『消滅の楔』


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【一章】迷惑な居候≪二十一≫



 彩名は庫裏から境内をぐるりと回って墓地まで見るという、いつもの巡回コースを選んだ。
 日曜日ののんびりとした朝、穏やかな空気が流れる境内を目的なく歩くのはそれなりに楽しい。
 生まれ育った寺の境内は見慣れた風景。
 春が訪れて芽吹き始めた青葉を茂らせた木や、花や草。
 とそこに、異質な物を発見して、彩名はどきりと足を止めた。

(あれ……は)

 学校の靴箱と、スーパーの出入口の取っ手に絡んでいた物。

(なんでここにっ?)

 彩名は自分の目を疑い、頬を叩いた。しかしそれは消えることなく、春のうららかな風に吹かれていた。

(早く取らなきゃ)

 おみくじを結ぶための柵に数え切れないほどの青い糸が絡んでいるのを視て、彩名は焦った。

(視えない人たちがあの糸に触ってしまったら……!)

 絡んで来たときのあのなんともいえない悪寒を思い出し、彩名の身体はぶるりと震えた。

(取らないといけないんだけど……。素手で触るのはすごく嫌だし! だ、だからって鴉に頼るのも癪だし)

 彩名は柵を睨み付け、どうしようかと悩み……。

(あ、そうだ! ハタキで払い落とせばいいのよ! うん、掃除しているようにも見えるし!)

 我ながらいいことを思いついた! と自画自賛して、彩名は掃除道具を片付けている本堂の裏へと走った。
 後付けで据え置かれている掃除道具入れを開け、中からハタキを取り出すと、彩名は意気揚々と柵へと戻った。
 彩名がハタキを片手に戻っても、うららかな春の風に青い糸は吹かれていた。ハタキを取りに行っている間に消えてくれていればいいな……という淡い期待は甘かったようだ。
気をつけながら青い糸を落とすために柔らかくハタキを掛けたのだが……。

「……えっ?」

 それまで、青い糸は風になされるがままに吹かれていたのに、彩名がハタキを近づけた途端、それらにまるで意思があったかのようにゆらりと揺れ、ハタキに絡みついてきた。

「なっ……なにっ?」

 そればかりか、青い糸はハタキを伝って彩名へ向かって伸びてきたのだ。

「やっ!」

 慌ててハタキから手を離したのだが、青い糸はハタキを飲み込み、複数本が絡まり合いながら伸びて、彩名へと迫ってきた。

「なに、これっ!」

 彩名は後退して青い糸から逃れようとしたのだが……。

「!」

 青い糸は網のように広がり、彩名の上から覆い被さるように襲ってきた。

「やっ、たっ、たす……っ!」

 青い糸は彩名を絡め捕ると、忽然と消えてしまった。



 本堂の屋根の上でのんびりと寝転がっていた鴉は、境内の一角で蠢く不穏な気配を察知した。

(なんだっ?)

 鴉は飛び起き、屋根から滑り落ちるようにして降り立ち、地面を蹴って気配のする方向へと走った。

「たすっ……!」

 鴉が目にしたのは、青い糸が彩名に襲いかかり、飲み込んだところだった。

「彩名っ!」

 からん……と音を立てたのは、彩名が青い糸を払い落とそうとして持ち出してきたハタキ。
 ふわり……と鴉とハタキの間にうららかな春の風が吹き抜けた。

「な……んだよ、今のはっ!」

 鴉は地面を蹴り、苛立ちをぶつけた。それだけでは足りないとばかりに、髪の毛をかきむしった。

「くそっ!」

 秀道に頼むと言われたのに、守れなかった。彩名に嫌がられても側にいれば、未然に防げたというのに。

「あの……すみません」

 その声に鴉は反射的に振り返り、飛び退いた。

(声を掛けられるまで、気配を感じなかった……?)

 鴉は声を掛けてきた人物に目を向けた。
 肩より少し長めの黒髪は垂らされたまま。薄化粧が施された顔は、どこかで見たことがあるような、ないような。桃色のロングワンピースに、白いボレロを着た女性。
 鴉の大げさな反応に、女性はおかしそうに笑みを浮かべ、小首を傾げた。
「ああ、良かった。きちんとこちらにたどり着けていたのですね」
 その言葉に、鴉は首を傾げた。

(だれだ……?)

「この辺りにお寺はないかと尋ねましたよね?」

 眉間にしわを寄せ、記憶をたどる。

「ああ……」

 どこかで見た顔だと思ったら、あの時の眼鏡の女だと思い出した。

「分かりました?」

 ふふっと女性は笑い、目を細めて鴉を見上げた。

「でも、あなたみたいな人がこんなところにいるのはそぐわないと思うの」
「は? 俺がどこにいようと、そんなの関係ないだろう?」

 すぐにでも彩名の行方を追いたいのに、目の前にいる女は妙なことを言ってくる。

「あなたの居場所は──由良さまの隣でしょう?」
「!」

 鴉は由良の名を聞き、三歩ほど飛び退き、身構えた。

「おまえがここに来たのは、由良に命令されてかっ」

 由良の気配がしないのはそういうことかと鴉は納得したのだが、それにしても、本人ではなく遣い魔を寄越すとは、ずいぶんと馬鹿にされたものだと憤りを覚えた。

「由良さまが直接来たら、あなたは逃げるでしょう?」

 その指摘は正しかったので、鴉は黙って女を見ていただけだった。



 鴉の元へと訪れたのは、恵利だった。
 見知らぬ綺麗な女性──彼女は『由良』と名乗った──は、恵利に鴉を自分のところに連れてきて欲しいと『お願い』をしてきた。
 他にもなにか話したような気がするのだが、由良の美しさに見とれていて、覚えていない。
 由良に会った後からなにかよく分からないけど、胃の辺りがぐるぐるとして気持ちが悪かった。学校に行こうとすると、気持ち悪さが増した。親に言われて病院に行く途中で大きく息を吐き出したら、すっきりとした。
 だから町中を散歩して、あちこちで深呼吸を繰り返していた。
 鴉が見かけたのは、恵利が吐き出した青い糸だったのだ。

「──で?」

 鴉は明らかに不機嫌な声で恵利へと問いかけた。だが、恵利はただ、微笑んでいるだけだった。

「俺は、おまえにも、由良にも用はない」

 一刻も早く、どこかへと消えてしまった彩名を探しに行きたい。昼までに見つけられなければ、飯を食いっぱぐれてしまう。
 鴉が彩名を探す理由はそんなところだった。
 彩名が知れば『さいてーっ!』と罵りそうだが、今の鴉にはそういう理由だから探すのだと自分に言い訳をしないといけなかった。

(──十四年前に彩名に会うまでは、由良の隣にいるのが当たり前、だった)

 どれほど由良とともにいたのか、分からない。
 由良は鴉の命を救ってくれた。
 それが由良の気まぐれで、しかも大切な女(ひと)を亡くし、絶望の淵に立ち尽くしていた鴉から不幸な気持ちを搾り取っていたとしても……。
 悲しみは時間の流れの中で少しずつ削り取られ、今はほんの少し胸の奥が痛むだけだ。
 だからもう、由良は鴉のことは必要ないだろうと思ったし、なによりも……。

(赤い糸──か)

 鴉はちらりと自分の左手小指を視た。

(…………! そうかっ!)

 鴉の赤い糸は、彩名に繋がっている。引っ張ると抵抗を示すということは、切れていない。彩名は無事だということだ。

「俺は急いでいる。じゃあな」

 鴉は雪駄を履き直すと、掛けだそうとした。

「待ちなさい。今はまだ、由良さまのところには行かせないわ」

 恵利はそういうと、ゆらりと揺れた。





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