【一章】迷惑な居候≪二十三≫
§ § § § §
春のうららかな空気とは裏腹に、どこかよどんだ物が溜まっているような場所。
ここは彩名と鴉が出会った足を踏み入れるなと言われている一角。
常に日陰のせいか、じめっとした場所に、一人の美しい女が立っていた。
射干玉色の艶やかな髪は腰まで伸びていて、少しの風でもさらさらと揺れている。その髪に縁取られた小さな顔は透けるように白い肌をしていて、瞬きをすれば音がしそうなほどのまつげに二重の大きな瞳、小さな鼻に艶やかな紅色の唇。
細い身体を際立たせるような絹のドレスをまとい、女が立っていた。
彼女の名前は由良という。
由良がいつから生きているのか、それは由良以外、だれも知らない。
絶望の淵から転げ落ちた鴉を見つけ、邪刻にした張本人。そして、恵利と接触して、青い糸を植え込んだのも由良である。
その由良の目の前には、苦悶の表情を浮かべている彩名がいた。濡れた黒曜石のような瞳には感情が一切、浮かんでいない。
彩名は苦しいのか、キュッと眉根を寄せ、歯を食いしばっている。
由良は観察するかのように、ただ黙って、そんな彩名を見下ろしていた。
§ § § § §
先ほどから嫌な予感がどんどんと大きくなっている。
鴉はなんども青い糸を振り切りながら、焦燥感に駆られていた。
(くっそー……。赤い糸から感じる彩名の気配がどんどん薄くなっている)
赤い糸で結ばれている片方が亡くなった場合、どうなるのか。
(そもそも、どういう状態が『結ばれた』と判断されるんだ?)
それに、赤い糸で結ばれた者同士が必ずしも会えるとも限らないのではないか。出会えないうちに一生を終えるものだっているはずだ。
(──このまま、彩名が死んでしまったら)
赤い糸の呪いから解放されるのではないか。
鴉は青い糸に抗っていたが、急にそんな不埒な考えが浮かんできたため、止まった。
(俺はなにを必死になって彩名を取り返そうとしていた? 俺の本来の目的はなんだ?)
秀道と約束はしたが、なにも律儀に守ることはないのではないだろうか。
むしろ、彩名が死んでしまうことで、嘆き悲しむ秀道から甘美な絶望を味わうことが出来るかもしれない。
彩名と再会する前の鴉だったら、そう思っただろう。
しかし、どうしてか。
あんなに美味しいと感じていた絶望の味を思い出せないでいるのだ。気がつけば、彩名の作った料理ばかりが頭をよぎる。
そればかりか、人の不幸の味を思い出すと、口の中に苦い味が広がってきたのだ。
「くっそっ!」
彩名の料理を知ってしまった今、鴉は昔の生活に戻れないことを本能的に悟った。
(どうあっても俺は……彩名を失えない)
彩名がいなくなるということは、鴉自体も……。
(消滅してしまう……ってことか)
もうどれほど生きたのか分からない生。
由良といるときはいつ死んだって怖くないと思っていたし、今すぐ死んでも問題ないと思っていた。刹那的に生きていることもあった。
でも今は、あれほど怖くないと思っていた『死』が、怖い。
彩名を失うことは、自分の『死』を意味する。
(それに──……)
これが赤い糸の『呪い』なのだろうか。
彩名のことが愛おしくて仕方がないのだ。
今すぐにでも側に駆け寄り、抱きしめたい……なんて。
(柄になく思ってる、だなんて……)
秀道が悲しむだとか、知穂や貴之も悲しがるだとか、そういうのは鴉はどうでもよかった。
由良の側にあったときはあんなに望んでいた『死』は、今は怖いと思ってしまっている。
彩名の側にずっとありたい、と。
(心から願っている……なんて)
都合のいい自分の気持ちを鼻で笑ってみたが、思いはますます強くなるだけだった。
左小指から感じる彩名の命の息吹が、ますます弱まっている。
「くそっ!」
鴉はもう一度、声を出して身体にまとわりついている青い糸を振り払った。やはり青い糸は簡単に千切れて、地面へと散っていく。
地面に散った青い糸は一部は宙で溶け、一部は地面へと吸い込まれ、残りがもぞもぞと動き、元の長さより長くなり、再び鴉にまとわりついてくる。
(……ん?)
青い糸が鴉にまとわりつくまでの時間がほんの少し、長くなっているような気がする。
(もしかして、いけるかもしれない)
鴉は一つの仮説を元に、試してみることにした。
境内に視線を巡らせ、人がいないことを確認する。ちょうどタイミングがよいことに、人が途切れているようだった。
鴉は青い糸を充分に引きつけておき、力一杯引きちぎった。身体にまとわりついていた青い糸は、力なくすべて落ちていった。
(よしっ、いけるっ!)
鴉は足に力を入れ、その場で跳躍した。
「!」
驚いたのは、恵利だった。
青い糸を口から吐き出したまま、呆然と辺りを見回す。
鴉はおみくじを結ぶ柵の上に飛び乗り、側にあった松の木に飛び移り、それからひょいひょいと飛び跳ねて徐々に高い場所に移り、本堂の屋根の上へと飛び降りた。
左手を持ち上げ、彩名の居場所を探る。
「あっち……か」
そこは彩名と再会した場所。
「由良の気配が……する」
彩名の側に由良の気配。もう気配を消すことさえせず、むしろ鴉にアピールしている。鴉は由良のあの黒い視線を思い出し、振り払うように首を振った。
なにも映していない、ガラス玉のような瞳。
鴉はもう一度、由良の視線を振り払うように首を振り、本堂の瓦を蹴った。
§ § § § §
鴉に飛び立たれ、一人取り残された恵利は青い糸を吐ききるとどっと疲れを感じ、地面にうずくまった。
恵利の回りには青い糸が力なくうごめいていたが、恵利の目にはそれが視えない。
「ここは……どこ?」
頭がぼんやりとする。
恵利にはここ数日、気持ちが悪いという記憶しかない。母に言われて病院に向かったが、結局、気がついたら家にいたりした。
息を大きく吐き出すと楽になることはあったが、恵利の記憶にある限りではずっと自室のベッドの上に横になっていたはずなのだ。
それなのに……?
座り込んだ恵利の視界に、見覚えのある桃色。
「え……やだっ!」
恵利は慌てて立ち上がった。裾が思いっきり地面につき、砂まみれになっていたのだ。恵利はスカートを持ち上げ、裾に付いた砂を必死になって払った。
それは恵利が高校生になったとき、祖母が買い与えてくれたワンピース。どこかに出かける時に着ようと思って、大切にしまっていた一枚。
それなのに、どうして今、これを着てうずくまっている?
それに、ここはどこなのだろう。
恵利はスカートの裾を握ったまま、ぐるりと辺りを見回した。
見覚えのある風景だが、すぐにここがどこだか思い出せない。
大きな建物、古い松の木。おみくじを結ぶ柵。
「あ……」
恵利は数度、瞬きをした。
見覚えのあるここは、家の近くにある寺のようだ。
どうして恵利はここに大切なワンピースを着て、しゃがみ込んでいた?
恵利は分からなくて、大きく頭を振った。