【十一章】ルシス・ルナの女将
「そこの嬢ちゃん、ちょっと待てや」
キリエは関所から一番近くトラクタスの中でも五本指に入るほど栄えているインジェという街にいた。
そこは今まで見たことのないほど、人にあふれていた。活気にあふれ、どこに行っても音の洪水でキリエは戸惑っていた。
そこかしこから無遠慮に聞こえる音。サンクといたら、こんなに戸惑うことも迷うこともなかったのに。
途方に暮れて道の真ん中で急に立ち止まったキリエに、一人の男がぶつかってきた。サンクとはぐれた時に絡まれた男よりもっとタチの悪そうな男。高そうだがしかし品のない服を着崩し、にやにやと嫌な笑みを浮かべてキリエを舐めるような視線で品定めをしている男。
「ちょっと来い」
男はキリエの腕をつかみ、引きずるようにして路地へと連れていく。キリエは抵抗するが、それは意味をなしていなかった。男のされるがままに連れ込まれる。
「珍しい髪の色をしているな。どこからか逃げてきたのか?」
にやり、と下卑た笑いを浮かべてキリエを見ている。キリエはつかまれていない手を懐に入れ、くるんでいた布を取り、男にナイフで切りつける。
「なにっ!」
男は殺気を感じた瞬間、キリエの腕を離し、飛び退いた。さすがに裏道を歩いてきただけあり、危機察知能力は高かったらしい。キリエのナイフは鼻先をかすり、男の前髪を少し切り落とすだけとなった。
「近寄らないで」
洞窟にいた頃、父から剣は教わっていた。サンクは知らなかったが、キリエは中々の使い手だ。旅の途中、たまに出会う凶暴な生き物の相手はすべてサンクがしていたが、キリエ一人でもどうにかなっていただろう。サンクのナイフを奪って心臓を狙ったのも父に教えられたことだった。相手の急所を一撃で刺さないと、力の弱いキリエでは長期戦になると不利になる。そう教えられてきた。だから、忠実にそこを狙ったというのに。実践になると、思った以上に相手は手ごわいということをキリエは初めて知った。
「次の一撃で、あなたは死ぬわ」
キリエは次で男を確実に殺す気でいた。殺られる前に殺ってしまえ。キリエは今、父の教えを忠実に守ろうとしていた。
「ふん、できるものならやってみろ」
男はキリエを鼻で笑い、無防備に両手を広げている。キリエはナイフを構え直し、男の心臓めがけて振り下ろす。だが、男は刺される前に身を翻し、キリエの背後へと回る。キリエも気が付き、すぐに身体を回転させて男の正面へと向くが、剣の腕はキリエが上であったとしても、修羅場をくぐり抜けた数の違いが物を言い、キリエのナイフを握った右腕は簡単につかまれてしまった。
「離しなさい!」
キリエは離すように右手を揺さぶるがまったく動かない。そればかりか、男はますます力を入れ、ぎりぎりとしめ上げる。握っていたナイフを取り落としそうになるがキリエは男を睨みつけ、ナイフを握る手に力を込める。キリエは足に力を込め、股を蹴り上げる。
「!」
不意打ちを食らった男は股間を見事に蹴りあげられ、あわてて手を離し、その場に崩れ落ちる。キリエはナイフを懐にしまいこみ、走り出す。
道はまったく分からなかったが、狭い路地を適当に逃げる。
相当強く蹴り上げたから、当分追いかけられないだろう。これもディエスに教えられたこと。男の急所は股間だ、と教えられ……一度、冗談でディエスに蹴りを食らわせ、悶絶していたのを思い出した。そのあと、こっぴどく叱られたのだが……。
どうしてそこが痛いのか、キリエは分からない。さっきの男と同じようにやっぱりサンクもあれをされたら痛いのかな。
……こんな状況でも、すぐにサンクのことを考えている。サンクは両親の仇なのに。
キリエは走っていた足を止め、とぼとぼと歩く。しばらく歩いていると、肩をつかまれた。
「待て」
キリエはとっさに肩にかけられた手を振り払い、また路地を逃げる。あの男、思ったよりしぶとい。
キリエは泣きたくなりながら、路地を駆ける。
どんっ! とキリエは、なにかにぶつかった。逃げることに必死で、前をよく見ていなかった。
「ごめんなさいっ!」
謝って走りだそうとしたが、手首を強くつかまれた。
「待ちな。謝るだけで済むと思ってるのかい?」
とても力強く握られ、キリエの足は止められた。後ろからあの男が追いかけて来ているのが見える。
「あのっ、わたし……!」
「いいから、早く拾いなっ!」
キリエがぶつかった相手はかなりかっぷくのいい中年女性で、両手いっぱいに荷物を持っていたようだ。前が見えず、ぶつかってしまった。キリエも前をよく見ていなかったし、お互いさまと言えばそうなのだが……。中年女性はキリエの手首をギュッと握って離そうとしない。キリエは諦め、路地に散らばった物を拾う。籠に入れられていたそれらは、食材だった。地面に転がり落ち、強くぶつかったことでぐちゃりとつぶれ、用をなさなくなったものもある。
「あーあ、今日のこれ、すごくいいやつだったのに!」
女性の嘆きにキリエは再度、ごめんなさい、と謝る。
「謝ることはだれだってできるんだよ」
女性の言葉はもっともで、キリエはなんと言えばいいのか分からない。しかしそこへ、先ほど股間を蹴り上げた男が追いついてきた。
「見つけた」
男はキリエが必死になって拾っているのを見つけ、走ってきた足を止めてゆっくりと近づいてくる。
「ははっ、追いついたぜ、お嬢ちゃん」
男は先ほど蹴られた股間を少しかばいながらキリエに近づく。キリエはその声に顔を上げ、走りだそうとしたが、女性に腕をつかまれるのが先だった。
「待ちなよ。拾い終わってないだろう」
じろりと睨まれ、キリエは諦めてしゃがみこみ、懐に手を忍ばせる。近づいてきたら、今度こそこのナイフで男にとどめを刺す。そんな過激なことを考えながら、キリエは拾う振りをする。しかし、女性はすぐに見抜き、キリエを叱責する。
「サボってないで拾いなっ!」
女性は立ち上がり、近寄ってきた男を睨みつける。
「なんだい? おまえさんも拾ってくれるのかい?」
男はその言葉を聞き、鼻で笑う。
「はんっ、そんな屑、だれが拾うものかい。その女に用があるんだよ」
「今……屑と言ったかい?」
女性の低い声にキリエは顔を上げる。キリエの場所からは女性の背中しか見えないが、恐ろしいほどの怒りを感じた。
「地面に落ちた食い物なんて、食えるか」
その原因を作ったのはキリエだ。どうすればいいのか分からず、キリエは必死になって地面に散らばったものを拾う。
「それよりも、ねーちゃん、このオトシマエ、どうつけてくれる?」
キリエは立ち上がり、逃げようとするが、男とキリエの間に女性が立ちふさがる。
「ちょっと、うちの店の子がなにしたっていうんだい?」
逃げようとしたキリエはその一言で立ち止まる。
「ぶつかったのにお詫びの一言もなく、その上だな……」
男はもぞもぞと居心地悪そうにつぶやく。
「ああ、そりゃあ悪いことしたね。この子は最近、ここに来たばかりでさ。あんたはベテランさんなんだろう? 余裕を持った態度で丁寧に教えてあげるのが大人、ってヤツじゃないのかい」
女性の言葉に男は頭に血を上らせる。
「おまえの教育がなってないから……!」
その一言に、今度は女性が切れた。
「だれの教育がなってないだと?」
女性は男の前まで大股で歩き、胸倉をつかむ。予想以上の迫力と力強さに男は少し、尻ごみする。
「迷惑をかけたようだね、若いの」
女性の睨みつける視線に、男はようやく、その女性がだれであるのか気が付いた。
「しっ、失礼しました、姐さん!」
男はあわてて女性の手から離れ、来た時以上の速さで逃げていった。
「あの……」
「ほらっ、早く拾う!」
キリエは女性にぶつかった時に落とした食材を拾うように言われ、拾い始めた。キリエは拾いながら、お礼を言わなければ、ということに気がついたが……どう切り出していいのか分からず、きっかけもつかめず、そのまま無言で拾った。
「よし、これで全部にしよう。少し足りないような気もするけど、まあ、仕方がない」
女性は拾い終わった食材を先ほどと同じように持ち、歩きだした。
「ほら、あんたもついておいで!」
女性に強く言われ、キリエはどうすればいいのか分からず、立ちすくむ。
「さっきのあの男じゃないけど、このオトシマエ、きっちりつけてもらうからね。逃げたって無駄だよ」
逃げようとした気配を察したのか、女性はキリエにそう釘をさす。キリエは仕方がなく、女性についていくことにした。
「ただいまー」
女性について路地を歩いていくと、突然、目の前に木の扉が現れた。女性は肩でそれを開け、中に入ると大声でそう声を掛けた。
「ほら、中に入りな」
女性に言われ、キリエは仕方がなく中に入る。
そこは、想像以上に広い場所。キリエは初めて見るそこにきょろきょろと見回した。
「ここは『ルシス・ルナ』の心臓部。いわば厨房だよ」
「……厨房?」
初めて聞く単語に、キリエは首をかしげる。
「あんた、厨房も知らないのかいっ」
驚く女性にキリエは素直にうなずく。
「ったく、どこの深窓の令嬢だよ」
女性は荷物を台の上に置くと、キリエを上から下へと視線を移した。路地は薄暗くてよく見えなかったが、厨房の明かりの下で見るキリエは珍しいピンクホワイトの髪。ところどころ汚れているが、整った顔立ち。ボロボロの服を着ているが、本来ならもっと上等の服を着ていたであろうことは容易に想像できた。
「見たところ、金は持ってなさそうだね」
「……お金?」
キリエはそう言われ、サンクのことを思い出す。
お店で物を受け取った時、それと引き換えにいつもなにか渡していた。サンクの演奏に合わせて歌っていて……しきりになにかを投げられ、サンクはそれを大切そうに拾っていた。お金、というのはあれのことを言うのだろうか。それならば、キリエは持っていない。
「あの……ありません」
はっきりとしたその返事に、女性はため息をつく。
「じゃあ、身体で返してもらうしかないね」
女性は大きくため息をつき、ミルエラと名乗った。