熟田津論争について
― 東京古田会の見解 ―
会長 藤沢 徹
古田史学会報53号、55号において古賀達也氏は「学問の方法と倫理HI熟田津論争によせて」として、東京古田会ニュース掲載の論文に批判を加えておられる。
ところが、東京古田会の会員の大多数は「古田史学会報」或は「多元」を読んでいないので、推移が分らぬまま反論に感情的表現が使われることに違和感と不信感を持っている。
そこで、逐次論文の推移を整理してみたいと思う。
@ 万葉集の「八番歌、額田王の歌「熟田津」について「伊予」という呪縛を解いた最初の論文は、
平成十一年九月発行東京古田会ニュース(以下古田会報と略す)69号掲載「新北が津であった時、平松幸一」である。
― 熟田津を福岡県鞍手郡新北に比定、記紀のヤマト・アスカは豊前とし、鏡王の娘額田王の戦勝祈願朗詠
A 平成十一年十一月発行古田会報70号「万葉の面影《額田王》、福永伸子」
― 遠賀湾・福岡県鞍手郡新北 に比定
「万葉の軌跡プロローグ福永晋三」
― 読み手は筑紫国造鞍橋君(くらじのきみ)
B 平成十二年二月発行多元35号
「丁亥の吉野、白村江の軍事史
の出発点、古田武彦」
― 有明海の周辺に船団集結と判断
参考・平成十二年二月二十七日多元臨時講演会で同内容(報告多元36号)
平成十二年五月十四日東京古田会講演会で同内容(報告古田会報73号)
C 平成十二年三月発行古田会報72号「続・新北が津であった時、平松幸一」
― 遠賀湾倭国王朝説を補強
D 平成十二年四月発行多元36号『「にきたつ」考、下山昌孝』
― 白村江出発地・佐賀県諸富町新北説を発表
E 平成十二年五月発行古田会報73号
「『日本紀』と万葉集の齟齬―倭国史再発見の契機―、福永晋三」
― この中の「熟田津考」で遠賀川新北を改めて比定、卑弥呼の船出の歌で男の額田王が歌ったとした
F 平成十二年八月発行多元38号「にぎたつ考2、下山昌孝」
― 前説の補強
G 平成十二年九月発行古田会報75号「古代の霧晴れて―国譲りと国戻し、福永晋三」
― 鞍手町新北は神功皇后渡海軍の編成地
H 平成十三年三月発行「新・古代学第五集」「新北が津であった時、平松幸一」
I 平成十三年四月発行多元42号「古代の佐賀平野と有明海、下山昌孝」
平成十三年六月発行古田史学会報bS4,多元42号の転載
J 平成十四年七月発行「新・古代学第六集」「万葉の軌跡U、福永晋三」
― 神功皇后船出の歌
― 実地調査により自説の補強
K 平成十四年十二月古田史学会報bT3「万葉八番歌、力石巌」
― 佐賀県諸富町新北説
「学問の方法と倫理H熟田津論争によせて、― 福永・平松論稿を検証する、古賀達也」
― 下山説を支持
L 平成十五年一月古田会報89号
「熟田津論争について―古田史学会報の熟田津論簡約、福永晋三」
― 古賀批判への反論
「熟田津論争に寄せて、平松幸一」
「『新北』論争へのコメント、高見大地」
― 地形学的観察
M 平成十五年四月発行古田史学会報bT5「学問の方法と倫理I再び熟田津論争によせて、古賀達也」
― 福永・平松論文批判
以上である。
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これらの説はすべて未完成の仮説と考える。どう論証を組み立てるかが研究者の力である。論争は論証の欠点を補ってより説得的な仮説に昇華するだろう。
他会の会報の内容について批判はしたくないが、「小学生でもわかる理屈だ」などと挑発されると、凡夫は感情的な反発をしたくなるものだ。もう少し冷静にならなくてはいけないのではないか。
「基本論証の欠落」は近畿天皇家一元説に立つ記紀において甚だしいが、その中にも幾ばくかの真実が含まれているのでないか。
建設的な意見の交換は大賛成である。
なお、当会会報90号で、平田博義副会長が『「古田史学会報lワ三」へ寄せて』とある意見は当会の考えを代表しているものである。
―「新北」論争へのコメント ―
高見 大地
前回1)、新旧の1:25000地形図を利用して、新延から新北に至る水田地帯の標高について考察したが、今回は潮の遡行について取上げる。
3.新北に潮が遡ったか
「続風土記云、寛永5年、遠賀川は葦屋浦より、潮さし入り、垣生中間に至る二里半とぞ、本川の西に鞍手郡新北村より来る川あり、西川と名つく、是も汐満つれば葦屋より泝る」について、古賀氏2)は新北まで潮が遡るということに疑問を呈しておられる。この疑問は、根本的には「新北」が「垣生中間」より河口からさらに2kmも遠方にあることではないか。
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3.1
川と地形図
川には、「源流から河口までその川床が徐々に低くなっている」という素朴なイメージがある。
川床の変化の度合いは川によって異なる。図1は国土交通省の作成した現在の遠賀川の源流から河口までの縦断勾配模式図である。この例のように川は大局的にはそのようなイメージを充たしているが、局地的には、そのようなイメージが必ずしもあてはまらない場合がある。例えば、図1では、河口から10km地点の方が5km地点より低くなっている。
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この辺りの事情を、図2の模式図を使って考えてみよう。今、A−>B−>C−>D−>Eと川が流れ下っているとき、途中にCという凹地があったとする(図2(a)の断面図参照)。A−>B−>Cと流れてきた水はDの方は高いので、たまって浅い池を形成する(図2(b)参照)。やがて水が一杯になると、D−>Eとさらに下流に流れ下る。この場合、A−>B、D−>Eのような川の部分は川床の勾配も水位も上流が高く、下流が低いというイメージがあてはまる。これに対して、B−>C−>Dの池については川床の高さはB,Dは等しく、Cは低い。水位は一定である。つまり、池をのぞけば、従来の素朴なイメージがそのまま保持されている。
さて、このような池に人工的に堤防を築いて水路を確保し、残りを水田などに変えるとどうなるであろうか。池であったときと同様、堤防内の水路については、川床Cは低く、水位は一定である。このような土地を地図にすると、B−C−Dには池がなくなり、そのかわりにA−BとD−Eをつなぐ水路ができ、その水路脇に堤防が描かれる(図2(c)参照)。ふつう、我々は図2(c)のような地図があると、単純にA、B、C、D、Eの順に川床の高さも水位も下がっていくとみなしてしまうのではないか。実際には下流のDの川床が上流のCより高いのに、Cの方が高いと思い、B、C、Dは同水位であるにもかかわらず、B、C、Dとだんだん下がっていくと思い込む。このように堤防などの人為的な変更が加えられると、自然河川に対する我々が長い間培ってきた素朴な川のイメージが適用できない場合が出てくる。
3.2
遠賀川の改修工事
西川について考える前に、直方市環境基本計画基礎調査報告書3)を参照しながら、江戸時代から現代までの遠賀川の変遷を辿ってみよう。室町時代までの概略は、福永氏が本ニュースの89号に掲載した新北の現地調査4)のところで、水巻町史の推定図(新北付近は含まれていない)をあげておられるのでそれを参照してほしい。さて、秀吉が朝鮮出兵時、ここに船団を集結して渡海したように、16世紀末は三頭(八幡西区)の上流、猪熊(水巻町)付近まで深い入江で、大型の船が自由に出入りできた。17世紀になると、福岡藩は藩政の初期から治水、利水に力をそそぎ、まず慶長17年(1612)には遠賀川の改修工事を発令、翌年着工した。このときの工事は鞍手郡奈良津村(小竹町)から河口にいたる大規模なもので、川の拡張、直線化、築堤、分水を行ったものと推定されている。
元和7年(1621)開始の堀川の掘削による分水工事の中断後は、洪水防止工事は専ら遠賀川の本流で行われた。
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この時まで遠賀川の本流は、垣生村(中間市)から別府村(遠賀町)へと西へ大きく湾曲していた。寛永元年(1624)から遠賀川本流で開始された分水工事で、東側に立屋敷村(水巻町)から河口に至る直線的な水路が新たに開削され、遠賀川下流は東西二流となった。東側が本流となり、旧来の西流の垣生から別府の部分は洪水時の水吐川となった(後に閉鎖)。図3に各時代の工事部分(黒)を示す(この図は報告書3)から転載したものであるが、後に開削した川筋までが同時に描き込まれ、かつ細かい河川の位置は示されていないので少々分かりにくい)。江戸初期には遠賀川は黒く塗りつぶされている西流のみである(図3(a)参照)。
寛永5年工事終了直後で、黒で塗りつぶされた新たに開削された東流(図3(b)参照)のほか、従来までの本流(図3(a)で黒く塗りつぶされている部分)だった西流の両方が存在している。寛保3年(1743)には、本流を古賀村の前で塞ぎ、猪熊から島津につないで直線化し、旧本流は曲川につないで、その河口とした(図3(c)参照)。中断していた堀川運河については宝暦元年(1751)に再開、遠賀川の水を分水して洞海湾に導いた(宝暦12年)。
近代になると、明治39年からの第1期改修工事で、流路の直線化や付替え、川幅の拡張、河口の浚渫、堤外地(堤防の川側)の掘り下げ、その廃土による堤防の強化が行われ、大正6年、一応の完成を見た。また、昭和20年からは第2期改修工事が行われた。このように遠賀川の本流は近世以来、流路、川幅、水深いずれも大幅に変更され現在に至り、さらに現在もなお引き続き改修が進行中である。
3.3
大正・昭和前期の周辺河川の潮の遡上
大正から昭和27年までの1:25000の地形図には、汐入川の記号(下流へ向かう3mm長の矢印と上流へ向かう2mm長の矢印の組合せ)が遠賀川周辺の河川に記入されていて、少なくともこの記号のところまでは、潮の満干に伴い、流れの方向が異なることを示す。遠賀川、西川、戸切川(江戸初期は遠賀川本流だったが、現在は西川支流)の汐入川の記号の位置は、昔の芦屋の浦(芦屋港は、昭和47年発行の地図からは河口に、現在は響灘にある)のはずれにある今の河口堰付近から測定すると、昭和27年までに発行された地形図では、いずれも地図上でおよそ23cmの距離(実距離6km弱)にある。遠賀川は伊左座付近、西川は児島本線鉄橋付近、戸切川は現在の九州高速道路橋の辺りにあたる。同じ地形図「折尾」内の他の川について調べると、昭和27年までは、西端の矢矧川は河口から約13cm(実距離3km強)の国道との交差点に、堀川の上流の金山川については大正期の河口から約12cm(実距離3km)の地点に、汐入川の記号がある。これらの汐入川も昭和47年以降発行の地形図ではすべてなくなっている。洞海湾と遠賀川を結ぶ江川については昭和初期までは河口から約9cm(実距離2.25km)の穴倉付近にあったが、昭和27年には洞海湾の埋め立てが進んで汐入川にはなっていない。以上のように、遠賀川水系では江戸期以後今日まで多数の改修工事をしてきたにもかかわらず、つい最近まで潮が相当奥まで遡ってきていたことが地形図の汐入川の記号から判明した。
3.4 西川における潮の遡上
福永氏の現地調査報告4)によると、西川は、遠賀川とは異なり、昭和初期まで新延、新北が塩田であったなど、汐入川の記号だけから推定されるよりずっと奥まで潮が遡ってきた形跡がある。潮の遡上についてはいろいろなパラメータを考慮しなければならないようである5)が、ここでは新旧の地形図から得られる情報のみに限定する。さて、昭和27年までの地形図には遠賀川と西川に水深の情報が含まれている。堤防の比高を組合せて、西川と遠賀川との遡上の性格の違いを検討してみた。
前回で、三角点、水準点、標高点の値および湿地帯の分布から見て、昭和時代においても上流の鞍手町の水田の方が下流の遠賀町の水田よりやや標高が低いことが分かった。上流の水面と下流の水面を3.1節で説明した理由により等しいものとして、遠賀川および西川の水深から河床高を推定すると、測定点が少ないので局地的な細かい変化は分からないが、大局的には図4のようになっている。すなわち、遠賀川の河底は上流に行くにつれ標高が高くなるが、西川は現在の西川の河口から4km(遠賀川河口から6km付近)まではほとんど同じで、そこから逆に低くなっている(力石氏の西川の川床勾配を遠賀川のものと等しいという仮定6)が成立していない)。
さて、西川の汐入川の記号が新北付近ではなく、鹿児島本線の鉄橋付近にあるということは、図4に示されていない局地的な小さな障壁があり、新北には常時は潮が遡上したのではないことがいえよう。しかし、大局的な変化が図4の通りならば、大潮とか台風などに伴う高潮など普段より潮位が高くなると、そのような小さな障壁は簡単に越えられてしまうだろう。そのため西川の周辺は昭和初期まで塩田であったのではな
いか。これに対して、遠賀川の方は6km付近まで潮が遡ってもまだまだ川床が高くなっていくので、潮の遡上が伊佐座あたりで止められてしまったのではないか(伊佐座には取水口があったので、それより上流には遡上しなかったのではないか7))。
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さて、寛永5年は図3に示すようにちょうど寛永の改修工事が終わったところで、遠賀川は旧来の西川方面へ向かう西流のほかに、新に開削した東流が完成し、両流が並存していた時期である。潮が中間まで遡上するなら芦屋の浦からほぼ同距離の虫生津までは当然遡上したであろう。図4によると、昭和初期でさえ、虫生津から上流へは川床が下がっている。新北、新延付近への周辺の山地からの水田地帯になっている部分への土砂の流入を考慮すると、寛永時代にはこの部分の標高は現在より400年分だけ低い。したがって、寛永時代にはさらに上流の新北までは容易に遡上できたと考えて不都合はないだろう。
4.結論
前回と今回の考察から、新旧の1:25000の地形図から読み取れた新北の様子は次のようなものである。
1)海面が現在の標高10m線よりやや低いと推定されている古遠賀湾は、リアス式海岸で港に適した地形である。古遠賀湾の奥にある鞍手町の新北付近も同様の地形である。
2)新北の水田は、鞍手町、遠賀町に続く現在標高5m以下の水田地帯の一部である。(最近の地形図で標高が5m以上に見えるのは表記上の規約で、5m標高線が略されたため)
3)この水田地帯は各種の標高点および湿地帯の分布から推定すると、近年まで上流の鞍手町の方が下流の遠賀町より標高がわずかに低い。(寛永以前まで遠賀川の本流がこの地域を通って西に迂回していた。)
4)周辺の山地の浸食で流入する土砂速度がかなり大きいので、これらの水田地帯になっている内海はかなりの速度で浅くなってきた。(沖積層の厚さは30m前後なので8)、平均として1000年間に3m前後土砂の流入でこの部分が浅くなってきている。すなわち、海底の標高は1000年前は現在より約3m、2000年前は約6m低いことになる。したがって、当時の海面水位が遺跡分布から標高2〜3m以下とすると、水深は1000年前なら5m前後、2000年前なら5m〜10m程度と見積られる)
5)遠賀川水系は、昭和中期まではかなり上流(現河口堰から6km弱)まで潮が常時遡っていた。
6)西川については、水深および堤防の比高から推定した河床高の変化から、昭和中期までは新北に、常時ではないが、高潮時に潮が遡ることがあったものと推測される。
7)遠賀川が寛永5年に仲間まで遡ったならば、西川は新北まで潮が遡っていたことは十分考えられる。
以上から「にぎたづの歌」の状況に非常に似合った次のような新北の津の姿が浮かびあがってきた。
古遠賀湾内が海になっていた時期は全体的にどこもリアス式海岸で良港の条件を備えている。なかでも、遠賀川の河口は神武天皇以来近年まで良港である。現在の遠賀町の水田地帯にあたる部分は遠賀川による土砂の堆積で水深が比較的浅くなっていったのに対して、新北を含めて奥にある鞍手町側は、遠賀川の水路からはずれているので水深がやや深かった。途中の虫生津付近までが干潮時に干潟あるいは少なくとも船が通れない程度の浅瀬になったような時期にも、新北側の方が低地である上、上流の遠賀川その他の河川から常に水が供給されているので、軍船を浮かべておくことが出来た。新北の津は岡湊に敵が攻めてきても、干潮時には直接浸入できず、軍船を隠しておくこともできた。
おわりに
1:25000地形図など地図の読取りで、陥り易い誤りについて、新北の標高や西川の潮の遡上を例にとって説明した。「弥生・古墳時代の新北が海に面していた」とか、「寛永時代の新北への潮の遡上していた」ということは、今日の地図を眺めていると、海から遠くてとてもありえないように見える。しかし、このような素朴な感覚に反するような事象も、地形図の記号の意味を考え、ここ数十年間の変化の傾向を調べるとかなり妥当性のある現象であることが分かった。
歴史上の地形を調べる場合にはなるべく古い地形図を使用する方がよい。特に昭和40年代以降の日本では国土開発工事が急激に進み、自然状態が残っているところはほとんどない。新北の例から見ても分かるように、地形に人手が加わると、地形図の読取りがひじょうに難しくなる。幸い、1:50000については明治33年ごろから、1:25000については大正年間から入手できる。値段は黒白コピーが500円、カラーコピーが2000円と新しい地図よりは高い。いつからの地図があるかはインターネットで調べられる。ただし、画像の質のチェックはインターネットからはできない。
いずれにしても歴史上の事象は、地形図だけでは可能性の示唆はできるが、最終的な結論は、他の分野の研究結果と組み合わせて総合的に判断しなければならないことは勿論である。
謝辞
国土地理院関東地方測量部測量課の方には、汐入川の記号の記入位置、地図測量と満潮時間との関係などについて、ご教示をいただいた。
追記
最近、山崎光夫氏の原論文7)の図を上川氏より見せていただいた。それによると、新北付近の弥生期の推定汀線は前号の図に示した通りであることが分かった。山崎氏は弥生期の推定汀線を描くに当たっては注意深く市街地等人工物の影響部分はのぞいておられる。したがって、当然、犬鳴川と遠賀川との合流点付近の近世の堤防工事による人工的な線も除いてある。新延貝塚発掘報告書8)、水巻町史9)などの標高5mの等高線を利用した推定汀線は、その辺りの考察抜きで現在の5mの標高線をそのまま使ってしまっていることが分かった。
遠賀川水系の潮の遡上は、河口堰ができる昭和47年にはなくなっている。響灘に面した洞山島、沖の瀬、狩尾岬などが47年以降の地形図では昭和27年以前の地図より水面上に出ている部分の面積が大きい。すなわち、海面が以前より下がっているように見えた。しかし、海岸の輪郭は測量日の満潮時のもので、しかも観測時間も満潮時から1,2時間遅れることもあるとのことである。平均潮位でも大潮など特別の日の潮位でもない。残念ながら、地形図から海面水位の変化を求めるだけの精度はない10)そうである。
参考文献:
1)
高見大地「1:25000地形図の読み方(1) ?「新北」論争へのコメント−」東京古田会ニュース N0.89(2003)
2)
古賀達也「熟田津論争によせて」古田史学会報 No.53(2002)
3)
直方市環境基本計画基礎調査報告書、第1部 自然環境調査 第2節 遠賀川流域の地誌 第5章 近世の展開 http://iron4.chem.fuk.kindai.ac.jp/kankyo/
4)
福永晋三「?倭の興亡 その二 ―倭国の成立と新北神話」」東京古田会ニュース N0.89(2003)
5)
柳哲雄「海の科学 海洋学入門」恒星社厚生閣 (2001)
6)
力石巌「万葉八番歌」古田史学会報 No.53
7)
山崎光夫「沖積世(新石器時代)以降における洞海湾並びに遠賀川流域の地盤の昇降」九州大学教養武研究報告 2、(1956)
8)
鞍手町教育委員会「新延貝塚の位置と環境」新延貝塚発掘報告書
9)
水巻町史
10)
私信:国土地理院関東地方測量部測量課