【一章】迷惑な居候≪二十六≫
§ § § § §
鴉の温もりと匂いに、彩名はくらくらとしていた。
「あなた、彩名と言ったかしら」
涼やかな声に彩名は自由の利かない身体に力を入れ、視線を向けようとした。が、どうにも思うように身体が動かない。
どうしてこんなに身体が重たいのか分からず、彩名はせめて返事だけでもと口を開こうとしたが、こちらも失敗に終わった。
「鴉との赤い糸の断ち切り方を教えて上げる」
赤い糸、という言葉に彩名は驚いたが、やはり身体は動かなかった。
「あなたの中に《消滅の楔》と呼ばれる力が宿っているはずよ。それを使えば、その忌まわしい赤い糸から逃れることができるわ」
由良の言葉に鴉は立ち上がって由良をつかみかかりそうになった。が、鴉の腕の中には、彩名がいる。だから我慢して、由良を睨みつけた。
「由良、なんのつもりだ」
「ずっと赤い糸を断ち切る方法を探していたんでしょ? その力は目の前にあるって教えてあげただけじゃない。……あら、人が来たようね。アタシはこれでさよならするわ。……じゃあ、鴉、待ってるから」
「って、待て、由良!」
由良は一方的にそれだけ告げると、鴉の引き留める声を無視して、音も立てずにふっと姿を消してしまった。
そしてすぐ後に……。
「あーっ! やっぱりあんた、ケダモノねっ!」
彩名を抱き締めている鴉を見つけた知穂の叫び声が、辺りに響いたのだった。
§ § § § §
彩名は結局、自力で立ち上がることも、声を出すこともできず、鴉に抱えられて寺まで帰ってきた。
秀道はまだ帰ってきておらず、ぐったりとしている彩名をみた貴之は鴉に殴りかかろうとしたり、知穂はずっと鴉に対して罵りの言葉を投げつけていて、さすがの彩名もげんなりしていた。
知穂が持ってきてくれた飲み物を口にして彩名はようやく声が出るようになったが、掠れた低い声で一言。
「ごめん、帰って」
それに対して、知穂と貴之は顔を見合わせ、無言で帰っていった。
「鴉……」
彩名は一人で座ることも苦しいようで、鴉に支えられたままだ。鴉は文句も言わず、身体を預けてきている彩名を無言で抱き締めたままだった。
「あの人が言っていた《消滅の楔》って……」
彩名の質問に、鴉は首を振った。
「俺は初めて聞いた」
「そう……」
彩名は苦しそうに息を吐き、
「……疲れた」
と呟いた。
「部屋まで連れて行く。ゆっくり休め」
鴉は彩名を抱えて彩名の部屋へと向かい、ベッドへと横たわらせた。
「とにかく、眠れ」
「……うん」
いつもの勢いのない彩名に不安を覚えつつも、鴉は彩名の部屋から出ていった。
ようやく一人になれた彩名は、しかし、淋しさを感じていた。
鴉が助けに来てくれたと知ったとき、不本意ながらも胸が高鳴った。
力の入らない身体を支えてくれた。
歩けない彩名を抱いて、ここまで連れて帰ってきてくれた。
鴉の側にいると、心臓がどきどきとうるさかった。
最初はあんなにも反発したのに、いつの間にか鴉のことがこんなにも好きになっていた。
でいいと思っていた。
赤い糸が切れてしまえば、鴉との関係は終わってしまう。
本当は断ち切る方法なんて見つからなければいいと思っていた。
だけど、見つかってしまった。
彩名の中にあると言われた瞬間、分かってしまったのだ。
由良が言うように、確かにそれは彩名の中にあった。これをどうやれば赤い糸を断ち切ることができるのか、それも分かってしまった。
鴉と離れたくない。
だけど鴉は、彩名の元から一刻も早く、立ち去りたいようだ。
彩名の願いと、鴉の願い。
それは相反していて、どちらかの願いしか叶わない。
だから彩名は少し一人になって、考えたかった。
彩名のわがままで、去りたい人を引き留めてもいいものなのか。
あの由良という綺麗な人は、鴉を迎えにきた。あんな綺麗な人と比べると、彩名は負ける。
鴉はきっと、由良のところへ帰りたいのだ。
彩名は自分に自信がなかった。あんな綺麗な由良に、勝てるわけがない。鴉は由良をとる。
惨めな気持ちになるくらいなら、彩名から解放しよう。
鴉が離れていくことに心は痛むけど、由良に力ずくで奪われるよりはいい。
自分から手放した方が、プライドはそれほど傷つかない。
彩名はそう、結論を下した。
§ § § § §
夜中にふと、目が覚めてしまった。
「起こしたか?」
その声に彩名はどきりとした。まさかだれかいるとは思わなかったのだ。
「様子を見に来たんだが、起こしてしまって済まなかった」
部屋から出ていこうとした鴉の作務衣の裾を慌てて掴み、彩名は引き留めた。
「なんだ?」
これはいいチャンスなのではないだろうか。彩名は逸る気持ちをおさえつつ、思うように動かない身体で必死になって鴉に取りすがった。
「あのね、鴉。わたしを本堂に連れて行って」
寝起きで少し声が掠れていたけど、彩名は絞り出すように鴉に告げた。
「なんで」
「なんでもいいから!」
彩名のいつもの強気の言葉に、鴉は苦笑いを浮かべながら彩名を抱き抱え、本堂へと向かった。
少し肌寒い本堂内だったが、鴉の温もりを感じて、思ったほど寒くはなかった。
だけどもう、このぬくもりともさよならかと思うと、彩名の瞳に自然に涙が浮かんできた。
泣いていることがばれないように、彩名は鴉の胸に顔を埋めた。
「あのね、鴉」
彩名は鴉の胸に顔を埋めたまま、告げた。
少し鼻声だったけど、こうしていればくぐもってわかりにくい。
「鴉、あなたを解放してあげる」
そう口にした途端、彩名の瞳からは涙が溢れた。
「わたしのことは、心配しなくていいから。……今まで、ありがとう」
一方的に告げられる別れの言葉に、鴉の頭は追いついていない。
「あ……。って、ちょっと待て、彩名。どういうことだ。俺は別に赤い糸を……!」
鴉が理解するよりも早く、彩名の右手の平からは赤い光がこぼれ始めていた。
「《消滅の楔》」
彩名の宣言とともに、左小指に繋がっている赤い糸に右手で触れた。
「!」
あんなに引っ張ってもなにをしても切れなかった赤い糸が、彩名の右手が触れただけでぷつりと音もなく切れ、さらさらと砂のように消えていった。
「鴉……ありが、と……」
力を使ったせいなのか、彩名の身体から力が抜け、視界がぼやける。
「早く……行って」
彩名の身体はかくんと力を失い、だらりと手足を投げ出した。
焦ったのは鴉だ。崩れ落ちる彩名の身体をかろうじて受け止めることができた。
「おいっ、彩名っ! ……くそっ!」
由良はきっと、こうなることを予想していたのだろう。だからいとも簡単にあっさりと引き下がった。
去り際、待っているとも言っていた。
鴉は彩名を畳の上に横たえ、作務衣を脱ぐと彩名の身体に掛けた。
「彩名、待っていろ。すぐに戻る」
鴉はそれだけ告げ、本堂を飛び出した。