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*「戸板康二ダイジェスト」制作ノート・更新メモ、2009年5月更新分(055)。



#055
(01, May 2009)


戸 板 康 二 よ ろ ず ひ か え ( そ の 1 )

2009年4月20日(月):
○朝、喫茶店で「こつう豆本」の太田臨一郎『文献随筆 雑誌探索』(日本古書通信社、昭和62年10月)を繰る。淡島寒月翁門下の片岡平爺の肝いりで同志7人が拵えたという趣味研究誌「七星」(大正12年4月〜9月、計4冊)というのがあり、その同人のひとりに「池田天釣居」の名があり「おっ」と手帳にメモ。池田弥三郎の父、天金主人の池田金太郎はそういうネットワークのなかにいたのだなあとしみじみ感じ入る。今後ちょいと追求したいとハリキル。
○昼休み、ウェッジ文庫の新刊の岩佐東一郎『書痴半代記』を買う。内堀弘さんの解説に「交書会」のメンバーのひとりとして戸板康二の名前が挙がっている。肩書きは「劇作家」となっている。未読の『マリリン・モンロー』を読まねばと思う(なかなか読む気が湧かぬまま今日まで来てしまった)。
○夜、寝床で淡島寒月『梵雲庵雑話』(岩波文庫)を繰りつつ、寝る。『マリリン・モンロー』はまた今度にしよう。

2009年4月21日(火):
○矢崎弾『過渡期文芸の断層』(昭森社、昭和12年7月)が届く。前々から欲しかった本なので、たいへん嬉しい。さすが昭森社という感じの造本が嬉しい。函の文字のスタイリッシュな配置が素敵。わーいわーいと本棚に立てかけてしばし悦に入る。もちろん寝るときは枕元に置く。
○『思い出す顔』に、矢崎弾の筆名は和木清三郎によるもので、学生時代に好きだった女性が「矢崎たま」だったことに由来し、その女性は戸板裁縫学校に学んでいたので、和木が戸板に「戸板君、矢崎たまが、今どうしているか、わからないかね」と尋ねたというくだりがある。和木の天然ぶりにはいつも笑ってしまう。

2009年4月22日(水):
○池田弥三郎が発行していた個人誌「ひと」(発行:銀座天金内 天釣居)が二冊届く。一昨日、池田天釣居で急に思い出して「日本の古本屋」で検索したら売っていたのだった。己の反射神経を褒めてあげたい。わーいわーいと本棚にたてかけてしばし悦に入る。
○「ひと」は昭和9年2月に第1号発行、昭和12年4月発行の第17号が結果的に終刊号。池田弥三郎の国文科卒業と同時に終わった格好となった。池田弥三郎はのちに「三田国文科生による手習い草紙」と称す。天金所蔵の人形などの紹介では池田金太郎が登場、いかにも淡島寒月気分がただよっている(気がする)。
○このたび届いたのは、通巻では12号にあたる「丙子二号(昭和11年3月20日発行)」と「丙子四号(昭和11年10月1月発行)。前者は戸板康二と波多郁太郎との共同執筆「雛祭りの由来」(「阿寺持方」名義)、池田家架蔵の手書き本を翻刻した仮名垣魯文『葉武列土倭錦絵』が掲載、仮名垣魯文の翻刻は戸板が校正を手伝ったと編集後記にある。「丙子四号(昭和11年10月1月発行)」は戸板康二「大間」掲載。いずれも見どころたっぷりの号なのでたいへん嬉しい。もちろん枕元に置いて寝る。
○池田弥三郎の個人誌「ひと」については、歌舞伎研究会の会誌「三田歌舞伎研究」と合わせて、「三田文学」とは別に戸板康二が最初期に関わった雑誌として重視したい。「三田歌舞伎研究」第1号は昭和9年2月に出ていて、奇しくも「ひと」第1号と同月。「三田歌舞伎研究」は昭和11年1月発行の第4号まで所在を確認している。第4号発行の同月、戸板康二は寄稿のお礼のため三宅周太郎を訪問している。

2009年4月23日(木):
○昼休み、へなへなとスターバックスへ行き、ソファで放心。ちょいと気晴らしすべく、先日図書館で見かけて気が向いて借りた『現代の随想9 永井龍男集』(弥生書房、昭和56年10月)を拾い読み。「文藝春秋」昭和53年1月号初出の『ある同窓会』、「はせ川」が店じまいするにあたってのエッセイがとてもおもしろく、急にウキウキ。昭和5年開店、永井龍男は開店直後に万太郎に連れられて訪れたのが最初。「文藝春秋の人に来てもらってください」と万太郎に頼まれる。主人長谷川春草は昭和9年死去。
○長谷川春草『春草句帖』(素商書舘、昭和4年8月)の序に、内田誠が「春草ノ伝」を寄せている。
○内田誠と久保田万太郎がいつ出会ったのか、わたしはいまだにわかっていない、ということに気づく。現時点で確認しているもっとも古い記述は大正15年10月、《十月二十三日、水中亭に招かれ、自笑軒に『うらみせて』の節附成れるを聴く》という前書きの「封切の歌をきゝつゝ夜寒かな」という万太郎の俳句。大正13年に内田誠が芥川に出入りしていた記録があるので、芥川経由か?
○「さつき」の創刊は大正15年。第9巻第8号は長谷川春草先生追悼号。
○『長谷川春草句集』(さつき発行所、昭和11年)に万太郎と横光が序文を寄せている。
○敗戦後「はせ川」は昭和22年にもとの出雲橋で二階家の店を再建。昭和45年、6階立てのビルに建て直し、階下を「はせ川」に。昭和52年6月に閉店し、画廊に転業。
○夜、寝床で戸板康二の文章をチェック。『女形余情』に「忘れがたい一杯」(初出:「銀座百点」昭和60年8月)。戸板康二が「はせ川」を初めて訪れたのは昭和9年、浅草の並木にある商家の若旦那で歌舞伎研究会の先輩(3年先輩の経済学部生)に連れられてのこと。戦後は万太郎としじゅう寄っていた。

2009年4月24日(金):
○ひさびさに永井龍男づいてしまい、『文壇句会今昔』を読み返したくてたまらない。が、本棚を探索するも発見ならず。古本屋に売ってしまったに違いないと、朝っぱらからがっくりと肩を落とす。心の隙間を埋めるべく、『東京の横丁』(講談社、1991年1月)を持って外出。しかし、喫茶店でひとたび繰りだしたらとたんにホクホク。永井龍男が大正13年6月に小林秀雄と出会い、彼の紹介で夏、慶應在学中の石丸重治、木村庄三郎、波多郁太郎の同人誌「青銅時代」に参加、12月に廃刊し、あらたに河上徹太郎、富永太郎を加えて「山繭」を創刊……というくだりがあった。三田の折口門下の戸板康二の10年先輩の波多郁太郎の名前が登場して「おっ」となる。すぐさま手帳にメモ。
○柳宗悦の甥っ子、石丸重治は小林と府立一中で同級で、「山繭」では実質的なパトロン。水上瀧太郎亡きあとは、三田における物心両面の支柱となり、「三田文学」刊行の縁の下の力持ちの役目を果たしたと紅野敏郎が書いている(『本の散歩・文学史の森』)。追悼文集『回想の石丸重治』(三田文学ライブラリー、昭和44年11月)に、戸板康二の文章は収録されていない。石丸重治の名前は、戸板康二の文章では『回想の戦中戦後』における《予科はB組で、一年の担任が石丸重治という英文学者だった》という一文でのみ登場している。
○野口冨士男の『感触的昭和文壇史』(文藝春秋、昭和61年7月)のなかの《一つの文学運動ないし親睦団体の結集、結社の成立などには、しばしば文学史の網の目から漏れてしまう蔭の人物といった存在が介在する。》という一節を思い出す。『回想の石丸重治』を入手せねばと思う。

2009年4月25日(土):
○雨の中、傘をさしてイソイソと東京古書会館の書窓会へ。古書展ならではの五臓六腑にしみわたるような濃厚な時間をいつもながらに満喫する。十一谷義三郎『生活の花』を立ち読みしていつの日かの入手を夢見る。徳田秋声の『土に癒ゆる』も時節をまつ。などなど、今日は時節を待ってばかりで、お買い物は計2冊800円也。戸板康二『女優のいる食卓』の献呈署名本があきつ書店に900円で売っていた(献呈先は初めて見る名前)。
○まど展の度にあきつ書店コーナーで三浦義彰『文久航海記』(冬至書林、昭和17年6月)を見かける(5800円)。『俳優論」より半年早く出た本、買う機会がなかなかめぐってこないまま数年が過ぎている(安く見たら買おうと思って数年)。著者は戸板康二と暁星の同級の医学生、串田孫一の同人誌「冬夏」の中心的メンバーだった。祖父の渡欧について書いたもので、何年も前に図書館で読んで、結構面白かった。三浦義彰は『医学者たちの一五〇年 名門医家四代の記』(平凡社、1996年7月)という本も書いている。
○鴎外の『麻酔』(初出:「スバル」明治42年6月)に登場の医者は三浦義彰の父、三浦謹之助がモデルになっているという。日夏耿之介が《当時文壇ばかりでなく医界でも色々な意味で評判が高かった》と書いている(出典を失念)。「冬夏」の鴎外特輯は昭和16年3月発行号。戸板康二はこの号に「森鴎外と竹二と」(のち『俳優論』に収録)を寄稿……などなど、「冬夏」には鴎外が結構絡んできて面白い。とりあえず神奈川近代文学館の鴎外展がたのしみ。

2009年4月26日(日):
○午後、所用の帰りに散歩がてら、早稲田大学界隈を通り抜ける。《逍遥と「早稲田文学」》展の会場へ行ってみたら、日曜日はお休みでがっくりと肩を落とす。心の隙間を埋めるべく、通りがかりの洋菓子店でショートブレッドを買い、帰宅後の紅茶だけをたのしみにサンサンと突き刺さる日差しの下をノロノロと歩く。演劇博物館の歌右衛門展に行くのを忘れていたことに気づく。戸板康二がらみで何か収穫があったかもしれぬと、後悔しながら家路をゆく。
○夜、ふと思い立って、車谷弘の本を読み返したくなって、『わが俳句交遊記』(角川書店、昭和51年10月)と『銀座の柳』(文藝春秋、昭和55年6月)を発掘すべく本棚をゴソゴソと整理。車谷弘を無事発見したところで、永井龍男『文壇句会今昔』(文藝春秋、昭和47年8月)がひょっこりと出てきた。すでに古本屋に売ってしまったと思い込んでいた。先日がっかりしていたばかりだったので、歓喜にむせぶ。古本屋に売らなかった過去の自分を褒めてあげたい。こららは3冊セットで末長く架蔵したいと決意を新たにする。
○『文壇句会今昔』を何年かぶりで繰って、日本郵船の新田丸のくだりが目にとまる。処女航海記念に文士による船上座談会が催されることになった、当時郵船の嘱託だった百間のプランで、日本郵船から文藝春秋社に話があり、タイアップとあいなった。このことは、小谷野敦『里見とん伝』(中央公論社、2008年12月)を読んだときも「おっ」とメモしていたのだった。新田丸座談会は昭和15年3月17日、「文藝春秋」6月号に掲載予定だったのが、なぜか掲載されなかったとのこと。戸板康二が明治製菓に入社した奇しくも同時期の昭和14年4月前後に日本郵船の嘱託となった内田百間、その「日本郵船の百間先生」にまつわるエピソードとして記憶にとどめておきたい。

2009年4月27日(月):
○戸板康二の資料として串田孫一の著書を図書館で借りて少しずつ通読している。本日の串田孫一はエッセイ集、『雨あがりの朝』(雪華社、昭和50年9月30日改装版発行)なり。
○「木目」に「冬夏」の印刷所の塚田印刷所らしき描写あり。《三十数年前、学校は出たけれど、別につとめもなく時間がたっぷりあった時期に一日中印刷屋へ行ってあれこれいたずらしていた。船乗りだった友人の詩集をつくることになり、装釘その他を考えた時に、その本の扉に木目の印刷をやってみた。……》。
○「印刷の味」に神田の塚田印刷所の具体的な回想あり。「神田のK印刷所」の名前も挙がっていて、「木目」にある印刷所はこちらの可能性もある。親父さんに苦い顔をされつつも、串田孫一らに感化されて道楽で冬至書林の社主となった塚田印刷所の息子、塚田博は南方で戦死。出征後双子の男児が出生。一人は大学に進み、もう一人は印刷業を継いだという。
○「原稿」に古書店の目録に串田孫一の名を騙った贋の原稿が売り出されていたというエピソード。それは、昭和15年3月20日の日付入りで串田特製の原稿用紙(四百字詰め、左下のすみに「象形文字からとって、多少形を変えた狼が小さく刷り込んである」)に書かれていた。《これは知り合いの印刷屋が作ってくれたもので、罫もその狼も赤で刷ってあった》。印刷屋の知り合いの「たしか運送屋につとめていた人」が「同人雑誌」の仲間に志願したことがあったが、病的に変な人なので断ったことがあった。犯人は彼ではないかと推測。この同人雑誌は「冬夏」のことか? 「冬夏」は昭和15年7月に第1号が出て以後毎月刊行、戦時下の雑誌統廃合のあおりを受け第16号で終刊となった。「冬夏」創刊のきっかけは、前年9月の串田萬蔵の通夜の席で串田の叔父の今村信吉が発案したことによる。
○ほかには、「幼い心」に暁星小学校の回想あり。

2009年4月28日(火):
○日中の細切れ時間に、伊藤整『文学と人間 百十一章』角川新書41(角川書店、昭和29年7月15日)をたのしく繰る。初出は「西日本新聞」に昭和28年9月9日から12日28日まで110回連載の1200字エッセイ。
○と、初出が西日本新聞なので「おっ」となる。西日本新聞掲載の、1200字エッセイの系譜というものがたしかに存在するのだった。『ハンカチの鼠』に収録されているのは、「西日本新聞」昭和37年2月から4月まで50回連載のエッセイ。宮田重雄『竹頭帖』(文藝春秋、昭和34年3月)の初出は、「西日本新聞の百日随筆」が初出。戸板康二の「ハンカチの鼠」は50回連載なので分量は半分だけど、その百日随筆の系譜にあるものだと思われる。西日本新聞の一回3枚の毎日掲載の随筆、が初出のエッセイ集を集めたいと思いつつ、特に深く追求することなく今日まで来てしまった。
○宮田重雄の『竹頭帖』は福原麟太郎が愛読していて、それを車谷弘に伝えたことが、文藝春秋から刊行される契機になったようだ。『ハンカチの鼠』は戸板康二初の三月書房の小型本ということで、重視したい。旺文社文庫のあとがきに《この「ハンカチの鼠」は久保田万太郎先生が読んでいる。読み終わって、「君はフェミニストだね」といわれたのを、おぼえている。》とある。昭和37年という年は久保田万太郎、川島雄三、山之口獏、十返肇、小津安二郎らが世を去る前年。文学座が分裂する前年。1930年代東京にばかり夢中の昨今だけど、昭和38年に世を去る人びとが生きていた昭和30年代東京、オリンピック前の東京にもとても愛着がある。
○戸板康二が「西日本新聞」に「ハンカチの鼠」を連載していた昭和37年という年は、文壇句会に出席していたりする一方で、「演劇界」では『演芸画報・人物誌』のもとになる連載を開始していたりと、「桟敷から書斎へ」の絶妙なバランスで仕事をこなしている、まさに円熟期、ということに思いが及んでゆく。

2009年4月29日(水):
○石塚友二『日遣番匠』(学文社、昭和48年12月)を繰っていたら、大井広介が昭和26年から西日本新聞の嘱託として学芸部を手伝っていたとあった。
○日本文学報国会の発足は昭和17年6月。石塚友二は事務局審査部に勤務していて、河上徹太郎が審査部長だった。久保田万太郎は「劇文学部会」の幹事長で、河上とのおしゃべりが目的でしばしば審査部の事務室にやってきて、その折に石塚ともしばしば顔を合わせた。同時期に「はせ川」で久保田万太郎を囲んで、永井龍男や宮田重雄が脇に控えた「小酌句会」というのが半年ほど続いたことがあり、石塚はこの句会に参加していたので「はせ川」でも万太郎と顔を合わせることとなった云々……というエピソードが目にとまる。「はせ川」の記述を見るたびに嬉しい。

2009年4月30日(木):
○中村光夫『今はむかし』(講談社、昭和45年10月)を繰っていたら、「文學界」昭和11年4月号に掲載の『二葉亭四迷論』第1回を一心不乱に書いている真っ最中に「二・二六事件」の報に接した、というくだりがあった。
○中村と同年の野口冨士男は当時都新聞社勤務、4歳下の戸板康二は慶應国文科の1年生。ちょうどこの日は折口信夫の万葉集の試験の日だったと、のちに何度も回想している。「二・二六事件」において、万葉集の試験とともによく回想されているのが「三田文学」の紅茶会のエピソード。昭和11年1月の「紅茶会」は明治生命ビル地下のレストラン「マーブル」で開催、「そのうちこんな呑気な会は開けなくなる」というようなことを誰かが口にして、一同暗い顔になったという。
○「三田文学」の誌面を確認すると昭和11年最初の紅茶会は1月ではなくて、2月に開かれている。誌面の告知と和木の編集後記とでは日が異なっていて、一方は2月22日でもう一方が2月24日、どちらが正しいかについてはまだ判定に至っていないけれども、「マーブル」の紅茶会はいずれにせよ一か月前どころか事件の思いっきり直前の開催なのだった。さぞかし印象は強烈であったことだろうと思う。
○というふうに、当時の「三田文学」の誌面を確認すると、戸板康二の回想と実際の紅茶会の日時が異なっていることが散見される。水木京太に連れられたという麻布龍土軒の「紅茶会」の開催は昭和9年10月16日で、戸板の「三田文学」初登場の昭和10年5月号の半年前。その昭和10年5月号は《復活十周年記念号》と銘打ってあるとおりに、いかにも目次が充実している。この頃が和木清三郎編集時代の全盛期だったことがみてとれる。戸板康二の「三田文学」登場はまさにそんな時代の真っ只中だったのだ、ということを思うと、なにかと尽きないのだった。





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