#023
串田孫一の『日記』(03, September. 2003)
■ 戸板康二を読み始めたまなしに、まずクラクラしたのが、戸板康二があの串田孫一と暁星で同級だったということを知ったとき。関東大震災でそれまで通っていた愛宕小学校が焼けてしまったあおりで、戸板康二は愛宕小学校で同級だったのちの七代目梅幸とともに暁星に転校、その転校先の暁星に串田孫一がいたという次第だから、串田孫一と戸板康二の交流も大震災のたまものということになろうか。暁星を卒業すると、串田孫一は東大で渡辺一夫の薫陶を受け、戸板康二は慶応で折口信夫の教室に入る。そのあたりのことを思うと、なんてぜいたくな時代だったことだろうとますますクラクラしてしまう。戸板康二唯一の戦前の著書、『俳優論』[*] は串田孫一の尽力で出版され、その後も『劇場の椅子』[*] 、『劇場の青春』[*] が串田孫一の装幀だったりと、戸板康二読みに際して、たまにひょいと串田孫一の影を感じることがある。そのことが戸板康二を読みはじめたまなしの頃、とても嬉しかった。前々から串田孫一というとちょっと憧れの存在だったから。
■ 先日、串田孫一に関するメイルをいただいたことがきっかけで、しばし串田孫一の書物をひもとくことになった。懸案の本があったのだ。戸板康二と串田孫一に関するエピソードのなかで、とりわけ印象的なのが、東京大空襲を機に山形県の新庄へ家族中で疎開していた串田孫一のもとを戸板さんが訪れるというくだり。『回想の戦中戦後』[*] の最終章「新庄に友を訪う」によると、それは昭和21年5月のこと、戸板さんの戦後初の旅行となった。串田孫一は新庄の荒小屋というところに自力で小屋をたてて、一家で住んだ。このことは、串田孫一も「悲劇喜劇」1993年4月号の戸板康二追悼特集で書いている。串田孫一は昭和21年9月まで荒小屋に住んだので、敗戦はここで知ることとなった。山小屋で敗戦を迎える文人の日記としては、野上弥生子の『山荘記』(暮しの手帖社、昭和28年)がある。これに限らず、敗戦下の文人による記録、という系譜に日頃から興味津々ということもあって、串田孫一によるこのあたりの年月のことを書いた本があるので、前々から読まねばと思っていた。その懸案の本とは、
● 『荒小屋記』(東京美術、昭和45年)
● 『日記』(実業之日本社、1982年)
いずれも戸板康二の文章で知った本だ。というわけで、雨で寒かった夏休み、意気揚々と図書館で借りた二冊の本をひもといた。まずは『荒小屋記』を読んだのだったが、荒小屋(小屋の名前ではなく地名)そのものに関する記述は少なかったのだけども、大変感激した文章だった。ここに収められている他の文章もしみじみよくて、串田孫一の香気にあおられっぱなしで、こんな感覚の読書なんて遠い昔の女学生の頃以来だなあとなんとも愉しい時間だった。そして、次に読んだ『日記』は、敗戦をはさんだ戦中戦後の串田孫一の日記で、東京を引き払って荒小屋に移住して東京に帰るまでの様子を伺うことができるのだったが、串田孫一の日記の文章に酔うという悦びだけではなくて、ここに挿入されている串田孫一のもとに届いた手紙を見ることによって、日記帳というだけでなく書簡集という体裁も帯びている、串田孫一の戦中戦後を重層的に浮かび上がらせているぜいたくな構成になっていて、本全体が愛おしいのだった。いつか必ず、一刻も早く部屋の書架におさめたいと切望している。
■ というわけで、串田孫一の二冊の本の余韻が深い余りに、ネットでちょいと検索してみると、なんとくだんの荒小屋の串田孫一の山小屋がまだ現在もそのまま残っているというではないか! と、この事実に大興奮のあまり、一時は本当に山形県新庄まで出かけようかと思ったほど。ついでに仙台にも行こうかしら、宮城県美術館で念願の洲之内徹コレクションを見物せねばなどなど、来るべき人生初の東北行きに向けて夜更かし夜更かし、とひとりで興奮していたのだけれども、その後冷静になりもっとよく考えて練ってから出かけることにしようと自分に言い聞かせた。
■ さてさて、串田孫一の『日記』(実業之日本社、1982年)で思いがけなく、戸板康二による串田孫一宛の書簡をわりとたくさん読むことができた。このことに大感激のあまり、怒濤の勢いで抜き書きファイルを作成、だんだん目が血走ってきている様子は一言で言うと「ハテおそろしき執念じゃなア」という感じだったという。その抜き書きファイルが、
Extract【串田孫一宛て書簡より・敗戦直後の串田孫一と戸板康二】で、Chronology【私製・戸板康二年譜 1915-1993】の当該日付から飛べるようにリンクをはった。
■ なんだかもう、とにかく大感激の戸板さんの書簡と戸板さんと串田孫一の交流ぶりだった。荷風の話題が何度か登場することと、昭和21年6月、菊五郎による『助六』の舞台稽古の様子を目の当たりにした戸板さんの興奮ぶりがとてもよかった(→ click !)。串田孫一の『日記』にはそのときの戸板さんの絵入りハガキが図版として載っている。戸板さんの絵がすばらしい! 助六の海老蔵のところに波打った線があり、ここに「海老蔵ふるえる」という注意書きが添えてあってニンマリ。この図版が忘れられないあまり、コピーして額に入れて本棚の脇に飾ってしまった。ここで抜き書きした、戸板康二の手紙以外にも読みどころ満載で、渡辺一夫の絵もとてもすばらしいもの。荒小屋の串田孫一の部屋には渡辺一夫の絵が飾られたようで、ある日の渡辺一夫の書簡には、
おたよりありがとう存じました。小生のヘボ絵やヘボ字が雪深い国の今様菅公様の部屋に飾られるとは……これも Odero si potero si non invitus amabo (出来たらいやじゃと申そうが、それもならずば、いやじゃがまあ好きと申そう)であります。
とあって、もうひたすら、いいなアとしばしぼーっとしてしまった。Odero si potero si non invitus amabo (出来たらいやじゃと申そうが、それもならずば、いやじゃがまあ好きと申そう)と、これから先こんな状況に立ち会ったら、この言葉を胸に唱えてみたい。渡辺一夫の本が急に読みたくなった。昔、女学生の頃、大江健三郎の初期小説に夢中だった時期があって、それがきっかけで少し読んだきりだ。
#024
三浦義彰の暁星メモワール(15, September. 2003)
■ 串田孫一『日記』(実業之日本社、1982年)のことを前回の制作ノートに書いた直後に『渡辺一夫敗戦日記』(博文館新社、1995年)に出会った。なんて幸福な本読みの過程だろうとしみじみ嬉しかった。前回ここに抜き書きした、串田孫一宛の渡辺一夫のお手紙に引用されていた文句、Odero si potero si non invitus amabo(出来たらいやぢやと申そうが、それもならずば、いやぢやがまあ好きと申さう)の原典はオウイデイウス『愛の歌』3.1.35からの抜き書きとのことで、「できうれば憎まん、然らずんば、心ならずも愛さん」というふうに訳されている。それにしても「出来たらいやぢやと申そうが、それもならずば、いやぢやがまあ好きと申さう」的状況ってのべつだなあと軽くため息……。
■ 前回の余滴をもうひとつ。串田孫一についてちょいとウェブ検索していたら、すばらしい文章を発見して大興奮だった。戸板康二や串田孫一らと暁星で同級だった医学博士さんによるメモワール、すぐさまリンクページに加えたくなるような素晴らしい資料なのだけれども、内輪の雑誌に掲載のものということもあってそれはちょいと躊躇、その代わりすぐさまプリントアウトして、わが戸板ファイルに綴じた。涙が出てくるほどいい資料で、本になっていたらわたしは絶対に買う!
20世紀のわが同時代人 文章:三浦義彰(まえがき)
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谷村氏も同じく暁星の同級生で大蔵省の官僚だった人、戸板さんは『ハンカチの鼠』[*] 所収の「ハンカチの鼠」で彼のことを書いている。ここに登場する「アンパン」というあだ名の国語教師のくだりがなんだかいいなアという感じで、梅幸のところにある《クラス会の余興に同級生の須田孝二が必ず梅幸の声色を彼の目の前でやる。 劇評家の戸板康二にいわせると、 須田の声色は梅幸自身よりも梅幸の台詞の特徴を強調しているので、 梅幸以上だというのである。 ついで戸板康二が亡くなった後、 須田孝二が戸板康二の声色を試みたがこれも逸品だった。》というくだりもいいなア……。と、どの文章もとてもよいけれども、ひときわ面白かったのが梅幸のところで、歌舞伎にちょくちょく登場する「癪」のことを初めて詳しく知ることができたのも大収穫だった。ここに限らず、全般的にお医者さんならではのくだりが多々あるのがおかしかった。
■ Chronology【私製・戸板康二年譜 1915-1993】を少し追加訂正。List【戸板康二・全著書リスト】に、『写真 歌舞伎歳時記 春夏』(講談社文庫)[*] の書誌データを追加。
■ 『細雪』10年ぶりの再読を機に燃えたわたしのなかの谷崎ブームはまだまだ続いている。これを機に戸板康二の伯父さんが谷崎と辰野隆らと府立一中で同級だったというエピソードを年譜に追加。戸板康二のお父さんくらいの世代の東京とその東京で育った文士の系譜が前々から最大の関心事項で、久保田万太郎や「九九九会」の人物誌もこれに当たる。
■ それから! 昭和40年における戸板康二のとあるラジオ出演について情報をいただき大喜びで追加。戸板康二のテレビ出演とかラジオ出演は数多い。今年はテレビ放送五十年なのだそうだが、戸板康二もテレビ最初期から少なからず関わっていて、いつか整理したいものだがいつになることやら……。戸板さんとラジオというと占領下の時代に一世を風靡した「日曜娯楽版」のことがまっさきに頭に思い浮かぶ。あるとき映画に関するコントを制作するにあたっては荻窪の徳川夢声邸に教えを乞いに行ったとのこと、このエピソードもなんだか好きだ。「日曜娯楽版」に関しては、井上保著『「日曜娯楽版」時代』(晶文社、1992年)という本がある。ずいぶん前に荻窪のささま書店で買って、つい最近やっと読んだ。
■ この三連休の初日、鎌倉に出かけた。芸林荘で何冊か買った安い文庫本のうちの1冊が『写真 歌舞伎歳時記 春夏』(講談社文庫)[*]。『舞台歳事記』[*] を再編集したカラーブックスめいた仕上がりの文庫本。こうしてあらためて眺めてみると「昭和歌舞伎」そのものがパッケージされている感覚なのだった。このところ500円以下の本ばかり買っている。
#025
隅田川文庫の『歌舞伎十八番』(23, September. 2003)
■ List【戸板康二・全著書リスト】に、『歌舞伎十八番』(隅田川文庫)[*] の書誌データを追加。
■ びっくり! いつのまにか『歌舞伎十八番』が復刊されている。『歌舞伎十八番』の初版は昭和30年中公新書[023]で花森安治による装幀が戸板康二の文体と絶妙にマッチしていて本全体がとてもいい感じ。
■ 昭和33年に海老蔵が十一代目團十郎を襲名する。その先代團十郎が惜しまれつつ昭和40年に他界、十一代目の襲名と連動して新之助になっていた現在の十二代目團十郎が海老蔵を襲名したのが昭和44年11月のこと、昭和30年発行の『歌舞伎十八番』はその海老蔵襲名に連動して中央公論社の単行本として改訂され、昭和52年に文庫化[097]された。このたび刊行された隅田川文庫はその中公文庫の復刻である。……とかなんとか説明がくどくなってしまったが、今回の隅田川文庫版『歌舞伎十八番』は来年の新之助の海老蔵襲名に先駆けるように刊行されたというわけで、先代の海老蔵(現團十郎)誕生から34年たち、戸板康二の『歌舞伎十八番』がふたたび本屋さんに登場したという次第。
■ そのめぐりあわせにもう大喜び! と言いたいところなのだけど、隅田川文庫を手に取っての第一印象は初版の花森安治装幀を手に取ったときのときめきと比べるといかにも味気なくて、ちょっと違うなあというのが正直なところだった。戸板康二の歌舞伎本を繰るのはいつも古本でだったから、ちょっと違和感を感じたのだと思う。しかーし、中身の戸板さんの文章はまったく同じなので、来年の海老蔵襲名の見物のお伴にぜひとも多くの人に読んでもらいたいと一戸板ファンとして心から願っている。と姿勢をただしたいところなのだけど、隅田川文庫版『歌舞伎十八番』には致命的な欠陥がひとつだけある。戸板康二は「といた・やすじ」を読むのが本当なのだが、隅田川文庫版『歌舞伎十八番』、表紙にご丁寧に Toita Kouji とルビがふってあるのだった。ガーン! なんだか嬉しいようながっかりなような複雑な気持ちの今回の復刊だった。
■ と、心境を一言で言えば「ま、間違えないようにしてもらいたいねッ」(志ん朝『佃祭り』より)というところだが、たしかに戸板康二を「といた・やすじ」と読むのは難しいのかなあと思う。よく空想するのが、戸板康二を一応は知っている人に何と読むか質問して統計をとって正しく読めた人は何パーセントになるかなということ。辰野隆(たつの・ゆたか)とどっちが正答率が上だろうかなんて考えると面白い。まあ、読み方に関してはまだいいとして、結構多いのが「戸板」を「戸坂」と誤植されること。なので、今回の復刊、「戸坂康二」となってなかっただけでもありがたいと思わなければならぬのだった。「戸坂」と間違えず正しく「戸板」にしてくれた上に、来年の海老蔵襲名のタイミングに合わせるようにして『歌舞伎十八番』を復刊してくれるとはなんと粋なはからいであることだろう。わたしもこれを機にまた『歌舞伎十八番』、きちんと読み返すつもり。
■ 戸板康二自身も自分の姓について、「厄介な姓」という文章を書いている(『午後六時十五分』[*] 所収)。「戸板」という名字が初対面の相手にスラッと通じないということが書かれているのだが、《初対面の相手と名刺を交換して、しばらく話をしたところで、「とさかさん」という人がある。大まかに、文字を読んだのである。ある落語家と雑談した時、この話をしたら、「そういうのを、とさかに来るというんです」といった。》というくだりが大好き。間違えちゃったものはしょうがない、洒落でほんわかと微笑を持って応じおうではないか。というわけで、わたしも「戸坂」になっているのを見つけると心の中で「とさかに来るねえ」とついニヤニヤしてしまう。実はウェブ検索のとき「戸坂康二」でもよく探している。ちょっとした情報を入手したり、さがしていた本が安く見つかることが結構ある。たとえば『團十郎切腹事件』[*] も「戸坂」で検索して見つけ、「とさかに来るねえ」なんて言うのは嘘でかなり安いのを喜んだ。と、そんなことはどうでもよいのだけれども、この「厄介な姓」の書き出しは、
「戸板」という姓は、まことに厄介である。元来これは仙台の伊達藩につかえた天文学者の家の名らしい。青葉城に「戸板家文書」という文献があることを、最近知らせてくれた人があるが、ぼく自身は、天文学どころか、初等数学も至って苦手である。
となっている。まあ、なんて戸板康二にいかにも似つかわしいこと! 戸板康二のルーツは仙台の伊達藩に仕えて天文学を研究していたと勝手に決めて、ひとりでうっとりしたところで、検索してみたらすばらしいページを見つけた。
仙台にも天文学にも日本史にもまったく縁のないわたしでも思わず読みふけってしまうくらいに素晴らしくて、ページのただよわす空気にひたるのがなんだかたのしくて、こういうのっていいなあと思った。いつかの仙台旅行の際には、ぜひとも「戸板」のルーツを訪ねたい。いつになるかしら。
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