螺旋の鎮魂歌


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【十二章】キリエは詠う




 『ルシス・ルナ』の女将であるミルエラは面倒見のよい女性だ。しかも、なぜか裏社会にも顔がきく。先ほど、キリエを追いかけていた男もミルエラの顔を見て逃げた。
 彼女の経営する『ルシス・ルナ』は安くて美味しい料理を昼夜問わず提供する場所だ。裏社会の人間たちもよく利用していた。ミルエラはそういった人間に愛され、大切にされていた。ミルエラになにかあるとすなわち、そういった世界の人間に目をつけられ、生きていくことが困難になることを意味していた。

「しかし……あんた、よくもまあ今まで生きてこれたね」

 薄汚れたキリエに部屋を与え、風呂に入れさせ、着替えも与えた。ミルエラは落としたせいで使えなくなってしまった材料代を払えないキリエのために身体で払う……ようは労働で対価を払わせようとしたが、あまりの不器用ぶりに呆れていた。

「こういうこと、したことがなくて」

 食材の下ごしらえを手伝わせようとして皮をむくように言ったが、それさえも満足にできない。この調子では間に合わないと踏んだミルエラは、キリエのその作業をやめさせた。

「で、あんた。なにか得意なこと、ないのかい?」

 厨房から出されたキリエは、廊下の片隅でミルエラにそう聞かれ、うなだれる。

「あの……歌うことしか……」
「はんっ。歌なんてだれだって歌えるさ。このあたしでもね! ご自慢の歌とやらをじゃあ、今、聞かせてみな」

 ミルエラは鼻で笑い、キリエに歌うように促す。キリエはミルエラの馬鹿にしたような視線にうつむき、歌い始める。
 ミルエラは最初、軽い気持ちで聞いていた。自信がないのか、小さな歌声にミルエラはもっと大きな声で! と不機嫌に声を掛けるとキリエは一度、歌をやめた。

「なんだい、そんなんじゃ駄目じゃないか」

 キリエはミルエラの言葉に大きく息を吐き、瞳を閉じる。
 もう自分は歌えない、そう思っていた。
 追いかけられて忘れていたが、サンクが父と母を殺した。悲しみなんだか怒りなんだかよく分からない感情に、歌い方を忘れていた。
 だけど……自分には歌しかない。先ほどの作業で思い知らされた。
 たぶん、それほど難しいことではなかったのだ。できないわけではないのだろうが、キリエにはそれさえもできなかった。
 自分の不注意とはいえ、ミルエラにぶつかり、貴重な食材を駄目にしてしまった。それに、あの男から助けてもらった。ミルエラになにかしなければならない。
 そういえば、サンクも言っていたっけ。流れ者の自分はラクリモサを弾くことしかお金を稼ぐ手段がない、と。大好きな両親をサンクが殺したと知った時、もう自分は歌えない、そう思った。しかし、自分には歌しかない。
『キリエの歌は死んだ人にまで届くよ』
 微笑みながらそう言ったのはサンクだった。
 それが本当なら……歌うことで両親の近くに行けるのなら。キリエはそんな思いで再度、歌い始める。
 ミルエラははっと息をのむ。先ほどの口の中でつぶやくようななにを言っているのか分からないもぞもぞとした歌声が急に、驚くほど透き通った声になった。厨房横のこの廊下、中で調理をしていた人たちも何事かと顔を出してくるほどどこまでも通る歌声。心に響く歌。ミルエラは知らないうちにその両目に涙をためていた。
 一曲歌い終わり、静まり返った廊下にキリエは戸惑う。先ほどまで、扉越しに調理をしている音が響いていたのに、今はそれさえも聞こえない。

「あの……」

 キリエの声にミルエラは呪縛を解かれたように身体を弾かせた。

「あんた……すごいよ! 『ルシス・ルナ』の新しいショーのひとつになるよ!」

 ミルエラの称賛に厨房の中の人たちは割れんばかりの拍手を送る。

「ちょっと! あんたたち、手を休めてないで! お客さんは待っているんだよ!」

 ミルエラは涙をぬぐいながら調理師たちのお尻を叩いて続きを作るように促す。

「あんたの歌声は最高だ! 今日の損失、ワンステージでチャラだね!」

 肩を強く叩かれ、キリエは眉をひそめる。

「よし、今日の夜の衣装を探しに行こう!」

 ミルエラに連れられ、キリエは奥の部屋に連れ込まれた。

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 キリエは、ミルエラに言われるまま、その日、歌った。
 キリエの歌は予想以上の反応で、ミルエラは常連やら新規の客につかまり、何者かと聞かれた。
 キリエは歌い終わり、ミルエラが用意してくれていた部屋に戻る。町角で気ままに歌っていた時と違い、憔悴していた。
 今日は見知らぬ人に伴奏をしてもらったが……キリエ的にはいまいち調子が出なかった。サンクならここをこうやって弾いてくれるのに……そう思うといらだちが募った。
 それでもキリエは全力で頑張り……慣れないことで疲れきっていた。
 サンクと町角で歌う時、こんなに疲れることはなかった。サンクが気を使って弾いてくれていたからかな、と思ったが……思い返すとそういうわけではなかった。
 初めて演奏してくれ、それに合わせて歌った時もなんだか昔からの知り合いのようで……。
 でも……サンクは、両親を殺したんだ。そのことを考えると、キリエの気持ちは重く沈む。

「キリエ、入るよ!」

 上機嫌のミルエラが部屋にノックをして入ってきた。

「ほら、これはあんたの今日の稼ぎだよ!」

 ミルエラは布袋にずっしりと重たい物をキリエに手渡した。

「なに、これ……?」
「今日の稼ぎ。金だよ」
「……お金?」

 キリエは受け取り、袋の中を覗き込む。金色や銀色のコインに紙幣。それがどれだけ価値のあるものなのか、キリエには分からなかった。

「あの……」
「なんだい? 不満かい?」
「いっ、いえ……そうではなくて」

 キリエは戸惑い、布袋を無造作に床に置く。

「ちょっと、あんた! お金は大切にしなくちゃ」

 ミルエラは焦り、床に置いた袋を拾い、備え付けの棚におさめる。

「見たところあんた、世間知らずのお嬢さまっぽいね」
「お嬢さまなんかでは……」
「でも、世間知らずは間違ってない」

 キリエは黙る。自分は本当に世間を知らない、というのはサンクとここまでやってきて嫌と言うほど分かっていた。

「なにがあったのか知らないけど」

 ミルエラはキリエを見て、腕を組む。

「事情は聞かないけど、あんた、帰る場所、ないんだろう?」

 キリエはうなずく。ここからあの洞窟へ、一人ではもう帰れない。仮に帰れたとしても……独り。生きていけないだろう。

「提案だ。あんたの歌声、うちの常連さんが気に入ってくれた。毎日でも聞きたいと言ってくれている。ここにいれば、三食つくし、眠る場所もある。あたしからもお願いだ。ここで歌ってくれないかい」

 ミルエラの提案にキリエは目をみはる。

「あんたは夜、決まった時間だけ歌えばいい。稼ぎは客のチップからまあ、食費とこの寝場所提供を引いた分を渡す。どうだい、悪い条件ではないと思うけど」

 キリエは戸惑う。今まで、そんな心配をしたことがなかった。今までずっと、あの洞窟でそんな心配もなく、あそこから出た後もサンクがすべてやってくれていた。
 生きていく、というのはこんなに大変なことだったのか。キリエはそのことを初めて知った。

「あの……」
「なぁに、迷惑どころかあんたの歌声は『ルシス・ルナ』の救いだよ。あたしからもお願いだ。夜の少しの時間だけでいいんだ。あたしのために、ぜひとも歌ってくれないかい?」

 ミルエラの言葉に涙が浮かびそうになる。サンクにも昔、一度だけ言われた。
『オレのために歌ってほしい』
 と。そのことを思い出し、キリエは泣きそうになった。

「わたしの歌声でよければ」
「おまえさんじゃないと駄目なんだよ!」

 ミルエラに抱きしめられ、背中を強く叩かれた。キリエは涙が浮かんだことを悟られたくなくて、ミルエラの胸にぎゅっと顔を押し付け、涙を拭いた。

「わたし……頑張ります」

 その言葉をミルエラは了承と受け取り、さらに強く背中を叩く。キリエの細い背中はさすがに痛みを覚えたが、涙を忘れるためにちょうど良い痛さだった。

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 それから夜の決まった時間、キリエは舞台に立ち、歌った。
 毎回、伴奏する人を変えるが、いまいちしっくりこない。

「あの……ミルエラ」

 毎朝、キリエはミルエラの元へ行き、うなだれて申し訳なさそうに申告する。

「ああ、ほんとすまないね。あたしも思いあたる節をあたってるんだけど……」

 ミルエラの連れてくる演者は確かに申し分がないほどの人たちばかりだ。自分は贅沢を言っていられる立場ではないのだが、しかし、ミルエラのためにと思うと、妥協してはいけないとキリエは心苦しく思いながらも告げる。

「しばらく……演奏は要りません」
「いらない?」

 毎回、断わるのが辛くて、キリエはそう告げる。

「実はずっと……専属で演奏をしてくれる人がいたんです」
「なんだって? どうしてそれを早く言わない?」

 ミルエラの責めるような言葉にキリエはうなだれる。ミルエラはそれを見て、キリエの触れてはいけない部分に近寄ってしまったと気がつく。

「……ごめんね。責めるようないい方をして」

 ミルエラの優しいいい方にキリエはますます辛くなる。

「その人は……わたしの大切な人だったんです。だけど……わたしのもっと大切な人を……」

 その先を続けられなくて、キリエは唇をかみしめる。ミルエラはその先の言葉を聞かなくても、なんとなくわかった。だからキリエを優しく抱きしめた。

「辛いことを言わせてしまったみたいだね。そうだね……その人のこと、あんたは未だに好きで忘れられないんだろう?」

 ミルエラに言われ、キリエは戸惑う。
 サンクのこと……わたしはまだ好きなの? だけどサンクは……。
 その先の感情に触れたくなくて、キリエは首を振る。知りたくない、認めたくなかった。大切な両親を奪ったサンクに対しては、憎しみを持つしかない。キリエはそう自分に言い聞かせ、ミルエラを見る。

「もう、そんな人、忘れました。だけど……伴奏されると思い出すから」

 キリエは下手な言い訳をミルエラに告げる。ミルエラはそれが嘘だと分かりながらも了解、とキリエの頭をなでる。

「あの時間は、あんたの時間だ。好きにすればいい」
「ありがとうございます」

 キリエはミルエラのその心づかいがうれしくて、にっこりと笑ってお礼を告げた。


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