【一章】迷惑な居候≪二十≫
§ § § § §
結局、その日のうちには電話は鳴らなかった。
消え入りそうな女性の声だったのが気になるが、彩名は寝るときにはもう忘れていた。
そして日曜日。
この日はまた別の意味で忙しい。
法事などで秀道が呼ばれ、寺に人がいなくなることがよくあるからだ。
「おじいちゃん、今日の予定は?」
「一丁目の田中さんのところで九時から、その後、三丁目の佐藤さんが……何時だったかな。ああ、十一時半」
「ずいぶんと今日は分刻みスケジュールなのね」
「そうだのぉ」
「一丁目から三丁目までその時間でたどり着ける?」
「スクーターで行けば大丈夫だよ」
朝食の席で彩名と秀道がそんな会話をしている横で、鴉は黙々と食べていた。
「鴉よ」
秀道の呼びかけに、椀越しに鴉は視線だけを向けてきた。どうやら今、味噌汁を飲んでいたところのようだ。
「わしがおらぬ間、留守番を頼んだぞ」
留守番? と眉間にしわを寄せた後、味噌汁碗を口から離した。
「彩名がいるだろう」
「だからこそ、心配なのじゃよ」
鴉は彩名に視線をやり、うなずいた。
「じゃじゃ馬娘はなんにでも首を突っ込むから監視していろってことか」
「なっ……!」
彩名は目を見開き、鴉を見た。とそこで、彩名は鴉の微妙な変化に気がついた。
「……あれ?」
今の今まで気がつかなかったのだが、鴉のぼさぼさ頭がスッキリしているように見えたのだ。
「鴉、髪の毛、切った?」
彩名の指摘に、鴉は頭に手をやり、それから違うという意味で首を振った。
「ああ、もしかしたらコンディショナーも使って手入れをしているから、髪の毛が落ち着いてきているのかもしれないな」
そう言われ、彩名は立ち上がった。
「シャンプーとコンディショナーの減りが早いと思ったら! 鴉っ! やっぱりあんたが使っていたのねっ!」
彩名が気に入って、少ないお小遣いをやりくりして買っているシャンプーとコンディショナー。少し高いのだが、匂いもいいし、仕上がりも気に入っているのだが、ここのところ減りが早いなと思っていたところだった。
「そもそもなんでそんなに髪が長いのよ! わたしより長いでしょ、それ!」
彩名は髪を下ろすと、肩より少し長めだ。高めの位置で髪を結ぶと、毛先が首の付け根にくるかこないかくらいだ。
対して鴉はというと、少し癖毛なのか、縛っていてももさっとした印象を受けるが、高めの位置で結んでいるとはいえ、背中の辺りまで髪の先がある。
「彩名、そう怒るでない。鴉、きちんと留守番が出来たら、おぬし用にシャンプーを買ってやるから、きちんとやるがよい」
「おじいちゃん! 鴉を甘やかしすぎよっ!」
彩名は抗議をしたのだが、秀道は取り合わずに用件を伝えてきた。
「ああ、彩名。今日の昼はわしは要らないぞ。佐藤さんのところでごちそうになることになっている」
彩名は怒っていたはずなのに、秀道のまったく違う言葉に毒気を抜かれてしまった。秀道にうやむやにされるのはいつものことだ。
「え……あ、了解。今日は午後からも法要があるの?」
蒸し返すようにして怒るのもバツが悪く、彩名は秀道の言葉を受け、質問を返した。
「午後は二件、入っている」
こう言ってはなんだが、今日はどうやら稼ぎ時らしい。法事は重要な収入源だ。収入の宛てがあるから鴉に言ったのだろうと分かり、彩名はそのことについて言及することはやめた。
「……鴉と二人っきりってのが嫌だけど、分かった」
秀道がいない間、彩名も寺でやらなければならないことがあるのだ。鴉と二人っきりと言っても、昼の時だけだ。昼食の数十分を我慢すれば、あとはどうにでもなる。
彩名はそう言い聞かせ、朝食を再開させた。
朝食後、秀道は準備をするとスクーターに乗り、本日一件目の法事先へと出掛けて行った。
「わたしは今から色々することがあるから、邪魔をしないでよ!」
彩名は鴉に向かってそう宣言すると、台所から鴉を放り出し、作業に取りかかった。
台所から追い出された鴉はというと……。
(留守番しろったって、手持ち無沙汰じゃねーかよ)
だからといって、寺を離れてぶらぶらして回るのも気が引ける。
そして鴉が取った行動はというと。
いつものように屋根に上る、だった。
ここからだと町中を見渡すことが出来るのだ。
(はー、かったるいなあ)
青い空を眺めながら、鴉は今の自分の置かれている状況を改めて思う。
赤い糸を断ち切るために彩名の側にいる、という選択肢を取ったのだが、今にして思えば、別に住み込みにならなくても良かったのではないだろうか。まさかこんなにもここに縛り付けられるとは思っていなかったのだ。
そう思うのならさっさと世話になったなとでも言って離れればいいのに、なにか色々と引っかかっていた。
寝床は今まで通り、適当な場所で良かったし、食事も特に必要ない。どうしても摂りたいと思えば、人混みの中に紛れれば、それは簡単に手に入れることも出来る。
それなのに、なにがこんなにも鴉をここから離れがたくさせているものはなんなのだろうか。
(彩名が作る飯……か)
それだけではないというのは鴉には分かっていたのだが、自覚してしまうと歯止めが効かなくなりそうなので、あえてそちらからは目をそらす。
鴉は胃の辺りに手をあて、はーっとため息を吐いた。
これまでずっと、なにか物足りないと思っていたものが、彩名の作る料理を食べるようになってからなくなっていた。
(人の不幸を摂った時より充実してる……)
ぽっかりと空いた穴を埋めたくて、鴉は人の不幸を摂ってきたが、それでも満たされることはなかった。
それが彩名の料理を食べるようになってからは、気がついたらなくなっていた。
(まさか、実はお腹が空いていた……ってことは?)
それとはまた違う感覚であるのも分かっていた。
寝る場所がなくなるのは別になんともない。だけど……。
(彩名の飯が食えなくなるのは、嫌だ──)
そうなると、やることは一つだ。
(よーするにあのじじいの言う『手伝う』ってのは、彩名を守るってことだろう?)
彩名を守ることは、イコールで自分を守ること。
鴉は自分にそう言い聞かせると、もう一度、町中に視線をさまよわせた。
§ § § § §
彩名はやることがあるから邪魔だと言って鴉を台所から追い出したが、朝食の片付けが済んでしまえば、実は手持ち無沙汰、だったりする。
買い物も昨日のうちに済ませていたし……と言っても、買い忘れがあったとしても、寺を離れるわけにはいかなかったので、行けない身ではあるのだが。
だからといって、部屋に引きこもるわけにもいかない。
掃除も昨日のうちに済ませているし、本気になったら回りの音が分からなくなるので、それは避けたい。
秀道が留守の間、彩名がしなくてはならないことは、来るかもしれない客や檀家を待っていることだった。
(これだったら、鴉に側にいてもらった方がよかったかな)
顔を合わせたらどうせけんかしかしないのは分かっていても、それでも話し相手にはなるし、時間はつぶれる。
(今更、戻ってきてなんて言えないし)
なにもすることなく、ぼんやりとしているのも性に合わず、彩名は庫裏を出て、境内へ向かうことにした。
引き戸を開けると、曇ってはいるものの、春らしい空が広がっているのが見えた。
境内をぐるりと回ろうと彩名は足を踏み出した。