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*「戸板康二ダイジェスト」制作ノート・更新メモ、2009年6月更新分(056)。



#056
(30, June 2009)


戸 板 康 二 よ ろ ず ひ か え ( そ の 2 )


2009年5月1日(金):
○明日から連休だ、嬉しいなア! と、心持ちよくウカウカと昼休み、界隈を散歩。丸の内仲通りの伊東屋に足を踏み入れて、またもやうっかり万年筆を買ってしまう。そのままコーヒーショップへと駆け込み、時間までのんびりすることにする。買ったばかりの万年筆を一通り眺めたあと、伊東屋のレジで入手した「銀座百点」5月号のページを繰る。5月23日から7月12日まで、中央区立郷土天文館特別展示室で《築地小劇場展〜震災から戦災までの軌跡をたどる〜》なる展覧会が催されることを知り、「おっ」とすぐさま手帳にメモ。このところ、いろいろあって新劇史に再燃していたところなので、なんというグッドタイミング! と大いによろこぶ。
○戸板康二が愛用していた万年筆の型番を知りたいのだった(そして、同じのを入手したい)。夜、ハーブティを飲みながら、現在唯一持っている自筆原稿(「鳥辺山心中」というタイトル、原稿用紙2枚半。原稿用紙の銘は「rari-rero」と印刷されている)をしばし眺める。万年筆の型番はわからないけれども、インクの色(ブルーブラック)はわたしと同じだとよろこぶ。

2009年5月2日(土):
○慶應義塾国文科の本科3年生であった昭和12年、戸板康二は改造社の『俳諧歳時記』5冊を購入した。これが初めて買った歳時記だったとのことで、《学生にとっては、この一冊が数十回の講義に匹敵するほどの内容を思わせた》と書いている(「座右の歳時記」、『見た芝居・読んだ本』所収)。
○その改造社の『俳諧歳時記』(昭和8年発行)の「夏の部」の執筆者が青木月斗だと、つい最近気づいて、「おっ」となった。生涯にわたって俳句に親しんでいた藤木秀吉は青木月斗の俳誌「俳句雑誌 同人」に寄稿したり、その月例句会に参加したりした。戸板康二が歳時記を購う際、藤木秀吉のすすめで改造社の『俳諧歳時記』に決めたのではなかろうか、という仮説をたてずにはいられない。
○と、その仮説はたいそうわたくしをワクワクさせるのだったが、まあ、戸板康二と俳句、というのをちょいと強化したいのだった。などと思って、『俳句・わが一句』をひさびさに繰っていたら、「伊皿子の坂の夜寒や御明講」という句にまつわる文章に、祖父が関西から東京に移住し、洗足南台に家を建てるとき、工事の完成を待たず上京し、半年ほど芝の伊皿子に住んでいたとあり、その伊皿子の家は《明治製糖を創業した相馬半治社長の屋敷の構内の一軒で、祖父が親友の相馬さんから家が建つまでしばらく借りたのだった》という一節が目にとまり、「おっ」となる。父方の祖父が蔵前工業の一期生で同学の明治製菓会長相馬半治と親しかったのが、戸板康二の明治製菓入社の「コネ」となったのであるが(『回想の戦中戦後』)、「親しかった」の度合いがそこまで高かったとは! と興奮しつつ、「一時期、祖父は伊皿子の相馬邸の敷地に仮寓」と手帳にメモ。
○『「ちょっといい話」で綴る戸板康二伝』巻末の、犬丸治氏作成の年譜を参照すると、父方の祖父山口貴雄は農商務省工務課長・東京工業学校教授で、昭和13年12月2日死去。戸板康二の明治製菓入社は同年9月ころ決まっていた様子だが、孫の明治製菓勤務を見届けることなく他界している。残念。

2009年5月3日(日):
○今日は母と落ち合って午前11時より東京宝塚劇場。宝塚はひさしぶりだ、わーいわーいと早々に外出して、日比谷界隈のとあるコーヒーショップで、時間までのんびり本を読むことにする。中村光夫『文学回想 憂しと見し世』(筑摩書房、昭和49年11月)を読む。
○大東亜戦争に突入した日、ゴルフの試合があったので早起きして相模へ出かける途上、見知らぬ人にこんなときにゴルフかと白眼視されたが特に気にせず予定どおりに出かけた、というような記述が目にとまる。中村光夫と同年の野口冨士男はこの日の夜、アメリカ映画はもう見られないかもしれぬと妻子をともなって新宿昭和館へ『スミス都へ行く』を見に行った。それぞれの昭和16年12月8日。
○明治製菓の宣伝部員、戸板康二は開戦の翌日、明治製菓の持っていた自動車を大政翼賛会に提供することになり、花森安治と初対面。花森安治とともに、銀座と上野に行き、戦争にのぞむ気がまえを説く花森安治の演説を聞く。昼の休憩時間、歌舞伎座の楽屋の頭取部屋へ行く必要があり「報道」という腕章をつけて奈落を通り抜けようとしたとき、『野崎村』のお染の扮装をした当時芝翫の歌右衛門に遭遇した、と『思い出す顔』にある。
○『憂しと見し世』ではほかにも、中村光夫が昭和14年春に吉田健一に勧誘されて仲間に加わった「批評」の同人会のところで、「はせ川」が登場していたり、昭和17年2月から19年4月まで筑摩書房より刊行されて8巻で中断した青山二郎装の『ヴァレリイ全集』の訳者として、佐藤正彰の名前が挙がっていたり……などなど、なにかと胸躍るくだりがあった。
○昨日読み返していた、『俳句・私の一句』に、日本演劇社時代の回想として、久保田万太郎が社を出るとまず腰かけるのが「はせ川」で、《久保田先生は忽ち御機嫌になり、どうしても長くなる》。そして、三度に一度は横須賀線の終発かひとつ前の電車で鎌倉まで万太郎送る羽目になる。鎌倉では「りんどう」という酒場に入る……云々というところに、《ある日ここで、私が暁星でフランス語を習った佐藤正彰という先生に会ったりした》とあったのを思い出して、いてもたってもいられない。
○「はせ川」といえば中島健蔵と思って、帰宅後、『わが交遊記』の中島健蔵の項を参照すると、冒頭に《中島健蔵さんとはじめて会ったのは、銀座のはせ川だったと思う。久保田万太郎さんといる時に、パーティーの帰りといったふんい気で、賑かにはいって来た人たちの中にいた。たまたま、中島さんの隣りにかけたのが、佐藤正彰さんで、佐藤さんは、中学三年の時に、ぼくがフランス語を習った先生である。/先生とぼくの再会と知った中島さんが、佐藤さんよりも照れてしまったのが、おかしかったのをおぼえている。》とあって、興奮。「はせ川」にまつわるあれこれにますます胸躍らすのだった。『俳句・私の一句』で戸板康二が佐藤正彰に遭遇したと言っているのは、鎌倉の「りんどう」ではなくて、「はせ川」でのことを言っているのかな。

2009年5月4日(月):
○新幹線にのって、仙台へゆく。一番の目当ては宮城県美術館の《洲之内徹コレクション》展の見物だけれども、仙台といえば、戸板康二の両親それぞれの郷里であり、いわば、戸板康二のルーツというべき町なのだった。心して出かけねばならぬと、ガバッと早起きして、『旅の衣は』の「仙台」の項より、メモ書き。
○昭和15年4月の結婚のあとの、夫婦そろっての最初の旅行が仙台で、従妹同士であった夫妻の共通の祖父の墓が仙台にあり、その墓参りに出かける。その祖父の墓は輪王寺、《いつぞやベルクラブの講演で行った日に墓参をした時、何ともみごとな菖蒲の花ざかりにめぐり合わせた》。輪王寺は何年か前に一度出かけて、庭園ともども風格たっぷりのすばらしいお寺で感激だった。母方の先祖の墓がある龍王院には林子平の墓があり、この志士と戸板家の何代前かの人と縁つづきだったとのこと。こちらは前回行き損ねたので、今回は懸案を果たすよい機会なのだった。
○それから、《仙台の人が親類に多いから、子どもの頃から、名物の「政岡豆」という五色の豆の菓子、「九重」という熱湯を注いでのむ飲料も、しじゅう家にあった。》という一節があり、大いにそそられる。見つけたら購おうと決意。特に「政岡豆」という名称に大いにそそられるのだった。
○仙台駅が近づいて、新幹線の車窓から、3本の鉄塔が見えたとたん、頭のなかは一気に佐伯一麦の『鉄塔家族』一色になり、ワオ! と大はしゃぎする。宮城県美術館の《洲之内コレクション》展では、無事に長谷川りん次郎の「スヰート」表紙画を見ることができて、宿願を果たしてもうこれだけでも大満足であった。昼下がり、仙台駅から仙山線というのに乗った。ボックスシートに腰かけたとたん、たいそう和んでしまい、いっそこのことこのまま山形へ行ってしまいたい気分だった。何駅かで下車して龍王院に向かって歩く、その途中で見物した東北福祉大学内の芹澤けい介美術館がすばらしかった。龍王院は特になんということもなく、「とにかくも戸板ゆかりの地へ実際に行った」という自己満足に終始する。
○そんなこんなであっという間に日没になり、せっかくの仙台なのだから、一泊ぐらいはしてもう少しのんびりするべきであったと後悔しながら、ワインをグビグビ飲んで、午後9時、イソイソと新幹線に乗り込む。往路と同様に車内ではコンコンと眠り続ける。
○新幹線に乗り込む直前、駅の土産物屋で「政岡豆」も「九重」を鋭意探索するも発見ならず、心の隙間を埋めるべく「萩の月」を購って、敗北感であった(あとで確認したら、「政岡豆」はもう製造していないらしい)。

2009年5月5日(火):
○内田誠に関するメイルをいただいて、内田誠気分がますまる盛り上がり、いてもたってもいられない。午後、書斎(と称している小部屋)の片隅に座り、傍らに内田誠の著書を積み上げて、紅茶を飲みながら次々とページを繰る。この連休ならではのゆったりした時間が嬉しいなア! とはしゃぐ。と、そんななか、あらためて読み返してみると、いろいろと「おっ」があるのだった。
○そのひとつが、内田誠『会社員』(有情社、昭和22年9月)所収の「久保田宗匠」という文章。《京橋の明治屋の六階にあった中央亭が、まだ本格の洋食店であった時分、先生とそこへ上るエレベーターを待ちながら……》とあるのを見て、「おっ」となる。内田誠が昼食の席をリザーブしていた明治屋六階の中央亭は敗戦後は「本格の洋食店」ではなくなってしまったようだ。さらに、結びの文章には、《三十余年も前、有楽座の廊下で始めて見た先生は着物で袴をはいて居られたようにおぼえているが今昔の感にたえない。》とあり、再度「おっ」となる。前に一度ならず読んでいるはずなのに、すっかり忘れていた。「内田誠と久保田万太郎の初対面は有楽座!」と手帳にメモしようとするも、おっと、あわててはいけない、「見た」と書いているが「会った」とは書いていない、今日のところは「内田誠が初めて万太郎を見たのは有楽座」とメモしておくことにする。

2009年5月6日(水):
○正午外出。駒場の日本近代文学館へ出かける。外出したとたん、雨が本降りになる。しかし、閲覧室の窓から見える雨はなかなかの風情。神奈川近代文学館所蔵の「冬夏」は木下杢太郎旧蔵書だが、駒場の方はどうなのだろうと前から気になっていたのを思い出したので確認してみたら、こちらは3冊所蔵のうち1冊が品川力寄贈だった。ペリカン書房店主と串田孫一の交流のことを思い出して嬉しい。
○ほんのついでに、『日本近代文学館所蔵資料目録27 佐多稲子文庫目録』(2002年9月25日発行)を眺めていたら、佐多宛戸板書簡が3通あり、そのうちの1通、1985年10月25日付けの封書に『月の宴』(講談社・1985年10月刊)受贈の礼状に、佐多稲子が同年5月号「群像」に寄稿した『たけくらべ』についての論考に対する所感添えられてあるとのことで、「おっ」となる。戸板康二が佐多稲子にどんなことを書いているか、とても気になるので、後日確認しないといけない。
○「群像」1985年5月号掲載の佐多の論考に反論するかたちで、7月号に前田愛が『たけくらべ』所感を寄稿し、それらを受けて、同誌9月号には野口冨士男が「『たけくらべ』論考を読んで――前田愛氏説への疑問」を寄稿(『時のきれはし』講談社・1991年11月刊に収録)。そんなちょっとした論争のなかで、野口冨士男が佐多説に共感を寄せていることが前々からたいへん印象に残っていた。その際の佐多の野口宛書簡は、越谷市立図書館発行の『野口冨士男文庫 4』(2002年3月1日発行)で読むことができる。野口は8月17日に佐多に書簡を送り(佐多書簡は同月15日付。迅速な返信)、『月の宴』受贈の礼状は10月31日に投函している。
○さらに、ついでに『稲垣達郎文庫目録』(1995年5月31日発行)で戸板康二の著書を探してみたら、何冊か並んでいた。そのごく平凡な並びのなかにひょっこりと『街の背番号』が混じっているところがたいへんほほえましく、嬉しい。ますます稲垣達郎に親しみを感じるのだった。
○午後5時、吉祥寺で乗り換えて荻窪へ。なんとなく気が向いて、わざわざ雨のなかをささま書店へ出かける。サクサクと安い本を何冊か手にとってハイ、というささま書店ならではの歓びをひさびさに満喫。と、そんななか、ずっと前から売っている『回想の石丸重治』(三田文学ライブラリー発行非売品、昭和44年11月15日)が目にとまり、うーむ、待っていると本当に機が熟すのだなあとしみじみ感じ入る。えいっと手にとって、お会計。ドトールで豆乳ラテを飲んで、ひと休み。買ったたばかりの本を次々に眺めてホクホクという、ささま書店のいつものたのしみをしみじみと満喫。あいかわらず雨がシトシト降ったまま日没となり、連休が終わる。

2009年5月7日(木):
○連休が終わっても2日過ぎればまた休みだ、嬉しいなア! と早起きして、機嫌よく外出。いつもより空いている朝の喫茶店で、昨日買ったばかりの『回想の石丸重治』をじっくりと繰る。繰れば繰るほど、いい本を買ったなア! と嬉しい。戸板康二は寄稿していないけれども、池田弥三郎が「石丸さんのこと」と題して、波多郁太郎のことを中心に書いている。
○白井浩司(1917年生)が《私は暁星から慶応の文学部予科に入学したのだが、暁星ではフランス語が第一外国語で、英語はほとんど初歩的なことしか学ばなかったから、英語の授業にはまるっきりついていけなかった。(中略)試験の点は悪かったと思うが、どうにか進級できたのは、石丸先生がおられたおかげである。というのは先生は、私のほかに数人いた暁星出身者のために、無償で英語の個人教授をしてくださったのだが、いくらよき時代であったとはいえ、教育者としての全力投球ぶりがわかると思う。》と書いているのを見て、戸板康二はこういうことはなかったのかなと気になってきた。
○戸板康二は『回想の戦中戦後』でチラリと言及した以外は著書ではほとんど石丸重治のことは書いていない、と思っていたら、「週刊読売」昭和51年2月21日号掲載の『三田紳士録 テレ屋で人情家』と題したエッセイで、《ぼくの知っている人に限定して書くが、慶応らしいタイプということになると、予科の時、英語を習った石丸重治さんをまず思い出す。大変はにかみやで、話しながら顔を赤らめるところが、都会人らしかった。》と書いていた。探せばまだあるかもしれない。

2009年5月8日(金):
○いまはなき「俳句朝日」の七田谷まりうす氏の『文人たちの俳句』という連載がとてもおもしろくて、図書館でコピーをとっていまでも大切に保管している。連載第2回(2003年8月号)は「戸板康二」で、この連載を知ったのは、戸板康二が取り上げられていたのがきっかけだった。第2回が戸板康二、というあたりがいかにも象徴的だが、その後の顔ぶれがうーむと唸ってしまうような味わい深いものなのだった(龍岡晋が2回にわたって登場したり、極私的に注目していた高橋潤も登場)。
○さて、七田谷まりうす『文人たちの俳句』第20回は「長谷川春草―銀座出雲橋はせ川」(「俳句朝日」2005年4月号)。《第二次大戦前の一時期、この店で「はせ川句会」が開かれ、横光、永井のほか、久保田万太郎、久米正雄、石塚友二、たまに石田波郷らが参集。》とあり、「俳句とエッセイ」昭和47年5月創刊号所収の永井龍男と車谷弘の対談が紹介されている。車谷弘が、「俳諧雑誌」を見て、万太郎みたさにその句会に出かけてみたら、万太郎はいなかったが、《そのとき披講した人がね、ちょっと猿之助みたいな感じで、唐桟の着物を着てね、いい声なんですよ。いきな恰好して、うまいもんだな、と思って、つくづく感心したことがある。それから何年か経って、菅忠雄さんや、永井さんにつれられてはせ川(銀座・小料理屋)へ行ったら、その人がお燗番をしている。びっくりしましてね。ああ、これが長谷川春草だったのか……》とのこと。
○夜、コルトーのショパンを聴きながら、『久保田万太郎全集 第14巻 俳句』をひさびさに繰る。『これやこの』のあとがきに、「はせ川句会」のくだりがあって「おっ」となったあとで、あちらこちらを繰って、宵っ張り。万太郎によると、「はせ川句会」とは、《平素客の用に供さない二階を借りてやった句会》で《文藝春秋社の永井龍男、桔梗利一、鈴木俊秀の諸君の発起したもの》で、久米正雄、横光利一、瀧井孝作、石田波郷、石塚友二も参加した《自由この上もない会》で、《春草未亡人、とくに商売休みをした上、取って置きのビールを惜気なく供出したりして、文藝春秋社のかわらざる眷顧にむくいたものである》とのこと。文藝春秋社の面々が「はせ川」の常連になったのは、万太郎が永井龍男を連れてきたのがきっかけだったから、「はせ川」が文壇人の溜り場となったそもそもの発端は久保田万太郎ということになるのだった。

2009年5月9日(土):
○ひさしぶりによいお天気で嬉しい。神田の古書会館へ行く。今日はあまり時間がないのだったが、半年に一度のおたのしみ、城北展なので無理やり出かけるのだった。と息巻いて会場に入場したとたん、アルス社の『現代商業美術全集』の端本が並んでいるのが目に入り、このうちのどの巻だったか月報に内田誠が文章を寄せているのを知っていつつもコピーを入手し損ねているのを思い出す。とりあえず偵察を開始してみると、2冊目に手にとった第9巻の「店頭店内設備集」に挟み込まれている「月報第十」に「明治製菓宣伝部」という肩書付きの内田誠が『アメリカの商店街印象記』という一文を寄せているのを発見。昭和4年5月発行だからかなり最初期の文章だ。嬉々と手に取る。「現代商業美術全集」の端本は前々から1冊は手元に置いておきたかったので、嬉しい。

2009年5月10日(日):
○弁当をこしらえて、「音楽の泉」を聴きつつ身支度。モーツァルトの弦楽五重奏ト短調の第三楽章の途中で外出。一日図書館にこもる。
○「文藝春秋」誌上の「同級生交歓」の戸板康二登場は、昭和32年1月号の串田孫一と梅幸と3人で登場している号のみかと思っていたら、あともうひとつ、昭和47年7月号に慶應国文科の同級の三越の岡田茂と二人で登場していると知って軽く興奮していたのを思い出したので(メモが出てきたので)、はやる気持ちを抑えつつ閲覧。三越の岡田茂を思うと、いつも頭のなかで「なせだ!」と叫びつつ、つい笑ってしまうのだった。
○もうひとつの「同級生交歓」は無事に発見。三越社長の岡田茂と二人で三越の社長室で、一枚の写真におさまっている。岡田による文章を全文抜き書き、《戸板君と私とは昭和七年慶応文学部の予科に入学し、昭和十三年国文科を卒業するまでの六年間一緒だった。/彼は真面目で勉強がよく出来たし、私は余り授業に出なかったので試験のときはよくノートを借りたものだ。/彼は当時から歌舞伎や演劇ばかり観てよく研究していた。私は広告研究会やら新聞やら学生キャンプ・ストアの研究とか云って走り廻っていたのだが、気が合うと云うのか、一番親しかった。/現在戸板君に三越劇場の企画顧問になっていただいているのも、「三越時好会」のメンバーとして、店の経営についていろいろアドバイスをいただいているのも偶然ではない。》。
○この「同級生交歓」のコピーは、場所ふさぎになるなあと思いながら、頭のなかで「なぜだ!」と叫びながら、戸板康二の序文目当てに買ってしまった(3冊500円)、岡田茂の『小説 泡沫』(東京アド・バンク、昭和55年1月)の間に挟んでおこうと思う。
○岡田茂と戸板康二というと、「季刊中央公論経営問題」昭和47年秋季号(1972年9月発行)で「演出力」というタイトルで対談している。《宣伝畑一筋の岡田さんだが、戸板さんもかつて明治製菓の宣伝部に在籍されたことがある》とまえがきにあるので期待して読んだら、岡田茂が一人でしゃべっていてちっともおもしろくない。三田の同級生同士の、製菓会社とデパートの宣伝部ばなしのようなものをぜひ聞きたかった。その末路はすっかりひどいことになってしまった岡田茂だけれども、もちろん功績だってあるはずで(たぶん)、宣伝部ばなしはなかなか興味深いのだった。
○その対談と「同級生交歓」はほとんど時を同じくしている。『元禄小袖からミニ・スカートまで』も同年の、昭和47年11月の刊行。昭和47年は岡田茂が社長に就任した年なのだった。失脚、逮捕はその十年後。

2009年5月11日(月):
○昼休み、本屋へ駆け込んで、講談社文芸文庫の新刊の『なぎの葉考・少女 野口冨士男短篇集』をガバッと購い、そのままスターバックスへ移動、ソファでしみじみ眺めて嬉しい。講談社文芸文庫は、去年5月は戸板康二が出て、今年5月は野口冨士男、来年5月はぜひともふたたび戸板康二を(わたしの第一希望は『久保田万太郎』)……などと思いながら、買ったばかりの野口冨士男をペラペラと繰って、いつまでも嬉しい。
○『冬の逃げ水――鶯谷』に、上野の桜木町に《日本の二大菓子メーカーの一つであった会社の社員に嫁していたきいちゃんという私より三つ四つ年長であった父方の従姉の婚家》があったというくだりが目にとまる。すっかり忘れていたが、前々から、これは森永と明治のどちらなのだろうとたいへん気になっていたのだった。どっちだろう? と虚空を見つめているうちに時間になる。
○帰宅すると、野口冨士男『いのちある日に』(河出書房、昭和31年12月)が届いていて、わーいわーいと大喜び。日中は新刊を買い、帰宅後は長年の探究本が届く、本日はなんたる野口冨士男日和であることよ(詠嘆)、と本棚に立てかけていつまでも悦に入る。寝るときはもちろん枕元に置く。
○『いのちある日に』は『海軍日記』を妻を語り手にして小説に仕立てた、という趣きのもので、語り手の名前は「加奈子」。「加奈子」といえば、戸板康二にも『加奈子と嘘』という短篇があるのだった(『うつくしい木乃伊』所収)。

2009年5月16日(土):
○朝食の食卓にて。昨夜帰宅が遅くなり置きっぱなしにしていた昨日の夕刊を眺める。今月の新橋演舞場の吉右衛門の『金閣寺』の松永大膳はたいへん見事なのだそうだと、劇評をフムフムと熟読したあと、本日の朝刊へ。「天声人語」の冒頭に戸板康二の名前が登場している。《国文学や民俗学の大家だった折口信夫は略語を好まなかったそうだ。地下鉄と言わず「地下鉄道」、企業の名前も「鐘紡」ではなく「鐘淵紡績」とわざわざ言っていた。教えを受けた作家の戸板康二が回想している》云々。このようにして1年に1度か2度、戸板康二の名前が「天声人語」に登場することがある。ネタ帳としての戸板康二。朝日新聞といえば、先日小山内薫の写真が島村抱月になっていて、大受けであった。
○正午前、中央線に乗り換えて三鷹へ出かける。三鷹市美術ギャラリーでラウル・デュフィ展を見たあと、玉川上水沿いを吉祥寺に向かって歩く。その途中、山本有三記念館の前を通りかかり、よい機会なので見物に入る。明治大学文芸科の講師たちが写っている写真に三宅周太郎がいる。昭和7年の三宅周太郎。戸板康二が三宅周太郎の謦咳に接したのは昭和8年が最初だったから、当時はこんな感じの風貌だったのだなと、三宅周太郎の写真をしばし凝視。三宅をモデルにした中戸川吉二の『ペティ ブルジョワ』(「新潮」大正11年5月号)にあった三宅の衣裳道楽のくだりを思い出し、この着物やいかにと、その服装にも注目であった。のんきな大正期と違って、この頃は衣裳道楽の余裕はなかったかもしれないけれども。

2009年5月17日(日):
○夜、本棚の整理。先日いただいた、昭和7年8月封切の成瀬巳喜男の松竹映画『チョコレートガール』の新聞広告(「読売新聞」昭和7年8月24日夕刊)のコピーを「明治製菓ファイル」に収納する。このファイルの直前には、「文藝春秋」昭和56年12月号掲載のグラビア「背広と私」の切抜きがはさんである。戸板康二の昭和15年の写真で、背後にかすかに「菓」の看板が見えるので、明治製菓本社前で撮影したものと思われる。ついでなので、戸板康二による文章を全文抜書き。《昭和十五年四月、明治製菓の宣伝部にいたころの写真である。先輩のまねをして背広を着て、三田の山に通学したこともあるが、まだ服が身につかなかった。サラリーマンになって二年目、やっと格好がついたという時期で、この服は三越の洋服部で作ったものだ。紺のダブルをはじめてこしらえて、はしゃいで、宣伝部のカメラマンにたのんで撮して貰ったのである》。とても若々しい、いい写真。
○その隣りには、「小説中央公論」第2巻第4号(昭和36年10月発行)のグラビア《作家の古巣》。十返肇が森永製菓の鶴見工場で作業服を着て写真におさまっている。これも見つけたときは嬉しくってコピーをとっておおはしゃぎであった。ここに添えられている十返肇の文章を全文抜き書き。《私が森永製菓に勤めていたのは、昭和十一年から五年間である。その間、率直にいうとこの鶴見工場へは一度も来たことがない。つまり、それほど私はナマケ社員であったわけだ。そのころは、コピー・ライターなどという言葉はなく、文案家とよばれた。「チョコレートを召しませ、南国の味!」などと、のんきなことを書いていたのが、いつのまにやら牛乳の広告に「父子二代の勇士をつくれ」などと書かねばならなくなり、ついには乾パン以外に広告するものがなくなって退社した。森永は勤めやすい会社であった。しかし、恐らく、いまの方が、もっと勤めやすい会社になっているに違いない》。





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