【一章】迷惑な居候≪二十五≫
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あの時というのは、鴉が由良の元から去った日のことだ。
鴉は妙な焦燥感に苛まれていた。
初めての感覚に戸惑い、由良とともにあるせいではないのかと考え、鴉は由良の元を去ることにしたのだ。
邪刻の食事は人の不幸であるため、人間のように食物から栄養を摂る必要はない。しかも人の不幸を摂らなくても死んでしまうことはない。
その上、睡眠をとる必要も実はない。とは言っても、いくら邪刻が人間ではないとはいえ、痛みも疲れも感じることはある。そういうときだけ、身体を休めることはある。
人間に比べれば、圧倒的に強いはずの邪刻だが、そのせいなのか、数が限りなく少ない。人間よりも死ににくいとはいえ、それでも無茶をすれば肉体は死んでしまう。それ故に、人間よりも遙かに生存欲は強い。
由良のように生まれながらの邪刻という者が果たしてどれくらいいるのか、分からない。しかもどうやら邪刻は増えるどころか減っているようなのだ。
邪刻には二種類ある。
生まれながらの──と言っても、人間のような誕生の仕方ではないらしいのだが──邪刻と、鴉のように人間から邪刻になる者。
由良のような生まれながらの邪刻は、人間を邪刻に変えて増やすのが役目のようなのだが、由良は鴉を手に入れてからは、鴉以外の邪刻は処分をした……らしい。
だから鴉は邪刻になってから由良の元を去るまでずっと、二人きりだった。
食事も寝る場所も二人には必要なかった。
だから勝手気ままに放浪していたし、それはそれで楽しくもあった。
しかし、こんな生活はいつまで続くのだろうか。
由良と二人きりで、鴉は窮屈だった。
そして気がついたら、鴉の左小指から赤い糸が伸びていた。
そのことに気がついてから、鴉の中に焦りに似たなにかがくすぶり続けていた。
たぶんそれがきっかけだったと思う、由良の元から逃れようと思ったのは。
完璧すぎる由良と二人でいると、息苦しくて窒息してしまいそうだった。
由良は鴉が側にいることを望み、それ以上のことはなにも求めてこなかった。
側にいるだけでいいと言われても、鴉は困る。
由良はなにからなにまで一人でやっていたし、そればかりか、鴉の世話までした。
だれかになにかをしてもらうことに慣れていなかった鴉としては、それも息苦しさを感じさせる原因でもあった。
鴉はとにかく、自由が欲しかった。
だから由良が油断をしている隙に鴉と由良を繋いでいた黒い糸を断ち切り、逃げたのだ。
由良から解放されて、もっと晴れ晴れした気持ちになるかと思っていた。だけど、どうしてだろう。妙な焦燥感に鴉は追い立てられていた。
由良の束縛から逃れられたが、たぶんこれは一時的なことだろうということは、鴉は知っていた。
追いかけたいのなら、追いかけてくればいい。
そんな挑む気持ちがあったから、由良が追いかけてくることに対しての焦りはなかった。
それなのに、どうしてだろう。日を追うごとに焦りはひどくなってきた。
原因が分からず、鴉は苛立った。
しかし、鴉が欲しかったのは自由ではなかったのかもしれない。
由良が鴉を追いかけて来ている様子はないが、追いかけてこないことに対しての焦りではない。むしろ、由良が諦めてたのなら、鴉にとってはこの上ない僥倖だ。
それでは、この焦りの原因はなんだ。
鴉はふと、自分の左手を見た。
そこには、一本の赤い糸。
それを視ていると、だんだんと苛立ちが募ってきた。
焦りの原因はここにあると見て、鴉は赤い糸をたぐって彩名の元へとたどり着いたのだ。
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痛みで鴉は現実に戻ってきた。
由良に地面に倒されたとき、少しの間だけ気を失ってしまっていたようだ。
肩に痛みを感じて視線を向けると、由良の足が乗っていた。
計算し尽くされたその曲線美に以前であれば内心で感嘆の声を上げていたかもしれないが、今はもう憎々しい以外の何物でもなかった。
「アタシに逆らおうって言うの、鴉?」
黒い瞳を縁取るまつげが由良の表情に影を落としていた。
赤い唇はつり上がり、怒っているからなのか心なしか頬が赤くなっている。
それを見て、鴉は由良が相当怒っていることが分かった。
しかし、それが分かったところで鴉はもう由良の元へ戻ろうと思わなかった。
由良の元を去り、彩名の元へとたどり着き、気がついたのだ。
鴉が求めていたのは彩名の隣なのだ、と。
だから例え、ここで命を失うことになったとしても、鴉はどうあっても彩名の隣という場所を手放す気は全くなかった。
「俺の居場所は彩名の隣だ。だから俺は前のようにおまえの前を守ることは出来ない」
鴉は痛みを我慢しながら由良にそう宣言した。
「へぇ。あんな乳臭い娘がいいの?」
彩名に対しての評価が鴉とまったく同じで、鴉は小さく笑った。
「乳臭くてもいいんだよ」
鴉は全身に力を入れた。みしみしとあちこちが軋んで痛かったが、それを無視して由良の足をはねのけ、飛び起きた。
「彩名を解放しろ」
「どうして?」
由良は鴉に払いのけられたが、ふわりと飛び退いていた。
「俺は彩名とともに生きていきたいからだ」
鴉の意外な言葉に、由良は目を見開いた。
「あんなに死にたがっていたのに?」
刹那的に生きていた鴉をよく知っている由良は、鴉の変化に驚いていた。
「彩名が生きたがってるからだ」
由良は綺麗な指先を顎に添え、鴉を面白そうに見つめていた。それから赤い唇をつり上げると、笑みを浮かべた。
「分かったわ。そこまで言うのなら、アタシも引き下がるわ」
あっさりとした由良の態度に鴉は引っかかりを覚えた。
「だけど鴉。その子はあなたと結ばれている赤い糸が気に入っていないみたいだったわ」
鴉は視線を左手に向け、赤い糸を視た。
どす黒く変色していた二人を結んでいる糸は、由良が彩名を解放したことで徐々に元の色へと戻っている。
鴉はそのことにほっとしたが、由良が言うとおり、彩名はどうあっても断ち切りたいと願っている。
鴉は自分の気持ちを自覚してしまったので、できればこのままでいたかった。
そうすれば、鴉はそのことを理由に彩名の隣にずっといられる。
赤い糸で繋がっていてもいなくても、鴉はきっと、彩名のことが好きになっていた。
「あなたがその娘の側にいたいと願っても、その娘はそれを望んでいない。……どうするの?」
由良の質問は、鴉にはとても痛かった。
「俺は……彩名に嫌われていてもいい。側にいられれば、それだけでいい」
「好きな相手に嫌われても?」
「っ……! それでも、いい」
そんなことない。
本当は彩名にも自分を好きになって欲しい。それが赤い糸の呪いだとしても、鴉はそれでも良かった。
「……うっ」
彩名の呻き声に鴉は弾けたように顔を上げ、地面に横たわったままになっていた彩名のところへ駆けつけた。
彩名は苦しそうに顔を歪めていたが、身動ぎすると、ゆっくりと目をあけた。
茶色の瞳にはいつもの光はなかったが、気がついたことにほっとした。
彩名は眉間にしわを寄せ、二・三度ほど瞬かせるとぼんやりとする視界に見知った顔を見つけた。
ずいぶんと心配そうな表情を浮かべた鴉だ。
「彩名、大丈夫か」
いつものような強い口調ではない鴉に彩名は戸惑いを覚えたが、大丈夫という意味でうなずこうとしたところ、鴉の腕が伸びてきて、身体を抱き寄せられた。
彩名の視界がくらりとゆがんだ。