文京区 藤沢 徹
平成十五年五月二十日の全新聞の一面トップ紙面を賑わしたのは、十九日の国立歴史民俗博物館(歴博)の衝撃的発表だった。新聞報道と歴博のホームページ情報からその内容を辿ってみよう。
加速器質量分析計(AMS)を用いた放射能炭素(C14)年代測定法によると弥生時代の開始が従来より五〇〇年もさかのぼるということである。
春成秀爾教授(考古学)と今村峯雄・藤尾真一郎教授(歴史科学)を中心とする研究グループは、福岡県の遺跡、橋本一丁田遺跡、佐賀県の唐津市梅白遺跡、吉野ヶ里遺跡、鹿児島県上野原遺跡などや韓国遺跡の出土品で土器に付着したコゲ・ススを中心とした炭化物・木材・堅果など32点を試料として、米国および日本の測定機関を通して加速器質量分析計で分析、さらに実年代を国際的な標準となっている「暦年較正曲線」によって補正をしたという。
その結果、弥生時代早期後半から前期初頭に土器編年法で位置づけられているU式と板付T式土器十一点のうち十点の年代がBC800年前後に集中した。これは従来、弥生時代早期(縄文時代晩期終末期とする研究者も多い)とされてきたBC5〜4世紀より300〜400年さかのぼる歴年代である。
さらに、発表によると、弥生時代早期後半から前期初頭はBC9〜8世紀ごろで、北九州で最初に水田稲作が始まった弥生時代早期前半(夜臼T式)はBC10世紀までさかのぼる可能性を含めて考えるべきであることが明らかになったという。この成果は平成十五年秋歴博開催の「先端科学による歴史発見(仮)」で展示される予定。
五月二十四日、二十五日の両日、東京桜上水の日本大學文理学部で日本考古学協会の総会・発表会が開かれた。日経新聞の五月三十一日朝刊文化欄での松岡資明編集委員の報告によると、縄文時代中期が従来説よりも五〇〇年古いBC3500〜2500年に繰り上がるとの研究成果も発表になったという。
「東アジアの鉄器は日本から始まることになるが、それで良いのか」
「データは正確な数字か」感情的な質問が今村・春成両教授に浴びせられたという。
中国で武器や農具など様々な用途で鉄が使われ始めたのは春秋時代(BC770〜403年)以降とされている。もし弥生時代の開始年代がBC800年までくりあがると、福岡県曲り田遺跡から出土した鉄器のほうが古くなってしまい、鉄は中国から日本列島にもたらされたという定説に矛盾が生ずるとの指摘だった。
ちなみに、新聞社によってはこの発表を前向きに捉えるところと、反対派の考古学者」の意見を多く載せて信じられないという意見表明しているところが目立った。例えば、朝日新聞によると、中園聡鹿児島国際大学教授も「分析の結果か、これまでの考古学研究か、どちらかが間違っているんだけど」と語っている。大塚初重明治大學名誉教授は、「今までの研究成果が雲散霧消するとまではいかないが、影響は深刻だ」と憂いているとのことである。
『歴博は故佐原真氏から宮地正人館長に代わって、今村・春成両教授が「縄文時代・弥生時代の高精度年代体系の構築研究のプロジェクト」をスタートさせた。さらに、奈良文化財研究所に協力を仰ぎ年輪年代法のデータとつき合わせた。96年に年輪年代法でBC52年と出た大阪・池上曽根の建物に使われた木材をC14法のAMSで測ったところBC80〜40年の数字が出た。炭素年代法(C14)と年輪年代法は整合性が高いことが確認できたと奈良文化財研究所の光谷拓実古環境研究室長は語ったという』(五月三十一日日経朝刊文化欄)
研究試料を採用した雀居遺跡とはどこか。福岡市博多区福岡空港敷地内で、91年から福岡市教育委員会が発掘調査を続けてきたところで、御笠川下流域の右岸。標高5メートル前後の微高地にあり、稲作の始源地の一つとされる。板付遺跡は南僅か2キロメートルにある。ともに、縄文時代晩期末から平安時代末までの複合遺跡で夜臼式土器が多くみられ、農機具も多く見つかっている。古田先生によると雀居は住居、板付は水田ではなかったかということである。
今回のインターネット情報によると、第十二次調査試料の分析結果では板付T式(前期初頭)に属する土器試料はBC800年と得られた。これは従来の年代観のBC300年から五百年さかのぼっている。逆に、板付U式(前期終末期)に属する土器の推定年代は、91パーセントの確率でBC780〜510年という約三百年近い幅に該当しており年代をこれ以上絞り込むことはできないという。
橋本一丁田遺跡は福岡市早良区の室見川右岸にあり、女原遺跡とともに福岡県教育委員会(福岡市埋蔵文化財、616集)02年9月に五次調査報告書が出ている。
近くには、福岡市教育委員会第188次調査の有田・小田部遺跡(前期前半)もあり、V字の環濠も発見された。出土物により縄文晩期末の夜臼式土器と板付T式土器の共存する弥生時代初頭の環濠と確かめられた。
南には前期末中期初頭の三種の神器を出した吉武木遺跡がある。出土品ががらっと変わるので天孫降臨と関係づけられていたが、実年代がさかのぼるとなると、BC221〜201の秦や前漢時代でなくBC403年ごろの春秋戦国時代となろう。いや、中国とは関係がないのかもしれない。(後記の仮説参照)
インターネット情報によれば、佐賀県唐津市の梅白遺跡(梅白4)だけがかけはなれて古い。しかし、較正値では、夜臼Ua式は橋本一丁田、梅白、雀居の三遺跡9点のうち8点ともBC820年頃を中心に収まり安定しているという。
考古学者が歴博の研究結果を批判している唯一の物的証拠は前述した曲り田遺跡から出土した鉄片である。
曲り田遺跡は旧伊都国の福岡県二丈町石崎曲り田に所在し、玄界灘に面した二丈町深江の後背地にある。周囲の水田より比高三十メートルほどを最高として北に低くなる独立丘陵があり、その中ほどの鞍部が発掘地点である。橋口達也氏の調査に始まり、二丈町教育委員会が91年以来四次にわたって調査を進めてきた。今は埋め戻され、歴史の里曲田スポーツ公園として町民の憩いの場になっている。
板付遺跡と並ぶ稲作開始の地として知られていて、支石墓から縄文後記末の夜臼式小壺が見つかっている。縄文時代後期から平安時代初期までの複合遺跡である。
注目されるのは、弥生早期の遺構十六号住居址床面から一片の鉄製品を出土したことである。
幅四センチ厚さ四ミリほどの板状鉄斧の頭部一点である。佐々木稔氏の分析結果は鉄鉱石(砂鉄ではない)を原料とした鍛鉄である。日本の金属器遺物の中で最古といわれている。
考古学者が取り上げているのはこれである。弥生時代の始まりがBC800年にくりあがるとこの鉄は中国で鉄が使われたというBC700年ごろの春秋時代より古いことになってしまうという定説矛盾である。
曲り田遺跡からは他に弥生時代前期前半の十一号甕棺内から径一・五ミリ長さ5〜10ミリほどの針金状の鉄片が二十余片出土している。
さて、二丈町の気になる遺跡を見てみよう。すぐ近くにある二丈町田中字大塚の一貴山銚子塚古墳(古墳時代前期)の竪穴式石室外部から十四本の「鉄製剣形鎗身」つまり鉄矛と十四本の鉄鏃が出土している。森浩一氏によると弥生後期前半にさかのぼる可能性があるとされている。鏡十面鉄製刀剣、槍、鏃、硬玉製勾玉、碧玉製管玉なども出土している。(日本の古代遺跡34福岡県・教育社)
さらに二丈町には広田遺跡がある。曲り田遺跡から西に8キロ、扁平打製石斧が161点出ている。縄文晩期農耕論の根拠となっているものである。
本舟三本松遺跡(深江地区ほ場整備事業関係埋蔵文化財発掘調査報告(T‐94)や二丈中学校内遺跡(99)などもありまだ色々出てきそう。
二丈町深江には古事記にある神功皇后伝説の鎮懐石八幡宮がある。深江に面する加布里湾から船出したのだろうか。
さて、縄文中期・弥生早期が五百年さかのぼるとなると、今までの考古学編年・古代史仮説が崩れてくる。縄文と弥生の境界は何か。縄文時代とは狩猟採集社会、弥生時代とは弥生式土器とともに青銅器や炭化米などが見つかるので「大陸文化と関連があり稲作を中心とする農耕社会」と位置付けられてきた。
しかし、これまで見てきたように福岡県の雀居、板付、曲り田、佐賀県の菜畑、梅白遺跡を見ると縄文晩期には水田耕作が行われてきたことは確実になる。しかも、プラントオパール(イネ科の植物の葉に含まれる珪酸体)の分析によると陸稲栽培は縄文後期(あるいは縄文中期)から行われてきたことが明らかになっている。
弥生文化流入の背景に関し、水田稲作の登場がBC1050年ごろとされる殷・周交代期の前後となる。
中国河南省殷墟遺跡からは多くの異民族、捕虜、奴隷とみられる殉葬あるいは首なし人骨が出ている。敗者が殺されるとなると何万という殷(商)の遺臣は必死で逃げたに違いない。難民や亡命者が日本に逃げてきたと考えてもおかしくない。
今まで学閥の保護のもと先輩の確立した土器編年法を後生大事に墨守してきた考古学者もC14、AMS法、年輪年代法という科学的歴年代測定法が採用されると「一寸先は闇だ」と嘆くことになる。ということはある意味で、アマチュアの考古学者、古代史愛好家にとってはチャンス到来だ。仮説の出発点にハンデがなくなるからだ。
ということで、仮説の一つを出したい。それは殷(商)とメキシコのオルメカ文明の関係を紹介したマイク・シュー教授の説である。
くわしくは、新・古代学第四集のメガーズ博士論文(筆者訳)「文化の進化と伝播」のうち「太平洋を渡る接触 商(殷)― オルメカ」を見ていただきたい。
マイク・シュー(許輝翻)氏は「商の文字はオルメカ世界で太平洋沿岸からセントラル・メキシコを通りメキシコ湾岸に達した」「商とオルメカのシンボルには相互関係が存在するという。残念ながら支持者はメガーズ博士など一部にしか過ぎない。
日本とエクアドルのバルビディアの縄文コネクションがあれば、殷(商)の遺臣が九州から太平洋を渡ったとしてもおかしくない。
仮説のもう一つは、大野晋教授の南インド・タミール地方から九州への稲と鉄の伝播説であり、中国から直接あるいは朝鮮半島経由の一方的文化伝播説と真っ向から対決するものである。くわしくは、岩波新書「日本語の起源」新版を参照していただきたい。
大野氏は世界で最古の米はどこから来たのかという問題と日本の弥生時代の米はどこから来たのかという問題を区別するべきと説く。揚子江下流の河姆渡地方からBC5000年代に稲作があったとして、それがBC1000年紀までどうして日本に伝来しなかったのかと問いかける。
言葉から見ると、九州各地には水田をタンボといったり、焼畑をコバという地名にして残っている。
タミル語で「稲」を意味するnelがある。日本語音韻ではniに当る。ニはニニギノミコトという神名に見える。ニを稲と見ればニ(稲)ニギ(饒)となって神名と命名との関係が明瞭になるという。
そういえば、雷山の大悲王院千如寺はインドから渡来の清賀上人によって開山されたとの伝承がある。
大野晋教授は南インドと北九州、朝鮮の墓制(支石墓、甕棺墓、箱式石棺墓、木棺墓、墳丘墓、五面鼓子持ち壺など)の類似を説く。
さらに、南インドの巨石時代の金属器使用に関し武器にも農耕用具にも祭具にも鉄が使われていたという。
日本では青銅器から鉄器へという文明の展開を順次に経験したのでなく既に出来上がった青銅・鉄の文明をほぼ同時に受容した。カナ、タカクという金属は南インドに由来するという。
さらに、タミル語と日本語・朝鮮語の対応について例を挙げ関連を説く。
南インド(海洋民族)→ 九州・朝鮮という仮説も成立可能ではないか。但し、浅学の者にはケルト語・ドイツ語などのヨーロッパ語族からサンスクリット語などインド・ヨーロッパ祖語の再建をした比較言語学の方法論にはなかなかついて行けないのが難である。
会員各位殿には6月8日の古田武彦講演会に多数のご参加をいただきましてありがとうございました。
会員各位殿には会報編集方針の違いから編集担当者の退会を招き、会報作成発送が大幅に遅れたことをお詫びいたします。
又 この間当会とは全く関係のない『古代史最前線』なる印刷物が会員各位に送付されました。名簿の無断使用は個人の権利の侵害となります。名簿管理の不手際を重ねてお詫びいたしますと共に再発防止に注力いたします。
当会活動に満足出来ない人が新たに研究会を立ち上げたり会誌(新聞)を発行すること自体はそれ程問題になりません。が、古田武彦ファンであり続けることは進歩がない、と言うような言い方はそれまで活動していた会の会員を侮辱するものと受取られても仕方がないでしょう。
尚、当会は基本的な活動を続行していきますので今後とも御支援御協力を賜わりますようにお願いいたします。
約一年続いた阿佐ヶ谷勉強会の主催を本人の希望により会から福永晋三氏個人になったことをご連絡いたします。
質問コーナー
本号から少しでも会員相互の又、編集部との双方向コミュニケーションに資することを目指して質問コーナーを設けてみました。忌憚ない意見交換に繋がれば幸いです。
*福永氏に対して 高柴 昭
皮切りとして私(高柴)から福永氏に対する質問です。
一、「にぎたづ」について、本号の藤沢会長の整理で明かなように、場所については一貫しておられますが、歌の時代や状況については論旨に変化が見られます。この点分かり易く説明して頂けると有難いと思います。
ニ、大善寺玉垂宮に関連して、吉山旧記と鬼夜との結び付きが今一つ腑に落ちません。又、桜桃沈倫を征伐したといわれる藤大臣と神功皇后との関係をどう理解するのか。更には、「しゃぐま」の意味、「鉾取った」「面取った」「そら抜いだ」という不思議な言葉の意味、等、分かる範囲で説明して頂ければ有難いと思います。 紙面が尽きました。
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当会も古田武彦氏が切り開かれた所謂多元史観に共鳴して活動を開始して以来四半世紀を経てまいりました。この間、古田先生のご活躍はもとより、それを支える多くの方々のご協力等もありまして、新しい発見や新しい理解等が相次ぎ、まさに眼から鱗が落ちることの連続であった、と言っても過言ではないと思います。
古田武彦氏によって解かれた古代史の封印は今やその余波を大きく広げつつあるように思われます。歩みはのろいように見えますが、教科書の記述にも多少の変化は伺われますし、今回の「弥生時代の500年遡り」にも(表立っては言われないものの)何らかの影響があったと想像するのはそれ程困難なことではないと思います。
一方で、まだまだ分からない事は多く、解明されなければならない事は多岐に亙ります。
思いつくままに挙げてみても、近隣史書に見える国名の変化の意味するところは何か、それが仮に九州内での王朝の交替を意味するとした場合、各王朝の中心地はどこか、それらと関連して筑豊や豊前及び筑後に残る史跡、地名、神社伝承等との関係をどう整理するのか、又、王朝の交替ではないとした場合、どの様な理解ができるのか、等々新たな課題は山積みといった感があります。
これらに対して、色々な方が主として個人レベルでの取組みをされており、部分的にはその成果も出版や会報等の形で発表されておりますが、夫々に一長一短があり、まだ大方の理解を得るためには為すべき事も多いように思われます。
このような中、近時、多元史観の考え方を採られている方々の間で(或は共通したベースがあるが故に)、ややもすれば相違点を強調するあまり互いに反目しかねない動きが見受けられますことは誠に惜しまれることだと感じております。
ここは一度原点に還って古代史の論議を深めると言う意味で、活発な議論の展開を図ることにエネルギーを向けることが出来ないものか。場合によっては会の枠に捉われずに、論議を深めることに役立つと思われる活動や報告等について取上げるような試みがあってもよいのではないか、又、当会報に掲載された論文や活動報告等に対して質問や補足、場合によっては反論等を行うことで論点を深めて行くような取組みが、日常的な活動の一環として出来ないものか、等々検討し、試みに「質問コーナー」を設けてみました。活発なご意見等をお待ちしております。