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*「戸板康二ダイジェスト」制作ノート・更新メモ、2004年11月更新分(042)を当時のまま載せています。リンク切れはご容赦。




#042
続「戸板康二街道をゆく」(30, November. 2004)


「シブい本」って何? とクリックすると戸板康二、という展開が制作者としては気に入っていたのであったが、一応のトップページの A Moveable Feast のコンテンツ縮小に伴って、「戸板康二ダイジェスト」も若干の模様替え。ただいまアクセスしていただいている「戸板康二ダイジェスト」の URL も http://www.ne.jp/asahi/toita/yasuji/ に変更になっているはず。Toita Yasuji という文字がアドレスに入っているのが嬉しい。URL 変更は単なる容量対策なので以前のアドレス(http://www.on.rim.or.jp/~kaf/books/)もそのまま継続します。これを機にコンテンツを少しずつ改訂していくとしよう。

というわけで気分一新、ドシドシ更新だー、のその前に、ここ3ヵ月のわが戸板康二道を振り返ってみたい。名づけて「戸板康二街道をゆく」。(前回に引き続き、ネーミングはちわみさんの「森茉莉街道をゆく」の真似ッ子)。 はてなダイアリーで書いている「日用帳」から抜粋したり新たに書き足したりの「戸板康二街道をゆく」、以下長々と。しかし、3ヵ月もたまるとさすがに冗長過ぎ、書き漏らしたことも多そう。これに懲りて、今後は、「日用帳」の補完をしつつ、折に触れてここにメモ書きしたりいものだなあと思うのだった。

それにしても、「BOOKiSH」の戸板康二特集号と岩波現代文庫の『歌舞伎への招待』[*] で始まった2004年。今年、戸板康二道はますますおもしろい。このページにもどんどん反映させないとなあと思っているうちに、もう師走……。

某日:

冬夏
今年になって「冬夏」あれこれに夢中だったなかで、8月に文京区の鴎外図書館で鴎外特輯を閲覧したのを機に、ますます「冬夏」に夢中だった。勢いにのって、石神井書林の目録で見てからというものずっと悩んでいた本誌を購入(第11号:昭和16年5月)。9月が始まると同時に届いた。これを機に「冬夏」調査にますます夢中、たいそう面白かった。戸板さん自身も書いている通りに、明治製菓で内田誠のもとで「スヰート」の編集にいしそんでいた時期だったこともあって戸板康二は「冬夏」にはそんなに深くは関わっていなくて、全16号のうち原稿を寄せているのは計3号。そのうち2本は、「冬夏」の縁で出版された初の著書『俳優論』[*] に収録されている。雑誌そのものには深くは関わっていないものの、戸板康二を考える上ではなにかと注目の「冬夏」、その主要な登場人物は串田孫一、同じく暁星の同窓の医師・三浦義彰、矢内原伊作、串田孫一の叔父さんの今村信吉、その縁で元文藝春秋の編集者の大草実(のちの「詩学」の嵯峨信之)、それから渡辺一夫、木下杢太郎も登場する。……といった「冬夏」のまとめファイルは近日に戸板康二ダイジェストにアップするつもり。なんとか年内には…。


某日:

「冬夏」を購入したとたん、明治製菓勤務時代の戦前、戸板康二が内田誠の部下として編集に携わっていた頃の「スヰート」を初めて見た。表紙絵は曽宮一念であった。曽宮一念も「冬夏」の人物誌にそこはかとなく関連のある人物。それと時期をほぼ同じくして、金子さんの「新・読前読後」で講談社文芸文庫の『榛の畦みち/海辺の熔岩』のことを知った。ちなみに同日、わたしは京橋図書館で曽宮一念の『東京回顧』を借りたばかりだった。【→「新・読前読後」9月5日付

その1週間後、金子さんと同じく、ささま書店で講談社文芸文庫の『榛の畦みち/海辺の熔岩』を購入。【→「日用帳」9月12日付


某日:

戸板康二が「製作」として名を残している東映映画、堀川弘通監督作品『女殺し油地獄』を見て、予想以上に堪能した映画で嬉しかった。次なる野望は、原案者4人「井原康男 」のうちの一人として参加している『サラリーマン忠臣蔵』。後日、NHK-BS でまたもや見たと(以前にも放映があったらしい)、ある人から自慢された。【→「日用帳」9月7日付


某日:

お友だちに誘われて、久しぶりのお能見物。国立能楽堂で『野宮』を見たあと、千駄ヶ谷のレピシエにて紅茶を飲んでひと休み。……おや、戸板康二と何の関係が? と言われそうであるが、どうしてどうして千駄ヶ谷というといつも思い出すのは高松屋、中村雅楽なのだ。と、雅楽探偵のことを思い出していたら、「新・読前読後」にて《『グリーン車の子供』と戸板ミステリ》がアップされてホクホク。【→「新・読前読後」9月15日付

戸板康二が「雅楽」と名づけたのは歌右衛門の「歌」を「雅楽」におきかえたことにちなむのだそうで、となると、千駄ヶ谷に自宅を設定したのも成駒屋を連想してのことなのか。早稲田大学演劇博物館の《五代目中村歌右衛門展》によると、歌右衛門の千駄ヶ谷の邸宅は、現在地では代々木の向こう側なので現在言うところの千駄ヶ谷とはちょっと感覚は違う。雅楽シリーズに初めて千駄ヶ谷の家が登場したのはいつだったかしら……。といった調子で、雅楽がらみのマニアックな追求もいろいろしたいものである。


某日:

西荻の音羽館で、向井敏著『本のなかの本』(中公文庫)を購入。以前に『ちょっといい話』の書評目当てに図書館で借りたことのある本だった。

同日、荻窪のささま書店にて、鍋井克之『大阪繁盛記』(東京布井出版、1994年)購入。鍋井克之は『今日の歌舞伎』[*] の装幀をしている。『思い出す顔』[*] の、
むかし、ぼくの「今日の歌舞伎」の装本を願ってから、個展なので上京の時には声をかけてもらっていた鍋井克之氏が、築地の定宿に泊まっているのと訪ねた時、宇野さんがその部屋にいた。

冬で炬燵が座敷の真中においてあり、ぼくは招ぜられて、宇野さんの左隣にすわった。ぼくの名前や仕事について御存じないと思ったし、名刺も出さず、名のっただけだったが、黙って宇野さんはうなずいた。

約一時間いて、鍋井さんとは、近ごろ見た芝居の話などして帰ったが、そのあいだ、宇野さんは、無表情のまま、一言も口を利かなかった。眠っているのかと思ったが、そうではない。鍋井さんとぼくの顔を時々、何となく観察しているようでもある。

辞去する挨拶にも軽くうなずいただけで、宇野さんの声をとうとう聞けなかったのである。

玄関まで送られ、鍋井さんに、「宇野さん、御機嫌が悪いんですか」とそっと尋ねたら、「いやいや、あなたが気に入らなかったのでも何でもありません。いつも、ああなんです。戸板さんがきらいなら、すぐ帰る人です」といわれた。

べつの章にかいた原民喜氏も無口だったが、まさか、こんなことではなかった。
というくだりがいいなあ……。このときが戸板康二が宇野浩二に対面した唯一の日なのだったが、いろいろな書き手による宇野浩二の回想は毎回必ず面白くて、毎回ツボなのだった。【→「日用帳」9月12日付


某日:

京橋のフィルムセンターで、市川崑『花ひらく 眞知子より』を見た。思えば、野上弥生子の『真知子』を読んでみようと思ったのは、『劇場の椅子』[*] 所収の「真知子の眼」がきっかけだった。この「真知子の眼」の初出はお能の機関誌「観世」でその編集部にいたのが、小型本の三月書房の吉川志都子さん。三月書房の小型本が初版の戸板さんのエッセイ集(『ハンカチの鼠』、『女優のいる食卓』、『夜ふけのカルタ』)は大の愛読書なのだが、「真知子の眼」の頃にその誕生の萌芽がみてとれるともいえよう(たぶん)。【→「日用帳」9月18日付


某日:

東京古書会館の趣味展にて、三宅周太郎著『演劇評話』(新潮社、昭和3年)を手にとって大喜びした直後、『回想の向坂隆一郎』(向坂隆一郎追悼集編集会、昭和59年)を発見し、会場のあちこちでいろいろ迷ってフラフラになったあとで、各種演劇雑誌がわんさと積んであるのでさらに興奮。【→「日用帳」9月25日付

ここでは購入した演劇雑誌メモ。昭和20年代の演劇雑誌については、特集ページを追々作ろうと思っている。と、抱負ばかりがありすぎる。

(1) 「日本演劇」昭和24年12月(第7巻第12号)
(2) 「幕間」昭和23年6月(第3巻第6号)
(3) 「花道」昭和27年1月(第19号)創刊3周年記念号
(4) 「花道」別冊《吉右衛門歌舞伎》昭和25年11月
(5) 「新演芸」大正14年2月(第10巻第2号)

『回想の向坂隆一郎』に関しても追って書き足したい。とにもかくにも一級の戸板康二資料であった。


某日:

趣味展に引き続いて、毎年10月恒例の早稲田の穴八幡の「青空古本祭」にて、「幕間」を入手。この日入手したのは昭和22年11月号で、戦後初の著書、『わが歌舞伎』[*] の広告が掲載されている。版元の和敬書店社主、関逸雄自らが推薦文を寄せているのを発見。
学生時代に某雑誌で本書の一部を読み非常に感銘をうけました。そうしてそれはもっとも適切なる鑑賞手引として私の歌舞伎への熱情を正しい方向に導いて呉れました。爾来本書の上梓は私の熱願でしたが、本書の原稿は戦災により著者に於かれましても散逸された由聞かされ、一時失望落膽したのでありましたが、幸いにも小島政二郎先生が良書として本書の大半を保存して居られましたので、早速拝借して改めて著者に補訂して頂き、挿絵五十葉も新たに鳥居氏に書いて頂き、此処に出版の運びとなりました。私の熱愛のこの好著を、その内容に相応しい立派な体裁に致しましたから是非御一読下さる様、個人として御推薦申し上げます。
あ、熱い……。「幕間」にまつわるあれこれはやはりとても面白くて、思えば、先に挙げた『今日の歌舞伎』[*] の装幀が鍋井克之になったのも、もとをたどると「幕間」の縁だったと戸板さんは書いているのだった。このあたりも追々追求したいところ。


某日:

『回想の向坂隆一郎』(向坂隆一郎追悼集編集会、昭和59年)で知った、田沼武能の写真集、『東京の中の江戸』(小学館、1983年)を京橋図書館で借りた。【→「日用帳」10月3日付


某日:

『演芸画報・人物誌』[*] をめくっていたら岡栄一郎の項が目にとまった。これを機に、岡栄一郎の娘、文春の編集者だった岡富久子の著書、『あざなえる縄』を購入。藤沢清造のことを考えたりもする。と、いつ読んでも無尽蔵の『演芸画報・人物誌』。【→「日用帳」10月7日付


某日:

アンダーグラウンド・ブック・カフェ〜地下室の古書展」へ出かける。「漫画読本」と三田出身の編集者、鷲尾洋三の著書に大喜び。戸板康二に関しては、文春がらみも無尽蔵だなあとたいへん感激。西秋書店さん、どうもありがとう!【→「日用帳」10月17日付


某日:

馬場孤蝶『明治の東京』(現代教養文庫)を入手。解説は槌田満文氏。槌田満文解説の文庫本は好きな本が多い、というのが、自分内法則のひとつ。槌田満文さんは東京新聞の記者をしていたとき、戸板さん唯一の新聞小説『松風の記憶』[*] の担当をしていた人。【→「日用帳」10月22日付


某日:

三越歌舞伎へ出かける。戸板さんと三越、というのもちょっと追求したいテーマだ。『元禄小袖からミニスカート』[*] のこととか、矢野誠一さんが初めて戸板康二に声をかけられたのが三越の本屋さんでのことだったとか、日本橋三越の特別食堂がお気に入りだったとか、企画委員をしていた三越名人会のこととか、その日本橋三越からの東京歩きのことなどなど。それから悪名高い、三越元社長の岡田茂のこともはずせない。小林信彦の『現代死語ノート』(岩波新書)でおなじみの「なぜだ!」の岡田氏は慶應国文科出身で戸板さんのお友だちなのだった。うん、「なぜだ!」と叫びたい瞬間は誰にでもある。まあ、どうでもいいんだけど。【→「日用帳」10月23日付


某日:

練馬区立美術館で《池袋モンパルナス》展を見る。このあたりの画家にますます心惹かれるきっかけになった洲之内徹のコレクションを常設している宮城県美術館行きの日を夢見る。仙台では戸板康二のルーツを探らねばならぬのだった。【→「日用帳」10月24日付


某日:

長らくの念願だった、戸板女子短期大学図書館戸板康二文庫を見学! このことについてはいろいろ書きたいことはあれども、いったいどうしたらよいのか。その頃買ったばかりの武智鉄二の『蜀犬抄』の装幀をしているということで名を知った高橋周桑は、昭和16年初版の『かりの翅』の装幀もしていたことを知った、戸板さんの本棚で! その頃に胸を躍らせていた『ロビーの対話』[*] 所収の「へんちき論」で戸板さんが引用していた岡鬼太郎の『江戸紫』(鈴木書店、明治45年)を見つけて手にとった、戸板さんの本棚にあった本! そうだ、『つき草』もあった! などなど、「!」のオンパレードであった。とりあえず、図書館のサイトで日々検索して、今後の調査の大きな指針としたい。(→検索フォーム


某日:

荻窪のささま書店の100円コーナーで、金子信雄の『新・口八丁手包丁』(作品社、1980年) に戸板さんが序文を書いているのを発見。嬉々と購入。戸板康二の序文付きの本リスト、というのを去年の今頃作り始めたものの、それっきりになって1年が経過してしまった。同日、入手した山口瞳の男性自身シリーズ『私の根本思想』(新潮社、昭和61年)に戸板さんについて書いてある箇所がいくつかあった。ちょっと長くなるけれど、日航機墜落事故の頃に書かれた「ウヘホムフイテ」より抜き書き。
戸板康二氏の『おととしの恋人』(三月書房)[*] にも、いくつかの追悼文がある。高橋誠一郎、田辺茂一、池田弥三郎、伊馬春部、有吉佐和子、平井道子、柳永二郎、長谷川一夫の諸氏を追悼した文章である。

戸板先生は、永(六輔)さんとは少し違って、お人柄で、おっとりと故人の良いところを取りあげている。いきなり、先輩に失礼なことを申しあげるようであるが、戸板先生は大病をされてから、一段と文章に味がでてきた、奥が深くなってきたように思う。私は、昔から先生の文章が好きだったが、いまのほうがもっと好きだ。

戸板先生の文章には、久保田万太郎の影がいよいよ濃くなってきたように感ずる。特に俳句がそうだ。それを一息でいうと、含羞と端正ということになる。劇評家という、いわば傍観者の仕事を長く続けておられたので、抑制のきいた文章が完成したとも言える。それが羨ましい。

「戸板の劇評はね、芝居を批判しているんじゃないんだ。こんな良い芝居があるから見にいらっしゃいと言ってるんだ。根っからの芝居好きなんだね」

と、どういうわけか涙ぐんで言う池田弥三郎先生の言葉を思い出す。

その戸板先生の有吉佐和子を偲ぶ文章に次の箇所がある。

「先ごろ、一編の推理長篇を書きおろし、ゲラが出版社から届いたが、率直にいえば、有吉さんの作品としては買えなかった。だから、作者自身の要望らしかった PR 誌への紹介を辞退したのだが、今思うと、私感をしたためた手紙を送っておけばよかったと、くやまれる」

いかに故人であっても、駄目なものは駄目とハッキリと書いておられるのである。私は、文壇のこういうところが好きだ。本音で言うということだろうか。
戸板さんと山口瞳が初めて出会ったのが新橋の「トントン」という酒場。戸板酒場地図、というのも作りたいなあ。と、抱負だけは本当に無尽蔵だなあ。【→「日用帳」11月5日付


某日:

その2日後、またもやささま書店へお出かけ。『岡鬼太郎花柳文芸名作選』全12冊+別冊(鳳書院、昭和55年) を買った。一応購入前に中を確認させてもらおうと店員さんに申し出たら、「ふっふ、安過ぎるから心配なんでしょう〜」と笑われてしまった。い、いや、そういうわけでは……。いや、やっぱりそうか。『歌舞伎眼鏡』も100円で買った。【→「日用帳」11月6日付


某日:

歌舞伎座の昼の部で、岡本綺堂の『箙の梅』を見る。大正4年に帝劇で上演された作品だと知って、戸板さんの生まれた大正4年の興行に思いを馳せるのだった。思い出すのは、武智鉄二が「歌舞伎の暗黒時代」(『歌舞伎の黎明』所収)という文章に書いていた、大正4年の帝劇の『髪結新三』における菊五郎と松助のこと。と、これを機に、後日図書館で大正4年の「演芸画報」を眺めたりも。戸板さんの生まれた大正4年を、演劇史のなかで捉えてみるというのは案外意義深いことのようである。この頃、小山内薫たちによる『世話狂言の研究』に結実した「古劇研究会」が催されていたりもする。『演芸画報・人物誌』で戸板さんは、《歌舞伎が團・菊・左歿後の悲観論を一掃するようにさかんになり、現代からいえばフタ世代前の名優の技を競う時代が盛り上がろうとする、明治末に生れたこの雑誌三十六年の歴史は、そのまま、大正から昭和前半にかけての、歌舞伎全盛期を反映しているともいえそうだ。》と書いているのだったが、この頃がまさしくそんな時期なのだった。

今月の歌舞伎座は『関の扉』がらみでひとりで盛りあがり、七代目三津五郎のことを考えたりもした。【→「日用帳」11月14日付

去年1年間は見物には行っていたものの総じて歌舞伎に対するモチベーションがおおむね低下していたのだったが、『歌舞伎への招待』の岩波現代文庫化で始まった今年は歌舞伎をとてもたのしんだ1年だったと思う。歌舞伎なくして戸板康二道なし、なのだから、歌舞伎がたのしいとわたしはとても嬉しい。


某日:

戸板さんが仕事場として使っていたという新橋第一ホテルの脇を歩いて感激する。【→「日用帳」11月22日付


某日:

翌日、戦前戸板康二が国語教師を1年間していた、桐朋女子(戸板さん在職当時の名称は山水高等女学校)の脇を歩いて感激する。【→「日用帳」11月23日付

女学校教師時代の戸板康二というと、『才女の喪服』[*] に絡めて、金子さんが「新・読前読後」に書いてくださっていて感激。【→「新・読前読後」11月10日付


某日:

メールマガジン「皓星社通信」の連載で、濱田研吾さんが「戸板康二ダイジェスト」をご紹介くださっている(→11月28日付け)。濱田さん、どうもありがとう! 

滝沢荘一著『名優・滝沢修と激動昭和』(新風舎文庫)を読んだり、早稲田の演劇博物館で千田是也展を見たりと、新劇史関係でもこのところなにかとたのしかった。【→「日用帳」11月13日付

滝沢修というと、昭和18年に帝劇で上演の滝沢修主演の『三笑』のことを、戦争中見た芝居のなかでも特に忘れられない舞台だったいうふうに戸板さんが書いていたのを思い出す。それから、滝沢修というといつも思い出すのが、古川ロッパ著『劇書ノート』、安藤鶴夫初の著書『随筆舞台帳』(和敬書店、昭和24年5月)のところ、
例えば三宅周太郎を中村吉右衛門に見立てて、戸板康二を滝沢修に見たてたら、この人の芸風はさア、……
ロッパが劇評家を俳優に見立てる際、滝沢に見立てられている戸板さん! と、この一節を見たときは、とても嬉しかった。安藤鶴夫が何にたとえられているかはここでは内緒。

というわけで、気分一新で12月からはドシドシ改訂……、していければいいなと思う。折口信夫の『かぶき讃』が中公文庫より刊行予定になっていることだし。



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