【一章】迷惑な居候≪二十四≫
§ § § § §
鴉に命令された貴之に促されて、知穂は本堂へとやってきていた。
改めて本堂の外観を見た知穂は、思っていた以上に大きいとは感じたが、どこにでもありそうなこれといった特徴のない外装にすぐに興味を失った。
しかし……。
本堂の中に入ると、外観の質素さとは裏腹に、派手だった。
正面の本尊が祀られていると思われるところには朱色の布が何枚も天井から下げられ、それを取り巻くように金色の飾りがきらきらと輝いていた。
知穂の中の寺のイメージというのは、茶色の枯れた色で、仏像に金箔が貼られているが、それもなんだかくすんでいて、くたびれた印象を持っていたのだが……。
昨日、坐禅講座に来たときも思ったのだが、今日も改めて思う。
(彩名ちゃんのおじいちゃんって、悪趣味!)
知穂は思わず、眉をひそめた。
秀道の名誉(?)のために説明を入れるが、東青寺はとある宗派に属しており、基本に則った祀り方をしているのだ。決して秀道の好み、ということではないのだ。
そんなことを知らない知穂はしかし、彩名の私物の持ち物がどれも質素なことに気がつき、内心ではほっと胸をなで下ろしていた。
(まあ、あたしの彩名ちゃんは、シンプルが一番似合うんだけどねっ!)
とそこで、知穂は彩名のことを思い出した。
(そうだ! 彩名ちゃんはどこにいるんだろう?)
昨日、午前中に寺を訪問して、知穂には分かったことがあった。
寺の大きさに対して、あまりにも人手が足りなさすぎるのだ。だから知穂は、彩名を助けるために寺の手伝いをすることにした。
(お母さんもお寺の手伝いに関しては、反対しなかったし!)
知穂は肩から提げているトートバッグの取っ手をぐっと握りしめた。
(それにっ! あの鴉とかいう男っ! あたしの彩名ちゃんを呼び捨てにしてたし、なによりもあんな粗野な男は彩名ちゃんには似合わないわっ! 断固として、ひっつくのを邪魔しないと!)
知穂の本音はどうやらここにあるようだ。
(だからって、貴之にくれてやるのも癪だしっ! こーなったらてってー的にどちらともくっつかないようにしてやるんだから!)
それもどうなのかと思うのだが、知穂はさらに取っ手を握っている手に力を込め、気合いを入れた。
「あのさあ……」
とこうなると善は急げで、誰よりも早く彩名を探し出さなくてはならない。
彩名の行方を知っていそうな鴉は、知穂たちを遠ざけた。
鴉をこっそりと追いかけて、鴉を出し抜き、先に彩名に会わなくてはならない。
「あたし、お手洗いに行きたくなっちゃった」
本堂内には知穂と貴之しかいない。
貴之はどこからか調達してきた雑巾で畳の上を拭いているところだった。
「行ってくればいいじゃないか」
素っ気ない返事が来て、知穂はにやりと笑った。
「じゃー、あたし、行ってくるね」
肩から提げていたトートバッグを本堂の端に置き、知穂は軽やかに入口へと戻った。
貴之は知穂には興味がないのか、熱心に畳を拭いている。
(うん、いける!)
知穂はほくそ笑み、そーっと足音を忍ばせ、本堂から外へと向かった。
そしてそこで、知穂は鴉が屋根に飛び移って彩名の元へ行くのを見てしまったのだ。
(やっぱりあいつ、彩名ちゃんがいるところを知ってるのね! あっちの方向は……)
鴉が飛び去った方向に視線を向け、顔が引きつった。
(なっ……なんであっちの足を踏み入れたらダメな地域に向かってるわけ? はっ! まさかあいつ、人気のないところに彩名ちゃんを連れ出して……あーんなことやこーんなことをっ?)
知穂の妄想力がとんでもないことを想像していた。が、知穂はそれが許せなくて、首を強く振った。
(断固として阻止!)
そして知穂は気合いを入れると、鴉が消えた方向へと走ったのだ。
§ § § § §
鴉は少しずつくすんだ赤になっていく己の小指に繋がった糸を頼りに、屋根に飛び移って移動していた。
そして到着したのは……。
「久しぶりね、鴉」
そこには、変わらぬ美しさを保った由良が笑みを浮かべて待っていた。薄汚れたここにはそぐわない存在。しかしその存在感は昔のまま、圧倒的だった。
由良が瞬きをする度、空気が揺れている。由良が息を吐く度、回りの木々がざわめいている。男女問わず、一目、由良を見た者は彼女のためになにかしなくてはならないと思わずにいられない。彼女の視界の端でいいから、映りたい。そう思わせるなにかを由良は持っていた。
しかし鴉は、そんな由良に嫌気が差し、自らの意志で立ち去った。
そうだというのに、鴉は久しぶりに由良に対峙して、後悔に似た気持ちがわき上がってきていた。それは由良が放つ気のせいかもしれない。鴉は気圧される気持ちを悟られないように足に力を入れた。
「アタシとの繋がりを切るなんて、あなたの力を侮っていたわ」
そうして由良は、かつて鴉と黒い糸で繋がっていた右の薬指を愛おしそうに撫でた。
もう繋がっていないはずなのに、鴉は自分の指を由良に撫でられたような感覚がして、震えた。
由良の足下に跪き、許しを請えば前の関係に戻れるかもしれない。
抗いたい気持ちが大きいものの、そうした方が楽になれると分かっている。だから油断をすれば、鴉は今すぐにでも由良の足にすがりつき、自分の不徳を謝ってしまいそうになる。
拳を握りしめ、そうしたくなる自分を律するのは苦しくて……。
膝をつきそうになる身体を制御するのが、今の鴉には精一杯だったのだが。
鴉の視界に、由良が立つ地面が見えた。そこには……。
「……彩名っ!」
苦悶の表情を浮かべた彩名が由良の足下に転がっていた。
鴉の目の前が真っ赤に染まったような気がした。先ほどまで必死になってひざまずくのを抗っていた身体からは力が抜け、震えが走った。
回りの音が、遠くに聞こえる。
「ねえ、鴉」
由良は計算尽くされた人形のように美しい足を持ち上げ、彩名の身体を踏みしめた。
「あなたがその糸を断ち切れないのなら、アタシが切ってあげるわ」
その言葉とともに、由良の足に力が入ったのか、彩名はうめき声を上げた。
「なにしてるんだっ! 彩名を離せっ!」
鴉の怒声に、由良は二度ほど瞬きをした。
「どうして? だってあなた、その赤い糸から解放されたいんでしょう?」
由良の指先は彩名と鴉を結ぶ赤い糸に向かっていた。
「だからアタシがあなたを解放してあげる」
由良は上体を前に倒すとともに、さらに足に力を込めた。
「人間なんて、脆いものね。もう少しでこの子の命は消えるわ」
鴉の頭はぐわんぐわんとうなりを上げていた。それがなんなのか、鴉には分からない。それでも、由良から彩名を取り戻さないといけないという思いだけが身体を駆け抜けていた。
「彩名を返せ」
鴉は呟くように口にすると、地面を蹴り、弾丸のように全身を由良に向けて、ぶつけた。
由良は鴉の攻撃を予想していたのか、軽やかに後方へと飛び退いた。
鴉も由良が避けることは分かっていたようで、地面に足を付けると同時に軸足とは反対の足を大きく振り回したが、由良の身体にかすりもしなかった。
「相変わらず、直情的な攻撃しか出来ないのね」
由良はくすりと笑ったかと思うと、目の前から気配を消した。
「ねえ、鴉。アタシに勝とうなんて思わないで」
目の前にいたはずの由良の声が、鴉の真後ろでする。
マズイと思ったよりも早く、由良の手が鴉の背中に掛かり、息が止まる衝撃が襲った。
「くはっ」
「大人しくしない子は、こう、よ」
鴉が身体を守るために回転して防御を取る前に、由良は次の一撃をお見舞いしてきていた。由良の美しい足が、鴉の足下を攫った。
「ぐっ」
鴉はバランスを崩し、地面へと無様に叩きつけられた。
「あの時は油断していたけど、今日はそうはいかないわよ」
由良は地面に横たわっている鴉を冷たい瞳で見下ろしていた。