【序章】世界には音があふれていた
キリエは街の真ん中でたたずんでいた。夕暮れ時。うっすらと薄紅色に染まったピンクホワイトの髪を風に任せ、瞳を閉じて両耳の横に手をやり、街の音を拾っている。
その様子を、少し離れた場所でクロムグリーンの瞳を細めてサンクは眺めている。初恋の人と同じ髪の色をした、洞窟で囚われの身になっていた少女・キリエ。
見るものすべてが初めてで新鮮のようで、キリエはプラム色のきれいな瞳を輝かせてあちこちを見ていた。
「サンク、あれはなに?」
キリエの横にサンクは立つ。サンクの頭一つ分背の低いキリエはくいくい、と袖口を引っ張って指をさす。サンクは思わず、キリエの気持ちの良い透き通った声に聞き惚れる。
「ねぇ、サンクってば!」
再度強く袖口を引っ張られ、サンクはようやく口を開く。キリエはプラム色の瞳でサンクをじっと見つめて話を聞いている。整ったキリエの顔を見ていると、普段あまり意識することのない男の部分がむくりと起き上がってくる。その欲望を隠すように、キリエのおでこにそっと口づけをする。キリエはすぐになにをされたのか気がつかず、ぽかんとサンクを見上げる。
サンクのクロムグリーンの瞳がキリエを愛しそうに見つめているのを見て、なにをされたのかようやく気がつき、サンクの唇が触れた場所をふと触り、次の瞬間、頬を真っ赤に染める。
それを見たサンクは、ますます目を細めてキリエを見る。
「サンク!」
キリエは真っ赤になってサンクの腕を軽く叩く。
なにげない日常。その中に感じる小さな幸福。
しかし、サンクはその幸せな気持ちを感じる度に、それ以上の罪悪感に囚われる。
自分の手で、初恋の女性(ひと)をあの世へ送ってしまった。もっと心が痛むと思っていたのに、サンクの中にはそういった感情がまったくと言っていいほど湧いてこない。逆に、どうして自分の中にそういう感情がないのか、ということが気になり、そのことを考えると夜も眠れなくなる。
そんな自分を救ってくれたのは、今、横に立つキリエ。初恋のあの人と同じ髪の色をした、澄んだプラム色の瞳を持つ少女。
キリエは戸惑う心をもてあまして途方に暮れている自分の目の前に立ち、澄んだ声で魂を悼む歌を口にした。その歌声は、凍りついた心をも溶かしてくれた。自分の手で殺してしまったあの人はもう、戻らない。
「わたしも大切な人を亡くしてしまったの」
プラム色の美しい瞳に涙を浮かべながらキリエは鎮魂歌を口にする。その悲しみは聞くものすべての瞳に涙を浮かべさせた。サンクとて例外ではなかった。
キリエの歌声によってもたらされた涙は心の悲しみを浄化させる作用があったようだ。歌が終わった後には今まで感じたことのないほどの安らぎがあった。
この少女を守らなければならない。サンクの胸にそんな思いが湧きあがってきた。
初恋の人を自らの手でこの世から葬り去ってしまった。それならばせめて──同じ髪の色を持つこの少女を守ろう。それが自己満足でもいい。自分の心を救ってくれたキリエを守りたい。
サンクは幼子のように無邪気にはしゃぐキリエを見つめて、心に誓う。
キリエを傷つける者は、だれだって容赦はしない。
街角でサンクは二弦を弓でこすって音を奏でる楽器・ラクリモサを弾き、キリエは歌う。
哀愁を帯びたラクリモサの調べに、キリエの透き通った歌声が絡み、空へと舞う。
それはまるで、亡くなった人たちに向けて餞る『鎮魂歌』のようだった。
街を行き交う人たちは足を止め、キリエの歌声に涙する。
その歌声は、サンクの心のみだけではなく、人々の心をも溶かし、救っていった。
心に刺さった棘を溶かし、止まることなく流れ続ける心の涙をも止めた。
やがて噂が噂を呼び──サンクは見つかってしまった。逃げ続けていた、旅の仲間に。
キリエを最悪な形で傷つけてしまった。
「信じたわたしが馬鹿だった!」
キリエは叫び、サンクに剣で切りつけ、姿を消した。
キリエを守ると、傷つける者は容赦しないと自分に誓ったのに。
その自分が、キリエを傷つけてしまった。
「キリエ」
サンクの声はしかし、愛しいキリエの瞳によく似た夕暮れの空に吸い込まれ、消えていってしまった。