【二十七章】心の安らぎ
キリエとボムニスはレコルダを上空から入りこむ。
陽はとっくに昇っていたが、薄曇り。コミュニオ山脈方面には黒い雲が広がっているので、時間が経つと雨が降るかもしれない。雲の隙間からたまに太陽が顔をのぞかせているが、なんとなく重苦しい空気がレコルダを覆っていた。
上空から見るレコルダは、豊かな国と言われているグラデュアル国の王都というだけあり、美しく整備され、高い建物も多い。屋根の色は濃い赤に統一され、周りに広がる草原の緑と屋根の濃い赤のコントラストが美しい。これに空の青さが加われば美しさが増すのだが、あいにくのくもり空。
キリエは初めて見るレコルダの美しさに思わずため息をこぼす。
「こんな美しい世界を壊すのは嫌だ。戦争なんて、嫌」
ペルペツアの背にボムニスに抱きかかえられるように乗り、下界を見下ろしているキリエはつぶやく。
ペルペツアは甲高く鳴き、ぐるりと旋回して悠然と城の中庭へと降りていく。城の見張り役は怪鳥に気がつき、警鐘を鳴らす。城は急にあわただしくなってきた。
キリエはボムニスに助けられ、ペルペツアの背から降りる。
「ボムニス、ありがとう。ペルペツアと帰って」
「キリエさま?」
「あなたたちまで巻きこめないわ。わたし一人でサンクを助けるから」
「キリエさま、無理です!」
キリエはボムニスの腰に刺さった剣を鞘ごと奪う。
「大丈夫よ。これがあるから」
それはサンクと魔王が対決した時に魔王が持っていた剣。ボムニスはあわててキリエから取り返そうとするが、キリエは剣の柄を取ると鞘から剣を抜き、ボムニスに向けた。
「キリエさま……」
ボムニスはキリエの剣の腕を知っているので下手に手を出せないでいる。
「ペルペツア、ボムニスを連れて行って」
「キリエさま!」
ペルペツアはキリエの言葉に甲高く鳴き、羽を広げて二・三度羽ばたき宙に浮き、ボムニスをわしづかみにして空へと舞いあがった。キリエは見上げ、去っていくのを確認した。
「ボムニス……ありがとう」
鞘に剣を納め、キリエは城を見上げる。
サンクが側にいない。
そのことを意識し始めると、身体の奥からなにかがわき上がってくる。あふれ出しそうなそれにキリエは恐怖を覚えていた。
これが表に出たら、世界は終わってしまう。そんな恐怖。
きっとこれは、魔王の血がなすことだろう。
キリエの中にこんなにも恐ろしいほどの破壊衝動が眠っていたなんて、信じたくなかった。
サンクがいない。それだけで周りの物すべてを壊したいという衝動に駆られてしまう。
この気持ちがきっと、魔王の血なのだ。
サンクに出逢ったことを悔やんだ。知らなければよかった感情を知ることになった。だけど──サンクは自分の中のこの感情を押さえてくれる大切な人。出逢わなければきっと、自分は父と同じ道を歩んでいただろう。
上空から見たレコルダを思い出す。
そして、ミルエラをはじめとするインジェの街の人たちのことも思い出す。
中には嫌なことをしてきた人もいるけど、基本はみんな、いい人だ。その人たちから笑顔を奪うようなことはしたくない。
「サンク……助けて」
自分ではどうすることもできないこの激情にキリエは押しつぶされてしまいそうになる。
「サンク、お願い……側にいて」
キリエは自分の身体をぎゅっと抱く。
サンクはここのどこかにいる。どこにいるのか分からないが、必ず会える。
そう信じるしかなかった。
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サンクは国王にムチで打たれていた。もうどれくらいそうやって叩かれているのか、時間感覚が分からなくなっていた。
「陛下!」
血相を変えた男が地下牢のあるここに駆けこんできた。
「上空からモンスターが!」
国王は伝令を睨みつける。
「しょ、少女が一人……中庭に」
少女、と言われサンクはとっさにキリエのことが頭に思い浮かぶ。しかし、今の上空からモンスターと中庭に少女、というのがまったく繋がらない。
「おまえたちに処理を任せる」
国王はつまらないことで手を煩わせるな、と言わんばかりの態度でムチを握り直し、サンクに振りおろそうとした。
「そっ、その少女は巨大な怪鳥の背から降りて……しかも、例の魔王の娘のようです」
サンクに向かって振りおろそうとしていたムチを降ろし、国王は笑い始める。
「向こうから飛び込んできたのか!」
「はい。とらえようとしているのですが……」
「こいつの戒めを取れ」
「しっ、しかし!」
国王の命令に周りが止めるが、サンクを早く解くようにという。手足の戒めと目隠しを外すように再度言われ、周りの者たちは解いていく。
「後ろ手に縛って中庭まで連れていけ」
国王の意図が分からず、周りの者は止めるが、国王は笑顔のままサンクを見ている。
国王の先導の元、キリエが降り立った中庭へと出向く。
中庭には、数十人の兵士に囲まれたキリエが真ん中で剣を構えて立っていた。サンクはキリエの握っている剣を見て、瞬時にあの洞窟での出来事を思い出す。
あれは、魔王が持っていた剣。特徴的な刃紋のきらめきに覚えがある。どうしてキリエがそんなものを持っているのだろうか。
「そやつの戒めをほどけ」
国王の命令に側近は即座に止める。だが再度、強い口調で同じことを命令する。しぶしぶとサンクの戒めは解かれた。戒めを解かれたサンクはかろうじて自力で立っていられる状態だった。
「サンク。再度命令だ。魔王の娘をこの場で殺せ。そうすればおまえの今までの罪はすべてなしとしてやる」
「嫌です」
サンクの即答に国王は大股で近寄り、腰にさげていた剣で鞘ごとサンクに殴りかかる。サンクは避けることができず、肩をもろにぶつけられる。剣とともに、よろけて倒れこむ。
「サンク!」
遠くからずっと恋い焦がれていたキリエの声が聞こえる。自分の名前を呼ばれただけだというのに、全身の血が沸騰しそうになった。
「キリエ……」
サンクは愛しい人の名前を口の中でそっとつぶやく。それだけで気のせいか身体の芯から力がみなぎってくるような気がする。
キリエは兵士たちの剣と切り結び、相手を傷つけることなくその刃のみをその手から奪っている。キリエの後ろには次々と剣が地面へと投げ出されていた。
「その剣であの女を殺せ」
国王の命令にサンクは首を横に大きく振る。
「キリエに殺されるのなら本望だ」
サンクはうっすらと笑ってこちらに向かってくるキリエを見つめている。
キリエは強い。体調が万全な状態でも勝てる気がしない。
キリエは勢いよく走ってこちらへとまっすぐに向かってくる。兵士たちはだれ一人としてキリエの後を追わない。
妙な静寂に包まれた中庭。
キリエは国王とサンクの元まで到着した。その手に持っていた剣を鞘におさめ、国王に視線をまっすぐに向ける。
サンクはその強いまなざしを向けられた国王にさえ嫉妬する。キリエが見つめていいのは自分だけだ。他の男をその瞳に映してほしくない。
今すぐにでも駆け寄って抱きしめてプラム色の瞳を見つめたいのに、身体が動かない。かろうじて身体を起こしている状態だ。先ほど国王に殴るように投げつけられた剣が最後の体力を奪った。
「サンクを返して」
国王は口角を上げ、キリエを見つめている。鬼気迫る表情にキリエの背中に冷や汗が伝う。
今まで、中庭に降りて兵士に取り囲まれても怖いと思わなかった。しかし、国王と対峙した時……なにかよくわからない感情に囚われてしまった。
背筋が凍るようなその笑み。どこを見ているのか分からない視線。狂気を内包した人間に初めて出遭った。遭ったことがない人間にしか分からない恐怖。
「おまえでもいい。サンクを殺せ」
キリエは目を見開き、国王を見つめる。
どうして自分がサンクを殺さなくてはならないのだろう。キリエは魔王の愛刀を胸に抱き、後ろへと下がる。
「どうして? どうして殺さないといけないの?」
「この男は、余の命令を無視した。ムチで痛めつけても、剣を突き刺しても死なない……!」
「ムチ……?」
キリエは座りこんでいる愛しい人に視線を向ける。見るも無残なほどぼろぼろになり、力なく座りこんでいるサンクを見て、キリエの頭に血がのぼってきた。
「サンクになんてことを──!」
サンクの瞳にはキリエの身体から瞳と同じ濃い紫色のなにかが一瞬、噴き出したように見えた。それは国王にも見えたようで、ひぃ、と情けない声をあげて後ずさっている。
「許さない……! サンクを返しなさい」
鋭い瞳でキリエは国王を睨みつけている。視線に殺される、とはまさしくこういう状態をいうのだろうというほどで、国王はすくんで動けない。
「キリエ」
サンクは小さくその名を呼ぶ。キリエはその声にサンクを見る。
「駄目だ。キミがそんな顔をしては駄目だ」
サンクにそう言われ、キリエは泣きそうな視線をサンクへと向ける。
「憎しみは悲しみと苦しみしか呼ばない」
サンクは先ほど国王から投げつけられた剣をつえ代わりにして立ち上がった。
「陛下……戦争は今すぐ、やめてください。どう考えても勝てません。魔王はまだいる。それに、オレは──陛下
が戦争を始めると言うのなら、全力で阻止します」
キリエはよろよろしているサンクの元へと駆け寄る。
「サンク……!」
サンクはキリエへ笑みを向けるが、弱々しく、キリエは不安になる。
このままではサンクが死んでしまう。サンクが死んでしまったら……生きていけない。サンクのいない世界など……。
「サンクがいない世界なんて──壊れてしまえばいいのよ」
その一言にサンクの全身がぞくりと震える。怖いという感情ではなく──それはなぜか快感を伴っていた。
「あなたが戦争を始めるのなら、魔王の名の元に──モンスターたちを総動員して阻止するわ。それでもいいというのなら、今すぐにでも戦争をはじめて」
キリエはサンクを支えながら国王を威圧する。キリエの言葉に周りがざわめく。
「陛下……!」
側近たちもキリエの言葉に恐怖を感じ、国王に戦争をやめるように進言を始めた。
「さあ、ここに誓って。二度と再び、戦争など愚かなことを考えないって。そうしないとわたし──この美しい世界を破壊し尽くし、人類を滅ぼさなければならなくなるわ」
「陛下!」
サンクはキリエに支えられたまま、キリエの言葉を聞いていた。全身が粟立つこの感じ。それは恐怖ではなく、恍惚感。ぶるり、と身体が震える。
「サンク?」
不安げに揺れる瞳にいつものキリエを見つけ、ほっとする。サンクは周りの目があるのをすっかり忘れ、キリエを抱き寄せた。
「サンク──!」
キリエは戸惑いの表情を浮かべ、サンクを見上げる。そこには、いつものあの甘やかな瞳があり……次の瞬間にはおでこに熱を感じた。
「やっ、サンク!」
身をよじり、サンクの腕から逃れようとするが、力強くて解くことができない。キリエはサンクの腕の中で抗いながら、国王を見る。
「駄目。オレだけを──見て」
大きくて節くれた手で頬を包まれ、キリエはサンクの顔へと向けられる。
「だってサンク、周りに人が」
「見せつけてやればいい。勇者と魔王がグルだと知れば、陛下の考えも変わるさ」
キリエはそれでも拒否の返事をしようと口を開いたが、サンクは唇を重ね、開いた口から舌を入れ、絡める。キリエは苦しくて、サンクの腕にしがみつく。いつも以上に熱い舌にキリエは違和感を覚える。
「陛下、これでもまだ──戦争をする気でいますか?」
キリエに口づけたまま、サンクは国王へと視線も向けることなく再度、問いただす。
国王は二人を見て……。
「余に命令するとは!」
憤り、怒りを口にするが国王はどういう状況かすでに分かってはいた。
突然、影が落ちてきて、上空から激しい風が身体に叩きつけられる。国王は驚き、視線を上げるとそこには怪鳥が羽ばたいていた。
「ペルペツア!」
キリエの声にペルペツアは旋回して、キリエの後ろへと降り立つ。ペルペツアは甲高い声で鳴いた。
「ひっ!」
国王は初めて見る怪鳥に腰を抜かし、地面へと倒れこむ。
ペルペツアはキリエに近寄り、大きなくちばしを差し出す。キリエは優しくなでる。
こんな恐ろしい魔物のような生き物を自在に操る。魔王の名の元にこんな恐ろしい怪物たちがグラデュアル国を攻めてきたらひとたまりもない。
国王はようやく、自分のしようとしている愚かな出来事に気がつく。しかし、それでもまだ戦争の中止の宣言を口にすることができない。
キリエはいきなり、歌い始めた。
懐かしいけど初めて聞くその歌。美しい旋律、キリエの澄んだ歌声。妙に静かな中庭に響き渡った。
『あなたの心に安らぎが訪れますように──』
それはミサが魔王と初めて逢った時に口にした歌。キリエの澄んだ歌声に国王の瞳に涙が浮かびあがる。
「わっ、分かった! せ、戦争はやめる! すぐに武装を解除しろ!」
国王の命令に側近たちはみな、あわてたように散り散りに走り去った。
サンクとキリエは国王の言葉にほっとして、微笑みあった。