晋・隋・唐とかわっていきます。では、この国も中国の歴史に残るように名前が変わったと言うことは何かあったのか。クーデター、王朝交代があったのではないか。聞いたことは無いでしょう。皆さんの頭のなかには。多分、現在の天皇家が遥か大昔から万世一系できた神聖な家柄でありますからね。それを今まで疑った方はいらっしゃらなかったと思います。
しかし、中国の歴史と照らし合わせるときは、わが国も残念ながら王朝交代があった。しかも、近畿天皇家の前に九州に都を置いたと思われる王家が次々に交代したということが考えられるわけです。そこで私がここに持ってきましたレジメの二ページ下の方です。
@の委奴国(イヌ国)です。私によれば天孫降臨によって成立。出雲王朝から政権を奪取。倭国の創始。漢王朝と国交。神代(ジンダイ)から景行紀に記録か。紀元前五十二年から紀元後三世紀初頭。
この段階を書くと皆さんはこれだけでついていけないと言う方がおられるとおもいます。しかしこの天孫降臨という事件を、人類学の立場から見れば証明されます。そこにある図がそうです。
これは山口県の土井ヶ浜人類学ミュージアムの松下孝幸さんという方が、九州から山口県にかけての弥生の人骨というものを全部サンプルを採りまして調査されたものです。これは、今日カンパを頂きました青い表紙の本がありますね。それをあけていただきますと大腿骨の写真が載っております。
その弥生人骨を綿密に検討していきますと大腿骨の長さが出土した地方によって差がある。出てくる遺跡によって違いがある。山口県と福岡県にまたがるところは、大腿骨が長いのです。大腿骨をモデルにすると身長がわかるわけですが、山口県と福岡県にかけては明らかに長い。佐賀県から長崎県にかけての弥生人骨の大腿骨は短い。つまり長崎・佐賀に住んでいらっしゃる方々のご先祖さんは身長が低い。失礼ですが。福岡県の方はみんな高いのです。
なぜこんなことを言うかといいますと、人類学の松下さん達は佐賀や長崎に住んでいた人々が在来型弥生人であろう。福岡県・山口県に残された弥生人骨は渡来型弥生人である。則ち瓊瓊杵尊によります、天孫降臨という事実はあったのだと思います。クーデター。北からの侵入者であります。くりかえしますが私がデッチあげたのではありません。人類学の先生がお調べになったのですから。そういう事件が本物であるということです。
この渡来型弥生人の中に明らかに久留米が入っているでしょう。勘のいい方はもうお判りになりましたでしょう。ここに千九百年前に入られた神様は、どっちのタイプですか。南から来た人達?朝鮮半島もしくは対馬から渡ってきてここに侵略を果たした人達。それが皆さんの一番最初の神様であると思います。それは西暦一〇三年。
先ほど、光山先生が話しておられましたけれど確かなのです。ですからここのお宮さんは、日本の古代史を根底からひっくり返す力がある。間違いなくあるのですよ。ここに在来型の弥生人を押しのけて渡来型の弥生人が北から筑後川を渡って攻め込んできたのです。私はそのようにかんがえています。
こうやって始まった倭国、委奴国ですが、これが分裂、内乱を起こしまして、それで平和を取り戻すために一人の女子を共立した。それが卑弥呼です。ここで一応王家がゆるやかな形ですが変わるわけですからね。それが有名な「魏志倭人伝」に書かれた邪馬壹国の女王卑弥呼なのです。
その彼女の国が何処に在るのか。もうお判りでしょう。だって委奴国の時に後漢の光武帝から金印を貰ってきて、その金印が福岡県からでたんですから。その国が乱れに乱れて一人の女子を共立して国を建てたというのですから。いわゆる邪馬壹国ですよ。邪馬壹国の都は当然、この同じ渡来型弥生人の人骨の範囲内に在るはずである。これも当然福岡県内にある筈なのです。
私は、もうどこかというピンポイントを探しつつあります。結論だけ言っておきます。田川郡方面の香春町から宇佐八幡にかけたあたりに都はあったとおもいます。その遺跡を今ぼつぼつボウリング調査が行われております。ただ、今でも住みよいところで人が沢山住んでおられますから。香春町の近くに吉野ヶ里にも負けないくらいの大きな環濠集落があります。あるのですが、いまでも人が住んでおられるので発掘ができないのです。香春町の教育委員会に尋ねてごらんなさい。教えてくれるとおもいます。候補地はまだあります。吉野ヶ里以上の環濠集落は田川の方に一つ見つかっております。
さあ次ですね。私が非常におどろきましたのは、次の邪馬臺国ですね。何で邪馬壹国から邪馬臺国と国名が変わるのでしょうか。邪馬壹国と邪馬臺国はよく似ているが違うということがわかってきました。違うということが何でわかってきたかというと、実はこちらですよ。鬼夜ですよ。私は「水奴麻の皇都」は大善寺玉垂宮ではないかと思いこちらまで来ました。一九九九年に光山先生とお会いして、そこで『吉山旧記』というこのお宮さんに伝わる貴重な文書を戴きました。今回も本の中にそれを採っています。三ぺージにございま すね。ここに第六代 葦連。皆さん久留米の方ですからお読みになっておられますね。
@仁徳天皇五十四年に肥前水上桜桃沈倫(ユスラチンリン)発起し、異国へ内通し、悪徒を集め諸所乱妨
A同帝五十五年十二月、勅命に随ひ、藤大臣難波高津宮を出て、同月二十 四日筑後塚崎葦連館に御下着在す。B沈倫御退治の御評議遊ばされ、そのとき葦連云はく、沈倫は三方河池を構え、一方は口なり。我一度攻むるといへども兵卒を討つとも沈倫を見ず、水中をくくると云ふ。今朝賊増兵し勢十倍すと云ふ。
とございます。これを読んだときびっくりしました。
仁徳天皇五十四年というのは日本書紀でいいますと三六〇年代のことなのです。この後結局桜桃沈倫が退治されまして、そこでDに書いてありますように、仁徳天皇五十六年正月七日、鬼夜があるのが正月七日でしょう。残らず退治して最終的に沈倫を討ち取ったという、それが鬼夜のはじまりである。その後筑紫安穏なりと書いてある。筑紫の方から朝廷軍がやってきて、ここに陣どっていた桜桃沈倫を討ち取ったというのです。これが鬼夜の始まりであると いう。私は目の玉をひんむきました。「なんですか、これは」
私は即、光山先生にききました。
「ひょっとして、ここに祀られている鬼面尊神とは桜桃沈倫のことですか」
光山先生は少しも動ぜず、
「多分そうでしょう」
私の頭の中はパニックだったんですよ。『日本書紀』にこのことは書いてありません。筑紫から朝廷軍がやってきた。沈倫を退治した。そしてここにお宮を建てたと。先ほどから言っているクーデター以外の何物でも無いでしょう。下手をすると桜桃沈倫さんの方が、此処のお宮の本当の出身であったんですよ。ところがこの方がひょっとすると邪馬壹国の女王卑弥呼と同じ一族らしい。その後邪馬壹国の女王と同じ一族らしい人を、神功さんがやってきて退治して、いわゆる熊襲退治です。それがどうも西暦のここに書いてある仁徳天皇代の三六九年のことです。多分このあたりで皆さんはもう信じてないでしょうね。でも三六九年ぴったりなんですよ。
今まで日本史の教科書で習ったことないでしょう。でもこのお宮さんの伝承とは凄いでしょう。三六七年と三六九年と絶対年が書いてあります。このお宮のご先祖の大祝さんが書いているのですよ。エッ、知らないよ、『日本書紀』には書いてないよ、と驚きます。
次が大変なんですよ。皆さんは笑ってばかりですけれど、問題は、明治時代になって、奈良の方から出てきた七支刀という有名な神刀です。七ページ八ページに書いております。八ページの方がいいですね。明治時代に出土した鉄剣に「泰和四年」と刻んであります。文字は文字でも金属に彫り付けた文字ですから間違いなく当時に書かれたものなのです。疑いようもありません。鉄に打ち込んであるのですからその後改訂しようとしても、鉄を溶かしてもう一度打ち直さなくてはだめなわけです。
これが間違いなく本物であるならば泰和四年という年号は動かしようのないものなのです。で、この泰和四年というのは魏晋南北朝の東晋という王朝の年号で、西暦三六九年です。私がつくったのではありません。『吉山旧記』の年号とぴったりなのです。こちらに新しいお宮が造られた三六九年。百済で七支刀が作られた三六九年。なんですか、この一致は。問題はそこにあります。
この七支刀の記事は『日本書紀』にはたった一箇所しかでてきません。「七枝刀」(ななさやのたち)という。七支の支の処に木偏がつきます。これが誰に贈られたのかというと神功皇后の処にでてきます。神功皇后に献上されたとあります。これが西暦三七二年です。(補注)
で、ここでですね、明治時代の歴史の経緯をお話しますけれど、先ほど二人の先生が神功皇后の伝説は暖昧で、実際かどうか判らないというお話がありました。私は二十一世紀になって「いや、これは実在だ。」と。神功皇后こそが日本の古代史を語る上で欠くことのできないキーパーソンである。こういったことを主張しはじめております。
一つには七支刀の証言があり、二つめはこちらの鬼夜に関する『吉山旧記』の証言があります。先ほど縁起絵の説明に在りました神功皇后の三韓征伐の故事が、なぜ描かれているのでしょう。それはこちらの御祭神が前のこちらの御出身の神を倒して、こちらに新しいお宮を築いて玉垂宮の最初の王になったから、それしか考えられなかったからです。で、神功皇后の処に、それは書いてあるとありました。
神功皇后の年代は、『日本書紀』では実は卑弥呼とおなじ年代にスライドされています。だから神功皇后紀の中に卑弥呼が中国に使いを出したという記録が、神功皇后紀の中に分注・割注で入っています。だから日本の歴史学界は今までずっとあったのですが、神功皇后と卑弥呼は同じではないかという説は今でもあるくらいです。
ところが、この七支刀の記事が本物であるかぎり、これはこの七支刀に刻まれた言葉から考えると百二十年、干支(エト)が甲子(キノエネ)から始まって次の甲子まで六十年、その二倍の百二十年、 神功皇后の部分だけ、卑弥呼の記事をそのまま置いて神功皇后の記事を百二十年スライドさせるとピッタリこの三六九年とかさなります。
神功皇后は、四世紀後半に実在しました。クーデターにクーデターを続けて最後まで勝利した偉大な女王であります。卑弥呼さんと全然性格が違うのであります。それがやっと証言できつつあるのです。このお宮に都を構えられた、先ほどでました「水奴麻の皇都」を築かれたあの大王はひょっとすると神功皇后さんだということです。
今度はまたもとの話に戻りましょう。『日本書紀』において一番の不思議は何かご存知ですか。神功皇后なのですよ。神功皇后の摂政として在位した七十年の間には一人の天皇も存在しないのです。『日本書紀』には。
皆さんのなかの古い方はお聞きになっておられるとおり、天皇家は万世一系の筈なんですよ。何で神功皇后七十年間カットなんですか。七十年間、皇后さんしかいないで、次の応神天皇が即位するまで仲哀天皇から応神天皇まで七十年間空白があるのです。その間、神功皇后さんだけです。これがまともな国の歴史ですか。天皇家が歴史を作るのであったら、何天皇でもいい。そこに入れればいいのでしょ。何天皇が何年間いらっしゃった、何天皇が何年いらっしゃった。 だから応神さんにつながるのですよと。ところが神功さんの間、全く空白なんですよ。
今度は『風土記』を追いかけてみます。
例えば、『播磨国風土記』では、神功皇后さんは本名「息長帯比売(オキナガタラシヒメ)」と出てきます。彼女の記事の処、何故か皇后さんのこと忘れ去られたように、皇后と呼ばずに「息長帯比売」を「天皇(スメラミコト)」と呼んでいます。天皇なのです。風土記が本物であればです。先ほど、お腹に応神さんがいて、産み月にあたって新羅を攻めてくるというので、帰ってくるまで生まれんでおってくれという話がありましたね。あれも「風土記」を追いかけますと、そんな神秘がかった話ではありません。
一番古いといわれる「西海風土記」によりますと、本の中では、よう やくにしてお腹の中で動き始めた、とかいてあります。私が病気で 入院しているとき看護婦さんに尋ね
ますと、動き始めるのは五ヶ月 くらいですよと。帰ってくるまで生まれんでくれというような馬鹿 なはなしではないのです。神功皇后は五ヶ月の身重の身で渡海され たのです。これはやはり立派な歴史的事実なのです。
そのとき福岡県二丈町の鎮懐石八幡宮(糸島郡二丈町深江)に寄られてそこの石で新たに安産を祈願された。それが鎮懐石。そこに空閑さんという宮司さんがいらっしゃるのですが、その八幡宮のところに社務所をかまえておられるのですが、そのお庭に浄化槽を掘られたのですが、出たのですよ。数十個の丸い白い石がどっとでてきたのですよ。当時の西日本新聞でしたか鎮懐石だと紹介されています。私は平成十二年にそこに行きました。空閑宮司さんとお会いしましたが、庭先に丸い石がゴロゴロと転がっているものですから、あれは何ですかと、聞きましたところ多分鎮懐石ではないですかと、何気なくおっしゃるので、貰えますかと言ってあっさり貰ってきました。だから昔からあれは子安石ですね。安産を願う石なのです。それが判り ました。大きさも「風土記」に書いてあるようにピッタリの寸法です。 重さまでピッタリです。あれも事実です。この石を腰のところには さんだとありますが、そんな大きな石はお腹をさすったんだそうです。 もっと小さな石を腰のひもにはさんで、そこでひもを強く引っ張るらしいのです。これもまたご婦人に尋ねました。なぜそんなことをするのだろう。あれは安産を願った岩田帯の帯しめの儀式がありますが、それはお腹の子がさがらないようにしめあげます。それと同じではないかと聞かされまして鎮懐石と裳裾にはさむ石とは違うものであることがわかってきました。いよいよもって神功皇后さんは神ではないのです。普通の母親であり、応神も普通のお子さん
であるのです。
ところが戦争中不幸なことがありました。早稲田大学の津田左右吉さんという方が、戦争中に、神功皇后は架空だと。その子供の応神天皇は実在だという説を書いたのです。これが戦後の主流になった。皆さん信じられますか。私に母がいます。私は実在です。母は架空です。(笑い)これが歴史学の世界で真面目にいわれているのです。
こうして神功皇后を勝手に葬ったのです。だんだん見えてきたでしょう。なぜ神功皇后を架空にしなければならないか。実はこの福岡県の神功皇后の伝承地と言うのは冗談抜きに五万とあります。私はその遺跡をまわってきました。現地の方々は全部神功皇后さまの実在を信用されています。神功皇后さまの腰掛けられた石を大切に守っておられる地元の方がおられます。頭の下がる思いです。福岡県の人は神功皇后を架空の人だなどと信じてはいませんよ。ど こに行っても。
なぜ架空にしなければならないか。それは神功皇后さまが、こちらの天皇だからです。近畿天皇家の天皇ではないからです。具合がわるいのです。これを架空にしてしまえば大和の天皇家は古来からずっと今日まで百二十五代、万世一系の家柄になるのです。だからここは隠すのです。その『日本書紀』のイデオロギーが全国に伝わって、ここ玉垂宮にもそれがおよんだために、こちらのご祭神から神功皇后さまが消されていったのです。私はこの復権を二十一世紀にかけている訳です。
さあ、神功皇后の年表です。下が『日本書紀』、上が『吉山旧記』の表です。この年号を対照しますと、先ほど言った七支刀の証言からいって神功皇后紀を百二十年こちらにずらしますと『吉山旧記』とこれほどにね。事跡がピッタリと対応するのです。亡くなられた年までほとんどおなじです。神功皇后紀を百二十年ずらしますと、三八九年の四月に崩御ということになります。こちらの『吉山旧記』の方は三九〇年三月崩御とかいてあります。一年だけずれるのですが、ほとんど同じと考えますと、この記事はでたらめではないと。
そこでもう一つ証拠を申し上げますと、筑後の平定なんですね。神功皇后さんは香椎を出発されて先ず甘木の方へいかれました。羽白熊鷲(ハシロクマワシ)という熊襲を退治されます。これをお聞きになったことはございますね。三奈宜神社とございますけれど、場所は佐田川のほとり層増岐野(ソソキノ)、熊襲を退治したので吾が心安しと神功皇后がおっしゃったのでそこを安と名づけたというのですね。今の夜須です。その羽白熊鷲を退治した後に、『日本書紀』ではいきなりこんどは女山(ゾヤマ)にまいります。田油津媛(タブラツヒメ)を退治したというのです。これもお聞きになったことはございますね。ところがこの羽白熊鷲から田油津媛の間がポッカリと抜けているのです。
ここの事件が抜けていた。ここが最大の激戦地なのです。それが『日本書紀』ではすっぽりと抜けている。だから本当に神功皇后さんが筑後を平定したというのであったら、ここの『吉山旧記』の記事が無かったら『日本書紀』は完成していない。当時の近畿天皇家がその記事を取り上げて神功皇后の都がここにあったとなったらまずいから、失礼な言い方になりますが、ここの鬼面尊神さんを倒したと言う事件、桜桃沈倫を倒したという事件が『日本書紀』から完全にカットされたのであります。『吉山旧記』の方がどう考えても圧倒的に正しいのです。
さ、それでは鬼面尊神さんの話に戻りましょう。
こちらのお宮さんがなんで千九百年御神期大祭なのかということなんですが、こちらの土地は現在、筑後とよばれておりますが、「肥前国風土記」にですね。その他の書物、高良大社、隈家文書などいろいろな文書をできる限り引きまして久留米市史などいろいろな書物をみました。そうしますとこの国は「肥前国風土記」では、肥前の国々の地名というのは高良の行宮(カリミヤ)にいらした景行天皇が肥前の国を誅伐する形のなかで、肥前の地名、あちこちがついたということになっています。変でしょう。肥前の土地ではないのですよ。こちらの高良の行宮から出発して、あちこち回っているうちに肥前の地名が全部ついたとあるのですよ。私は単純な人間ですから、では、高良も肥前かと。えらく単純でしょう。でも力強いですね。こちらは肥前だったのです。相当な古代は。そして筑後が肥前だったとしますと後に肥前と肥後に何時の時代かわかりませんが分かれていくわけですが、この筑後も肥前だったとしますと、肥前の国と肥後の国というのは間に海をはさんでいればですが、ここも肥前だったとすると見事に肥の国は陸続きであったということがわかります。
しかも中心地はここです。皆さんの中にも対岸の佐賀県と文化はそう違わないと思っていらっしゃるかたいますね。この玉垂宮さんのあちこちの分社というのは全部集めてみますと、佐賀県の方が福岡県より圧倒的に多いのです。これが邪馬臺国の首都圏ですよ。そういうところに玉垂宮があちこちにあるわけで、このことは間違いないと思います。ここはかつて一国であったと思います。桜桃沈倫さんに「肥前の水上桜桃沈倫」とかいてあるのですよ。『吉山旧記』は非常に正しいのですが、残念ながら先ほど言いましたように、邪馬壹国の女王の血を引いたか何かして、この火の君さまは東の方からや ってきたと思われます神功皇后さまに滅ぼされて新しい王朝が始まった。それが三六九年であると。
ところが、私が感激しましたのは、鬼夜のお祭り見さしてもらいました。そうしますと鬼面尊神さんがですよ、大松明が、本堂の向こう側に回って、暗くなった鬼堂から出てこられて七回半回られるではありませんか、赤熊(シャグマ)に囲まれて。又全部火が消えたとき川におりて禊なさるではありませんか。あれは鬼世の復活ですよね。光山先生に最初にお会いしたときに、一言、いわれました。「ここの鬼は良か鬼です。」力強かったですね。五穀豊穣の神様でしょう。今日は田植え神事(御田祭)鬼夜の時は種まき神事。前回、鬼夜を見に来たとき、この種蒔き神事が重要だからちゃんと見ていってくれ、ビデオに撮っておいてくれといわれ、私はビデオにちゃんと撮って帰りました。
それから考えても、この鬼面尊神という神様は弥生時代にこの土地に稲作をもたらした神様でしょう。だから五穀豊穣の神様でしょう。皆さんの五穀豊穣の願いをきき届けてくださる非常に重要な神様ですね。その神様が入られたのが一〇三年、でたらめではないと思いますよ。正しいと思います。
大事なことは、御祭神が神功皇后であるにもかかわらず、皆様方、ここの領民に恩恵をもたらしてくださったであろう火の君、鬼面尊神さんの方を真の主神として千九百年間もみてこられたことに私は頭がさがります。日本の正史は『日本書紀』ですよ。その『日本書紀』と百八十度異なる歴史を誰がここまで守ってこられますか。日本全国回っていますけど、このお宮さまほどに守り伝えるお宮さんてありませんでしたよ。私、光山先生のお手紙で千九百年御神期大祭を平成十五年にやりますよというお手紙、まだとっています。額に入れて飾ってあります。本当に頭をたたかれた思いでした。何っ。千九百年御神期大祭、一体ここの神さんとは何者だろうか。私は四年間これだけ悩んできました。この本をかくまでは。(笑い)本当に苦労しましたよ。でも間違いありません。皆さんたちが何故この日本三大火祭 りである鬼夜を、あれだけ長い間隠しとおしてこられたか。それは今の時代だからやっと出せるのです。大阪万博に。
それまで長い間、皆さんが守ってこられた伝承の中に私は「秘められた古代史」を発見したのです。だから私は冗談抜きで真剣に考えています。ここは神功皇后さんがはじめた邪馬臺国の都です。この後いわゆる倭の五王、讃・珍・済・興・武、その後に磐井も続きます。みんなこの地の王さまです。その墓も隣にあります。あの中の何基かは五王のうちのどなたかが眠っていらっしゃる筈です。権現塚、南のほうへいけば筑紫の君、磐井とかそういうお墓がありますよね。こちらに当然五王の墓があってもおかしくないのです。
最初に古賀さんがおっしゃった水沼の君と呼ばれる人が、有明海を渡って呉の国まで使いをだしたというのでしょう。文物がながれてきたというのでしょ。考古学的に確かめられたのでしょ。水沼の君というのはそのまま私にいわせれば倭の五王であり邪馬臺国の王ですよ。わが国の名前は水奴麻の君ですよ。筑紫の君の前の君ですよ。大王ですよ。だから一番最初の歌は重要なんです。「大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久 水奴麻乎 皇都常成都」。間違いなくここが水沼の皇都だという訳です。皆さん宣伝してください。私の仮説を。
邪馬臺国の都です。近畿天皇家の前の。さっき言いましたでしょ。邪馬壹国の皇都は遠賀川流域の方です。そこから神功皇后はとにかく福岡県にいた熊襲とよばれる人々を徹底的に退治していったわけですが、その熊襲とよばれる人は外でもない、実は邪馬壹国の王族であったということです。敗れ去ったからこそ、ひどいことに鬼と呼ばれただけのことです。鬼というのはもともと中国で鬼神という言葉があります。神と同じ意味だったのです。皆さん方は角を生やして虎のふんどしをはいている姿を想像されては困ります。鬼とはかつての権力者であります。敗れ去ったから鬼と貶められただけです。皆さんご存知でしょう。卑弥呼がどんな宗教をやっていたか。「鬼道」ですよ。こちらの鬼面尊神さんはやっぱり邪馬壹国の卑弥呼と連なる性質を持っていらっしゃるということです。
時間がせまりましたので、少しずつ足りない処を付け足しておきます。七支刀はお判りいただきましたでしょうね。
先ほど神功皇后の崩御の年号が書いてありましたね。三九〇年、こちらの『吉山旧記』では。その翌年の三九一年ですけど、歴史的世界史的に有名なモニュメントがあります。高句麗の好太王碑です。そこに辛卯(シンボウ)の年に倭が攻めてきたという文句が刻んでありまして、あの辛卯の年が、実は三九一年です。それは私の方の説でいきますと倭王讃、日本側で応神天皇が高句麗にこの地から攻めて行った。多分博多湾あたりから出発だったと思います。そうしますとその神功皇后或いは応神天皇、これはいわゆる八幡さんと言われると思いますが、八幡さんは武家の神ですよね。だって神功皇后さん見てください。あの若い身空で十七歳そこらから、お腹の中に子を抱えてあちこち転戦して、ずっと勝ちつづけて全部勝ち抜いてものすごい女帝です。普通ですとそれだけ戦っているとストレスに耐えられるわけはありません。流産してしまうかもわかりませんね。ところが、それを押しのけてあれだけのことをやってしまわれたから、後の人は神功、神様と書いたのです。先ほど雄略天皇の話がありましたけれど、皆さん『日本書紀』をお持ちでしたら帰ってごらんになってください。神功皇后が三韓に渡ろうとしたときにひとつ文句が書いてありまして、そこに三韓に攻め入る事を大いなる計りごと、「雄略」と書いてある。私はひとつ疑問に思っていることは、神功皇后さんの諡はひょっとしてあの人本当は雄略天皇ではないかな。これもでっちあげではありません。『日本書紀』にちゃんと「雄略」という文句が神功皇后紀に書いてありますから確かめてみてください。神功皇后さんの名前と別に皇后としては「神功」さんでしょうが天皇さんの名前は「雄略」だったのではないかと。応神さんと仁徳さんは同一の天皇の違う諡ではないかというのは、日本の歴史学界にありますが、私は仁徳さんはひょっとすると、倭王讃のことかなーと考えています。
もうひとつ大事なことですが八ページ、ここに神功さんの中国側に示した名前がある。七支刀の裏の一行目一番下です。「倭王旨」と。日本の歴史学界もようやくこれを認めてき始めました。昔はこれを「むね」とよんでいました。今は「わおうし」で、「旨」は固有名詞だというのです。その後に倭の五王の讃.珍.済.興.武が続くのです。
こちらの高良大社の家系図のなかにも磐井の処に「ケン」賢いという字で一宇名があります。中国名がそういった意味で、我々はすでに神功皇后さんの名は「旨」であったとして、倭の五王があってそれから磐井の「賢」があったとすると結構中国風の一字名が金石文を含めると日中に今のところ七つあるわけです。
間違いなく九州のこのあたりを中心としていらっしゃった王さま達に中国風の一宇名の名前が、合計七つ出ている。七支刀を含めてこの土地にはそういった神さま達のいろいろな物が残されていると思います。その他にも多多ありますが、間もなく(踊りの)大きな音が始まるそうなので、一つだけ覚えておいてください。
こちらの鬼面尊神さん、間違いなく西暦一〇三年、このお宮に入られたのは、肥前風土記にいうところの、多分「火の君健緒組(たけをくみ)」ではないかとわたしは固有名詞まであげております。(本の紹介)
これで終わります。有難うございました。
(補注)
講演会では、話しそびれましたが、瀬高町大神にある「こうやの宮」に、七支刀を肩に置いた百済官人の彩色された木像が安置してあります。他にも「水沼の大王」と思しき人物の木像、水天宮の神(すなわち河童)らしき人物の木像など、計五体の木像が祀られています。
当初、「水沼の皇都」にまします「神功天皇(倭王旨)」に、七支刀は献上されたようです。
編集部注
・本講演録は「大善寺玉垂宮および鬼夜保存会会長光山利雄氏」より「転載許可」を頂いたものです。
・参考文献:新古代学第五集「新・九州王朝の論理」―――福永晋三