#029
岩佐東一郎邸の「交書会」(02, November. 2003)
■ Chronology【私製・戸板康二年譜 1915-1993】に追加と訂正。
■ 『思い出す顔』[*] をひさびさにじっくりと読んで、その記述からいくつか年譜に追加した。『回想の戦中戦後』[*] の5年後に刊行された『思い出す顔』はあとがきによると大村彦次郎のすすめで書き下ろされたのだそう。両者の記述は重なるようでいてそうでもなく、『思い出す顔』では比較的赤裸々ともいえそうなことも書いてあったりする。とにもかくにも絶好の資料となっている。
■ 『回想の戦中戦後』と同様、『思い出す顔』も何度も読み返しているはずなのに、読み返す度に毎回必ず「あっ」という発見がある。今回まず「あっ」となったのは、串田孫一の『日記』の昭和20年4月6日付け(→ click ! )に記載のある戸板康二からのハガキに関すること、
この葉書は絵葉書で、彼の、「薔薇」という題の油絵で、明治倶楽部美術部、昭和16年5月例会に出品したもので、その頃に貰った記憶がある。
というくだりを串田孫一の日記で目にして、ふむ、戸板さんは明治製菓宣伝部勤務時代に「明治倶楽部美術部」に所属していて「薔薇」という絵を描いて絵葉書にまでしてもらっていたのかとびっくりしていたのだったが、『思い出す顔』にきちんとその言及があったのだった。
明菓の社員のあいだに、カメラだのスポーツだののグループがあったが、美術部というのが、宣伝部員やイラストを担当する図案部員を主にしてできていて、油絵の指導を、山本鼎画伯に願っていた。詩人の山本太郎氏の父上で、北原白秋の義弟である。ぼくも道具を買って、何枚かの油絵を描いた。バラを描いたのが、原色版の絵はがきになっている。展覧会の時、部員の作品を光村印刷で作ってもらったのだが、多分、宣伝部費でおとしたのだろう。思えば、僭上の沙汰であった。
やっぱり何度読み返しても「あっ」という発見がある。串田孫一の日記を読んだあとだったからこそ、『思い出す顔』のこの記述が強く響いてきたのは間違いないのだった。
■ さらに浮き浮きだったのが「光村印刷」という固有名詞が登場していること。「光村印刷」と聞けば、まっさきに『ぜいたく列伝』[*] の冒頭を飾る「光村利藻の愛妾」を思い出すのは言うまでもない。と、『ぜいたく列伝』を繰ってみると、《初めて就職した会社で知り、その大崎の工場にも何回も社の命令で出張した私は、利藻に親近感を持っている》という記述がさりげなく盛り込まれている。ちなみに、戸板さんと同じ大正4年生まれの山本夏彦翁は、戸板康二が亡くなったとき、《去る1月23日戸板さんがなくなったと聞いて「ぜいたく列伝」をあらためて読んだ。》という書き出しで、光村利藻の長男利之の弟の利雄との縁のことを綴っている(『オーイどこ行くの』新潮文庫所収)。直接故人の思い出を書くのでなく、故人の書物をあらためて読んでみたという、こういうスタイルの「追悼文」っていいなアと、いつもながらの夏彦さんのあっちに行ったりこっちに行ったりの文章が心に残っている。
■ それにしても、昭和16年5月に絵葉書にしてもらったという戸板さんの「薔薇」という絵、昭和20年3月にも串田孫一宛に使っているとすると、いったい何枚刷ってもらったのだろうか。この絵はがきによる戸板さんの書簡が古書目録に載っていたら、またもやうっかり買ってしまいそう!
■ 串田孫一の『日記』を読んだあとでページを繰ったからこそ、「あっ」となった『思い出す顔』におけるくだりはもうひとつあって、それは岩佐東一郎の「交書会」のくだり。
ぼくは正岡さんと親しかった詩人の岩佐東一郎さんと、愛書家が集って催す蔵書交換の会をしたり、岩佐さんの作っていた「文芸汎論」にも書かせてもらっていたが、その家が大井出石町の折口先生の近くにあったので、先生を訪ねた帰りなぞに、よく遊びに行った。
と、正岡容の「はげしい鋭気」に一度だけ直接触れた経験について記す際に、ちょろっと岩佐東一郎のことに言及している。この「交書会」のことも、それまでに何度も目にしていたはずだったのになんとなく通り過ぎてしまっていたのが、串田孫一の『日記』での戸板さんの書簡の記述に触れて以来急に心にべたりと貼り付いた挿話だった。それから、さらにびっくりなのが雑誌「文芸汎論」のことが登場していること。岩佐東一郎が戦前に編集していて北園克衛が頻繁に登場している文芸誌に、戸板さんも登場したことがあったなんて! 掲載号が古書目録に載っていたらうっかり買ってしまいそう!
■ なんてことを思っていた折も折、石神井書林の新しい目録が届いた。冒頭の図版にさっそく「文芸汎論」が登場していて、創刊号から148号のうち53冊が60万円で売られていて、ワオ! となった。ちらりと垣間見える表紙の感じといい登場している顔ぶれといい、いつの日か直に接してみたいものだなあと切に思う。戸板康二の本を通して、いつか直に接してみたいと切望する雑誌はいくつもある。まずはなんといっても明治製菓の戸板さん在籍時代の「スヰ−ト」、同じく内田誠が編集していたという「春泥」、池田弥三郎が編集していた実家の天金の PR 誌「ひと」、串田孫一を中心にした同人誌「冬夏」などなど、いずれも戦前の雑誌だ。
■ 石神井書林の目録をめくってみると、岩佐東一郎の詩集や随筆集など何冊かの著作が掲載されている。『三十歳』『午前午後』『幻灯画』『ちんちん電車』『書痴半代記』、それに「風流豆本」! などと、タイトルの字面だけでもかなりうっとりだった。というわけで、届かない「文芸汎論」にうっとりしてばかりいないでまずは何か岩佐東一郎の本を見てみようかしらと、急に思い立って図書館へ出かけた。
■ まず手にとったのが、昭和25年発行の『風船蟲』という本、川上澄生のカットがいい雰囲気を出している私家版の随筆集。目次にさっそく「交書会」という文字を発見! 戸板さんも参加していた岩佐東一郎の主催の交書会の詳細がわかって大収穫だった。岩佐によると「交書会」は敗戦間近の昭和20年5月に第1回が催され、昭和20年12月の時点で第8回を数え、当初の5、6人から20名へとメンバーも増えたとのこと。戸板さんはいつから参加していたのかな、《会員には詩人あり作家あり劇作家あり俳人あり新聞記者あり巡査あり画家あり教師あり会社員あり学生あり老いたるあり、若きもあり、実に唯「書籍」を血縁として集る人々ばかりなのだ。》という「交書会」のメンバー、戸板さんはどういうふうに分類されるのか、当時日本演劇社で演劇記者の仕事していた戸板康二、新聞記者か会社員かなどと推察してみたり。とにもかくにも、岩佐は《交書会のおかげで空襲下も終戦後の今日も、月1回の愉しみが得られ、乏しい私の書棚も常に内容は充実しているのである。》というふうに結んでいるが、戸板さんも岩佐東一郎とまったくおんなじように「交書会」を毎回愉しみにしていたのは確実だ。
■ それから『風船蟲』のなかで「あっ」となったのが「電車の中」という文章。《いつか徳川夢声と会い、さまざまな閑談を交していた時のこと、話しはいつのまにか電車のことに移っていました。》という書き出しに「あっ」となって読み進めてみると、これもまあ、いいなアと、しばし顔をあげてぼーっとなってしまう感じ。岩佐東一郎は夢声の『蠅菌愚談』を読んで、早速このときの話を創作のなかへ応用しているのを発見する。と、なんとなく繰ってみた岩佐東一郎の文章集は、なによりも岩佐の文章そのものがとてもいい感じ。戸板さんよりちょうど10歳上の1905年生まれ、戸板さんと同じく東京育ちで暁星出身、モダンボーイという感じがする。次は、昭和14年発行の『随筆 茶烟亭燈逸伝』という本をめくった。さっそく「百鬼園氏と空腹」という文章に頬が緩む。神楽坂の田原屋での会食の折に百間先生なかなかあらわれず空腹に苦しむという内容で、そのときの切ない描写はなかなか見事だし、「すまぬすまぬ」と登場の百間先生の描写にもにんまり。
■ 岩左東一郎、部屋の書棚にある本では『モダン都市文学第1巻 モダン東京案内』(平凡社、平成元年)に登場していた。「COOKTAILS」というタイトルの、そのまんま「モダン東京」な散文詩。それからもう1冊、日本の名随筆の第40巻、市川崑編集「顔」の巻頭に岩佐東一郎の詩が掲げられている。(この巻は戸板康二のエッセイ「美人薄命」を収録)
「秋の顔」
けろりと晴れた
秋の顔は
ひげ剃りのあとの 清々しさ
シャボンの泡の
雲が 片隅に残っていた
ぼくは
仕事のあとの 散歩に出る
足も ロケットのほこりを立てて
立ちどまって 眺める
果物店の店頭は
柿 栗 青みかん
となりの ショーウィンドには
ぼくの 明るい表情があった
秋の顔に そっくり そのまま
だが ぼくの頭髪には
すでに 初冬の
粉雪がちらちらと
■ などと、戸板康二の『思い出す顔』再読を機に、にわかに岩佐東一郎のことが気になってきたのだった。それにしても、戸板康二の本を読むとどんどん読みたい本が増殖していく。岩佐東一郎の本、さっそく2冊取り寄せ中。
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