【一章】ディエスとミサの出逢い
二十一年前。
リベラ大陸は、魔王によって破壊つくされていた。それはまるで、昔の予言者の言葉通りの世界で、人々は世界の終わりだと嘆き悲しんだ。
緑なす大地、咲き乱れる花。それらすべてが魔王の放つ業火に焼かれ、灰と化していた。
色にあふれていた世界が灰色と赤に染め上げられ、心優しい音に満ちていた世界は、人々の悲鳴とうめき声にあふれていた。
その中心部に、黒髪の長身の男が立っていた。マントを羽織り、荒れ果てた大地にただ、屹立していた。
プラム色の瞳は激高し、この世を呪うかのように周りを睨みつけていた。まとう怒りのオーラにだれもが逃げた。恐ろしさのあまり、一目見ただけでそのまま心臓を止めてしまう者までいた。
魔王がなにに対して怒っているのか、だれにも分からない。その怒りをおさめる者はだれもいないかと思われていた。
しかし。
業火の中、場違いな音がする。
魔王は炎の真ん中で耳鳴りがしたと思った。それほどに小さくか細い音だった。
しかし──それは徐々にはっきりと聞こえて来て、やがてそれは美しい旋律を奏でる歌だと気がついた。
炎を切り裂くような澄んだ歌声。
その声の主は、炎を恐れることなく、怒りのオーラをまとった魔王に向かって歩んでいる。
周りを焼きつくそうとしている炎は、少女をも焼こうとしていた。
それにも関わらず、少女は炎の存在に気がついてないように──ただ、魔王に向かって歩んでいる。
周りを構わずにうつむいてこちらに近づいてくる少女に、魔王は興味を持った。この少女は狂っているのではないか──魔王の怒りに満ちた心に好奇心が芽生えた。
今、この世界がどうなっているのか知らないわけがない。それなのに、少女は臆することなく炎の海を歩み、魔王へと近づいていた。
少女は歌うことをやめず、ゆっくりとだが確実に向かってくる。腕を伸ばしたほどの距離を残し、少女は歩みを止めた。
魔王の前に立つ少女は瞳を固く閉じたままだった。燃え盛る炎の色を映している髪の毛は赤く染まっていて、もともとの色が分からない。
少女の口からは変わらず歌が奏でられている。哀愁を帯びた旋律が魔王の心の隙間に忍び込んでくる。魔王はしばしの間、その歌声に聞き惚れていた。しかし、熱風が魔王の羽織っているマントを翻し焦がしたことで気がついた。
目の前に立ち、歌い続ける少女。魔王よりはるかに小さく、か細い。腕を伸ばしてその首をつかんだだけで息の根を止めそうなほど頼りない存在。歌声もか細い。燃え盛る炎よりも小さな声だというのに魔王には耳元で歌っているかのように聞こえていた。
今まで人間をごみのように切り捨て、その命を奪ってきた。その中には屈強な戦士もいた。勇者、と言われる者もいたはずだ。
その者たちよりもずっと弱くて頼りない存在のはずなのに、どうしてこの少女はこんなにも存在感にあふれているのだろう。
魔王は次第に目の前の少女に興味が移る。
魔王の周りの炎は怒りに呼応するように荒れ狂っていたのに、今は徐々になりを潜め、すっかり鎮火していた。
「そなたの名は、なんと言う」
視界が赤く染まっていたのがおさまり、肌が焼けるほどの熱気が漂っていた空間が今はさわやかな風を運ぶ以前の大地に戻っていた。ただ、そこに生えていたはずの草花は燃え落ちてしまっていたが。
魔王の問いにしかし、少女は答えず歌い続ける。
「おい、女。名前を聞いているのだ。答えろ」
魔王は少女の腕をつかみ、釣りあげる。少女の瞳は伏せられたまま。その上、歌うことをやめない。
「歌をやめろ。そしてワシの質問に答えろ」
少女はそれでも表情一つ変えず、歌い続ける。
「歌をやめろ!」
魔王は声を荒げるが、少女はやめる様子はない。
命令を拒む少女に魔王はいらだちを覚え、白くて細い首に指をかける。そのまま指先に力を込める。少女はさすがに苦しいらしく顔をゆがめる。しかし、歌うことはやめていない。苦しいはずなのに口を止めることをしない。喉が押さえられているせいで先ほどのように透き通った声がでなくなっていたが、少女は歌い続ける。魔王は指に力を込めるが、歌声はずっと聞こえ続けている。
その瞬間、魔王は初めて『怖い』という感情を抱いた。
今までも死にそうになっているのにもかかわらず自分を犠牲にしてかばったり、倒れても倒れても起き上がってきた者はいた。しかし、そういったものはあくまでも少数派だった。その者たちに対して魔王は『愚かな』という感情しか抱かなかった。大半の者がこの姿を見ただけで逃げた。恐怖してそのまま死んだものさえもいた。
それなのにこの少女は怖がるどころか自ら近づいてきて、さらに首を絞められて今にも死にそうになっているにも関わらず、歌い続けている。
少女の心には恐怖の二文字がないように感じた。どこまでも澄んだ声に今まで触れたことのない感情を歌に乗せ、歌っている。首を絞められ、命の危機にさらされているというのに、そのことに対する動揺の感情がまったく少女の心には存在していないようだ。
魔王はさらに指先に力を込める。少女の顔は空気が足りなくてひどい顔色になっていく。それにも関わらず、歌をやめない。
『あなたの心に安らぎが訪れますように──』
その部分だけはっきりと魔王の耳に届いた。魔王はなぜか全身から力が抜けていく感覚に陥った。
気がついたら、少女の首から手を離していた。
少女は地面にうずくまり、身体を丸めて咳き込んでいた。白髪に近いが少し淡いピンク色がかった不思議な色の髪が地面に散らばっていた。
「この世界を、壊さないで」
咳き込んでいた少女の口から歌声ではない声が聞こえてきた。高く澄んだ鈴を転がしたようなその声に魔王は聞き惚れた。
「私に優しくない世界。滅びてしまえと呪ったけど──やっぱりだめ。だって、世界はこんなにも美しくて、悲しいものだったのですもの」
うずくまったまま、少女はつぶやく。
「お願いだから、これ以上この世界を壊すのはやめて。その代わり……私を壊していいから」
少女はゆっくりと立ち上がり、歩みを進める。しかし、少女は魔王がいる方向とはまったく違うところに歩いていこうとしている。
「世界に比べたら私の身体なんてすぐに壊せるだろうけど……。私のちっぽけな命と世界を天秤にかけたら私の方がはるかに軽くて話にならないだろうけど」
一歩、二歩、と少女はなにかを求めるかのように歩く。
「ねぇ、なにか言って」
少女は立ち止まり、だれもいない空間に向かって叫ぶように声をあげる。
「お願いだから、世界から美しい音を奪わないで」
見当違いの場所に叫んでいる少女に対して魔王は一歩だけ足を踏み出す。その音を聞き、少女はあわてて音のした方向へ顔を向ける。やはり、瞳は固く閉じられたままだ。
「お願い……」
少女の哀願する声に魔王はさらに歩みをすすめた。少女の前に立つ。
「目が、見えないのか」
魔王は少女に対して腕を伸ばし、指先を固く閉じた瞳の前に持っていく。少女はぴくりとも動かない。
「私の瞳は世界を映さない。だけど、この耳が世界を拾うから。世界に怒りしか感じないの。音が私の心を壊しそうになるの。だからお願い。世界を殺す前に、私を壊して」
少女は両手を広げる。
「これ以上、世界の悲鳴を聞きたくないの」
そう懇願する少女の頬に魔王は手を当てる。
「温かい……」
魔王の手に少女の小さな手が重なる。その手の冷たさに魔王は驚く。
「魔王というくらいだから、身も心も冷たい人だと思っていた。私よりとても温かい」
少女の言葉に魔王の心の奥に凍りついたまま眠っていた感情がほんの少し溶け始めた。
「あなたも生きているのね」
少女は反対の手も魔王の手に重ねる。
「こんなに温かいのなら、もう世界を壊すことはやめて」
少女の手の冷たさに驚いた魔王は頬から手を離し、少女の両手をあわててつかみ、包み込む。
「うふふ……温かい」
楽しそうに笑う少女に魔王は目を見張る。だれ一人として魔王にこんな笑顔を見せる者はいなかった。恐怖に顔をゆがめ、泣き叫び、たいていの者は自分の前から逃げ出した。
初めて向けられた笑顔。今まで知らなかった感情が魔王の中で湧きあがってくる。それは、春の陽だまりのような温かな気持ち。
その感情がなんというものか、彼は知らなかった。
しかし、あれほど自分の中で荒れ狂っていた『なにか』はいつの間にかおさまっていた。
少女の微笑みを見ていると、穏やかな気持ちになる。
「一緒に来るか?」
気がついたら、少女にそう聞いていた。
「一緒に行っていいの?」
不安そうな声音に、魔王は頬が緩むのを感じた。怒りの表情しか乗せたことがないのではないかと思われていた顔に、初めて笑顔が浮かんだ。
「一緒に来てほしい」
先ほどは来るか、という誘いだった言葉が今では来てほしいという懇願に変わっていた。少女はその言葉に笑みを深める。
「ワシのために歌ってくれ」
少女は瞳を閉じたまま、魔王に顔を向ける。
「歌うだけでいいの?」
「ああ……歌うだけでいい。側にいて、歌うだけで」
少女は魔王の言葉に破顔する。
「うん。いつまでも歌うよ……えっと」
少女は首をかしげる。
「ディエス。ワシとおまえだけの秘密の名前だ」
「私はミサ。ディエス……よろしくね」
その一言に魔王・ディエスは少女・ミサを抱き寄せる。
「ディエスって温かいね」
ディエスはその一言をくすぐったく感じた。
「ずっとそうやってギュッと抱きしめていて」
「ああ。離さないから」
ディエスはミサの耳元にそう呟き、抱きしめたまま歩きはじめる。
「ふふっ」
鈴を転がしたような心地よい声にディエスの口に自然と笑みが浮かぶ。
今まで生きて来て、初めて感じる安らぎ。
それが腕の中のか弱い少女によってもたらされたと知り……心の中にじんわりと切ない気持ちが浮かんでくる。
なにがあっても、一生離さない。ほしい物はなにひとつ手に入らないこの世界が憎くて壊してきたが、ミサがいれば他になにも要らない。
「世界を壊すのはもうやめる。ミサがいればいいから」
ふと見ると、ミサはディエスの腕の中で小さな寝息を立てて眠っていた。その寝顔があまりにもあどけなくて、ディエスはそっと頬にキスをする。
「世界を壊すことしか知らなかったワシだが……ミサだけは守るから」
その誓いは、焼け落ちた灰の匂いを含んだ風に乗り、どこかへと消えた。
「破壊者から守護者に変わるから──」
誓いにも似た言葉はその後、ずっと守られることとなった。